何もないのなら何もないで良いとは思わないかね?
それはただの人形かも
なんだかんだ言っても、日本のオリンピック放送は良い方だったのかも知れない。現地方面では全て編集済みで、アメリカ人選手の活躍しか流れなかったとか。
フィギュアスケートを延々と見続けるのは面白かったし、カーリングの勝負の行方を見守るのも面白かった。眉毛の太いおっちゃんがアゴゾリで滑っていくのも面白かった。カーリングが途中で切られてアルペンスキーになったときには心底がっかりしたものだが。
スポーツの大会に国がからんでくるのは、いい加減みっともない感じがするな。子どもの喧嘩に親が出るって奴だ。五輪だけが世界大会じゃあるまいし。例えば通常の世界選手権で、判定が怪しいからって国が出てきたりしますかね。第一4年間楽しみにして厳しいトレーニングを積んできた選手が、お国の方で勝手に決められて出場拒否しなきゃならんとなったらその選手の4年間をどうしてくれるんでしょうかね。
もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らなオリンピックごときで普段見てないウィンタースポーツを見てんじゃねえよ、ボケが。オリンピックだよ、オリンピック。なんか国がらみのところもいるし。お前らお国全体でウィンタースポーツか。おめでてーな。場合によっては選手団を引き上げちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
中略
あのな、テロなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、テロで、だ。お前は本当にテロを食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、テロって言いたいだけちゃうんかと。で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、アメリカによるスポーツのテロだ、とか言ってるんです。そこでまたぶち切れですよ。あのな、テロなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、スポーツのテロ、だ。お前は本当にテロだと思っているのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、テロって言いたいだけちゃうんかと。
以下略。既に誰かがやってるような気もするな。こういうの。
この際だからはっきり言わせてもらおう。アルペンスキーの80人近い選手が同じコースを滑り降りるか転げ落ちるかして、怒ってストックを叩きつけて折るのを見るよりも、カーリングの方が256倍面白い。
確かに見て目で言えばアルペンスキーは派手で、カーリングは地味だ。30前後の男や女が、リーダーの叫びを聴きながらものすごい勢いで氷を磨くのだから地味だ。しかしだ。
アルペンスキーは派手ではあるが変化に乏しい。みんな同じコースをたどるからだ。5人ぐらい見たらもう飽きる。一方カーリングはと言うと、大変地味だが刻一刻と変化する状況に応じて両チームの駆け引きを見ることができる。
そこを理解せずに、第3エンドが終わってこれから中盤と言うところでカーリングの放送を途中で切って、長ったらしくて退屈なアルペンスキーを放送してしまう。これが放送局というものだ。これはいけない。CS,BS,デジタル放送と合わせて6チャンネルも持っているような放送局がこんな事をしていてはいけない。
だいたいこのご時世に複数の局が同じ時間帯に同じような番組をやっているのは宜しくない。教育チャンネルが教育番組ばかりやるように、フジテレビはバラエティ番組ばかりやればよいし、テレビ東京はアニメばかりやればよいし、テレビ朝日はニュースステーションばかりやるが良かろう。久米宏は出ずっぱりだ。これが住み分けだ。これが正しい世の中だ。他人のやることは他人に任せておけばよいのだ。
趣旨が意味不明なので終わり。
例えば、A君がB君に言うわけです。「C君ってアレだよな。」
ここで言うC君って言うのは、A君でもB君でもないもう一人の人物で、A君もB君もよく知っており、一方そのC君もA君とB君のことをよく知っている、そんな人物であります。
すっかりアレ呼ばわりされてしまったC君はそんな事とは知らずに、後日B君に言うわけです。「A君ってナニだよね。」
この後にB君がすべき事は、D君にこの事を愚痴るのではなくて、A君とC君に対して「それを俺に言ったって仕様があるまい。」と言ってやることかもしれません。
さて、一般に外部に敵を作ると、内部の団結が強くなります。
ある国では、内閣支持率が4%を下回ってなおいすに座り続けた首相を交代したとたん内閣支持率が80%を越えました。
ある集団は、自分たちの貧しさの原因をある国のせいだとして攻撃を行いました。
また別のある国では大統領選挙の度に、候補者が捕鯨反対を訴えますが、国の基幹産業がもたらす可能性のある公害については触れないでおきます。その国では鯨を捕りませんから。
単純明快にして、あらゆる場面に当てはまる物理法則のような論理であります。
それもさておき。どんなものでも何かしら欠点はあるわけでして、例えば一般的な日本人ならば手前の悪いところはすぐに思い浮かんでも、自分の良いところなどというものはなんだかよくわからん、という事もよくあるような気もする。
そして、その自分の欠点と言う奴を取り出して考えるわけです。この欠点がありながら、かの友人が、まあどの友人でも良いのですが、その友人が嫌な顔もせずに接してくれているのはいったいどういう訳なのだろう、と。
その人にはその欠点と言うものがあまり気にならないのかもしれない。気になっているんだけど、口に出すほどではないのかもしれない。或いは知っていて我慢しているのかもしれない。もしかしたら、その欠点を差し引いてもあまりあるような魅力があるのかもしれない。
実際のところは知った事じゃない。どうでもいいのです。本人に問いつめて確認する必要も無いったらありゃしない。まあ、何らかの仮定があれば良いとしましょう。何となくそんな気分になって、その友人に心の中で感謝すればよろしい。
その後に、他人の欠点やらを持ってきて考えるわけです。いましがた心の底から感謝したあの友人のように、自分は出来ないかと。
例えば、A君にとんでもない欠点があるとしましょう。この時、A君からその欠点を取り除いてはいけないのです。何故ならば、A君にはとんでもない欠点があるというのが前提であり、とんでもない欠点があるからこそのA君であって、とんでもない欠点の無いA君などA君と呼ぶに値しないからです。
A君の正体とは何か。すなわち、A君をA君たらしめているのは他でもないA君の持つ全ての要素であって、A君がA君であるからこそA君はA君でいられるのであります。A君の良い点を取り除いてしまったらA君でなくなってしまうように、A君の悪い点を取り除いてしまったらA君でなくなってしまうのです。
氷の上のダンスであった。飛び跳ねてぐるぐる回りはしない、ただ二人が寄り添って優雅に滑っていた。
問題はそこではない。課題のステップがあるので、それをこなすためにどのカップルも同じような演技に見える。素人目には。
だが、それも問題ではない。得点は二つの評価項目があり、一つはTecnique、もう一つはTiming Expressionである。たいみんぐエクスプレッションとは何か。これすなわち、演技における、音楽との親和性ではあった。
それは問題の核心ではない。しかし問題の一端を担っているとは言えるかも知れない。ブルースの多くは12小節である。I,I,I,I,IV,IV,I,I,V,IV,I,Iときて元に戻るのが通例である。たまに意表をついて10小節や11.5小節などもあるがたいていは12小節である。12小節の繰り返しであるから終わるのも12小節めである。
問題はそこである。というと語弊がある。もし、審査員がアイススケートよりもダンスや音楽に詳しい人間だったならば、彼はおそらく全てのカップルについてTiming Expressionに0.0なる点数を与え、抗議に来た選手を殴り倒して協議会に怒鳴り込み、「お前らは何にも分かっちゃいない。馬鹿野郎どもだ。」と叫びながら警備員に袋叩きにされてつまみ出されるかも知れない。とにかく私には選手も審査員も協議会も気狂いのように見えた。
自分が信じていることは、時に現実のことはないかも知れない。それは限られた小さな空間の中でしか意味を持たない事象だったり、全くの誤認からなる妄想なのかも知れない。今日の今日まで私の中では曲の終わりはダンスの終わりであり、ダンスの終わりは曲の終わりであった。そして、これからもそれは変わらない。何故なら私は最後の12小節の10小節目で踊り手が踊りを止めてしまうのを許さないからだ。
たしか、ライナスが担任の先生に恋するんだ。それで、バレンタインデーに大きなハート形の箱に入ったチョコレートを持っていく。
他のみんなは、めいめいお菓子を交換したりするんだけど、ライナスは先生に渡すために最後まで持っているんだ。学校が終わって、サリーには目もくれずに先生にチョコレートを私にいくんだ。でも先生は車に乗って帰っちゃうんだ。ライナスは追いつけない。他の男の車だったのかも知れないな。
恋に破れたライナスは、小川の橋の上に行って泣くんだ。俺の恋は何だったんだ、とかそんな感じで。そして、箱の中のチョコレートを一個ずつ叫びながら、川の向こうへ投げ捨てるんだ。無駄になってしまったチョコレートをさ。
それで、ライナスの悲しみが詰まったチョコレートの行く先だけれども、川の向こうに妄想ビーグル犬と飛ぶのが苦手な小鳥が控えておりまして、飛んでくるチョコレートを口で捉えてもぐもぐとやっているのであります。なんて落ちだろうね、全く。
ロビー・ロバートソンは相変わらず西条秀樹に似ている。
「アクセスカウンタって有るじゃないですか。」
「うん?」
「あれが、二進法だったら大変ですよね。」
「まあ、そうな。」
「1111の次に、すぐ10000ですからね。」
「いや、そう言うことじゃないだろ?」
節分です。昔、鬼に追いかけられた娘さんが家に逃げ込んで、お母さんに頼むと、お母さんは知恵を働かせて鬼に納豆を投げつけました。鬼は関西出身でしたので納豆が大変苦手で、「うわーん。あんな黒い汁のうどんくえるかー。マックゆうたらアップルじゃー。」と泣き叫んで帰っていきましたとさ。
このように納豆を投げつけて鬼を撃退したことから、日本ではこの季節になると奇声を上げながら納豆を投げつけあう習慣があります。
お腹を壊してしまいました。あの時もっとしっかりと掴んでいれば、こんなことにはならなかったのかも知れません。濡れた手で持っていたのも良くなかった。足場も悪い。部屋の片付けはこまめにしよう。
過ぎたことを悔やんでもしかたないのかも知れません。うう、痛い。痛いよう。