映画の誘惑

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『鏡の女たち』
──不在の場所 不可能な記憶
2003年/日本/シネスコ/カラー/129分

監督:吉田喜重
出演:岡田茉莉子、田中好子、一色紗英、室田日出男、山本未来

鏡の女たち

レビュー

『人間の約束』の痴呆症の老母は、枕元におかれた水鏡の水面をとおして故郷大沼に藻が揺れるさまを幻に見る。そしてひとり家を抜け出して、行けるはずもない遠くにあるその沼を見てきたと、家族にいう。だが、その沼は宅地開発で埋め立てられ、もはやこの世に存在しないのだ。老母はさらに、行ったこともない四国巡礼の記憶を語り、山間に水をたたえた風景のなかを夫とふたりで歩く光景を幻視する。大沼という場所も、四国巡礼の記憶も、そこに回帰することが不可能であるがゆえに、その光景は老母のなかで異様なほどの聖性を帯びていく。ありえない場所、ありえない記憶への回帰。だがそれは、自ら死を招き寄せることに他ならない。そしてそれが、水鏡の水に顔をつけて自死するという身振りとなって現れるところが、いかにも吉田喜重的ではないか。

『秋津温泉』で、故郷岡山から引き上げてくる列車に乗り合わせた女がふと漏らした秋津という名を耳にして、長門裕之演じる青年は、夢見るようにこう呟く。「秋津……秋津……山間にある、急流がその真ん中に流れている温泉でしょう?……その川に河鹿が鳴く……」女が、「行ったことがおありなんですか?」とたずねた瞬間、敵機らしき機影が空をかすめ、列車は急停止し、青年ひとりを残して乗客全員が列車を飛び降りる。やがてみんなは何ごともなかったかのように戻ってくるが、女の問いに対する答えは宙に浮いたままになってしまう。もし列車が止まらなければ、青年はたぶん秋津に行ったことがあると女に告白していたに違いない。だが答えは空白のまま残され、その空白がふとこんな疑念を起こさせる。青年は本当に秋津に行ったことがあったのだろうか。『人間の約束』の老母が、間近に迫った死の幻影のなかでありもしない四国巡礼を夢想したように、死を身近に感じていた青年はありもしない幻覚を見ただけではなかったのか。

いずれにせよ、秋津という場所が、『人間の約束』の老母にとっての大沼のような、甘美な記憶を誘う原初の場所として設置されていたことは間違いない。故郷よりもさらに存在の奥深くと結びついた場所。始まりの場所。だが、そういう場所に戻ることは、必ずしも幸福を意味しない。死に場所を求めて秋津にやってきた青年は、そこで岡田茉莉子演じる新子と出会い、生きることを決意する。皮肉なことに、青年は死を忘れて生きることで、次第しだいに俗にまみれてゆき、長い空白をおいて秋津に戻ってくるたびに、ふたりの関係はずれてゆく。というよりも、はじめから開いていた距離が際だってくるといった方がいいだろうか。一方、秋津にとどまりつづけた新子は、自分のなかで死を成熟させてゆき、異様なまでの聖なる輝きを帯びたまま手首を切り、誘われるように水際にたどりついて息絶える。

『秋津温泉』以来、旅は吉田喜重の映画において重要なテーマをなしてきた。『樹氷のよろめき』の岡田茉莉子と木村功は、かつてふたりが別れた場所に戻って、そのとき果たされなかった肉体的交わりを成就する。だがその旅は彼らと蜷川幸雄との三角関係をさらに複雑で曖昧なものにしてゆき、結局すべては辺り一面を覆いつくす雪とともにスクリーンの白さへと溶解する。『女のみづうみ』で、姿を見せぬ脅迫者から写真を奪い返すために始まった旅は、しだいにその目的を曖昧にしてゆき、最後には殺したはずの相手さえもがよみがえってきて物語を未決着の状態のまま放り出す。吉田喜重的な旅がなにかの解決に結びつくことは決まってないといってもいい。

そして最新作『鏡の女たち』もまた、そんな吉田喜重的な旅の系譜に連なる作品である。ここでの旅は、ひょっとしたら自分の母かもしれない女(岡田茉莉子=愛)の家にやってきた田中好子演じる正子が、自分の娘かも知れない一色紗英(夏来)の部屋で、はじめて広島の名を口にする瞬間に始まる。夕暮れの薄日を浴びて、夏来と正面を向いて並び立ち、正子はどこか遠くを見るような眼で、あたかも『秋津温泉』の長門裕之の「秋津……秋津……」を反復するかのように、「広島……広島……」とゆっくりと二度呟く。そして「海の見える……病室の窓から見える海には……小さな島がいくつも浮かんで……」とつづけるのだ。始まりの場所の記憶が、またしても水のイメージをともなって現れてきたことに、見ていて思わず背筋がぞくぞくとする。だが、これから三人がむかう場所、たどろうとする記憶は、原爆で破壊された広島というもはや存在しない場所と記憶に結びついているのだから、この旅は最初から挫折を余儀なくされていたともいえる。

広島の窓から海の見える病室で、愛は娘の美和かもしれない正子と孫娘の夏来を前にして、なにかに取り憑かれたような様子で、いままで封印してきた記憶を語る。それは愛の最初の夫の記憶であり、おそらくは正子の本当の父親だった男の記憶である。夏来は、愛の二度目の夫である祖父をパパと呼んで父親のように思っていたのだから、愛の告白は夏来にとっても実の父親を否定されるようなショッキングなものだ。けれども、結局、この血縁関係の確認によって、いったいなにが変わったというのだろうか。愛の告白の直後に、正子はもうこの家族ゲームを終わりにしましょうと言い放つ。そして、広島にやってきた正子の記憶のなかによみがえった荒波の立つ海辺の光景のなかの若い女と少女は、愛の記憶によって正子と夏来から愛と正子へと修正され、結局合わせ鏡に映った像のようにきりもなく反転しつづけるばかりだ。

他者としての子供の出現というテーマを吉田喜重はこれまで何度も描いてきた。『煉獄エロイカ』の冒頭で岡田茉莉子が目の前で落下するのを目撃した少女アユは、直後に何ごともなかったかのように岡田の前に現れ、あなたの娘だと名乗る。ヴェクトルは逆になっているが、『鏡の女たち』の岡田と田中の関係は、『煉獄エロイカ』の岡田とアユの関係を反復しているといえる。あるいは『炎と女』の人工授精で子供を産んだ女(岡田茉莉子)は、精液の提供者である日下部武史と肉体的関係を結ぶ。だがそれは、血がつながっている父親を必要としたというよりは、血縁関係というフィクションと手を切るための儀式にすぎなかったのではないかとさえ思われる。『鏡の女たち』においても、吉田は血縁関係というフィクションを一切信じていない。岡田茉莉子が田中好子のDNA鑑定を理不尽なほど頑なに拒否するのは、それが結局は家族というフィクションを作り上げることにしか貢献しないからだ。

結局、最後に正子は再び失踪し、彼女が愛の娘だったのかどうかはだれにもわからない。鏡はこれからもひび割れつづけたままである。こうして広島への旅もまた、これまで吉田喜重の映画に描かれてきた旅と同様に、「謎」を深めただけに終わった。だが、原爆ドームの真向かいにあるベンチに三人の女が並んで座り、愛が原爆の記憶を語るのを、両脇に座った正子と夏来が抱き合うようにしながら、耳を傾ける場面で、三人のあいだに電流のように流れていたものは、血のつながりなどというフィクションを遥かにしのぐ強いきずなであったはずだ。

愛の家には娘(美和=正子)の写真が一枚も存在しない。たとえあったとしても、ひび割れた鏡や口紅をぬぐう仕草が結局はなにも証明することがなかったように、写真の面影が似ているかどうかもまた、親子のきずなの証明にはならなかっただろう。同時に、この写真の不在は、この映画において原爆の過去の記録映像を決して使うまいとした吉田の決意ともつながっている。血縁関係がフィクションでしかなかったように、記録映像もまたフィクションでしかない。そもそも原爆とはあらゆる影を消し去ってしまい、イメージとしては定着しえない「光」のことなのだ。そしてそれを見たものは、すでにこの世にはない死者でしかないのだから、それを語ることはできないのだ。ではその「語りえぬもの」を語ることは不可能なのか。それはひょっとしたら女たちという存在だけに可能かもしれない。あの原爆ドームの場面を撮ったとき、吉田喜重はその確信に賭けていたに違いない。あの場面の岡田茉莉子は、吉田が『小津安二郎の反映画』のなかで用いた言葉を使うならば、原爆の「死者たちの眼差し」に包まれて語っていた、いや語らされていたといってもいいかもしれない。

では、「語りえぬもの」はついに語られたのか。だれしもが異様な感動を覚えるはずのあの場面を見たあとでも、やはりその答えは先延ばしにされたままだ。あの瞬間、三人はたしかになにかを共有していた。だが、それも一瞬のうちに幻へと変わってしまう。あのとき観客が共有したように思えた記憶でさえ、陽炎のように消え去ってしまう。
しかし、重要なのは、あのとき三人の女たちが、あるいはそれを見ていた観客がはたして同じ記憶を共有しえたかということではない。それが「語りえない」ということを共有することが重要だったのだ。三人のなかの広島の記憶にはそれぞれ〈ずれ〉があったに違いない。むしろその〈ずれ〉こそが吉田にこの映画を撮らせたといえる。血のきずなを越えたところで反復されてゆく記憶とその〈ずれ〉。そして吉田喜重にとって、その中心にいるのはやはり女たちなのである。

「聞こえるでしょう、あの声が。あれは幼かった頃の美和。いいえ、夏来、あなた。いいえ、やがてあなたが産む子供の影だわ」

このとき彼女たちは、もはや愛でも美和でも夏来でもなく、〈女たち〉としかいいようのない存在としてつながっている。

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