『マルコヴィッチの穴』の脚本家チャーリー・カウフマンがカウフマン自身を描く「カウフマンの穴」は、いったいどこに通じているのか。
『アダプテーション』は、『マルコヴィッチの穴』の監督スパイク・ジョーンズと脚本家チャーリー・カウフマンがふたたびコンビを組んで作り上げた新作だ。この映画では、カウフマンが『マルコヴィッチの穴』の成功の後で、スーザン・オーリアンの『蘭に魅せられた男』という本を映画用に脚色し始めるのだが、アイデアに行き詰まって書けなくなる様が描かれる。とくに一貫した物語があるわけではなく、カウフマンが脚色に四苦八苦しているときにふける性的妄想や、かれのアルター・エゴといってもいい双子の弟のコミカルなエピソード、『蘭に魅せられた男』の映像化された(しかしだれによって?)イメージなどが、「adaptation = 脚色・適応」という言葉によって緩やかに結びつけられながら、脈絡なく並べられていく。メリル・ストリーブ演じるスーザン・オーリアンが出てくる場面がはたして回想なのか、それともカウフマンの頭のなかで描かれている映画なのか、そんなことはすぐにどうでもよくなる。
いわば、「マルコヴィッチの穴」ならぬ「カウフマンの穴」とでもいったもののなかに観客は入り込まされるといってもいい。「マルコヴィッチの穴」に入ったマルコヴィッチの前に、無数のマルコヴィッチが現れたように、ここでもカウフマンがふたり出てくるのは当然だ。この映画はカウフマンがカウフマンのなかに入り込むことで作られてゆく映画なのだから。アダプテーションという言葉をきっかけに、人類の起源にまでイメージが飛翔し、なかなか動かなかった物語も、最後にはピストルが出てきて、派手なカーチェイスまであったりし、アクション映画並みに動き始めるのだが、それでも狭い穴からのぞき込んでいるような閉塞感がいつまでもつきまとうのはそのためだ。
脚本家というのは一般の観客にはほとんど省みられることがない。この映画はその脚本家を主人公にした映画で、『アンリエットの巴里祭』(52)から『パリで一緒に』(63)を経て『バートン・フィンク』(91)にいたる脚本家映画の系譜に連なる作品だといえる。脚本家が書きつつある物語が当の映画と干渉し合うというのは、『アンリエットの巴里祭』でも『パリで一緒に』(先日亡くなったジョージ・アクセルロッドの脚本)でもあったわけで、なにもこの映画は進化の過程で現れた突然変異というわけではないのだが、ここまで脚本家の自意識の肥大を中心に据えた映画はなかったかもしれない。
「アダプテーション」という言葉の意味が「脚色」であれ「適応」であれ、いずれにせよこの言葉には、自己が他なるものに出会ったときに起こる、あるいは起きねばならない変化のことを指していると、抽象的に言いかえることができよう。その意味では、『マルコヴィッチの穴』もアダプテーションの映画だったわけだ。7 1/2階の低い天井に押しつぶされるようなフロアのそのまた奧にある小さな穴、「マルコヴィッチの穴」という狭苦しい穴は、それでも未知の世界へとつながっているという息苦しい楽しさだけは感じさせてくれたのだったが、「カウフマンの穴」がどこに通じているかは、正直いって見えてこなかった。
この映画で実際にカウフマンを演じているのはニコラス・ケイジである。だからこれは純然たるフィクションであるのだが、ちらりと姿を見せるジョン・マルコヴィッチはもちろん本人だし、原作者スーザン・オーリアンも、その著書に出てくる蘭盗人ジョン・ラロッシュも、別の俳優が演じているとはいえ、実在の人物だ。虚実取り混ぜてさまざまな人物が登場するこの映画だが、奇妙なことに、ここには映画監督の姿が見えない。ここにスパイク・ジョーンズという監督が良くも悪くも象徴されている気がする。
カウフマンの極私的な脚本をスパイク・ジョーンズは映像化しているだけに見えるし、このへんがやはりMTV出身の監督だなと思うのだが、一方で、こういう脚本を嬉々として取りあげるところがかれの作家性だと言えなくもない。しかし、カウフマンと組まなかったら、ジョーンズはどんな映画を撮るのだろうか。この映画で何度か描かれる交通事故の場面を見れば、ジョーンズのアクションの演出はなかなかのものだ。ひょっとしたらこの人はふつうのアクション映画を撮った方が面白いのではと思ってみたりもする。だが、残念ながらというべきか、次の新作もジョーンズはカウフマンとのコンビで行くらしい。ただし、今度はホラーだというから、いったいどんな映画になるのか。不安な気もするが、ちょっと見てみたい気もする。
『アダプテーションDTSエディション』 |