イーストウッドの映画こそは、ハリウッドに流れるミスティック・リバーなのかもしれない。
ボストン。繁華街からははずれたところにあるらしい人気のないとある路地で、三人の少年がホッケー遊びをしている。取りそこねた球が少年の脚をすり抜けて歩道脇にある排水口に飲み込まれてしまう。それはやっと片手が入るぐらいの狭い穴で、球は手探りしてもとうてい届かない深みに落ちてしまったらしい。その暗くて深い闇は、そんなふうにしてこれまでいくつもの子どもたちの宝物を飲み込んできたのだろう。観客はその見えない闇を一瞬まぼろしのように見る思いがする。そして、その闇は子どもたちにとってすぐに現実となるのだ。
取り返しのつかない喪失。やりなおすことのできない過去。『ミスティック・リバー』の物語が始まるのはそこからだ。ホッケー遊びをあきらめた少年たちは、すぐさま新しい遊びを見つける。まだ乾ききってない歩道のコンクリートに自分の名前を順々に刻みつけてゆこうというわけだ。その名前は時を越えてそこに永遠に刻みつけられることになるだろう。ジミーーが、次いでショーンが名前を書き終わり、デイヴが自分の名前を途中まで書いたところで、一台の車が彼らのそばにやって来て止まり、なかからひとりの男が現れ、警察手帳をちらつかせながら少年たちを威圧する。そしてなぜかデイヴだけが車に乗せられて連行されてしまう。車の助手席にはもうひとり別の男が乗っていて、振り返ってデイヴに話しかけるその指には怪しげな指輪が光っている。なにかがおかしい。しかし、車はもう動き始めている。リア・ウィンドー越しにデイヴの視線とジミー、ショーンの視線が交わるが、その距離は広がるばかりだ。
そのつぎに起こる出来事は、ほんの数カットで示されるにすぎない。暗い穴蔵のような場所に幽閉されているデイヴ。そこからなんとか抜け出した彼が森のなかを必死で逃げている姿。まるで現代のグリム童話だ。こうして彼らの少年時代は永遠に奪われてしまった。デイヴだけではない。残りのふたりも、あのとき連れ去られたのがデイヴではなく、自分だったならという思いをずっと抱きつづけることになるだろう。
それから25年後。あの歩道の文字はすでにかすれて消えかけているが、綴りの途中で終わっているデイヴの名前が、まだ過去が過ぎ去ってはいないことを生々しく物語っている。そんななか、ある不幸な殺人事件が、疎遠になっていた3人を皮肉なかたちで再開させることになるのだが、その事件は過去の事件をカタルシスへと解消する方向には決して働かない。見えない闇で始まった映画は、進むにつれて次第に光を失ってゆき、真っ暗な夜の川岸でのリンチ殺人の場面で頂点に達する。犯人が明らかとなっても、なにも解決されない。それどころか、すべて予定調和で終わる昨今のアメリカ映画のなかで、これほど居心地の悪いエンディングを持つ映画はまれだ。だが、その一方で、善悪の彼岸で物語が語られる清々しさとでもいいたくなるものが、ここにはある。なにをするにもうるさいハリウッドで、よくこんな映画を撮らせてくれたなと思うのだが、これには、「マトリックス」のお祭り騒ぎにワーナーの目が向いていて、イーストウッドの映画のことは捨て置かれていたことが幸いしたのだろう。これも「マトリックス効果」のひとつというべきか。
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わたしはボストンに行ったことがないのでわからないのだが、この映画に映し出される川は、ボストンを流れるチャールズ川だという。しかし、調べてみると、ミスティック川という川も存在するらしい。リーダース・プラス英和辞典にも「the Mystic:ミスティック川《Massachusetts 州東部を南東に流れ, Boston 湾に注ぐ》」とある。ミスティック・リバーとはチャールズ川の別名なのか。それとも、チャールズ川と同じ流れがどこかの地点からミスティック川へと名前を変えるのか。よくわからないが、この際それは問題ではない。映画『ミスティック・リバー』のなかでは、その川の水面をなめるようにキャメラが移動撮影で映し出しもするのだが、「ミスティック・リバー」とは、この目に見える川のことを指しているのではないのだ。あるいはこうもいえるだろう。なにも目に見える川の面だけが川なのではない。その一見穏やかな表面の下には、目に見えない無数の暗い渦が逆巻いているのだと。「ミスティック・リバー」とはそんな不可視の領域を流れる川なのだ。少年の手を逃れて球が転がり落ちる排水口の奧に広がる見えない闇。そこを流れているであろう薄汚れたどぶ川。その見えない川は、家という家、街路という街路の下を経巡って流れている。おそらくはラストの華やかなパレードが行われるストリートの下をも、その見えない川は流れているのだ。
そして地上では、ケヴィン・ベーコンが見えない拳銃で放った見えない銃弾が、ショーン・ペンの胸を撃ち抜く・・・。
この映画はいくつもの「見えないもの」を語ろうとしている。あるいは、「語れないもの」を見せようとしている。決して語られることのない25年の空白。ケヴィン・ベーコンの握る受話器の向こうで沈黙する女。ショーン・ペンと聾唖の少年の父親「ただのレイ」とのあいだに起きたこと。そしてなによりも、25年前のデイヴのおぞましい体験。ミスティック・リバーは、それら「見えないもの」、「語られないもの」の場所を流れている。というよりも、見えるものと見えないものの「あいだ」を、過去と現在の「あいだ」、光と闇の「あいだ」、沈黙と言葉の「あいだ」、ありとあらゆる「あいだ」を貫いてミスティック・リバーは流れているのだ。
イーストウッドの映画がそんなふうに目には見えないものを描きはじめたのは、『ホワイトハンター、ブラックハート』あたりからだったかもしれない。あの映画でイーストウッドが戦っていた相手ははたして象だったのだろうか。最後の瞬間になって、彼が引き金を引くことができなかったのは、自分の相手がこの目の前にいる象ではないことに気づいたからではないのか。思えば、イーストウッドの映画が冷遇されはじめるのは、あのころからだった。『真夜中のサバナ』で見えない犬を散歩させている男を見てしまったジョン・キューザックのように、「見えないもの」を描く映画などといったものにはだれもが当惑してしまうのだ。
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かくして、バカにでもわかる派手な見せ場など撮る必要はない、そんなものはバカな映画とバカな観客にまかせておけとでもいったイーストウッドの撮る「小品」は、次第次第に客席数の少ない劇場へと追いやられてゆく。『アルマゲドン』のような愚作を見て「涙が出た」などと恥ずかしげもなくいう人間がたくさんいる一方で、『スペース・カウボーイ』はあっさりと忘れられてしまう。それにしても、クリント・イーストウッドという監督はなんと反時代的な映画作家だろうか。実際は、いつもの通りの「小品」であるにもかかわらず、大作めいた公開のされ方をしてしまっただけに、『ミスティック・リバー』の反時代ぶりは際だって見えた。
イーストウッドの撮る映画は明らかにハリウッドの主流とは異質のものになりつつある。しかし、同時に、そこには、自分の撮る映画は支流でも傍流でもない、これこそが本流なのだというイーストウッドの強い自負が感じられる。ハリウッドの中心から離れた場所で映画を撮りつづけながら、ほかのだれよりもアメリカ映画の伝統を受け継いでいるというアイロニー。イーストウッドの映画こそは、ハリウッドに流れるミスティック・リバーなのかもしれない。
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