映画の誘惑

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『息子の部屋』
La stanza del figlio

2001年/35mm/イタリア/カラー/99分

監督:ナンニ・モレッティ
出演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ

息子の部屋

 奇妙にも、この映画は部屋にたたずむ息子の姿を徹底して回避する。その映像をもたらすのは、ひとりの他者である少女だ。

レビュー

ナンニ・モレッティの『息子の部屋』を見に行った。正直言ってこの映画をどう語ったらいいものか。『親愛なる日記』の自伝的でアナーキーなモレッティのファンとしては、この落ち着き払ったたたずまいを見せる家族メロドラマにとまどいを覚えざるをえない。モレッティにはこんな大人びた映画を撮ってほしくなかった。ただ、作家というものは誰しもこうした転換期を迎えるものだ。それをどう受け止めるかが問題である。

例えば、ヴェンダースにとっての『ベルリン・天使の詩』。批評家から絶賛され、ヴェンダースの映画としてはかなりのヒットも飛ばしたこの映画だが、根っからのヴェンダース・ファンにはこの映画はわりと評判が悪かったのだった。確かに、まだ名前もあまり知られていなかったころからのヴェンダース・ファンにとっては『ベルリン・天使の詩』はある種裏切りに近いものに思えたのかもしれないし、ヴェンダースなどほとんど知らない観客が『ベルリン・天使の詩』に熱狂するのにいらいらしたというのもわからないではない。けれども、作家が自分のイメージしてきたものと別のものになったからと言って非難するというのは、ファンのエゴというものだろう。

さて、『息子の部屋』がモレッティにとっての『ベルリン・天使の詩』にあたる作品になるのかどうか。今のところそれを判断する材料を持ち合わせていないのだが、聞くところによると彼は10年前からこの企画を温めていたという。とするならば、モレッティの過去の作品によって『息子の部屋』を裁くよりも、逆に『息子の部屋』から彼の過去の作品を逆照射していく必要があるのかもしれない。

たしかに、この最新作にもいかにもモレッティらしい要素は見られる。モレッティ作品ではお馴染みのスポーツの光景もそのひとつだ(息子のテニス、娘のバスケット、それに父親のジョギングを加えてもいい)。それを政治的に解釈することも可能だし、映画とのメタフォリックな関係で捉えることもできよう(事実、モレッティ自身これみよがしにテニスを映画にたとえて見せたりもしている)。あるいは、『息子の部屋』でモレッティ演ずる父=精神分析医を、『ジュリオの当惑』で同じモレッティ演ずる神父と重ねてみることもできるかもしれない(キリスト教の告白システムと精神分析との深い関係は今や常識だ)。

この作品にモレッティらしさをあれこれと探してみるが、やはりどうしても一歩後退した作品にしか見えてこない。モレッティがことあるごとに敵対し批判してきた、イタリアのテレビ界を牛耳るメディア王であり中道右派連合「自由の家」のシルヴィオ・ベルルスコーニが、よりによって『息子の部屋』がカンヌでパルムドール賞を受賞した年に総選挙で大勝利を収め7年ぶりに大統領に返り咲いたという歴史的皮肉も、非常にいやな影を投げかけている。モレッティのこのファミリー・ロマンスへの回帰が、「自由の家」という右翼連合のふざけたネーミングとどこかで重なりさえするのだ。

世間では、この映画は最愛の息子を失って取り乱した家族が、その死を乗り越えてふたたび前へと踏み出しはじめるまでを描いた癒しの映画というふうにおおむね受け取られているようだ。たとえば、『キネ旬』掲載の佐藤忠男による、いつものように分かりやすくいつものように的はずれの批評を要約するとそうなる(もっとも最後の5行ぐらいしか読んでいないのだが・・・。余談だが、『キネ旬』に手を触れたのは1年ぶりぐらいだ)。本当にそうだろうか。たしかに、モレッティ自身もそれを後押しするような発言をあちこちでしているようだ。ただ、これはこの作品だけに限らない一般論というか、自分のモットーなのだが、映画を撮った本人がそう言っているからといって、その通りに映画を見る必要はまったくない。いったん作品が撮り上げられてしまえば、それはだれからも無関係である。しかし、だからといって好き勝手に見ていいというものでもない。作品を受け取る上でたったひとつの基準は、それが生産的であるか非生産的であるか、作品を豊かにする解釈であるか、それとも貧しくする解釈であるか。これだけである。

もちろん、作り手の意図からすればそれは誤った解釈かもしれない(そもそも、入試問題でもないのだから、正しいも誤っているもないのだが)。けれども、それが生産的な誤読ならばそれでいいではないか。ぼくとしては、生産的な作品の受け止め方はほぼ間違いなく誤読から生まれると思っている。『勝手にしやがれ』はハリウッドのフィルム・ノワールの誤読から生まれたのだった、デ・パルマのつまらなさはヒッチコックを正読しすぎたからではないか・・・、等々。おそらく佐藤忠男ふうの解釈は正しいのだろう。ただ、れはこの映画のもっともつまらない受け取り方である。

『息子の部屋』は、精神分析医である父親が自宅の一室で客にカウンセリングをするシーンを中心に物語られてゆく。彼は、患者と距離を置きすぎているのではないか、ちょっと冷たすぎるのではないかなどと患者からも同業者からも非難されている。それが、息子の死をきっかけに、分析医は患者の話を聞きながらつい感極まって泣いてしまいさえするほどになる。人の心が理解できるようになったというようなことではないだろう。たんに患者との距離が保てなくなったのだ。要するに彼は、遠すぎたり近すぎたり、他者との適切な距離を保てないのである。一言で言うならば、この映画は距離をめぐる物語だ(スポーツの場面もそのようなものとして解釈できる)。不意の事故によって息子が失われてしまったのではなく、初めから父親は息子と他者として距離をおいて向かい合ってはいなかった。父親が何度もプレイバックする「もしも」のイメージは象徴的だ。その幻想のシーンで父親と息子はならんでジョギングをしている。つまり決して向かい合わずにぴったりよりそって併走するだけなのだ。

あるいは、息子の部屋という場所の持つ意味。タイトルとなっているにもかかわらず、この部屋は息子がまだ生きているときからなにか禁忌の場所、空白の場所として、終始一貫ほとんど避けるようにして描かれる。記憶に間違いがなければ、その部屋に息子がいるショットはただの一度も提示されないはずだ。それがタイトルであることを考えれば、これは奇妙なことである。ところが、ただ一度だけ、その部屋にいる息子を捉えた映像が挿入される瞬間がある。それは死ぬ直前に彼が会っていた少女、家族の知らないひとりの少女が持っていた写真のなかに映っている息子の姿である。タイトルとなっている部屋にいる息子の姿が、見つめても見つめ返してこない写真のイメージのなかでしか提示されないとうのは、明らかに意図的な演出であろう。おそらく少女はその写真を通して息子の視線を家族に届けにきたのである。父親はその視線を受け止めることができただろうか。

家族(父、母、娘)は、少女とそのボーイフレンドを車でフランスとの国境沿いまで送ってゆく。車のなかの5人は終止ぎこちなく、少女とボーイフレンドはすぐに寝入ってしまう。その国境沿いの街で家族はふたりに別れを告げ、ふたりはバスに乗ってさらに旅を続ける。残された3人の家族は、手をつなぐでもなく言葉を交わすでもなく、海辺に(息子を奪った海辺に)曖昧にたたずむばかりだ。このシーンはバスのなかにいる少女の視点からの移動撮影で撮られている(ただし、彼女の視線を捉えるショットはなかったと記憶する)。バスはゆっくりと遠ざかってゆくが、家族のだれひとりとしてキャメラに向かって視線を投げかけるものはいない。こちらを向きそうになる瞬間があるたびに、視線はあらぬ方向を彷徨う。そしてブライアン・イーノによるメランコリックな音楽が画面全体を包みこんでゆく。これがラスト・シーンだ。ここに、息子の死を乗り越えて新しく一歩を踏み始めようとする家族の姿を見るというのは、正読どころか、たんに非生産的な「誤読」ではなかろうか。このラストのバスからの視線がぼくには死んだ息子の視線に思えた。そしてモレッティ演ずる父親はその視線を決して見つめ返そうとはしなかった。

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