映画の誘惑

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『アガタ』
Agatha
──プルーストの111号室
1981年/フランス/35mm/カラー/86分

監督・脚本:マルグリット・デュラス 撮影:ドミニク・ルリゴルール、ジャン=ポール・ムリス 音楽:ブラームス
出演:ビュル・オジェ、ヤン・アンドレア 声:マルグリット・デュラス、ヤン・アンドレア

アガタ

幸福についての映画とデュラスはいうが、そこに映し出されるのは、世界の終わりのような光景だ。

レビュー

人気のない海辺の別荘で、男と女がひさしぶりに再会する。女は明日にも遠くへ出発しようとしている。そのことを男はときになじるように問いつめるのだが、ふたりはどこかでこの別れを絶対に必要としているようでもある。あたかも、愛を不可能なものにすることで、それが永遠のものとなるかのように。ふたりはいつ果てるともしれぬ対話を続ける。だが、映画が始まったときには、もうすべては終わってしまっており、ふたりはなにもかも話し合ったあとのようでもある。

たしかに、語り合う声は絶えず聞こえている。しかし、画面に映っているふたりの男女は、互いに視線を合わせようとしないし、それどころか唇さえ動かしていない(女を演じているのはビュル・オジェだが、聞こえてくる《彼女》の声は、実は、マルグリット・デュラスの声である)。やすみなく聞こえる波の音。サロンのガラス窓越しには砂浜が見え、ときには海がアップになりさえする。けれどもその波音はけっしてその海のイメージと重なろうとしない。ふたりの語る言葉のなかにしばしば現れる海の記憶も、目前の海の光景からずれたままだ。

アガタとはその女性の名前であり、またヴィラ・アガタと呼ばれるその別荘の名前でもある(そしてまたこの名は、はっきりとは口にされないがせりふのなかでほのめかされるように、ムジルの『特性のない男』の登場人物の名前でもある)。男と女はかれらの語る言葉から察するに、どうやら兄と妹らしい。そしてふたりは、兄弟の愛を超えた愛で結ばれているようなのだが、実際のところふたりのあいだになにがあったのかは、会話のなかで暗示されるだけである。声はこの別荘でふたりが過ごした幼少期の記憶を呼びさます。しかし、語り合う声のなかに現れるヴィラ・アガタは、この別荘とはまったく別の場所であるかのようだ。それは時間の中で別の場所を占めているだけでなく、空間的にも別の場所にあるかのようだ・・・。ふたりはあるピクニックの思い出を語る。それはヴィラ・アガタから遠くない場所に遠出したときのことだ。ロワール河に向かう途中でふたりは、うち捨てられたホテルのような屋敷を見つける。わたしにはその屋敷とヴィラ・アガタが、いまや曖昧にひとつになってしまって、ときに見分けがつかない。その屋敷はまた、『インディア・ソング』で使われたあの廃墟となったロス・チャイルド邸を思い出させずにはいない。あの映画で鳴っていたのはカルロス・ダレッシオの忘れがたい音楽だったが、ここで聞こえてくるのはブラームスのワルツである。アガタが練習しようとしないのを母親が嘆いたピアノ。幼年時代の記憶につながるピアノ曲。このピアノ曲はいったいどの場所と結ばれているのか。キャメラは、だれもいないサロン、人影の見えない砂浜を延々と映し出す。そこにいるふたりも、なにか植物のような希薄な存在感を漂わせているだけだ。

──世界の終わり?

そんな陳腐な言葉をつい口にしたくなる。「私は『インディア・ソング』も世界の終末についての映画だと思う。」そうデュラスは語っていたのだった。そしてこの言葉は彼女のすべての作品について当てはまるような気がする。

プルーストの111号室

デュラスの作品世界に少しでも親しんだことがある人には、こうした場所の一つひとつの持つ重要性はあらためて説明する必要はあるまい。ヒロシマ、ヌヴェール、カルカッタ、メルボルン、S・タラ・・・。デュラスの作品において、これらの名は、たんに場所を指示する以上の魔術的な喚起力をともなって現れる。映画『アガタ』に描かれるその別荘ヴィラ・アガタは、実際には、デュラスが、パリのサン=ジェルマン=デ=プレのアパルトマン、ノーフル=ル=シャトーの家の次に手に入れた三番目の家にあたる。ノルマンディー地方の英仏海峡に面した町トゥルーヴィルのロシュ・ノワールにある高級分譲マンションの一室にデュラスは住んでいたのだ。その建物はもともと豪華ホテルとして建てられたものであった。ホテル時代にはゾラやモネが愛用したことでも知られる。とりわけプルーストが、ここの海に面した111号室を指定して宿泊したことは有名だ(『失われた時を求めて』の舞台のひとつバルベックのモデルとされる町カブールは、ここからそう遠くない)。デュラスはその111号室をなんとか手に入れたいと思っていた。しかし、それはかなわなかったらしい。ともあれ、仏領インドシナ生まれのデュラスが描く世界は、初めのうち太平洋に向いていたのだが、おそらくこのロシュ・ノワールの家を手に入れた頃から、それが大西洋へと向かい始める(『太平洋の防波堤』から『大西洋の男』へ)。だが、大西洋に向いた場所が、太平洋沿岸で過ごした幼年時代の記憶へと直結するということもあり得るのが、デュラス作品における地理の不可思議さなのだ。『アガタ』のなかで「見いだされる時」には太平洋のかおりがする。

観客について

この映画のなかでアガタの兄役を演じている俳優ヤン・アンドレアと晩年のデュラスとの関係を描いた映画、『デュラス/愛の最終章』がミニシアターでヒットしているらしい。わたしは芸術家の伝記映画というやつがどうにも苦手だ。まだ見ていないからなんともいえないが、『デュラス/愛の最終章』は、ジャン=ジャック・アノーの『愛人』が原作とは無関係な映画だったように、おそらくデュラスとはなんの関係もない映画ではないかと、わたしはにらんでいる。たしかに、ヤン・アンドレアがデュラスの晩年において決定的に重要な人物であったことは、デュラス本人の発言や様々な証言によって明らかだ。『デュラス/愛の最終章』も資料的にみれば多少は価値のある映画にはなっているのかもしれない。しかし、『アガタ』をデュラス=アンドレアの関係のプリズムを通して見るというのは、実につまらない見方だろう。そもそもデュラスは、柳美里のような私生活を垂れ流している作家とは無縁の存在なのだから。

『デュラス/愛の最終章』の公開にあわせて『アガタ』を封切るというのは、興行的には正しいやり方に違いない。いや、こういう単独では公開の難しい映画を上映するには、こういう姑息な手段しかないかもしれない。『デュラス/愛の最終章』を見て感動した恋愛=芸術映画好きが間違って『アガタ』も見に行くという計算だ。しかしそれで動く観客は結局一時的なものにすぎない。実際には、『デュラス/愛の最終章』の観客と『アガタ』の観客が重なることはほとんどないだろう。『デュラス/愛の最終章』を見に行った観客が『アガタ』を見に行って、結局デュラスが嫌いになって終わるというのがオチではないだろうか。(いやいや、まさかとは思うが、ひょっとしたら傑作かもしれない。見てない映画については語らないというのが原則なのだから、『デュラス/愛の最終章』の話はよそう)。

「わたしは、こういう観客はほっとけばいいと思う。変わらなくてはいけないなら、自分で変わるわ。皆と同じように。突然に、あるいは緩慢に。街で拾ったひとつのフレーズから。ひとつの愛から。ひとつの出会いから。でも自分自身でね。たったひとりで孤独にその変化に立ち向かうことからね。」

わたしには、こう語るデュラスのように突き放して考えることはできないが、観客はもっと孤独にならなければならないというのには同感だ。同時に、そういう「変化」が起きるのはほとんど奇跡に近いことも、長年の経験から知っている。小さい頃からテレビや流行雑誌で、「これがおもしろい映画」だと無意識のうちに教え込まれつづけてきた映画以外の映画に目覚めるには、よほどのなにかが必要だろう。

わたしがやっているホームページやメルマガによって、映画界になにか劇的な変化が起きるなどということはあり得ないだろう。しかしそれでも、緩慢な変化ぐらいなら引き起こせるのではないかと、そう願いつつやっているのだが、はたしてどうだろうか。

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