ツァイ・ミンリャンの監督第5作は、パリと台北のずれた時間のあいだに一人の亡霊を登場させる。
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の新作『ふたつの時、ふたりの時間』をシネ・リーブル梅田に見に行く。ツァイ・ミンリャンの監督5作目にあたるこの作品は、彼が初めて台北以外の都市を描く映画ということで大いに期待されたのだが、正直言ってあまり成功していないように思えた。ツァイ・ミンリャンの作品の中では、いちばん出来が悪いといってもいいかもしれない。慣れない外国での撮影のせいもあるのだろう。だがむしろこれは、ツァイ・ミンリャンが『河』でほぼ完成に達した自らの世界から、新たな地平へと向かって出ていこうとしている、その試行錯誤の結果だ。この失敗作は、その失敗ゆえにあえて評価すべきだと思う。
主演はこれまでの4作同様、李康生(リー・カーション)がふたたびシャオカンの役名で登場する。しかも彼の両親の役を演じているのは、『青春神話』『河』で彼の父親を演じた苗天(ミャオ・ティエン。キン・フーの映画でカンフーをやっていた人と同じ人物だとはとても思えない)と母親を演じた陸筱琳(ルー・シャオリン)。さらに、舞台となる住居もおそらくこれらの前作で使われたのと同じ建物だ。ここには、監督がなじみの俳優を繰り返し起用するという関係(たとえば、小津安二郎と笠智衆のような)を超えた、不気味な共犯関係が監督と俳優たちのあいだにできあがっている。
ツァイ・ミンリャンとリー・カーションとの関係は、『大人は判ってくれない』以来、親子のようなあるいは分身のような関係で結ばれながら映画を撮り続けたフランソワ・トリュフォーとジャン=ピオール・レオーを否応なしに思い出させると書けば、なんだか楽屋落ちめいてくるが、『ふたつの時、ふたりの時間』にはその『大人は判ってくれない』が引用され、ジャン=ピエール・レオーが特別出演しているのである。なかなかわかりやすい。いやわかりやすすぎるかもしれない。
リー・カーション演ずる青年シャオカンは台北の街頭で時計を売る商売をしている。一人の女が彼から時計を買ってパリに旅立つところから、映画はパリと台北を同時進行で描き出す。青年はそれ以来、パリの彼女に思いを馳せるようにして、自分の時計や自宅の時計のみならず、街じゅうのあらゆる時計の針をパリの時間に合わせようと街を彷徨う。そしてシャオカンが近くのビデオショップで店員にパリの出てくる映画を尋ねて買うのが、『大人は判ってくれない』なのだ。(人でにぎわい活気に満ちているはずの台北は、ツァイ・ミンリャンのキャメラのレンズを通して見られると、いつものごとくひとけがなく、地の底に沈んだ都市のように陰気な様相をしている。)
一方、パリに行った女もまた、どこにいても居心地が悪い思いをしつつ、孤独に街を彷徨い続ける(ここでもツァイ・ミンリャンが切り取る画面の構図からは徹底して人が閉め出され、これならばわざわざパリに行って撮る必要もなかったのではないかと思わせるほどだ)。彼女はふと安息の場所を見出したかのようにとある墓地のベンチに座るのだが、そのベンチになにげに座っているのがジャン=ピエール・レオーなのだ(この墓地はトリュフォーの眠るモンマルトル墓地ではなく、ボードレールの墓があるモンパルナス墓地らしい)。引用される『大人は判ってくれない』のなかを別とすれば、彼が出てくるのはこのワン・シーン、と言うよりワン・カットだけなのだが、電話番号を書いたメモをなくしたという彼女に、自分の電話番号を書いた紙をさっと手渡し、「ジャン=ピエール、ぼくの名前です」と言うレオーはやっぱりかっこいい。
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この映画は自宅にいる青年の父親を捉えた長いワン・カットで始まる。画面奥にいた青年の父親が画面手前のテーブルに来て座り、たばこを吸い、思い出したように「シャオカン」と息子の名を呼ぶ。息子は姿を見せず、父親はふたたび立ち上がってまた画面奥へともどってゆく。それに続くカットではすでに父親は死んでいて、息子が父親の遺骨を胸に抱いてタクシーに乗っている。父親はこれ以後姿を見せないのだが、映画は最後まで父親の亡霊に支配され続けることになるだろう。実際、最後に父親は亡霊となって姿を現しさえするのである。
シャオカンはなにかの気配(父親の亡霊?)に悩まされるかのように、夜中トイレに立つこともできず、ペットボトルに放尿する(これ以後も、嘔吐、げっぷ、鼻水といった身体的イメージが頻出する)。母親は夫が死んだあとも、食卓に彼の分まで食事をならべ続け、その死を受け入れることができないでいる。彼女はついには精神のバランスを失い、「お父さんは光を嫌って出てこれない」と言って、昼間からカーテンを閉め切り、あらゆる光を遮断しようとしさえする。部屋の中は真っ暗となり、昼なのか夜なのかさえわからなくなるのだが、それまで時差を感じさせるように描かれていたパリと台北の場面がこのあたりから不思議とシンクロしはじめるような気がしたのは気のせいか。シャオカンが台北のビルの大時計の針をパリ時間に合わせたあと屋上でワインを飲む場面の直後に、パリのカフェで嘔吐する女のカットが続くのは、やはり意図的なものだろう。そのあと女はパリで出会った香港女性とレスビアン的な関係を結びかけるが、それは盛り上がる前に気まずく終わってしまう。その頃台北ではシャオカンが娼婦と行きずりの関係を結んだあと、売り物の腕時計の入ったトランクを盗まれる。同じころ彼の母親は父親の遺影を前に自慰にふけっている。
だれもが悲しい肉欲にとらわれている。『河』では父親と息子のホモセクシャルな交わりというおぞましくも美しくまた滑稽でもある場面をわれわれは見せられたのだった。その頃から、ツァイ・ミンリャンにとっての父親の存在の大きさはわかっていたが、この作品を見てそれは確認できた。先ほどもいったようにこの映画は父親のイメージで始まるのだが、その直後に死んだはずの父親は、映画の最後になって亡霊となって再び姿を現す。しかもそこは台北ではなくパリである。荷物をまとめて住居をあとにし、公園(リュクサンブール公園?)のベンチに座って泣きながら眠り込む女のかたわらに、台北で死んだはずのシャオカンの父親が現れ、大観覧車の方へ向かって歩いてゆく後ろ姿が、この映画のラストシーンだ。
都会に生きるどうしようもなく孤独な存在たちを繰り返し描いてきたツァイ・ミンリャンの映画だが、前作『Hole』では他者との関係を開くには壁をぶち壊せばいいとばかりに、天井に穴を開けてしまったのだった(なんという単純な発想!)。しかし、今作では舞台はパリと台北に引き裂かれ、さらには修復しようのない時間のズレまでが、人物たちのあいだに亀裂を入れる。電話は常に不通だし、番号を書いたメモも紛失する。ふたりの間をわずかにつなぐ存在が、レオーと父親の亡霊ということになるのだろうか。もっとも、映画の中では父親と息子の視線は一度も交わらないし、同じ画面に姿を見せることすらない(そもそも、映画の冒頭に一人で現れる父親も実は亡霊だったのではないか)。パリの女も父親の亡霊が現れる瞬間には眠りこけている。どうやら彼は映画の観客にしか見えない存在であるらしい。そう考えるとなぜだか急に、観覧車へと向かって遠ざかってゆく彼の後ろ姿が、希望を表しているように思えてきた。
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