映画の誘惑

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『うまくいってる?』
Comment ca va

──eメール、フィルム、タイプライター
2003年/アメリカ/シネスコ/カラー/138分

監督・脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル、ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ウィリアム・リュプシャンスキー 
出演:ミシェル・マロ、アンヌ=マリー・ミエヴィル

うまくいってる?

 眼か手かどちらかを失わなければならないとしたら、わたしは眼を失うでしょう、とさえゴダールはいう。

「文具はわれわれが思考するさいにともに作業している。」
ニーチェ

レビュー

eメール

eメールというのはどうしてこうも貧しいのだろうか。

eメールというものの存在によって、ふだん文章を書かない人が突然書き始めたせいというのもたしかにあるだろう。しかし、ちゃんとした文章を書こうと思えば書ける人が、いざ eメールを書くとなると、まるで別人のようにだらしない文章を書いてしまうことも珍しくないことを考えると、eメールという環境自体がこの貧しさを生み出しているのではないだろうか。貧しさというのは、なにも文章のうまい下手をいっているのではない。ネット上の掲示板にもいえることだが、eメールの書き手には、(不特定多数の)他人がその文章を読むのだという意識が希薄な気がするのだ。その一方で、自分はコミュニケーションをしているのだという幻想がどんどんふくらんでゆく。他人などどこにもいず、自分相手の独り言をいっているのにすぎないのに。一方には恐ろしい貧しさ。他方には自意識の肥大。この二つが組合わさって、下降螺旋を描きながら、深みへとはまってゆく。怖い──。

おっと、つまらない eメール論をやっている場合ではなかった。ネット関係のことはとりあえず「eメールの達人」村上龍に任せておこう(ちなみに、「引きこもりというディスコミュニケーションにコミュニケーションの可能性を探る小説」と乱暴に要約することもできる『共生虫』はネット小説の傑作)。

さて、こんなときゴダールがすごいと思うのは、かれが eメールをまったく知らないことだ。噂によると、「eメールってなんだ? そんなものでほんとに手紙が来るのか?」などととぼけたことをいっているらしい。カンヌでの『愛の世紀』の記者会見のさいにも、インターネットをどう思いますかとたずねるジャーナリストに、「インターネットはやっていないのでその質問には答えられない」とけんもほろろだった。とはいえ、われわれ凡人にはゴダールのまねはできない。eメールは手放せないし、インターネットもつづけてゆくことだろう。このメルマガも、メールマガジンであるからには eメールなわけだ。油断していると気の抜けた文章にもなりかねない。気を引き締めてやっていこう。

コミュニケーション

ゴダールはどこかで、「コミュニケーションの道具は豊かになったのに、コミュニケーション自体はどんどん貧しくなっている」といった意味のことをいっている。わたしは、携帯電話で熱心に話している人を街で見かけるたびに、この言葉を思い出す。みんないったいなにを話しているのだろうか(たしかに、大事なのは、《なに》を話しているのかよりも、《だれ》と話しているのかということだろう。しかし問題は、その《だれ》かがだれなのかということだ)。その言葉は、ゴダールがたしかなにかの対談のなかで発言したものだったと思うが、先日、『うまくいってる?』を見に行ったときに、同じ意味のセリフがあったので、「おや、そうだっけ」と、ちょっと意外に思った。この映画は前にも見ていたのだが──。それはともかく、『うまくいってる?』は、まさしくコミュニケーションについての、情報についての映画だ。それはこの映画の原題 Comment ca va が、英語の How are you? にあたる挨拶の言葉であることからもわかる。だが、奇妙なことに、ここには本来あるべきはずの疑問符が欠けている。つまり問題は、「うまくいっている」(Ca va)のか「うまくいっていない」(Ca ne va pas)のか、どちらかを問うことではなく、「どのように」(Comment)それがうまくいっているのかを問うことなのだ。

左翼系の新聞社の編集者が、社内の労働をヴィデオに撮影した画面を、その製作に関わっている女タイピストと一緒にチェックしている。男は、うまくいっているのかうまくいっていないのかを問題にし、一方、女は、それが「どのように」うまくいっているのかを執拗に問う。ふたりのやりとりがかみ合わないのはそのためだ。ここでその女タイピストを演じているのが、実は、『ヒア・アンド・ゼア』以降ゴダールと公私ともに長いパートナーを組むことになるアンヌ=マリー・ミエヴィルである(なぜか彼女は後ろ姿で撮られていたり、顔に深い影が差していたりして、画面ではミエヴィルだと判別しがたいのだが)。このふたりの関係については、いろいろな本でで書かれているし、とりあえずは今回のパンフレットに蓮實重彦が教育的な意図で書いている解説を参照してほしい。

タイプライター

eメールなど知らないというゴダールだが、その一方で、かれは12個ものタイプライターをもつタイプライター・マニアである。先ほどふれたカンヌの記者会見で、ゴダールは、タイプライターのおかげで書くことに興味を覚え、思考を確定することができたと語っている。ならばキーボードを使う eメールも同じなのではないかと思うのだが、違うのだろうか。同じ会見のなかでゴダールは、「タイプライターは盲目の人のために発明された」というニーチェの言葉を引用し、だからタイプライターは映画人にとってまさに必要なアイテムなのだと結論する。実際、ニーチェは、晩年、病にかかって視力をなかば失ってしまったとき、タイプライターを購入している。遺作となった『権力への意志』はタイプ原稿だったそうだ。それにしても、盲人のための道具とすぐれて視覚的な芸術とを結びつけようとするゴダールの思考は奇妙ではないだろうか。

ここで直ちに思い出されるのは、『JLG/JLG』で、盲目の女性編集助手が『ゴダールの決別』を編集する場面だ。女編集助手は、コマを見ることなく次々とフィルムを切ってゆく・・・。まったく人を食った(と同時に、限りなく美しい)場面である。あたかも、映画は視覚芸術ではなく、手の芸術であるとでもいうかのようだ。眼か手かどちらかを失わなければならないとしたら、わたしは眼を失うでしょう、とさえゴダールはいう。『うまくいってる?』で、女タイピスト(ミエヴィル)は、男の撮ったヴィデオ映像を見て、タイプライターの撮り方がなっていないと批判する。そして彼女は自らタイプを打ってみせながら、そのさいの手の動きを映像がとらえていないという。ここでも問題になっているのは、盲人のための道具、手の機械としてのタイプライターである。とりもなおさず、ゴダールが撮るタイプライターは刺激的だ。『映画史』を見たものならば、おびただしい映像の連なりにバックグランド・ミュージックを与える、タイプライターのあのカタカタいう音を忘れることはできないだろう。たしかに、タイプライターはすぐれて映画的な機械だ。それにくらべれば、パソコンのキーボードには映画的な魅力が乏しいといわざるを得ない。

《家族》の映画

忘れてはならないのは、この映画が父から子への手紙という構成を取っていることだ(息子が本の印刷工であるというのも、見逃してはならない)。この映画は、ゴダールの世界にはついぞなかった《家族》というテーマを描いているのである。実は、この作品のひとつ前に撮られた『パート2』(日本未公開)にすでに《家族》のテーマは現れていた。そしてこのゴダールの「変貌」は、新たなパートナーとなったミエヴィルの存在と無縁ではないだろう。もっとも、ゴダールの描く《家族》は、吉田喜重の映画とはまた別の意味で、「血縁関係」をかたくなに拒んでいるのだが・・・。[ちなみに、わたしのホームページの映画日記のコーナーの写真は、実は、『うまくいってる?』で、息子がカフェで手紙を書いている場面だ。だれもいないと思うが、これに気づいていた人がいたとしたら、その人は偉い。]

モニター

『うまくいっている?』の前に撮られた『パート2』から、ゴダールのいわゆるヴィデオ時代が始まる。『パート2』同様に『うまくいってる?』でも、画面にモニターが映し出され、そこに文字列が並んでゆく。モニターはもちろん、これ以前のゴダール作品ではおなじみの黒板や字幕の延長線上にある。とはいえ、ウイルスが浸食するように画面上の文字が置き換えられてゆく感覚は、黒板に字が書かれたり字幕が挿入されるのとは、やはりまったく別のものだといっていい。すべては置き換え可能だというこの感覚を、松浦寿輝はゴダールの「条件法」と呼んでいるが、言い得て妙だ。

写真

映画だけがモンタージュを知っている──。これは『映画史』のなかで繰り返し表明されるテーゼだが、この点ではゴダールは『うまくいってる?』のころとなにも変わってない。ポルトガルのポルト市における反政府デモの写真《と》フランスのブルターニュ地方での工場ストライキの写真が、ここではモンタージュされる。この接続詞の《と》の重要性については前にも書いたと思うので、繰り返すのはよそう。べつに驚きはしないが、今度のイラク戦争のテレビ報道を見れば、ジャーナリズムがゴダールからなにも学んでいないのがわかる。わたしは、今度の戦争をめぐっての日本の報道は、相対的にバランスのとれたものだったと思う。けれども、筑紫哲也や久米宏がいくらまともなことをいおうと、映像に対する感性が度し難いほど鈍感なのだからしょうがない。どのみち、かれらが『うまくいっている?』を見たところで、筑紫哲也はせいぜいわかったふりをし、久米宏はシニカルなコメントをいってその場をやり過ごして終わるだけだろう。それじゃ木村太郎は? ──木村太郎は安藤優子が呼ばないと出てこないから、ま、いいか・・・。

          ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

オチで終わってしまった。毎回終わり方が難しい。

ちなみに、今回のタイトルは、いうまでもなくフリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』のパクリ。

 

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