カザフスタンの新人、セルゲイ・ドヴォルツェヴォイの第3作『ハイウェイ』は、荒野のハイウェイをバスで旅する大道芸人一家を描く、アンチ・ロードムーヴィー・ドキュメンタリーの傑作だ。
中央アジアとモスクワを結ぶハイウェイ。ハイウェイといっても、あたりに広がるのは短い枯れ草が生い茂るだけのむき出しの荒野で、しかもキャメラは、その広がりをパノラミック撮影で強調して見せたりなど一切しない。そればかりか、タイトルとなっているハイウェイすら画面にはほとんど現れることなく、ひたすら軽蔑的に背景に追いやられてしまっているのだ。これだけでも、この映画が、内容から期待されるような、ロードムーヴィー風のドキュメンタリーとは別のものであることがわかるだろう。
たしかに、ここには、エンジンをかけることさえままならない古ぼけたバスで、そのハイウェイを移動しながら芸をして回っている大道芸人の一家が描かれてはいる。けれども、バスが走る場面は、ほとんどすべてバスの内部から撮られ、しかもカーテンがいつもおろされているため外を流れる風景はほとんど画面には映し出されない。ただ、冒頭近くで、画面の奥を遠ざかってゆくバスの姿を、まるで他人事のようにロングで捉えたフィックス・ショットが、わずかに一度使われているぐらいだ。しかも、この場面も、遠ざかってゆくバスよりも、バスが画面奥に消えた後で、故意か偶然か、画面手前を横切る一匹の蛇の姿の方に、眼が引きつけられてしまう。子供たちが茂みの中で捕まえた鷹は、紐で縛られてるとはいえ、微動だにしない。そして、この映画自体、移動感はまるでなく、むしろ停滞する時間ばかりが強調されてゆく。
それでは、これは禁欲的な映画なのだろうか。それはまるで違う。キャメラが映し出すものは、大道芸人の家族が芸を演じる姿、子供たちが余った時間に戯れ合う姿、なかなかかからないバスのエンジン(車の前部についている穴に、取っ手をはめて回しながらエンジンをかける、非常に旧式のエンジン)を辛抱強くかける姿、要するに取るに足りない出来事に過ぎない。けれども、そこには、パフォーマンスの時に演奏される太鼓の音、見えないほど遠くを走っているらしい列車の音、ハイウェイを行き来する車の音、バスのエンジンを回す音、ヒューッと切るような風の音、鳥たちの鳴き声、などなどの、豊かな音が画面を満たしていて、見ていていっこうに飽きることがない。
この監督については、何の知識も持ち合わせていない。『少年、機関車に乗る』のフドイナザーロフと同じカザフスタンの監督ということで、何とはなしに期待をして見たのだが、その期待は裏切られなかった。これからも、要注意の監督のひとりである。
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