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『10話』Ten
──キアロスタミの変貌?
2002年/フランス=イラン/35mm(DV撮影)/カラー/94分

監督・脚本・撮影:アッバス・キアロスタミ
出演:マニア・アクバリ、アミン・マヘル

10話

 キャメラが切り返すという、ただそれだけのことが不意打ちのように観客を襲う刺激的な映画。

レビュー

今年が終わるまでまだ2ヶ月近く残っているけれど、わたしのなかではすでに今年のベスト・ワンが決まってしまった。もっと面白い映画や、もっと泣ける映画、もっと野心的な映画さえあるかもしれないが、アッバス・キアロスタミの『10話』以上になにか決定的なものを見てしまったと思わす作品が、今年の終わるまでに現れるとはとても思えない。

こういう映画を見てしまうと、『キル・ビル』だの『マトリックス レボリューションズ』だの、キッチュでごちゃごちゃした映画は、バカらしくて見る気もしなくなる。一昔前の『エヴァンゲリオン』といえ、今の『マトリックス』といえ、なにが面白くてそんなに一生懸命になって愚にもつかない無駄話に言葉を費やすのか。何度も書いているが、わたしは謎には全然興味がない人間なので、マトリックスの「謎」とやらにはさして興味がないし、その解明にはなおさら関心がない。

──とか言いつつ、『キル・ビル』は見に行ったし、『レボリューションズ』もきっと見に行くところがわたしの偉いところだ、と自画自賛しつつ、話を元に戻すと、キアロスタミがデジタル・ヴィデオ(DV)を使って撮り上げた新作『10話』には、「謎」どころか文字どおりなんにもない。一台の車のダッシュボードに備えられたキャメラが、運転席と助手席に座った人物をとらえた映像が編集されているだけなのだ。ひと組の男女と車が一台あれば映画は成り立つのだ、と、たしかゴダールがどこかでいっていたと思う。ロッセリーニの『イタリア旅行』にふれていった台詞だったろうか。なにもこれは『イタリア旅行』だけじゃなくて、リチャード・フライシャーの『栄光のジャングル』にだって当てはまる言葉だし、そんな映画知らないというならば、それこそキアロスタミの『そして人生はつづく』だって、ひと組の男女こそ出てこないが、そういう映画だといえばいえるわけだ。実際、キアロスタミの映画と車とは、今やほとんどおなじみの関係だといってもよい。

『10話』の冒頭、キャメラは助手席に乗り込んできた子供をひたすら撮りつづける。車を運転しているのはどうやら母親らしいのだが、キャメラはかたくなに子供に向けられたままだ。この場面が正確には何分つづいたのかわからないが、おそらく10分近くあったろうか。ようやく子供が車を降りたところで、はじめてキャメラは運転席の母親のほうに切り返す。この瞬間にわたしが覚えた感動というか、興奮というか、あッ、という感じをどう伝えたらいいだろう。ふたりの人物が話しているときに、キャメラが切り返すという、当たり前といえば当たり前のことが、突然謎のように現れたというか。映画の素肌に思わず触れてしまったとでもいえばいいのか。

もっとも、これとそっくり同じ場面を、わたしはすでに『オリーブの林をぬけて』で見ていたのだった。同じように女ドライバーの運転する車が出てきて、途中でひとりの男性を乗せるのだが、やはりそこでも執拗に男のほうをとらえつづけたあとで、不意にキャメラが運転席の女をとらえるというシークウェンスがあったと記憶している。ただ、『10話』の冒頭の場面は、それとまったく同じであると同時になにかが違っているようにも思う。「切り返し」という言葉を使ったが、はたしてこの場合そんな言葉が当てはまるのかさえわからない。実際には、だれもキャメラを「切り返し」などしていないのだから。この映画ではキャメラの背後に監督もキャメラマンも一切存在しない。俳優たちは、ほかにだれもいない車内でキャメラを前に話しているだけなのだ。「カット」と声をかけてフィルムをストップさせる演出家が不在のなか、俳優は話しつづける。

とはいえ、演出家が不在であるといういい方もまた正確でない。むかし、『友だちのうちはどこ』と『そして人生はつづく』を見に行ったとき、帰りのエレベータである女性が「素朴な映画だったね」というのを聞いたとき、こういう素朴な見当違いの見方をこの監督はこれからもされていくのだろうと思ったのを覚えている。実際、キアロスタミほど用意周到な監督もいないのであり、とりわけこの『10話』をこれだけミニマルな映画として成立させるためにどれほどのワザと準備が必要だったか、想像もつかない。しかし、それをあたかも楽々と撮り上げたかのように見せてしまうところが、この監督のすごさなのだ。

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ソクーロフの『エルミタージュ幻想』やジャ・ジャンクーの『青の稲妻』、あるいは黒沢清の『アカルイミライ』など、DV 撮影による作品が、国際映画祭をはじめ世界各国で公開されることが、いまや珍しくなくなりつつある。ただ、いま挙げた作品が、いずれもすぐれた作品であることをわたしは認めるが、正直いって、DV 撮影による映画をなんの違和感もなしに見ることができたのは、キアロスタミの『10話』がはじめてだった。これまでのアナログ・ビデオによって撮影された映画にくらべて、DV 撮影による映画の画質が格段に優れていることはたしかであるにしても、フィルムで撮られた映画とくらべれば、DV 作品の画面がどこかのっぺりと平板に見える気がするのはどうしても否めない。むろん技術改良によってまだまだ進化していくはずであるから、フィルムの質感を越えるような画面を撮ることのできるキャメラが遠からぬ日に開発されることだろう。とはいえ、『青の稲妻』や『アカルイミライ』を見ながら、これがフィルムで撮られたらもっとよかったのになと思ったのもたしかなのだ。

『エルミタージュ幻想』の場合、一本の映画をまるまるワンショット=ワンシークエンスで撮ってしまうという離れ業は、むろん DV によってはじめて可能になったわけであるから、事情は違う。たしかに、全編ワンカットで撮り上げられた映画を見るというのは、興奮させられる体験である。しかし、これが DV でなくフィルムで撮られていたらもっと刺激的な体験だったと思うのだ。本当にワンカットで撮影された『エルミタージュ幻想』を見たときよりも、実際には数カットで撮られたヒッチコックの『ロープ』を見たときの方が、興奮度が勝っていたように思うのは、『ロープ』がフィルムで撮られた作品だからだろうか。それとも、わたしがフィルムにこだわりすぎているだけなのか。

同じようにデジタル・キャメラで撮られていながら、『10話』には、そんな郷愁とでも呼べそうなものが入り込む余地ががいっさいない。ここには、ジグザグ道も出てこなければ、オリーブの林も出てこない。『そして人生はつづく』や『桜桃の味』では、車が移動するにつれて眼前に広がる風景が、ときとして郷愁を誘いもした。だが、『10話』では、露出過多気味に撮られた車外の光景は白く消えてしまっている。ここには風景が存在しないのだ。

[風景の消滅という点では、『エルミタージュ幻想』も、流麗なキャメラの動きとは裏腹に、どこまでも閉鎖的な空間を幻出していた。ひょっとすると、DV はクロストロフォビックな空間で最良の成果を生み出すのかもしれないという思いがふと頭をかすめるが、むろん結論を出すのはまだ早い。]

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さて、話を冒頭のあの切り返しショットに戻そう。あのショットが強烈な印象を与えたのにはもうひとつ理由がある。ずっと声だけが聞こえていた女性にはじめてキャメラが向けられるとき、そこに現れる女性の姿が、キアロスタミの映画をはじめとして従来のイラン映画でなじんできた女性の姿とあまりにも違うからだ。そう、これはキアロスタミ初の女性映画なのである。むろん、それまでの作品に女性が出てこなかったわけではない。『オリーブの林をぬけて』でかたくなに沈黙を守りつづける娘など、忘れがたい女性も2、3いる。しかし、『10話』には、少年ひとりをのぞいて女性以外の登場人物はだれも出てこない(車の窓から、女運転手の元夫をふくめ何人かの男性の姿がぼんやりと見えはするが)。しかも、この女たちのよくしゃべること。これはたしかにキアロスタミとしては異例のことだ。

とりわけ、この映画の女性ドライバーのようなイラン女性がスクリーンに登場するのは、キアロスタミの映画はもちろんイラン映画全体でも例がなかったことだろう。たしかに、ジャファール・パナヒの『チャドルと生きる』には、危なっかしくて検閲にふれそうな女性がたくさん出てきたが、彼女たちも結局は、「抑圧されたイラン女性」というイメージに収まってしまいがちだった。それにくらべると、『10話』の女性ドライバーにはそんな「抑圧されたイラン女性」というイメージにも「自由なイラン女性」というイメージにも収まりきらない清々しい美しさが感じられる。

さて、次々と車に乗り込んでくるほかの女性たち、女性ドライバーの姉、信心深い老女、シニカルな娼婦、離婚した女性など、ひとりひとりの女性についても語りたいが、それはこの一見単純な映画のそこここに仕掛けられた心地よい驚きを奪ってしまうことにもなりかねない。あとはご自身の目で見ていただこう。

それにしても、「10話」からはじまり、「9話」、「8話」、「7話」・・・、と逆さまにエピソードが並べられていくというこの構成はなにを意図しているのか。本来は映画の本編が始まる前に使われるカウントダウンが、ここでは映画の本編を章分けする道具として使われている。カウントがゼロになるとき、つまり映画が終わるとき一体なにがはじまるのだろうか。そんなことを考えながら映画を見終わった。

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