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『JLG/自画像』
JLG/JLG Autoportrait de decembre

1995年/フランス=スイス合作/35mm/カラー/56分

監督・脚本・編集:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:イヴ・プリガン  出演:ジャン=リュック・ゴダール、ジュヌヴィエーヴ・パスキエ、アンドレ・S・ラバルト、ベルナール・エイゼンシッツ

JLG/自画像

 ──そういえば JLG/JLG のこの斜線(/)は、なんだか鏡のようにふたつの JLG のあいだにはさまれてるもんね。 ──あるいは、スクリーンのようにともいえる。

レビュー

『JLG/自画像』をめぐる対話

□ この映画、邦題は『JLG/自画像』だけど、原題は『JLG/JLG Autoportrait de decembre』 だよね?

■ そう。直訳すると『JLG/JLG 12月の自画像』。JLG/JLG というのは「JLG による JLG」ぐらいの意味なんだけど、こういう場合、フランス語ではふつう JLG par JLGという言い方をするんだ。実際、製作会社のゴーモンは par を入れようとしたんだけど、ゴダールはそれをはねつけてこの形にこだわったんだよ。JLG par JLGだと、「私が私について反省する」っていう自己省察の意味になって、自伝に近いものとして捉えられてしまうからだと、ゴダールはいってるね。 自伝じゃなくて自画像だということにこだわってるんだよ。

□ そういえば JLG/JLG のこの斜線(/)は、なんだか鏡のようにふたつの JLG のあいだにはさまれてるもんね。

■ あるいは、スクリーンのようにともいえる。邦題では斜線の位置が変なところに入ってるから、意味がずれちゃってるけどね。

□ 「スクリーンのように」っていうのはなかなかナイスだね。でも、パンフレットの裏表紙では、手書きで jlg-jlg って書いてあって、斜線じゃなく横線を使ってるよ。

■ そういうときは、「レマン湖の水面のように」とか、適当にいっとけばいいんだよ。

□ なるほど。でも水面だと、それこそナルシスになっちゃうね。やっぱりこういう映画を撮る人ってナルシストなんだろうか?

■ ゴダールの場合、ふたつの JLG のあいだに強烈な批評意識が介在するから、ナルシシズムとは無縁だと思うけどね。でも、ラストの、スイスの緑の丘の斜面を光と風が通りすぎてゆくのを捉えた、美しすぎるともいえるショットに重なって聞こえるゴダールの台詞が、「『愛する』といった。『愛する』――約束の言葉だ。自分を犠牲に捧げ、愛が本当の意味を持つように。地上に愛を。ようやく完成するこの映画で、私は、愛することを知る者に、やっと、その名にふさわしくなれるだろう」、なんだからなー。おまえはいったいだれなんだ、キリストか、って思うよね。

□ でも、そのあと画面が暗くなって、「ひとりの人間。だれとも同じ人間。自分でしかない人間に」、って続いて終わるんだけどね。ところで、フランスには「Par lui-meme叢書」という文学評論のシリーズがあるじゃない?

■ 例の『フロベールによるフロベール』とか『バタイユによるバタイユ』ってやつね。日本でもいくつか翻訳がでてるよ、邦題はだいぶ変えてあるけど。もっとも、『ランボーによるランボー』といっても、実際に書いてるのはイヴ・ボヌフォアだったりして、作家本人じゃない批評家がふつう書いてるわけ。ただし、このシリーズの『彼自身によるロラン・バルト』だけは例外的に、バルトが自分で自分のことを書いてるんだ。しかもめちゃくちゃ断片的な書き方をしていて、自分で自分について反省するというよりも、自分を断片化して散乱させるといった感じなんだ。

□ そのへんは、『JLG/自画像』と似てるよね。そんなことをいってるおれたちも、ひとりが二人に分裂してるわけだけど・・・。

■ えっ、あたしたちって、おすぎとピーコじゃなかったの?

□ かれらはこんな映画見てないよ。

 

ゴダール、タイトル講座

□ 話は変わるけど、さっきからタイトルの話しかしてないじゃない? 内容について触れなくていいの?

■ タイトルだけでもこれだけいうことがあるってことだよ。映画の「意味」とか 「内容」が手っ取り早く「わかりたい」ひとは、パンフレットとか、ゴダール読本のたぐいを読めば書いてあるからいいじゃない。話を戻すけど、JLG/JLGという原題は、露骨に同じものを反復する形になってるよね。

□ うん。差異と反復。ゴダールって、こういう反復の形をタイトルに使うのが結構むかしから好きだったんだよね。『女は女である』とか『ワン・プラス・ワン』とか・・・。あ、でも数えてみたら二本しかないや。

■ 斜線というのも今まで何度か使ってるじゃない。FRANCE TOUR/DETOUR DEUXENFANTS (『二人の子供によるフランス漫遊記』)とか、『勝手に逃げろ/人生』とか、何本かあるよね。横線がタイトルに入ってるのも何本かある。MASCULIN-FEMININ(『男性・女性』)とか、MONTPARNASSE-LEVAROIS(『モンパルナス=ルヴァロワ』)とか。斜線、横線、括弧、どれもみんな、切ると同時につなぐ装置として入っている。そういう記号を使っていない、PRENOM CARMEN (『カルメンという名の女』)や ALLEMAGNE NEUF ZERO(『新ドイツ零年』)の場合も、単語と単語のあいだのつながり具合がふつうじゃない。

□ 「et」という言葉(英語の and)が入ってるタイトルも多いよね、『ヒア・アンド・ゼア』とか、『ソフト・アンド・ハード』とか。ゴダールはスピルバーグにひっかけて、あれは『ET』だというかもしれないけど。あと、「2」という数字が入ってるタイトルがやたら多いんだよね。あれもある意味、反復というかモンタージュかもしれない。

■ JLG/JLG というのも、同じものが反復されているわけじゃなく、差異の反復なんだよね。『フォーエヴァー・モーツァルト』でも、いつもカミュを読んでる哲学科の若い娘が、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の二つの「我」のあいだにある差異を語る場面がある。そいういえば、哲学者のドゥルーズがカントについて書いた文章で、似たようなことを書いてるな。

 

尻、エイゼンシッツ、ゲバラ

□ ドゥルーズか・・・。話が難しくなってきた。関係ないけど、『フォーエヴァー・モーツァルト』にはやっぱり尻がでてくるね。

■ ジェロームたちが国際義勇軍によって廃屋に監禁される場面のこと? でも今は『JLG/自画像』の話をしてるんだから、『フォーエヴァー・モーツァルト』も尻もどうでもいいんだよ。いきなり形而下的な話になっちゃっうだろ。

□ 『JLG/自画像』にも尻はでてくるぜ。ほら、あの査察の場面。

■ 若いメイドが書棚にはたきをかけながら尻を見せるところね、別に脱ぎはしないんだけど。あそこは査察官役でベルナール・エイゼンシッツとアンドレ・s・ラバルトがでてたりして、結構笑える。何年か前、京都国際映画祭でムルナウの 『ファウスト』を上映したとき、エインゼンシッツがゲストで来たので、のこのこ見に行ってしまったけど、なかなかのインテリっていう感じだった。『ニコラス・レイ ある反逆者の肖像』というレイの伝記評論は傑作だから、読んだ方がいいよ。エイゼンシッツは役者としても、『ママと娼婦』とか、『ベルリン・天使の詩』とか、ギタイの『ゴーレム』とか、結構名作にでてるんだよね。

□ 査察官の一人が、「JLG は、『第2、第3のベトナムを作る』ことが、『第2、第3のアメリカを作る』結果になるなんて、思いもしなかった」、などとうそぶく。結構辛辣なんだよね、もちろんゴダールがいわせてるんだけど。アメリカは今、第2、第3のツイン・タワーを世界中に作ろうとしているわけだ。

■ あのときはたしか『中国女』がモニターに映ってるんだっけ。あのころゴダールはゲバラのこの言葉をよく使ってたよね。ゲバラといえば、最近テレビで毎週放映している『ダークエンジェル』のヒロイン、マックスのパートナーで、反政府ゲリラのリーダーみたいな存在のローガンという男がでてくるんだけど、こいつが一度ゲバラのTシャツを着てでてくる回があった。2016年でもゲバラ人気は衰えてないなと思ったね。別の回で、上流階級ばかりが集まる場違いなパーティーに行ったマックスが、人に名前を聞かれてとっさに、「マックス・ゲバラ」とでたらめな名前で答えたときは、ちょっとやり過ぎじゃないのと思ったけど。

□ キューバって、今でもアメリカの公式の敵(Official Enemy)だろ。ゲバラってホントに人気があるのかネェー。そいうえば、ゲバラで思い出したけど、レジス・ドブレーっていうフランスのメディア学者がいるじゃない。

■ また、ゴダールとは関係ない話を。

□ いや、関係あるんだよ、ちょっとだけだけど。日本ではぜんぜん有名じゃないけど、ドブレーはゴダールと対談しているぐらいで、向こうでは結構な顔なんだ。それで、まあ、インテリというイメージが強かったんだけど、角川文庫から出ているゲバラの日記を読んでたら、このドブレーがでてきたからびっくりしたんだ。こいつはゲバラの革命軍と一緒に一時行動を共にしていたらしいんだよ。

■ キューバで? レジス・ドブレーが?

□ いやいや、キューバからボリビアに渡ってからだよ。でも、ゲバラの日記のなかでは、「あのちびのフランス人は信用できない」とか書かれてやがんの。

■ フライシャーがゲバラを描いた映画も結構面白かったと思うんだけど、印象が薄くてあまり覚えてないな。

□ たしかジャック・パランスがカストロを演じたやつね。カストロよりもゲバラの方がかっこよく見えるのはしようがないんだけど、ジャック・パランスのフィデル・カストロというのはちょっと・・・。

 

子供たち、エンド・クレジットをめぐって

□ また JLG/JLG に話を戻すと、映画のなかでは、タイトルはたしかノートに手書きで、   
  JLG     
  JLG

と上下に書かれるだけだったよね。

■ うん。あれはたぶん子供が学校でよく使うたぐいのノートブックだと思うんだけど。ノートにつぎつぎと書かれて現れるロベルト、ジャック、ボリス、ニコラスという名前は、もちろん映画の歴史を知ってる人ならだれでもすぐわかる名前を意味してるわけだけど、同時に子供の名前でもあるわけだよね。

□ だから、ゴダールのところは、ジャノという子供っぽい呼びかけになってるんだ。ゴダールの映画に子供が必ずでてくるようになったのは、『右側に気をつけろ』のころからかな。この映画には、まさにゴダール自身の少年時代の顔写真がでてくるわけだけど。ロジェ・レーナルトの『最後の休暇』の音声トラックも、ゴダールの少年期の思い出と重ねられるように使われている。

■ 『最後の休暇』か。むかし日仏で見た、懐かしぃー。今、あの辺の映画を見ようと思っても見られないんだよな。ノートブックで思い出したけど、そういえば、この映画、クレジットがないんだよね。ゴダールの映画からクレジットがなくなるのはいつからだっけ。

□ 思い出せないけど、やっぱり90年代になってからじゃない? 最近のアメリカ映画はクレジットがやたら長いから、こういうの見ると新鮮だよね。

■ 最近見た『ウインドトーカーズ』のクレジットも長かった。あれだけの数のスタッフがいれば、本物の軍隊が作れるんじゃない? イラクも攻め落とせるかもしれないよ。

□ たしかに。ロメールの映画なんか、スタッフほとんどいないからクレジットなんてあっという間に終わる。映画撮るのに、そんなにたくさん人はいらないんだよ。ところで、映画のエンド・クレジットって最後まで見てる?

■ 最近のハリウッドの映画はさすがに途中ででちゃうね。ベルトルッチの『リトル・ブッダ』は、エンド・クレジットのあいだずっと、子供たち(坊主たちだったかもしれない)が地面に曼陀羅を描いてる場面が映し出されてるんだけど、クレジットが終わる間際に、それまで描いていた曼陀羅を手でさっと払い消しちゃうんだ。あれは最後まで見ていて、ちょっと得したなと思ったね。

□ えっ、そうなの。それは知らなかった。クレジットが終わってから動きのある映画がたまにあるから、油断できないよね。なかには、最後の最後に真犯人がわかる映画とか、あったりなんかしちゃったりなんかして。

■ ぜんぜん関係ないけど、『ウインドトーカーズ』にでてくるホワイト・ホースって名前のインディアン、巨人のピッチャーの工藤に似てなかった?

□ そうそう、そっくりだったからびっくりした。ホントに工藤がでてるのかと思ったよ。別にどうでもいいことだったんだけど、そのあとでインディアンと日本人の顔が似ていることが、物語の展開上大きなポイントになってくるんだよね。

■ ところで、なんの話をしてたんだっけ。

□ 忘れた。まあ、大した話じゃなかったんじゃない。

■ 予定では『JLG/自画像』と『孤高』を、自画像と肖像画ということで対比させて語るという風に、美しくまとまるはずだったんだけど。

□ 別に原稿料もらってるわけでもないし、こんなもんでいいんじゃない。

■ そうだね。

 

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