映画の誘惑

TOP新作批評>トーク・トゥ・ハー

『トーク・トゥ・ハー』
Hable con ella
2002年/スペイン/シネスコ/カラー/113分

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル 
出演:レオノール・ワトリング、ハビエル・カマラ、ダリオ・グランディネッティ、ロサリオ・フローレス、ピナ・バウシュ、カエタノ・ヴェローゾ

トーク・トゥ・ハー

 最初、隣り合った客席で、出会うともなく出会っていたマルコとベニグノは、刑務所の面会室のガラスの壁を挟んで正面から向き合って言葉を交わすとき、それと知らずに別れの場面を演じている。

レビュー

舞台一面に並べられた黒い椅子。そのなかを、下着のような衣装を着た二人の女が、盲者のように、あるいは夢遊病者のように、壁に頭を打ちつけ、椅子を蹴り散らかしながら歩きまわる・・・。

映画冒頭の、ピナ・バウシュによるこのダンス(「カフェ・ミュラー」)の場面が、鳥肌ものの素晴らしさなのだが、その場面はすぐに終わり、物語が始まってしまう。正直いうと、七割方はこの舞台を見るのが目当てだったので、ちょっとがっかりだった。映画はどうでもいいから、このままこのステージを見続けていたい。そういう気持ちになるほど、それは見事だった。だが、実をいうと、物語はすでにこの舞台の客席で始まっている。客席に隣り合って座っている二人の男。精悍な顔つきをした方の男(マルコ)は、舞台を見ながら涙を流している。それをのぞき見しているもうひとりの男(ベニグノ)は、つやつやした肌をしていて、どことなしに女性的な顔立ちをしている。ふたりは他人なのか、知り合いなのか、それとも恋人同士なのか。この時点ではまだなにもわからない。かれらはそれぞれ、あるひとりの女性と出会う。あるいはすでに出会っている。そして偶然にも、そのふたりの女性は、ともに不慮の事故にあって、命こそ取りとめたものの、見ることも話すこともできない植物状態に陥ってしまう。まるでピナ・バウシュの舞台の二人の女のように・・・。

ベニグノは、病院で、植物状態となったダンサー、アリシアを付きっきりで世話している看護士だ。かれは、もう何年も植物状態のままで、奇跡でも起こらなければ目覚める可能性のないアリシアを世話しながら、毎日彼女に話しかける。きっと彼女には聞こえているはずだ。かれはそう信じている。その病院に、マルコの恋人である女闘牛士リディア──彼女もまた、闘牛に刺されて、昏睡状態になっている──が運び込まれる。ベニグノは、マルコにも、リディアになにか話しかけるように勧める。だが、マルコは、沈黙したままのリディアの体を前にして、語ることができず、結局、彼女のもとを去る。「トーク・トゥ・ハー」、「彼女に語る」とは、そういう意味だ。ただし、「彼女」たちはいずれも、聞くこともできなければ、答えることもできない。

こうして、語ることと沈黙することとのあいだを、映画はめぐってゆく。ダンス、サイレント映画、そして闘牛。これら沈黙の見せ物の中心にいるのは、たしかに女なのだが、映画の中心にいるのは彼女たちではなく、彼女たちの沈黙の身体を前にした男たちの方である。『オール・アバウト・マイ・マザー』が女についての映画だったとすれば、この作品は、男たちについての映画だといっていい。だが、一方で、ものいわぬ女たちの身体の方が、男たちよりもずっと雄弁に思える瞬間がある。また、昏睡状態にあるふたりの女の描きわけも微妙だ。アリシアの体は、今すぐにも目覚めそうに思えるほど、つややかで暖かみがある。一方、リディアの体は、冷たくまた誇り高く横たわったままで、他人を寄せ付けようとしない。

とはいえ、男/女、ヘテロ/ホモという、単純な二項対立は、アルモドバルには受け入れがたいものだ。リディアは、女でありながら、胸を締めつける男用の闘牛士の衣装に身を包んで、闘牛に挑む。ベニグノの場合、幼少のころから大人になるまで母親を付ききりで看護し(マザコン)、そのせいでメーキャップとヘア・スタイリングの技術を身につけ、母親が死んだあとは、おそらくだれとも関係を持つことなく、今はアリシアを看護している。ほとんどステレオタイプ化された同性愛者のイメージだ。だが、アルモドバルは、ベニグノにそのイメージを裏切らせてみせる。ベニグノは、昏睡状態にあるアリシアを犯して、妊娠させてしまうのだ。けれども、巧みに挿入されるサイレント映画によって、アルモドバルは、このおぞましい行為を、無垢な愛の行為として描くことに成功している。

彼女に語る──その言葉は伝わるのだろうか。コーマから目覚めたアリシアは、ベニグノの四年間にわたる献身的な看護のことも、自分がかれの子供を流産したことも知らない。一方、ベニグノも、アリシアがコーマから目覚めたことを知らずに、刑務所で自殺する。マルコが去ってまもなくして、リディアも、意識を取り戻すことなく、死んでしまう。すべては無意味に終わってしまったかに思える。そんなとき、映画は、ふたたび生き始めたアリシアとマルコとの出会いを暗示して終わる。ベニグノが語った言葉は、マルコを介してアリシアに届いたのだ。あまりにもご都合主義的な終わり方だろうか。たしかにそうである。だが、この点では、アルモドバルは確信犯だ。「本当らしさ」を捏造することよりも、フィクションに居直ることを、アルモドバルは選択しているようだ。

メロドラマとは距離の問題である。そして、人物と人物のあいだを隔てる距離が、この上なく繊細に描かれたものを、すぐれたメロドラマという。この映画では、その距離は、いうまでもなく、女たちが昏睡状態にあることによって導入される。だが、それだけではない。アルモドバルは、実に巧みに人物間の距離を描き出している。最初、隣り合った客席で、出会うともなく出会っていたマルコとベニグノは、刑務所の面会室のガラスの壁を挟んで正面から向き合って言葉を交わすとき、それと知らずに別れの場面を演じている(隣り合うという姿勢は、アリシアとリディアが、ベランダに椅子を並べて座らされる場面でも反復される。このときふたりは、それと知らずに、出会いと同時に別れを演じている)。

このガラスの壁というのは、なかなか重要である。ベニグノがアリシアと出会うのは、バレエ教室のガラスの壁越しにであり、マルコがリディアに出会うのも、ブラウン管というガラスを通してだった。二人の女が事故に遭う前から、男たちと「彼女」との距離は、すでにそのように視覚化されていたのだ。刑務所で、マルコとベニグノが最後の言葉を交わすとき、ふたりは、薄いガラスという無限小の距離によって、隔てられている。一方で、この瞬間、マルコは、自分の鏡像のようにガラスの向こうにいるベニグノの存在を我が身に引き受けたのだともいえる。事実、このときから、マルコはベニグノのアパートに移り住み、ベニグノがしたのと同じように、窓から向かいのダンス教室をのぞき見る。そして、そのとき初めて、意識を取り戻したアリシアの姿を眼にするのだ。こうして、マルコは、ベニグノ視線を共有することになる。

こうした細かい演出があるからこそ、ラストのマルコとアリシアの出会いは、不自然なものとは映らないのだ。

それにしても、アルモドバルは本気なのだろうか。そんな疑念をつい抱いてしまう。なかなか見事なできばえだと思いつつ、わたしはまだまだアルモドバルには、本気になれない。

Copyright(C) 2001-2007
Masaaki INOUE. All rights reserved.