映画の誘惑

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『ウインドトーカーズ』
Windtalkers
──アクション・インポッシブル
2002年/35mm/アメリカ/カラー/134分

監督:ジョン・ウー
出演: ニコラス・ケイジ、アダム・ビーチ、クリスチャン・スレイター、ピーター・ストーメア、ノア・エメリッヒ

ウインドトーカーズ

 敵に勝つことが問題ではなく、本当の敵が誰なのかを知ることが問題なのでもなく、生き残ることが問題なのでさえもない。どこに焦点を合わせていいのかわからない曖昧さが、この映画を居心地の悪いものにしている。

レビュー

でたらめに短いショットをつないだのではないかと思わせるアクション場面、ここぞという時のスローモーション、さらには主人公のトラウマを示すフラッシュ・バック。ハリウッドに行ってもジョン・ウーの演出は香港時代と本質的にはなんにも変わっていない。華麗なる振り付けによってバレエと化すアクション・シーン、とでもいえばいいのか、どちらかというといらいらさせるあのスローモーションにもそれなりの魅力がないわけではない。それから、互いが互いの頭にピストルを突きつけあい、どちらも動けなくなるという例のポーズ。アクション・インポッシブル。アクション映画と人は簡単にいうが、ジョン・ウーの場合、むしろアクションの、というか時間の停止する無重力空間の演出こそがかれの真骨頂なのだ。

ところで、戦争映画ほど死の舞踏のダンサーたちに恵まれたジャンルはないだろう。ジョン・ウーはこの戦争大作『ウインドトーカーズ』をまかされたとき、してやったり、戦場でいやというほど踊らせてやると思ったのだろうか。どうもそうじゃないようだ。この映画のウーはいつになくまじめである。いや、これまでのウーがまじめでなかったというわけではないのだが、ここにはまるでダンス・シーンのように撮影されたカーチェイスも、オートバイに乗って対峙するふたりが突然宙を舞ってぶつかり合うといったアナーキーなアクションもなく、ウー作品を彩ってきたあの過剰なマニエリスムがずいぶん押さえられているのだ。

ジル・ドゥルーズはアクション映画を大きく二つにわけ、「状況→アクション→状況」という形をとるものを「大きな形式」、「アクション→状況→アクション」の形をとるものを「小さな形式」と呼んだ。モニュメントヴァレーに始まりモニュメントヴァレーに終わるこの映画は、まさしく「大きな形式」と呼ぶにふさわしく、ジョン・ウーはひょっとするとジョン・フォード的なエピックをもくろんでいたのかもしれない。だが、残念ながら、『M:I-2』が失敗したヒッチコック(『汚名』)だったとすれば、『ウインドトーカーズ』は失敗したフォードである。では、なぜこの作品はうまくいっていないのだろうか。それはウーがフォードに比べて格段に劣る作家だからである、などといっては身もふたもないが、要はそういうことかもしれない。

この映画で描かれるのは、サイパンにおける米軍と日本軍の死闘である。主人公は米軍兵士ジョー・エンダース(ニコラス・ケイジ)。映画は彼の視点をとおして、米軍の側から語られてゆく。この映画の戦闘場面は、ひと昔前なら「国辱」のそしりを受けたかもしれない。ばたばたと死んでいく日本兵たちの姿は、かつての西部劇におけるインディアンを思わせる。だが、特殊任務を帯びた主人公の米兵が必至で守っているのは、数人のインディアンたちなのである。彼が受けた命令はこのインディアンたち(コード・トーカーズ)だけが解読できる暗号のコードを守ること。つまり、正確にいうと、インディアンではなく、コード自体を守ることが命令なのだ。だから、いざとなれば、彼らを殺してでもコードを守らなければならない。

するといったい敵はどこにいるのか? 『M:I-2』は、「ヒーローには悪役が必要だ」という台詞で始まっていた。この明確な勧善懲悪の図式が、良かれ悪しかれ、ハリウッド時代のウーの人気をきずきあげてきたのだった。『ウィンドトーカーズ』には、はっきりとした敵は存在しない。日本人は敵というよりもただ倒れてゆく泥人形にすぎない。では、敵は味方のうちにこそいるというアイロニーをこの映画は描こうとしているのか。たしかに、ニコラス・ケイジの部隊が味方の誤爆を受けて苦しむ場面がこの映画には描かれていた(ここもアルドリッチならどんなに見事に演出したことだろう)。しかし、このテーマを突き詰めて考える気などジョン・ウーにはなかったように思える(あれは、アフガン誤爆についてやっと重い口を開いた米軍のいうような、「戦争には付き物の誤爆のひとつ」にすぎない)。

敵に勝つことが問題ではなく、本当の敵が誰なのかを知ることが問題なのでもなく、生き残ることが問題なのでさえもない。どこに焦点を合わせていいのかわからない曖昧さが、この映画を居心地の悪いものにしている。物語は結局は、主人公の罪の意識(15人の部下を死なせて自分だけが生き残ってしまったという過去を彼は背負っている)と彼の自己犠牲による贖罪というところに収斂していく。英雄賛美主義、というよりもカトリック主義的な映画。実際、この映画にはジョン・ウーの三種の神器といわれる蝋燭も鳩も登場しないが、教会だけは出てくる。傷ついた現地の子供に痛み止めを与えたあとで、ニコラス・ケイジが埃のたまったテーブルの上に教会の絵を描き、そしてかき消してしまうのだ。

脚本上の細かい部分もいろいろ気になる。戦闘で片耳が聞こえなくなったケイジは、看護婦を巻き込んで、耳が聞こえるようになったと検査官をだましてまで、前線に復帰するのだが、かれが片耳が聞こえなくてバランスがうまくとれないという設定があとの展開のなかでぜんぜん生きていない点がひとつ。あるいは、その看護婦が戦場のケイジに何度も書き送ってくる手紙をケイジは読もうともしないのだが、手紙の内容は結局ボイス・オーヴァーで観客に伝えられる。ここも手紙の内容は謎にしておいた方がよかったのではないか、等々。もっとも、この手紙のエピソードは、ジョン・ウーはホモではないかといういまだに聞かれる噂を証拠立てているようでそれはそれで興味深いのだが・・・。

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