映画の誘惑

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『カンダハール』
Kandahar
2001年/35mm/イラン=フランス/カラー/85分

監督:モフセン・マフマルバフ 撮影:エブラヒム・ガフーリ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドュー・ティモリー

カンダハール

レビュー

不可視なものを中心に置いたこの映画には、テロ事件以後にマスメディアに氾濫する安易なイメージを暗に批判するような、力強い映像に満ちている。
     
   
テロ事件に続く米国のアフガン空爆で、この数ヶ月間のうちにわれわれはテレビでいやというほどアフガンのイメージを眼にしてきた。そして短期間のうちにイスラムについて「学習」しもした。だが、本当のところわれわれはいったいなにを見たというのだろうか。『カンダハール』を見終わった観客の少なからずがある種の欲求不満を覚えるだろうことは予測できる。自分たちはテレビでこれよりも生々しい映像をリアルタイムで眼にした、それにくらべればこの映画は物足りない。そんなふうに思った観客は少なくないはずだ。けれどもそれは単純にいって間違った見方だろう。「映画は現実の反映ではなく、反映の現実だ」というゴダールのテーゼを今さら持ち出すべきだろうか。そもそもこの映画はアフガン空爆以前に撮られていたのだし、それに撮影の大部分はイランで行われたものだ(アフガンにはあんな平坦な道はない。それは見る人が見ればすぐにわかるそうだ。要するに、われわれはそんなことさえわからないほどアフガンについては無知なのだ)。だから、そこにアフガン空爆後のイメージを安直に重ねて見ることは、避けがたい誘惑であるとはいえやはり間違いである。まずは、映画をひとつの完結した作品として見ること。話はそこからである。

モフセン・マフマルバフの映画はどれも堂々巡りの映画だ。同じ円周の上をぐるぐると回り続ける『サイクリスト』の自転車こぎのように、マフマルバフ映画の主人公たちはつねに同じ物語をめぐり続ける。『行商人』の3つのエピソードは冒頭へと回帰して終わり、『パンと植木鉢』の若いふたりはマフマルバフ自身がかつて生きた物語を繰り返す。だから、『カンダハール』のヒロインが決してカンダハールに住む妹に再会することはないだろうし、物語はおそらく冒頭に回帰して終わるだろうことも、なかば予測できたことである。この映画の撮影が困難を極めただろうことは容易に推測できるが、ヒロインが妹に会わずに終わるのはむろん最初の段階から決まっていたことに違いない。タイトルとなっているカンダハールが決して画面に現れないのも、撮影が不可能に近かったというよりも意図的な選択であろう。凡庸な監督ならば、妹をめぐる救出劇を冒険映画ふうに撮ったことであろうが、もちろんそれはマフマルバフが撮ろうとした映画ではない。カンダハールの街もヒロインの妹も不可視の中心としてこの映画では機能している。それは冒頭と最後に現れる日食のイメージとも重なってくる。見せることと隠すこと。それがこの映画の中心テーマである。ブルカがその究極のイメージであることはいうまでもない。ヒロインとアメリカ人の黒人医師(演じている男はソ連と戦うためにアフガンに入った本物のブラック・ムスリムである)との小さなのぞき穴を介してのやりとりでも、このテーマは反復されている。

この映画はなかば実話に基づいたドキュメント・フィクションであり、ヒロインを演ずるニルファー・パズィラは実際にアフガンからカナダに亡命し、そこでアフガンにいる友人から自殺をほのめかす手紙を受け取ったのだった。だとしても映画のなかのヒロインの妹の存在は物語を語る上でのたんなるきっかけにすぎない。そもそもヒロインに妹がいること自体が怪しい。彼女の存在はいわば人々が必死で探し求める失われた幻の片脚のようなものだ。妹を最後まで登場させないことで、ヒロインの物語は全アフガン女性の象徴になる。たしかに、映画のエンディングは唐突に思えるかもしれない。予定では、実際に皆既日食になり、嵐が来る場面が撮影されるはずだったが、様々な理由で撮れなかったとも聞く。とはいえ、マフマルバフの映画の円環構造は必ずしも絶望を意味するわけではない。『パンと植木鉢』で若い主人公たちが反復するマフマルバフ自身の物語において、拳銃とナイフがパンと植木鉢へと変わっていったように、円環のなかでなにかがずれてゆく。
 実際、この映画にはその悲惨な状況に似合わないユーモラスな場面があちこちにちりばめられている。手を変え品を変えてしつこく義足をねだる男、義足が太すぎて女房の華奢な足には似合わないと涙ながらに訴える老人。客観的に見れば笑い事でない状況であるが、それを描くマフマルバフはなんとも言えないユーモアをそこに付け加える。というよりも、タリバンによる圧政とそこからの北部同盟・米軍による解放を紋切り型のイメージで伝えるだけのメディアの映像には、こうした悲惨な状況そのもののなかにあるユーモアのような微妙ななにかを決してとらえることができないのだと言った方がいいかもしれない。

今現在、テレビにはアフガンからの様々な現地情報がリアルタイムで流れている。けれどもそれでいったいなにを見たことになるのか。あえて不可視のものを中心に置いたこの映画は、そうしたイメージのありようじたいを批判しているように思える。マフマルバフが出版した本『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』は、最初『アフガニスタン 映像のない国』というタイトルが付いていたという。アフガニスタンが必要としているのはメディアが伝えるリアルタイムの映像なのだろうか。マフマルバフ自身がどう考えているかはともかく、それは違うような気がする。あえて言うなら、マス・メディアの映像は結局は支配者による被支配者の映像にすぎない。アウシュビッツのユダヤ人の映像がナチスの撮影した映像にすぎなかったように。いずれにしろ、アフガンがこれから本当の意味で必要としているのはどのような映像なのか、この映画はその重要なヒントとなるはずである。

参考文献

『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

(モフセン・マフマルバフ著、現代企画室)

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