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夏 の 章

     序

ゴールデン・ウィークも明けぬれば、暦の上にも夏立ちて、薫風、木々の葉をゆらし、そそぐ陽のひかりを散らかす景こそあはれなれ。街にも目安きものどもあまたゆきかよひてよきころほひなり。そぞろ神のしばしばとりつく気配は夏祭りの季節なればにや。

   風にさそはれて  第一
 さはやかなる風に誘はれて野方なる私邸を出でてそぞろに歩く。住みなれし町の家いへのうつろふを見つつ、環七を越え、20分ばかり、中野駅に着きぬ。南に下る道は、かつて故父のやまひをいやしてうせにし病院に続く道なれば、あはれにもの思ほゆ。孝を尽くしぬとはえ言はね、人なみにこそとは思へど、晩年のさま覚ゆれば、さらに、とぞ思えて心やすからず。さりながら、してこしことどもを悔ゆるもせんかたなければ、かくありてこそよかめれと自らに言ひきかす。心苦しければすぐに曲がりて裏道を紅葉山公園下の交差点にむかひてゆき、わたればやがて堀越学園にぞつく。休みなれば人影もなく、そのまま過ぎて宝仙寺に至りぬ。父のありしころ、えにしある人を野辺におくらむと例のことどもをおこなひし寺なれば、また思ひ出だすことあり。多くの先学を送りけり。無常とはかく思ふをぞ言ふめる。
 宝仙寺からはすぐに中野坂上の交差点なれど、中学生のころとはおもかげかはりて、いと広く、高楼そびえ浦嶋のごとき心地なり。されど路地に入れば、かはらぬ中野の町なみ、おもしろし。ここからは新宿も近く、中野駅より30分ばかり来し所なり。西新宿の高楼を目指してあゆみ、やがて都庁の前につきぬ。人影まばらなるは休みゆゑにや。NSビルの前では、鯉の品評会などあり。二尺は越える見事なる錦鯉、目やすきことにて、心やすし。
 かくて新宿まで家を出でて1時間歩きしつ。これほどの時間、飲むに時過ぎて終電果てても帰れる道のりなれど……  (5,11,2003)

   日がな一日 第二
 つれづれならねども日一日『セーラームーン』を読みて暮らしぬ。このところ「セーラームーン論」の更新、怠りがちなるは、データー整理をしてはべりき。かくもの書くときに、筆の進まぬことあるときの心構へは「テキストに帰れ」ぞかし。されば『セーラームーン』をはじめより、まづはタキシード仮面の場面に付箋貼りつつ読み、つぎはちびうさの場面とネームに付箋貼りつつよみ、すでに立てたる論旨との距離をたしかめつつ、あらためて考察せむ。  (5,17,2003)

   松緑翁の芝居話 第三
 松緑翁がりゆきて今月の芝居の話をきけば。
 團菊祭には、成田屋に勢ひのなきこそ心やすからざれ。「かっぽれ」にて音羽屋と踊るは心うきたつさまにてよけれど、暫なむ荒事なれば、威勢あらざれば体をなさぬほどに、声のかすれたる、いと疲れたるにや、さは仕方なけれど、台詞つらねたるに緩急のなきは、思ふところあるやうには見えず。いとくちをしきことなり。暫は、新たしき山崎屋の、父大橘に似たる、なつかしうおぼゆ。さりながら大山崎、先代河原崎権十郎丈の面影がいまだに残れば、新山崎屋には違和感なむある。とはいへど、正之助はもとより気にかけし役者なればねびゆかむさまゆかしくおぼゆ。総体、暫は腹出しの亀蔵こそ心にとまりぬ。初日ごろにありときく大福帳の一件はなかりけり。成田屋の不調のゆゑにや?
 髪結新三は、音羽屋よろし。高島屋も初日のころは台詞なぞるばかりときけど、今日ごろはたっぷり芝居して心たのし。松緑はよかめれど、違和感残りぬ。台詞が新歌舞伎めきてきこゆるにや。松緑は『お国と五平』(谷崎潤一郎)また『源氏物語』(瀬戸内寂聴)などによき舞台あれば、所謂古典歌舞伎にはあはぬめり。成田屋はここでも威勢なく心配なり。
 かっぽれはとかくいふまでもなし。されどこれこそ幕見も人のあふるるばかりにて今月一番人気となむ聞く。俳優祭のごとし。
となむ。   (5.18,2003)

   旅に出むとて  第四
 上代文学会なむ北海道にて開催するとあれば、旅に出むとて、まへの夜は遅くまで仕事したり。帰りて明れば授業、直にあればなり。さはいへど、ひごろ、おそくまでHPの更新のみならず、授業準備にPPの作成などすれば、睡眠時間もいたう削らるれば、かかる旅行の時こそ、日ごろよりおほく寝るることおほし。さればしかと仕事し果てて旅だたむ。   (5.24,2003)

   旅に出たれば 第五
 北海道てふ土地は、あたかも異国のやうなればと人のかたらふによりて、期待に充ちて旅たちて、羽田より新千歳に飛ぶ。やがて着陸となれば、窓より地上も見ゆれば、ドイツかベルギーの景色にてやあらむかしと見れば、ただ日本の荒野にておもしろくもあらず。まして札幌につきて行き来する者の語るも東京と変わりなければ、旅情なくてわろし。もっとおしゃまんべなコトバ語れこそと、われながら呆れるばかりの思ひを抱きにけり(^^)。
 札幌に至れば、まずはラーメン食はむとて、ホテルに荷をほどきて南に歩けば、赤レンガの古風な建物あり。前庭には花一時に咲きてかかやくばかりなり。見学は後にまはして、大通り公園より狸小路にむけて歩けば初代一国堂なる店のありければためしつ。よろし。
 戻りて赤レンガの建物の道庁の古きを見学して、上代文学会の会場の北海道大学に行く。北海道大学はその広さ、湘南キャンパスの三倍にもあらむかし、いと広し。ともに行きたる國學院にて学びし兄弟子なる御方々語らく、かく広きところにしあらばよく物書けむかしと言ふ。なかなか、渋谷にしあらば、こまごまと気はつけれど雄大なるものは書けずともあらむとこそ思へれ。
 文学会の常にて、初日の企画果つれば懇親はからむとてあまたの上代文学研究者、神集ひに集ひて、八俣をろちのごと、さずきに酒を飲み、また喰らふ。ジャガイモ、刺身、寿司などありて新鮮にて旨く、酒も国稀てふ地酒、余市ワイン、サッポロ生など準備してあれば、満ち足りにケリ。うちあげて駅前にて2次会、線路を越えて三次会をしをへて、ホテルに戻りて午前1時前なれば、6時間はやすいできぬ。
 明けて朝より研究発表会にしあれば、一日会場にて過ごし、果てて後、先学諸兄とサッポロビール園にてジンギスカン食ひ放題、飲み放題。椙山の若君とをかしくゆかしく語らひたり。宴果てて、すすきのでラーメンを食し、時計台など見つつ、ホテルに戻ればまだその日のうちにて、いとあはれなる思ひこそすれ。
 最終日は小樽に行きて東京に戻りぬ。いと充ちたるる3日をすごしにけり。機会あらばまたくはしく語るべし。   (5.26,2003)

   夜のうらぎり 第六
 小樽の北に、海にのぞみて、寿司・ビールにてもてなすところあり。地ビールとてさまざま用意あるなかに、その銘柄の名こそおもしろかれ。「小樽のしのびあい」「愛のしのびあい」はてには「夜のうらぎり」…。こたびはえ飲まざれば、帰りてネット検索すれば、通販あり。まして、寿司も全国に出前するとこそ。5〜6日はかかあるとのことなれど、いかやうなる寿司や届くらむ。一度ためさむや。   (5.31,2003)

   夜の音 第七
 六月ともなれば、夜には窓を開け放ちて、ひとり夜の音などなむ楽しみもする。都心なれば、ゴォといふ小さな響きの通奏低音めきたるが明るき闇より駅のアナウンスなどの声を乗せて、ときをり電車の走る音なども聞こゆ。まだ暑くもならぬ風、窓ぎはにゐるこれみつの顔を撫で行くこそ心地よけれ。しばし夜の音を楽しみつつ、Mahlar のSymphonie Nr.1のCDを鳴らせば、Violinのハーモニクスにフルートの鳥の囀りが乗りて奏でらる、夜の音を森におとなして、いとあはれなる心地ぞする。しばし都心とOrchestraとの交響を楽しみて、日々なすべきことに戻りぬ。   (6.7,2003)

   ゼミ歌 第八
 さいつころ、秋風とともに旅を期(ちぎ)りし家の子どもと酒たうべたり。かたらひあふ中に、ゼミソングの話となりぬ。トロ研といへば、「なごり雪」に「待つわ」、三条の宮のところには「ベルサイユの薔薇」。何ぞ六條院にはふさはしかると問へば、「ムーンライト伝説」となむ。さもあらむかし。さりながら家持卿の作詞信時潔の作曲になる「海ゆかば」、またさだまさしの「まほろば」こそふさはしけれ………ダメ? セーラームーン、秋より実写版でTV放映となむ聞こゆる。東映の製作なれば、スーパー戦隊シリーズのやうにやあらむ? 秋セメの現代教養科目は「セーラームーン」を講ずとこそあれば、よきタイミングなり。   (6,11,2003)

   やまひざうし 第九
 おとつひ、さるところの用なれば研究室にていろいろと荷をほどき送るなどして、兄者や手伝ひの者どもと酒たうぶ。ひごろはBEERばかりなれど、このときは焼酎などキで飲めば、日ごろの疲れにやいささか酔ひたる。されど、某会合の後など、ゑひて帰りてそのまま勝手にて臥すこともあれど、このときは帰りて意識も残れば、さるべきことなどして寝つ。明けぬればやがて出勤すれど、宿酔めきてからだ重し。偏頭痛も激しかりき。さりながらこれも常のことよと思ひて、夕さりてBEERなど得れば痛みも引きぬべしと飲めども治まらず、美味にもあらざれば、いささか不安になりてけふは、真夜中のドライブもあれば、休肝日とぞしつる。かくのごと、期りし日にかぎりて、街中を歩めば、BEERの看板こそ目につきぬれ。暑き一日ぞかし。   (6,19,2003)

   この道の大先達なる翁の  第十
 この道の大先達なる翁の、ゆかしく思ふことにつきておほせ語らるるを聞きにけり。老いたれば、なんどとおほせらるれど、なかなかなる身にさぶらへば、さすがにぞ思ひ申したり。声のふるへかたにもいにしへの由あるやうにぞ聞きはべる。レジュメも手書きにコピーを無造作に張りたまへば、なつかしく思ゆ。
 おほせしことどもは強きことでもなく、普通のことなれど、普通のことを証してゆく一言一句に、諸家の説きしことが折りこまれるさまは、奥深さと広がりが感ぜられ、気品あるお話となりぬ。最後には今後の問題を自らに課題とするは、傘寿にもある学者のやうにも思ほえず、若々しく、気品漂ひぬ。学者は、かくのごと、あらまほし。   (6,21,2003)

   渋谷物語(1)  第十一
 むかしをとこありけり。渋谷の学舎に食客たり。師の女弟子に懸想してあれば、兄弟子なむおもしろがりて、女弟子を連れて馴染みの店に飲みに行きけるに、をとこ家にあるを電話にて「今彼女なむ唄ひをる。来」などと云ひて呼び出しつ。をとこ自宅にて独り酒呑みてあるを、兄弟子の召しにあれば、急ぎ電車に乗り継ぎて、その待つ店に行きつ。兄弟子、をとこの来るを見て「よろし。いざ帰るべし」とて、皆を率て店を出づ。をとこ、
  渋谷川 こひの通ひ路 はるばると まだ顔も見ず 兄の追いたて
この店、しばらく残れど、やがて失すとなむ。   (6,23,2003)

   夏のシンフォニィ 第十二
 街に出でてCD屋なむとふ。盛夏なればふさわしき音楽きかまほしく、これかそれかくさぐさ迷へれど、ちかごろマーラーにゆかしくおぼゆれば三番の交響曲の廉価にてあるを探せども、をかしきCDなし。一つにはコバケン指揮日フィルの板あれど、いささか高価にしあれば、他を求めむとて見るに、ラトル、インバルなどあれど、心ひかれず。ふと思ひたちて指揮者別の棚の朝比奈隆のコーナーに行けば、マーラーの三番しかとあり。価格も手頃なり。
 さりながら朝比奈はブルックナーこそよけれ、曲質の異なるマーラーは如何。マーラーなれば朝比奈より山田一雄ぞかし。さはいへど、山田のマラ三なぞなかりける。とあれば山田の指揮ぶりを次ぐはコバケンなり。かくて高価なれどアバドほどにはなきコバケンのを求めつ。
 今、一楽章を懸けながら書きはべれど、よき演奏なり。さすが炎のコバケンにあれば、テンションの高さ、惟光の授業なんどよりはるかにまされり。さりながらコバケンのうなりもよく録音されてあれば、インストゥルメンタルの一楽章がド演歌になりておもしろし。よきCD求めたり。
 久しぶりにコバケンのライブにいかまほしく思ゆ。

 指揮者は、小林研一郎、朝比奈隆。古人にあればストコフスキー、トスカニーニ。フルトヴェングラーは好まず。オーマンディ、セルもよろし。今の人はあまり知らず。
 オーケストラは、フィラデルフィア。ヘルシンキフィルもよけれどシベリウスに限りたり。都響もよし、東海大学管弦楽団もあり。
 中学、高校のころは月に一、二度は東京文化会館にゆきて日フィル、東フィル、新星日響、東響、読響、新日フィルと数々のコンサート聴きにけり。外来もオーマンディ指揮フィラデルフィア、マゼール指揮クリーブランド、スイトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレなどあまた見にゆきたり。なかでも忘れがたきは小林研一郎指揮日フィルのチャイコフスキーの5番なり。4楽章の凄さはいまでも耳の奥底から沸き起こる思ひぞ。そのときのからだのふるえすら思ひおこして身振るるぞかし。
 ちかごろコンサートにもゆかずありけり…。今宵は能楽にゆけど、来週は歌舞伎にゆけど、やはりオーケストラのコンサートぞ命の蘇る思ひぞする。若杉/都響のマーラーなど聴きたし。6日の会議さへ無からば東海大学管弦楽団のコンサートに行くなれど……。   (7,3,2003)

   しばや話(2) 第十三
木挽町の小屋に澤瀉屋の夏芝居かかりて「四谷怪談忠臣蔵」なんどいふを見せれば行きてけり。唖然呆然メチャお楽しみにて、空飛ぶ、花火散る、雪降る、水がながる(本水の立ち回り)。あるはまた、民谷伊右衛門、小林平八郎となりて浪士とたたかひ、定九郎、女装して新田義貞の遺児を追ひ………さて、何の芝居やらむ(^^)。
序幕は2時間の長丁場にて、発端は段四郎の新田義貞の霊、高師直に憑きて足利に祟りなすとなむ。転じて松の間となり、鮒侍の件りとなりぬ。顔世の件りなく、若狭も出でざりければ、判官の憤りと忍耐の様子わかり難し。原作の技巧鮮やかに浮かぶ。さりながら、ここにさはりを示しつつ客は原作を脳中になぞらへおぎなひて見ればよきことなれば、テクストの意味生成の論理に思ひ至りぬ。すなはち是れ舞台上の所作は、客の脳中に潜在する物語を再現するための必要最小限の刺激として記号化されてあり。この図式はこの狂言すべてにわたりてあり。刃傷におよびて師直上手ならず花道に逃げたり。いつもとは上下逆にあればまたおもしろし。舞台まはりて評定となる。すでに萬屋の大星、座につきてあり。歌六の大星は本行で見まほしく思ゆ。九大夫めく役には民谷伊右衛門、段治郎。これも本行こそよけれ。儀式めきたる評定を過ぎ、舞台まはりて直助の金蔵破りを見せ、一年後となりて、四谷怪談の話となりぬ。
見たまま書くはつらし。総じて序幕は紙芝居のごとくすぎ、お岩の件りも添へものめきて見ゆ。松緑爺のいはく、
「この狂言にてよきは二幕目の三角屋敷の場こそ。猿之助もかつてに劣らず芝居をして、久方ぶりに元気ある澤瀉屋を見つ。忠臣蔵の六段目のごとく見えつるは原作の趣向やらん、この狂言の趣向やらん。この場のよきは「お袖」(笑也)にて二人の男の間にありて貞操を守りつつ直助をうけいれての心情がなんともいひがたき心の綾を見せてあり。こは直助(猿之助)ありてこそなれど、会えぬ夫への情を守らむとする意思に反する肉体の満足ゆゑの、身替りの決意と見たは僻目か(見てなき者にては何のことかわかりかねつらむ。ゆるさせたまへ)。これも本行でみまほしくおぼゆ。」とこそ。
けふは東海大の現役、OB、武蔵大の学部生、國學院の学部生&教員、駒沢大の先生(西郷信綱の弟子!)という混成メンバーにて面白かりけり。   (7,13,2003)

   比較文学? 第十四
 三条の一路大人、映画見におはして、ターミネーター3なむ見たまふなる。いかがと問へば、ひたすらものの壊るるばかりなりとなむ。曰く「シュワちゃんは両津勘吉なり」とぞ。爆笑。   (7,19,2003)

   おどるポケモンひみつ基地 第十五
 夏ともあればポケモン銀幕に飛び跳ぬるとて、映画観にゆきたり。今年も長編と短編との番組にて、七夕の願いをこめたる長編はさほどのことなく……なけれどなけたれど……こたびは短編秀逸也。とりたてて筋ある話にはあらず。例のごとくニャースとピカチュウ一座のドタバタなれど、この話は「ダンシングマシーン」とて、スイッチを入るれば音楽なりだして皆踊りだす趣向なり。秘密基地に侵入したピカチュウ一行を留守番せしロケット団のニャースが出さむとするだけの話なれど、出さむとする中でしばしばスイッチが入り、皆踊りだすといふそれだけの芝居にて、いと面白う笑いたり。こは、いにしへのドリフターズなどのコントでありうさうなる趣向なるぞ。   (7,21,2003)

   無常にはあらざること  第十六
 ゆく河の流れは淀まぬほどこそよけれ。たぎつばかりに流るるは悪し。まして流れにいきほひつくることなどあらざるべきことぞかし。さりながら今の世、など流れを速めたりつる。あたかも淀むことを恐るるがごとし。
 たとへば小田急線のダイヤ、JRのダイヤ、四季をりをりに動かして乗るものの心を惑はし、果てには乗客の行き帰りの習慣をも変えしむる。パソコンのハードもソフトもしかり。去年とやいはむ、三月ばかり前の型なむいたう古びて役にたたざるは買ふ気すら起きざる。家電もまた同じ。使ひ古せど愛着もあれば、故障ありても直してこそ使はまほしかれ、修理を頼めば部品なきとあれば、さびしく別れをなしぬ。
 列車のダイヤなど百年とはいはじ、五十年と動かさざらば、子、孫の世に至るまで、その時に行けばいつもの電車来るとて心安くあらむかし。継続是力也といへるは人の身のみにあらず、世のありやうも変はらず続けてなむよき力も生まれ、よろしき世を生み出すべし。とくに法また教育などこそうかつにいじるべきにあらざれ。
 幼きときの教への長じて通ぜざるは教育の無効とぞ覚ゆ。国家百年之計てふ言葉もうしなはれたり。   (7,26,2003)

   芝居話(3)  第十七
 つてありて、サンシャイン劇場、2003サマースペシャルミュージカル「美少女戦士セーラームーン―流星伝説―」観に行きぬ。ミュージカル版を観るは三度目なり。ふりにし年の春、「トランシルバニアの森〈改訂版〉」を観、あたかも野田秀樹の芝居のやうなれば、ゆかしく思ふところに、縁ある人、再び案内たまひ、この春に「無限学園〜ミストレス・ラビリンス〜〈改訂版〉」も観つ。こは、マンガの筋を舞台にのせて、いささかの工夫あるのみにしあれば、さはおもしろからず。
 さてこたびの作は、「流星」とあれば心ある人気付きはべるめれど、スターライツの出る物語也。しかるにクインベリル及クンツァイト以下ダークキングダム四天王も出るは、第一作最終作とを綯交ぜたる趣向にて面白し。さはあれど、いささかまとまりをちつかざれば、改訂こそよかめれ。就中終結部は原作の光と陰の問題を織り込みながら、セーラーギャラクシアの性格がこなれざる上に、ダークキングダムの件をからむるゆゑに、筋分かれて、焦点が定まらず、盛り上がらずに終はるるやうに観つ。
 三度観れば、この芝居の仕組み加減ぞ見ゆる。主役セーラームーン(こたびは黒木マリナ、黒木真由美の女とぞある)は1988年の生まれ。マーキュリー、マーズ、みな80年代の生まれの女優にして、技芸もそれなりにてあれば、悪役にキャリアある役者をそろえ、歌と踊りを並べ、間に原作(マンガやアニメ)のキーワードをちりばめ、筋を作り出すばかりなり。良し悪しにあらず。興行なれば、役者にあはせた芝居作りは当然也。まして主役は「無限学園」の際に交代したれば、原作の筋を歌で追うばかりも尤もにや。「トランシルバニア」は神戸みゆきの最終ステージなれば、藝も熟してをかしき舞台になったと思ゆ。さればにや、黒木マリナも回を重ねて藝もこなれてきつべし。第2部、セーラーギャラクシア(坂口祐未衣)を前に戦ふ決意をあらはす場の目つきなんど、主役はるだけのことはあり。
 この芝居、観て印象に残るは、悪役の存在感なるや。藝を年輪に重ぬることははばかられど、キャリアの差はいかんともしがたき一面をそなふるべし。この舞台も、セーラー戦士と悪役とは、モーニング娘VSピンクレディのごとき位相あり。セーラーギャラクシアの歌唱、セーラーレッドクロウ(遠藤あど=本舞台の振り付けも担当)の踊りなどとくに耳を目をひくものにてありき。
 演出面はとりたてていふことなけれど、宙乗り三回は心得難し。最初のクインベリルは踊りのアクセントにしても、セーラームーンのは意図読めざる。セーラーギャラクシアの舞台中央より飛び去るのみ良し。重ねて用ゆるに効果半減せり。   (8,1,2003)

   似非物語  第十八
 男、狩せむとて相模をたちて上野国に往にけり。たたなづく青垣、山籠れるところに至りて宿を求めけり。その宿にいとなまめいたる女はらからゐたりけり。この男、月を見て酒を飲みてあるに、在五の雅を思ひけむにや、女のそびやかなるに歌を送りけり。
 面影をしのぶ一夜のさかづきに 酔ひてかたしく ころもさびしき
またひとりの後を追ひて夜毎遊びけり。この女の家、日にむかひて光たまる家にてぞありける。男おもほえず垣間見すれば、いと若き女の童ありけり。手・首しなやかにて目大きく髪きりそろへたれどさはと額にかかるをかいやりてうち笑みたり。男心地まどひて、
 このごろや 妹をしのひて よをすごす
と詠みたれば、この女、聞きて、
 妹とは誰ぞ 夜毎猫の目
となむ〔こはまめ男を猫の目に譬へたるぞ〕。さりながら、この女、にくからず思ほしけむ、女の童を男がりやりて仕へ奉らしむ。男、相模に連れかへりて、日だまりの君と呼びてつかひけり。
 かくあるに夏もおはりぬ。秋たちて男、身をえうなきものに思ひなして、西に旅立ちぬ。
 〔こは虚構にて登場人物・団体はみな架空のものにてぞありける〕   (8,7,2003)


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