ワンショット=ワンシークスウェンスで描かれる戦争。サミュエル・フラーの精神は、今ひとりのイスラエルの映画作家に受け継がれた。
『気狂いピエロ』のパーティの場面で、たまたまそこに居合わせたという風情の映画監督サミュエル・フラーはベルモンドに向かって唐突に言う。「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言ってエモーションだ。」その35年後にひとりのイスラエル人監督がサミュエル・フラーに捧げられた一本の戦争映画を撮る。アモス・ギタイの『キプールの記憶』だ。
戦争映画の話題作が撮られるたびに、「かつてない戦争映画」といった宣伝文句が使われる。けれども、その言葉はこの映画にこそふさわしい。扱われるテーマや、描かれる出来事の新しさではなく、そのフォルムの新しさによってこの映画はその他大勢の戦争映画とは一線を画している。冒頭と結尾を二つのファック・シーンに挟まれ、ひたすらワンショット=ワンシークウェンスで描かれる戦争の映画。こんな戦争映画がかつてあっただろうか。ここにはたしかにわれわれがこれまで眼にしたことのない戦争の姿が描かれている。
なるほど、この映画の見かけはフラーの映画とはまったく似ていない。しかしここにはフラーの映画精神とでもいったものが確実に受け継がれている。一言で言ってそれは「あるがままを撮る」ということだ。この映画に描かれるのは、ギタイが実際に医療班として参加した第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)の体験である。シリア軍の爆撃を受けて乗っていたヘリコプターが墜落するという強烈な体験、それは同時に彼に映画監督になることを決意させた原体験でもあった。ギタイはこの体験を秩序だって整理することなく、混沌な状態のまま観客にさしだす。
映画は、主人公ワインローブ(ギタイの分身)が、シリア・エジプト軍によるイスラエルへの奇襲を知って、友人とともに車で戦地に向かうところから始まる。ハリウッドの戦争映画なら、次のカットでふたりはすでに部隊に合流しているはずだ。だが、ギタイはふたりが自分たちの部隊を探してうろうろと彷徨い続けるさまを延々と撮り続ける(『メモランダム』の冒頭でいつまでたっても葬式にたどり着けない場面を思い出させる)。あたりは混沌とし、どこで戦争が起こっているかもわからない。渋滞した長い車の列を捉えた、まるでゴダールの『ウィークエンド』のような移動撮影! ワンショット=ワンシークウェンス(長回し)による撮影は、この混沌状態に意味も方向も与えることなく、それを混沌な状態のまま捉える。
世の中にはイスラエルとパレスティナが戦争をしていることさえ知らない幸せな人もいるようだ。実際、そういう人たちはアリやゴキブリが幸せなように、幸せな人たちだ。イスラエルはタカ派のシャロンが首相になってから泥沼にはまっているが、さすがにこれだけ和平が遠のいてくると、シャロンの支持率も小泉内閣並みに落ちているらしい。けれども、そのあとにひかえている候補はシャロン以上にタカ派というから、気が滅入ってくる。
ただ、中東問題について勉強しようと思ってこの映画を見に行くならば、がっかりするに違いない。ギタイは自分の個人的な体験から出発して、それをほとんど抽象的な次元にまで高めているからだ。ここには加害者はどこにもいない。だれとだれが戦っているかはほとんど問題にならず、ひたすら犠牲者だけが映し出される。「敵」の名前さえ明示されることはない。ここでのワンショット=ワンシークウェンスという形式は、敵と味方といった安直な二元論を回避するための、文字どおり倫理的な選択なのである。
『キプールの記憶』 |
『アモス・ギタイ──イスラエル/映像/ディアスポラ』(フィルムアート社)
『ヌーヴェルヴァーグ40年/アモス・ギタイ カイエ・デュ・シネマ・ジャポン―映画の21世紀』(勁草書房)
△上に戻る
Copyright(C) 2001-2007