映画の誘惑

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『恋ごころ』
Va savoir

──ヌーヴェル・ヴァーグの若々しさ

2001年/フランス=イタリア/35mm/カラー/155分

監督・脚本:ジャック・リヴェット 
脚本:パスカル・ボニッツェール、クリスティーヌ・ローラン 撮影:ウィリアム・リュプチャンスキー
出演:ジャンヌ・バリバール、セルジオ・カステリット、ジャック・ボナフェ、マリアンヌ・バスレール、エレーヌ・ド・フージュロル、ブリュノ・トデスキーニ、カトリーヌ・ルーヴェル、クロード・ベリ

恋ごころ

 いつものリヴェット、されどリヴェット。すでに70過ぎの老人となったジャック・リヴェットの新作『恋ごころ』は、若々しさと老獪さ、即興と演出とが見事に溶けあった傑作だ。

レビュー

ジャック・リヴェットの『恋ごころ』を見る。実は、見る前は少し不安だった。なにしろタイトルが「恋ごころ」だというのだから、傑作など期待しようがないではないか(ちなみに、原題の Va savoir は「そのうちわかる → まだ判断がつかない」ぐらいの意味)。ところがこれが大傑作なのだ。これだけの充実感を味わったのは久しぶりだった。いつ以来だろうか・・・? とにかく、今年になって初めてなのは確かだ。それにしてもこの老人たちの若さとパワーはいったいなんなのか。ヌーヴェル・ヴァーグ恐るべし。こうなってくるとロメールの新作 “L'anglaise et le duc” にも期待が高まるし、『ゴダールの愛の世紀』も一刻も早く見たくなってくる。

なるほど、パスカル・ボニッツェールの脚本、ウィリアム・リュプチャンスキーのキャメラ、舞台と人生をめぐる複数の人物の交錯を描く物語などなどは、いつもながらのリヴェット作品と同じであり、そこに新しさはなにもないとも言える。けれども、これほどの完成度の作品を見るのはやはりこの上ない喜びだ。とはいえ、ではなにが面白かったのかとなると、これを説明するのは難しい。とりあえず、気づいたことを書いてみる。
 
映画はヒロインのカミーユが舞台でリハーサルをしている場面から始まる。ヒロインが映画のなかで演じている劇は、ピランデッロの「あなたのお望みのまま」。演劇に少しでも関心ある人ならだれでも知っていると思うが、ピランデッロは「作者を探す六人の登場人物」で名高いイタリアの劇作家。カミーユはイタリアの劇団の俳優であり、今はそのパリ公演で3年ぶりにパリにきているのだ。(ここにはもちろんルノワールの『黄金の馬車』への目配せが感じられる。ちなみに、幻のゴルドーニの戯曲を所有するデプレ夫人を演じているのは、『草の上の昼食』のネネット役のカトリーヌ・ルーヴェルだ。)とはいえ、台詞からそこがパリだとはわかるものの、映画が始まってしばらくのあいだキャメラは舞台とヒロインの宿泊するホテルのあいだを往復するだけで、ホテル前をヒロインが恋人と歩く短いショット(しかも夜で、街並みはほとんど見えない)以外は外の世界はいっさい映し出されることがない。この閉塞感はいったいなんなのだろう。パリを描く映画作家と言っても過言でないリヴェットの映画で、パリがどこまでも軽蔑的に捉えられている。そんな印象を受けた。

この印象は、やがてキャメラが屋外を映し出すようになっても続く。3年前にカミーユが別れた恋人ピエール(『カルメンという名の女』のドン・ホセ役ジャック・ボナフェが頭の禿げあがった中年男を演じていて、時代を感じさせる)が「恋ごころ」に取り乱し彼女を自宅の一室に監禁し、カミーユが天窓からそこを抜け出て屋根に上る場面で(ポスターの写真にも使われている場面だ)、『パリはわれらのもの』のリヴェットならば、屋根から見下ろすパリの風景を必ず見せてくれるところだと思うのだが、キャメラはひたすら屋根を写すばかりで、高い舞台へ上がったというのに視界はいっこうに広がらない。ここでもパリの風景は徹底的に排除されている。(余談だが、ここでのヒロインの上昇と下降の運動は、映画の終わり間際でピエールとウーゴが舞台の上方で対決しピエールが落下するという、上昇と下降の運動と呼応しているように思える。もっと言えば、ここにはピエールの台詞の端々に暗示されている例の「ハイデッガーとナチズム」の問題も絡んでいるような気がする(マラパルテへの言及もただのゴダールへの目配せではないだろう)。さらに余談だが、一瞬舞台に落ちたかに思えたピエールが安全ネットに引っかかり、そのまま宙づりの状態で終わるというラストを見たとき、リヴェットは鈴木清順の『悲愁物語』を見たに違いないと、つい思わずシネフィル的な想像をしてしまった。)

一方、室内シーンではほとんどカーテンが閉め切られ、窓の外がいっさい見えないように撮られている。これは意図的なものなのかそれともたんなる偶然なのか。そう思いながら見ていたのだが、クライマックス近くで、カミーユが、言い寄ってきたアルチュールを前にして窓のカーテンを引き、室内から見た屋外の光景が初めて映し出される瞬間、「芝居は終わりよ La commedia e finita!」という決定的な台詞が彼女の口から発せられるのを聞いたとき、やはりこれは意図的な演出であったのだと確信した。ここには室内の場面をいわばもうひとつの舞台として捉えようという意図が感じられる。

それでは、「芝居は終わった」という台詞とともに人物たちは「舞台」から「人生」の方へと進み出てゆくのだろうか。映画のラストでは、ピエールは「出口はどこだ」と叫びながら舞台の上方のネットに宙づりになっている。アルチュールは「出口が見つからない」と言いながら舞台に迷い出てくる。それまで断片的な出会いを繰り返し、決して「全体」を知ることのなかった主要な登場人物たちが、観客のいない舞台の上で一堂に会する。舞台の上で始まった映画は、こうして舞台と舞台裏が一体化する形で、まるですべては芝居だと言わんばかりに、全員を舞台の上にのぼらせて終わる。リヴェットの映画において反復される演劇のテーマとは結局のところなんなのか。それについてここで延々と書くつもりはない。書こうと思えば書けるのだが、あまりくだくだしく書いているとこの映画がつまらなく見えてきそうなので、それが恐いのだ。ここではとりあえず、彼の作品において「演劇」と「人生」はいわば同じものの裏表、というより一種の鏡像関係にあるとだけ言っておこう。        

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「恋ごころ」という邦題をつけたのは、しゃれた恋愛映画としてこの作品を売ろうということだろう。リヴェットの映画にそういう愉しさがあることを否定はしない。けれどもマリヴォダージュばかりに注目されても困る。「ヴェネチアの饗宴 festin」が「ヴェネチアの運命 destin」でもあったように、見た目の「軽さ」の裏には残酷な法則とでもいったものが隠されているのだ。リヴェットが映画作家となる前に発表した最初の映画評論はたしか、「われわれはもはや無垢ではない」という題だったはず。むかしあるインタヴューでリヴェットはクライストの次の言葉を引用したことがある。
「無垢をふたたび見出すためには、知の長い回り道をしなければならない。」
そして「知」savoir とはこの映画の原題でもあるのだ。

恋ごころ『恋ごころ』

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