この極めてストローブ=ユイレ的なフィルムは、ドキュメンタリーとフィクション、イメージとテキストのあいだを揺れながら進み、最後に、中上の手書き原稿のイメージへと収斂する。
ゆっくりと県道を走行する一台の車を、後部座席に置かれたキャメラが静かに捉え続ける。車はひたすら走り続け、キャメラも走る車をひたすら撮り続ける。説明のナレーションが入るでもなく、ときおり、地名やトンネルの名をローマ字で記した字幕が現れるばかり。『路地へ』のこの冒頭の数十分間は、否が応でも、ストローブ=ユイレの映画、とりわけ『歴史の授業』を思い出させる。途中、何度かトンネルを、次第に長くなってゆくように思えるトンネルを、車が通過するごとに、「路地」は近づいてくるように思える。いつの間にか日が落ち、運転手がとあるドライブインで自動販売機の缶ジュースを買っているとき、ひとりの若者が彼に話しかけてくる。この明らかにフィクショナルな部分とともに、映画は「路地」の中心へと入り込んでゆく。須野まで案内すると言う若者に、「そんな町は知らないな」と運転手は答える。次の場面では、すでに夜は明けて、われわれは須野の、廃校になった小学校の前にいる。 "Souno...the
end of the Road" というタイトルに、「そこより先に道はなかった」という、中上のテキストを朗読する声が重なる。悪くない導入部だ。
青山真治は、車を運転していた男(井土紀州)を様々な風景の中に立たせて、中上のテキストを朗読させる。ある時は、砂浜で、ある時は、森の巨木の下で、『千年の愉楽』や『地の果て 至上の時』といった、中上健次の「路地」をめぐるテキストが読み上げられる。けれども、注意しなければならないのは、ここでのテキストは映像を説明するためにやってくるのではないし、逆に、映像がテキストの中に描かれたものを具体的に見せるわけでもないということだ。ここではテキストと映像はむしろある種の拮抗関係にある。映し出される映像は、読み上げられる中上のテクストの中に描かれる「路地」がもはや存在しないことを、証明してしまうのだ。
しかし、そもそも、「路地」は本当にあったのだろうか。中上健次は生前、失われようとしている「路地」の姿を8ミリカメラで映像に収めていた。それがこの映画のサブタイトルにある、「中上健次の残したフィルム」である。それでは、このフィルムの中に「路地」は存在しているのだろうか。確かに、そこには、中上が見た路地の家屋や、そこに住む人々の姿が映し出される。けれども、その中に写っている老婆の姿が、中上が小説で描いたオリュウノオバのイメージとはかけ離れているように、そこに写っている路地は、中上の小説に現れる「路地」とは、まるで別のものである。一言で言ってそれは「凡庸な」映像でしかない。そして、青山はこの凡庸な映像を、確信犯的に、ひたすら凡庸に提示しようとしている。たとえば、アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』で、主人公がついに現像に成功した幻のフィルムを見る瞬間のように、その瞬間を引き延ばしに引き延ばし、それを一種の啓示として見せる、アンゲロプロスのやり方とは、これはまるで違う。そして、この凡庸に提示された凡庸な映像が、今度は逆に、中上のテクストの持つ非凡さを否が応でも感じさせることになるのだ。結局、「路地」を求める旅は、「路地」が中上のテクトの中にしか存在しないことを確認して終わる。それが、中上の手書き原稿を映し出す、この映画の最後のイメージである。
必ずしも成功している映画ではないし、中上健次の愛読者でなければ退屈に見える映画であるかもしれない。けれども、もしもあなたが中上の愛読者であるのなら、ぜひとも見に行った方がいい。
中上健次 (小学館文庫)
■むろん、中上健次の本はすべて読むべきだ。それも、できれば、書かれた順番に読んでいくのがよい。ただ、ここでは、中上が書いた一種のロード・ムーヴィーであるこの小説を挙げておく。「路地」を追われた7人の老婆たちが、冷凍トレーラーに乗って聖地を巡礼しながら、最後に皇居にいたって消滅するという荒唐無稽な物語で、中上の小説の中では珍しくユーモラスな味わいを持つ作品。『路地へ』の中でも、この小説で老婆のひとりが語る「あほなひと」による路地創生神話のくだりが引用されていた。
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