映画の誘惑

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『リアリズムの宿』
2003年/日本/35mm/カラー/83分

監督:山下敦弘
出演:山本浩司、長塚圭史、尾野真千子、山本剛史

リアリズムの宿

レビュー

山下敦弘の『リアリズムの宿』の内容は、『ロスト・イン・トランスレーション』に非常に近いものだ。ふたりの人物が住みなれない土地を訪れる場面から映画は始まり、その土地を当てもなくさまよううちに、最初はほとんど他人同士だったふたりのあいだに友情のようなものが形作られてゆく。まったく同じ話である。主人公がともに映画関係者であることが、さらに類似の印象を強める。

山下監督の過去の長編2本(『どんてん生活』と『ばかのハコ船』)同様、『リアリズムの宿』も、シーンをギャグでこきざみに刻んできて、最後まで飽きさせない映画 に上がっている。その意味では非常におもしろいのだが、『ロスト・イン・トランスレーション』とくらべて魅力を感じないのはなぜだろうか。ソフィア・コッポラの映画が描く東京にくらべて、『リアリズムの宿』の舞台となる鳥取に魅力が欠けているから、だろうか。そんな単純なことではないだろう。たとえこの映画の舞台が東京であったとしても、結局は同じことだったはずだ。この作品だけにかぎらず、先の2本の山下作品についても、わたしはいまひとつ乗り切れない。その理由をむりに説明するならば、見ていてどこか貧乏くさい気がする、とでもいえばいいだろうか。もちろん、製作費の高い低いをいっているのではない。登場人物が貧乏くさいということでもない(つげ義春が原作ならば、人物が貧乏くさいのは当然だろう)。そうではなく、映画の見せ方の話をしているのだ。

だれかがどこかで『リアリズムの宿』について、「イベントの連続」という言葉を使って書いていたと記憶している。わたしがこの映画を見たときの感想もそれに近い。映画を見ながらわたし自身の頭に浮かんだ言葉は、「見せ物小屋でつぎつぎと奇人変人がでてくるのを見ているみたいだ」というものだった。待っていた人物は現れず、予定していた宿はしまっている。主人公たちは見知らぬ土地をとくに目的もなくさまよいはじめるのだが、ふたりの前にはほとんど間髪を容れず風変わりな人々が現れては消えてゆく。たしかにこれがこの映画の面白さなのではあるが、わたしにはそれが貧乏くさく思えて仕方がなかった。一見、「間(ま)」の面白さで笑わせる映画のように見えるが、その実、「間」という「間」をすべて奇人変人=イベントで埋めていってできたのがこの映画なのだ。貧乏くさいというのはそういう意味だ。せっかくなにもない土地(鳥取の人すいません)までロケしに行きながら、その「なにもなさ」を「なにもなさ」として堂々と見せずに、小ネタの連続でせわしなく物語を綴っていくところが、いかにも貧乏くさいのだ。

『リアリズムの宿』は、たしかに見かけは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のような映画に似ている。しかし、その感性はずっと古めかしいものだ。ジル・ドゥルーズの映画論『シネマ』で論述される古典映画と現代映画の相違を乱暴に要約するなら、前者が行動=アクションを描くのに対し、後者は行動=アクションが失調状態にある世界を描く、ということになるだろう。現代的な映画においては、登場人物はもはや状況に反応することなく、ただ見、ただ聞くだけの存在となる。ネオ・リアリズムも、ヌーヴェル・ヴァーグも、青山真治の映画も、そしてジャームッシュの映画も、その意味で優れて現代的な映画である。山下の映画は、そうした現代的な彷徨を描く視線の映画の外見だけは真似ているが、その底にあるのは非常に古典的なものだ。ネタ振りがあってオチがある、すべてその連続で、ある意味ムダがない。しかし、わたしにはそのムダのなさが、どこか貧乏くさく思える。あくまでもそれと比較しての話だが、『ロスト・イン・トランスレーション』にはずっとモダンな視線が感じられる(ただ、正直いって、わたしにはソフィア・コッポラがどういう映画作家なのか、まだよくわからないのだが)。

古典/現代というのはむろん優劣を意味しない。さらにいうならば、映画が作られた年代とも必ずしも一致しない。だから、山下監督に才能がないといっているわけではない。ただ、わたしは思うのだが、彼はカウリスマキやジャームッシュ風の映画よりも、もっと古典的なスタイルでコメディを撮っていった方がずっと資質に合っていると思うのだが、いかがなものだろうか。

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