映画の誘惑

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『ファザー、サン』
Otets I Syn
Father and Son

2003年/ロシア=ドイツ=フランス=イタリア=オランダ /35/カラー/86分

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

出演:アンドレイ・シチェティーニン、アレクセイ・ネイミシェフ、アレクサンドル・ラズバシ

『ファザー、サン』★★

レビュー

チラシにはソクーロフの最高傑作と書いてある。客の入りがそれほど見込めないミニシアター系の作品の宣伝には、最新作のたびに「最高傑作」という文句が使われるので、今更こういう文句を信じていたわけではないが、少しだまされた気がする(ちなみに、マルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』も、「最新作にして、最高傑作」だそうです)。

簡単にいうと、別れを眼前にした父と子の情景が描かれているだけなのだが、冒頭とラストの、子と父が風景のなかにひとり立ちつくす相似的な夢の光景ではさまれた一時間半あまりのあいだ、前後関係からかろうじて区別できるものの、その実、朝日とも夕日ともいいがたい薄明のなかで、これもまた一言ではいいがたい関係を生きている父と子の姿が、曖昧きわまりないかたちで描かれてゆく。その舞台となる街も、路面電車の走る市街やドームのある屋根はリスボンで撮影され、それ以外はサンクト・ペテルブルクで撮影されたという多国籍的というか、無国籍的な様相を呈しており、それがソクーロフ特有のゆがんだイメージのなかで、夢幻的に立ち現れる。

風景のなかに立ちつくす、あるいは横臥するというアクション、というかアクションの不在を軸に組み立てられたシーンはいつもの通りだが、冒頭の裸で絡み合うふたりのクロースアップに始まり、屋根の上でのサッカー、あるいは隣家の窓に立てかけられた板の上でのふざけ合いなど、ときにエロティックであったり、遊技的であったり、死と隣り合わせの危険に満ちていたりする肉体の絡み合いが、この映画の各シーンを形作る核となっている。息子アレクセイと彼の恋人とが初めて対面する場面の、少しだけ隙間があいたガラス窓をはさんで互いの顔を素早くカッティングするモンタージュなどは、ソクーロフの映画であまり見かけない編集ではないか。肩車のイメージも、ソクーロフでは初めて見るような気がする。

冒頭とラストで、父と子は同じ夢を見るのだが、それはふたりの結びつきの強さを感じさせると同時に、孤独な魂を魂を浮かび上がらせもする(「そこにぼくはいたかい?」)。映画は、突然の雪景色のなか、屋根の上に一人立ちつくす父親のイメージで終わることになる。

ソクーロフの映画を難解だという人が結構いる。わたしにはこれがわからない。どうやったらそんなふうに思えるのか。この映画など、特にわかりやすい編集をしている作品だと思うのだが、それでも難しいと感じる人がいるようだ。わたしにいわせれば、ソクーロフというのは映画史上まれに見るほど愚直というか、愚鈍な映画作家である。要は、その愚鈍さをどう評価するか、それだけが問題なのだ。

残念ながら、わたしには、その愚鈍さが文字通りただの愚鈍さに思える場合が少なくない。『精神の声』などが特にそんな作品である。Planet studyo plus one で上映したときに見たので、ただで見れたのだが、結局、最後まで通して見れなかった(「見れなかった」と書くたびに ATOK が「ら抜き言葉」と警告するが、かまわずこう書く。わたしにとっては「ら抜き」のほうが自然だ)。そういえば、浅田彰もどこかで、「なにが〈精神の声〉だ」ときって捨てるようにこの映画を評していた(たしか『映画の世紀末』だったか)。

しかし、その愚鈍さが、ただの愚鈍さを超えたかたちで迫ってくることがごくたまにないわけではない。だから、今でもこうしてソクーロフを見続けているわけなのだ。ソクーロフというのはその程度の監督だと思うのだが、世に少なからずいるソクーロフ・ファンはそうではないらしい。本気でソクーロフに感動しているらしいのだ。困るのは、ほかのことでは割と映画の趣味が合う人間のなかに、ソクーロフを評価する人間がまわりに結構いることだ。ただ、わたしとしては、本気なのかおまえら、と彼らに問いただしてみたくなる。蓮實重彦がソクーロフを評価しているので、それに乗っかっているだけという奴も多いのではないか。

青山真治があるときソクーロフについてこう書いている。

彼の新作『精神の声』を見て、あるいは聞いて、まず震えが来るのはその第一話においてである。38分間、延々とひとつの画面、広い氷原の大ロングが映され、そこにソクーロフ自身のナレーションが被さるのだが、それだけでもぶっとびなのに、そこに何分目か定かでないが突如オーヴァーラップでカモメの群れが飛び交い、かと思うと今度は遙か彼方の林の片隅で小さな焚き火が燃え上がる。……お前、アホか。それ以外の言葉が出るとは考え難い。

(青山真治『われ映画を発見せり』

青山真治はあくまでソクーロフを評価する文脈のなかでこう書いているのだが、「お前、アホか。それ以外の言葉が出るとは考え難い」というのが、ソクーロフを見たときの正常な感覚だと思う。彼の映画を評価するしないにかかわらず、これが出発点になるはずである。「お前、アホか」と感じることなくソクーロフを評価するソクーロフ信者のいうことをわたしは一切信じない。 そういう人にこそ、「お前、アホか」といいたくなる。

ファザー、サン

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