映画の誘惑

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『マルホランド・ドライブ』
Mulholland Drive
2001年/アメリカ=フランス/35mm/カラー/146分
監督・脚本:デイヴィッド・リンチ 撮影:ピーター・デミング 出演:ジャスティン・セロウ、ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング、ロバート・フォスター

マルホランド・ドライブ

 ハリウッド・バビロンを舞台に夢と現実がメビウスの輪のようにからみあう。謎の答えを永遠に先送りし続けること、それこそがリンチの映画の魅力でもあり限界でもある。

 

マルホランド・ドライブ

映画の核心に触れているので、できれば映画を見てから読んでください。

レビュー

『マルホランド・ドライブ』はジャンル的にはフィルム・ノワールということになるのだろうか。だが、テイスト的にはむしろサイバーパンクSFに近いものがある。すでに見ている人は本気かよと思うだろうが、デイヴィッド・リンチ本人はこの映画をラヴ・ストーリーだと言ってはばからない。するとリンチにとっての「愛のうた」は最近はやったCMソングをもじって言うなら、「今夜も、探す、迷う、狂う、そして夢を見る」とでもなるのだろうか。夢はもちろん悪夢に決まっている。  

さて、この映画は、闇の中に「マルホランド・ドライブ」と書かれた標識が浮かび上がり、その道を一台の車がゆっくりと進んでゆく場面から始まる。直後に車は衝突事故を起こし、後部座席に乗っていた黒髪の女だけが生き残る。彼女は放心状態でそのロサンゼルスを見下ろす小高い丘を下り、「サンセット大通り」の高級住宅にこっそりと忍び込む。女は事故のショックで記憶を失っており、名前さえ思い出せない。やがてその家にスターを夢見る駆け出しの女優ベティが引っ越してくる。記憶喪失の女は、ベティに見つかると壁に飾ってあったリタ・ヘイワースの『ギルダ』のポスターを見てとっさにリタと名乗る。リタとベティ(・デイヴィスをどうしても連想してしまう)はやがて意気投合し、ふたりで失われた記憶をたどりはじめる。手がかりは鞄に入っていた札束と、不思議な形をした青い鍵、そして「マルホランド・ドライブ」という名前だけ。やがて偶然入ったレストランのウェイトレスの名前からリタはダイアン・セルウィンという名前を思い出す。ひょっとしたらそれが自分の本名かも知れない。ふたりはその名前を電話帳で調べて見つけ、電話をする。留守電の声にリタは、わたしの声じゃないが聞き覚えがあると言う。ふたりは、ダイアンが住むシエラ・ボニータを訪ねる。そしてダイアンの鍵のかかった部屋に侵入したふたりは、そこで腐乱したおそらくはダイアンの死体を発見するのだった。  

リンチの映画らしい特異なキャラクターや謎めいたイメージは相変わらずそこここにちりばめられてはいるものの、物語だけをたどるならここまでは毎日やっているテレビのサスペンスドラマとそうたいして変わりはない。ところが映画が中間あたりにさしかかり、すべての秘密を解く重要ななにかが入っているはずの青い小箱がふたりの手に入り、その箱があの青い鍵によっていよいよ開かれるとき、キャメラは箱のなかの闇に吸い込まれるように入ってゆき、その瞬間、まるで鏡の裏側へと通り抜けてしまったかのように、すべてが反転する。記憶の謎をさぐる旅であった物語は、この瞬間を境にしてそれ自体が謎となる・・・。  

この場面をもう一度思い出してみよう。その青い箱はリタとベティがクラブ・シレンシオから帰ってきたとき、なぜか鞄の中に入っていたものだ。リタがその箱を開けようとしたとき、ベティの姿が忽然と消える。ここで勘のいい人はもしかしてリタとベティが実は同一人物なのではないか、あるいはどちらかの妄想が生み出した人物なのではないかということに気づくはずだ。その前の場面で、リタが人目を避けるためにブロンドのカツラをかぶる場面があり、ブロンドの髪のリタはベティと驚くほど似ていることに観客は気づかされる。あるいは、リタがダイアンの留守電を聞いて、「わたしの声じゃないけれど、聞き覚えがある」と言うのも伏線のひとつだ。  

さて、本当は面倒くさいのだが、わたしなりの解釈をいちおう書いておこう。話を分かりやすくするためにブルー・ボックスが開かれるまでをパートA、それ以後をパートBとしてみる。そうするとこのAとBは、同じ構造の物語の個々のパーツの位置を変えて並べ替えただけのものだということがわかる。Aではハリウッドの新人女優であり、オーディションでも成功して将来が約束されたかに見えたベティは、Bではハリウッドでスターとなる夢が破れて、今はシエラ・ボニータですさんだ生活をしているダイアン・セルウィンになっている。逆に、Aで記憶を失い、終始不安におびえていたリタは、Bではハリウッドのスター、カミーラ・ローズとして豪勢な生活をしている。あるいは、Aでアパートの管理人だったココは、Bでは映画監督アダムの母親となっている。あるいは、Aでファミレスに座って不思議な夢を語る男は、Bではファミレスのレジのところに立ってこちらを見つめている。これはいったいなんなのか。  

わたしが映画を見ながら最初に考えたのは、Bが現実の世界で、Aがダイアンの見ている妄想の世界だという解釈の仕方だ。Bの現実の世界では、ダイアンはハリウッドで成功する夢に破れ、同性愛の関係にあるカミーラともうまくいっていない。彼女は殺し屋に頼んでカミーラを殺させることにする。もしもテーブルの上に青い鍵が置かれていれば、殺しは完了したという印だ。その鍵を見た瞬間、ダイアンは後悔の念から妄想の世界に入ってゆく。それがAであり、その妄想の世界では、ダイアンはベティという名前で(これはBでダイアンがレストランでベティと書いた名札をつけたウェイトレスを見る場面につながる)、リタ(=カミーラ)を助け、ハリウッドでも成功しかけている。つまりBの現実の世界にいるダイアンが、そこから逃避するために作り上げた妄想の世界がAなのである(妄想だから、当然現実をポジティブに反転したものになり、そこでは彼女はすべてにおいて成功している)。その妄想の世界がほころぶきっかけになるのがブルー・ボックスであるとうのは当然だ。あの青い鍵は、Bの現実の世界では、ダイアンが殺し屋に依頼したカミーラ殺しが成功したことをしめす印であるからだ。  

この解釈はいろんな点で非常に整合的だし、先ほどいくつか挙げた伏線もこの解釈の正当性を示している。ほかにも、Aで謎のカウボーイがダイアンの死体に向かって、「目覚めろ」と声をかける場面とか(これはAの全体がダイアンの妄想であることを暗示している)、探せばいろいろな伏線が見つかるだろう。わたしはまだ1回しか見ていないので、思いつくのはせいぜいこれぐらいだ。  

ただ、この解釈がおおむね正しいとしても、それでも説明がつかない部分がいろいろある。そもそもあのカウボーイはいったいなんなのか。彼はAの世界の住人でもあると同時に、Bの世界の住人でもあり、この二つの世界を自由に行き来しているようにも思える。あるいは、Aで映画監督アダムがパラマウントのスタジオで最初にベティを見たとき、驚いたような顔を見せたのはなぜなのか。ひょっとして、彼はベティが実はダイアンであることにうっすらと気づいているのではないか。そのように見てゆくと、AとBはメビウスの輪のように無限にループしあっているように思え、どちらが現実でどちらが妄想なのかも定かでなくなってくる。あるいはこの現実と妄想が隣り合わせになってからみあっている状態こそが現実なのだと、リンチは考えているのだろうか。  

『ロスト・ハイウェイ』を見ている人は、この二つの作品が非常に似ている構造をしていることに気づくだろう。『ロスト・ハイウェイ』もまたこの映画と同じように、二つの異質な部分が無限にループするような形で構成されていたのだった。いわば『ロスト・ハイウェイ』と『マルホランド・ドライブ』は、あいだに『ストレート・ストーリー』という直線をはさんで対称的に向かい合っていると言ってもいい。

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つまらなさそうなテレビドラマを見るときは、第1話の放送をわざと見逃してみるとよい。そうすると、話の筋が見えてくるまでのしばしのあいだ弛緩したドラマに緊張感を与えることができる(あと、音を消すという手もあるが、そうすると面白いのか面白くないのかさえわからなくなる)。『マルホランド・ドライブ』はたしかに面白い映画だと思うが、その面白さは、この出だしを見逃したドラマを見ているときの面白さにどことなく似ている。裏を返せば、この映画は本当に面白いのだろうかという疑念がいつも憑きまとうのだ。本当はさして面白くもない映画が、けっして解かれることのない謎(ドラマの見逃した部分のような)を与えられることで、面白く見えているだけではないのかという印象をぬぐえないのだ。  

わたしは基本的に謎には興味がないし、謎解きにはさらに興味がない(たいていの推理小説は5ページほど読めば飽きるし、『薔薇の名前』も上巻しか読んでない)。謎は不安をかき立てると思われている。でも実は、謎は人を安心させるものなのだ。扉の向こうになにかが隠されていると考えることで、人は安心するのだ。謎などどこにもない、扉の向こう側など存在しない表面だけの世界の方が恐い。そんな世界にいれば人はすぐに発狂するだろう。「皮膚こそがもっとも深いのだ」とヴァレリーは言った。いや、ニーチェだったかもしれないが、この際どうでもいい。要は、謎のない世界の方が本当は恐ろしいということだ。  

結局リンチがやっていることは、あたりに偽のヒントをちりばめて謎を永遠に引き延ばすことである。ファミレスの裏側の路地裏、ダイアンの部屋の扉、青い小箱の中。キャメラは向こう側に隠されたものへと向かってゆくが、その先には新たな扉がまた現れ、謎はいつまでも続いてゆく。それがリンチの映画の魅力でもあり、限界でもある。エヴァンゲリオンのファンと同じく、リンチのファンもこういう謎がたまらなく好きなのだろう。その謎についていつまでもうんちくをたれることが出来るという意味では、ありがたい映画である。だが、わたしにはそういう趣味はない。ただ、そうした映画であると認めた上でだが、リンチの映画はけっして嫌いではない。とりあえずは彼のはったりを楽しんでおけばいいのだ。長い前置きだったが、『マルホランド・ドライブ』は面白い映画である。

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