ザイオンは、世界がゲームであることを隠蔽するための巨大なゲーム装置なのかもしれない。
『マトリックス』が、様々なものの影響を受け、それを巧みにひとつの作品にまとめ上げたものであることは、すでに多くの論者が指摘しているとおりであり、ここで改めて書くまでもないだろう。実際、『マトリックス』には、新しいものはなにひとつない。そこに新しさがあるとすれば、サイバーパンク、ジャパニメ(とりわけ『攻殻機動隊』)、ビデオゲーム、『鉄男』、ボードリヤールの哲学、カンフー映画、メビウスのBD、等々、あらかじめ存在していたこれらのものすべてを、引用し、コラージュし、サンプリングして(どの言葉が適切なのかわからないが)、アクション映画を作り上げ、未曾有の成功をおさめたことにつきる。
その「深淵」ともいわれる物語は、例によって、「スター・ウォーズ」や「ハリー・ポッター」と同じ構造、要するに、ウラジミール・プロップが『昔話の形態学』で分析した魔法民話の構造を、忠実になぞっているだけだ(高橋源一郎は、『ヒカルの碁』もプロップであると喝破した)。マトリックス神話は、スター・ウォーズ神話やハリポタ神話とは全然違うんだという人もいるようだけど、わたしにはその違いは見えない。
[余談だが、『マトリックス リローデッド』は、エジプトで上映禁止になった。暴力描写が表向きの理由になっているが、「ザイオン」「救世主」「トリニティ」などの、ユダヤ・キリスト教の言葉の多用や、そこに描かれている創造主と創造物の問題などが、宗教的に受け入れがたかったというのが本音だろう。そういえば、キアヌ・リーブスのコスチュームは、まるで神父の衣装のようだ。]
ウォシャウスキー兄弟が発明した例の「マシンガン撮影」も、わたしにはさして新しいものに思えなかった。メルマガで前にジョン・ウーを取りあげたときに、かれの演出によるスタイリッシュなアクションを、「アクション・インポッシブル」と名づけたことがある。『マトリックス』は、結局、その延長上に現れたものにすぎない。ただ、ジョン・ウーの場合は、まだしもスタイルがあるし、生身の俳優の肉体を使ったアクション映画を何本も撮ってきた監督だけに、ハリウッドにわたってから撮ったアクション映画にも、汗の匂いがまだまだぷんぷんする。だが、ウォシャウスキー兄弟の映画には、人間くささはもうなにも見あたらない。
過剰な視覚効果、「語る」ことに対する「見せる」ことの圧倒的優位。こうしたことは、『マトリックス』以前にすでに始まっていたことである。とはいえ、『マトリックス』の「マシンガン撮影」によって、人間の視覚を越えた不可能なヴィジョンがもたらされたとき、「アクション・インポッシブル」はその究極の形に達したとはいえるかもしれない。弾丸さえ止まって見える世界で、いかなるアクションが可能なのか。ひょっとするとすべてはあの『ワイルド・バンチ』のスローモーションと共に始まっていたのかもしれない。サム・ペキンパーのスローモーション撮影を見たハワード・ホークスは、「奴が一人殺すあいだに、おれなら三人殺せる」と、たしかどこかで語っていた。キアヌ・リーブスが汗ひとつかかずに超人的な格闘をこなす『マトリックス』を見たなら、ホークスはなんといっただろうか。
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『マトリックス』には、現代の哲学者を引きつけるものがあるらしい。その公式ホームページには、哲学のコーナーがあって、多くの思想家がエッセイを寄せている(そのなかには、フーコー論で日本でも有名なヒューバート・ドレイファスの試論も混じっている)。『リローデッド』が公開されたフランスでは、パリのポンピドゥー・センターで、『マトリックス』を哲学・美術との関連で読み解くシンポジウムが行われ、大盛況だったらしいし、スラヴォイ・ジジェクらをはじめとする哲学者たちのエッセイを集めた『マトリックスと哲学』なる本も刊行されたと聞く。
一作目が公開されたときに、映画のなかで、ボードリヤールの『シュミラークルとシミュレーション』が引用されていることが、一部で話題になった。キアヌ・リーブスは、『リローデッド』の撮影に入る前に、その『シュミラークルとシミュレーション』を読むように、監督からいわれたという。機械によって作り出される仮想現実が現実に取って代わる世界を描く『マトリックス』には、たしかにボードリヤールの哲学と呼応するものがあるように思える。今、本当にたまたま開けた『シュミラークルとシミュレーション』のあるページには、こんな箇所がある。
「『父』も『母』も消えた、それは主体の危険な解放のためではなく、コードと呼ばれるマトリックスに有利に働くためだ。母もなければ父もない、マトリックスだけだ」
まさしく、といった感がある。『リローデッド』の公開に際して「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」に掲載されたボードリヤールのインタビューによると、一作目のあとで、ウォシャウスキー兄弟は、ボードリヤールに、『リローデッド』のための協力を仰いだらしい。ところが、ボードリヤールはあっさりとそれを断ったそうだ。ボードリヤールは、ウォシャウスキー兄弟は自分の哲学を誤解していると、断言さえしている。いわば、『マトリックス』はあなたの子供でしょ、と迫るウォシャウスキー兄弟に対して、「これはわたしの子供ではない」と、ボードリヤールが認知を拒んだ形だ。とはいえ、ボードリヤールは否定しているものの、DNA 鑑定すれば、60パーセントくらいは親子の可能性があるのではないだろうか。
『リローデッド』では、前作ではほのめかされていただけだった、人類最後の砦ザイオンの全貌が明らかになる。しかし、そのザイオンも、ひょっとすると仮想現実空間のなかにしか存在しないのではないのか。『リローデッド』の幕切れは、そんなことを暗示しているように思えた。「ディズニーランドは、現実そのものがディズニーランドであることを隠蔽するために存在する」、あるいは、「ゲームは、現実そのものがゲームであることを隠すための装置である」と、ボードリヤールはいっている(記憶による引用なので、言葉は正確でないかもしれないが)。だとすれば、ザイオンは、世界がゲームであることを隠蔽するための巨大なゲーム装置なのかもしれない。
ラカンの「象徴界」「想像界」「現実界」にたとえるならば、カタカナと数字によるコンピュータ上のマトリックス・コードが「象徴界」、ビルの建ち並ぶヴァーチャル空間が「想像界」、そしてザイオンもそのなかにある荒廃した風景が「現実界」ということになるかもしれない。しかし、ここに至って、その「現実界」がふたたび「想像界」へと反転してしまったという感じだろうか。
そしてこのねじれは、この映画が、すべてをCGで作り上げ、現実がどんどん希薄になってゆく、現在のハリウッド映画に対する暗に批評となっていると同時に、他方で、この映画自らが、最新のテクノロジーを駆使して、この上ない仮想現実を作り上げていることとも、呼応しているのかもしれない。あるいは、ネオもモーフィアスも、あらかじめシステムに組み込まれたウィルスだったのかもしれない。
すべては『レボリューションズ』で明らかになる、か。それほど見たくてうずうずしているわけでもないが、結局、三作目も見に行くことになりそうだ。
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世の中には、面白いとか面白くないとかにかかわらず、とりあえず見といた方がいい映画がある。『マトリックス』はそんな映画のひとつではないかと思う。ただ、「サイバーパンク」と聞いても全然ピンとこないような人は、避けた方が無難かもしれない。実際、大ヒットしているわりには、見たけど話がよくわからなかったという観客も多いようだ。とはいえ、観客の理解力の低さだけを責めるわけにはいかない。『マトリックス リローデッド』には、一作目を見ている観客にもわからない細部が多々あるのである。たとえば、ネオが初めてザイオンの砦に入り、エレベーターから降りたとき、かれに救われたという若い熱心な崇拝者が迎えに駆けつける場面。わたしはその若者の顔が思い出せなかったので、たぶん一作目に出てきた人物の一人だったのだろうと思って、別に確認もしなかったのだが、実はこの若者は、一作目には出てこない(はずである)。かれのエピソードはそこではなく、「マトリックス」に霊感をうけてつくられたアニメ作品を集めたエピソード集『Animatrix』で語られるのだ。
わたしはそのエピソードは見ていないが、『Animatrix』の別の数エピソードはたまたま見ることができた。そこで語られるのは、「マトリックス」では語られなかった周辺的な物語だけでなく、「マトリックス」の物語の設定だけを借りたまったく別の物語であったりもする。一方、「マトリックス」の物語に基づいて作られたゲームソフト『Enter the Matrix』にも、映画本編では謎のままだった部分を解き明かすエピソードが見れるという。このゲームに使われる映像の撮影は、『マトリックス リローデッド』の撮影の現場で平行して行われたと聞いている。映画がゲームになり、ゲームが映画になるという関係は、たしかにそう新しいものではない。ただ、「マトリックス」の場合、このふたつは、たんなるマーケティングを越えて、深く絡みあった相補的な関係へと発展している。
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と、いろいろ書いたが、わたしは、監督のウォシャウスキー兄弟自身、自分たちがなにを作っているのか、実はわかっていないのではないかとにらんでいる。この映画にコメントを寄せている哲学者たちも、結局はマーケティングにうまく利用されてしまっているかたちだ。いずれにせよ、あまり真に受けないことに越したことはない。『マトリックス』を真に受けてしまったアメリカの若者が、ネオそっくりの衣装を着て大量殺戮をする計画を立てていたことが事前に発覚し、捕まった事件は記憶に新しい。
革命はまだ遠い。今は戯れを戯れようではないか。
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