第一章 どうして?           戻る

1.演劇部の顧問

 1997年の夏、学校の図書館で私は手当たり次第に生徒に声をかけていた。欲を言えば男子が良かった。女子は何とか入って来るものだが男子となると、芝居をやりたいという酔狂なやつは滅多にいない。本当は始めたら病みつきになるほど楽しいのに、どうも新入生には印象が悪い。放課後奇声を上げたり腹筋したり走ったりと、おおよそ部活のイメージからはほど遠いのか、どうしても新入生が寄りつかないのだ。


 私は演劇部の顧問をしていた。私自身は中学生の時分から演劇の部活をやっていたせいか、どうもその敷居の高いと生徒の感じる原因がつかめないでいた。新興宗教の勧誘にあったかのごとく「いいです、いいです」と逃げて行く男子生徒。1学年の担任になった私が自分のクラスの生徒にまず吹き込んだのは「部活をやろう、演劇をやろう!」ということだった。おかげで部活に入る生徒は多くなったが、どうも担任が顧問の部活はイヤらしい。もっとも私が野球部の顧問だったら、あるいは少なからず部員は確保できたろうに、やはり演劇ではダメなのか?大学生には人気の芝居が、高校1年生にウケない理由は何かあるのだろうか。カラオケが日常でライブの時にはノリノリで熱狂し、あのステージに立てたらいいな!そんな風に思っている高校生なんてごまんといるだろうに、なーんで演劇だけ差別されてしまうのだろう。役になりきって、くさいセリフ吐いて変な衣装着て、恐らくそんなところだろう。本当は誰にだって変身願望はあるはずだと思うのだが.....。いずれにしても私はやる気満々なのだが、部員を獲得しなければ舞台にならない。


 私の経験から、一度演劇部に入ったら、他の部よりも辞める部員の数は決して多くはない。OB・OGもよく後輩の面倒を見に来てくれる。とってもアットホームな、またそうならざるを得ない部活動なのだ。部室でのバーチャルお茶の間が舞台を作っていく。舞台への神経の集中が、自分の内面をさらけ出してのぶつかり合いが、お互いを分かり合う力になっていく。自分が体験してきた楽しさを忘れられなくて、教員になった今も少年のままの自分でいられる場所が演劇部だった。


 部活を立ち上げて間もないころだった私は、自分のクラスの生徒を勧誘するのを諦め、別な勧誘方法を模索していた。友達と一緒じゃないと入れない。これが近頃の生徒の常套句である。有望な人材を友達もろともゲットできる!そのターゲットに選んだのが図書館であった。新入生が校内で溜まる場所は他には見あたらない。


 生物が専門の私は1年生の必修である化学は自分のクラスしか持てなかったので、なかなか宣伝する場所が見あたらなかったのだ。図書館なら相手は座っているので、ゆっくり話しを聞いてもらえる。何せ、卒業生が抜けたあと、部員は1人しかいないのだ。顧問が腕組みして待っているだけでは部は消えてなくなる運命だろう。


 今日も部員勧誘に精を出す、その中に彼女らがいた。
   「君たち、演劇やってみないかい?」
   「えー.....。」  いつものリアクションだ。
ひとしきり話した後、「もし興味があったら、僕を訪ねてきてくれないか?」空振りは慣れている。


 そんな彼女らが僕を訪ねてきたのは翌日くらいだっただろうか。「掛け持ちで良ければ」「裏方としてなら」そんな条件を付けてきたが、入れてしまえばこっちのもんだ。あとは舞台の魔力が何とかしてくれる。何だかんだで、男子2名女子3名が入ってきた。まあ上出来だ。最初の舞台は10月。ブロックの大会と文化祭とが、連続してやってくる。
 

                                 戻る


2.高等義務教育学校−高校を続けること−

 17歳は子供ではない。しかし大人でもない。禅問答みたいだが、大人らしい振る舞いと判断を求められ、その期待になんとか応えていけたりいけなかったり、個人差も大きい年頃。就業もでき、本来高校は義務教育でないのだから別に来ることを強制されているわけでもないのに、高校に入れなかったら人生がそこで終わってしまうような錯覚を生徒も保護者も持っているのだと思う。多くの生徒が「ほかに行くところがなかったから」「友達が行くから何となく一緒に」「親が行けと言うから仕方なく」というというのが、随分と多いのが実状である。
 
 −−− 学校に特色を持たせて魅力あるものにする。 −−−
 
それが理想で、中学生が「どうしてもこの高校が良くて受検(受験ではない)したのです」、という学校を作りたくて、がんばっている先生方も多いのだけれど、中学生と高校側の理想はなかなか噛み合わない。私が勤務していた学校はどうだったろうか。身内びいきを差し引いても、理想に燃えて独自色を出せていたと私は思っている。
 
 ・いじめを許さない学校
 ・挨拶や規律を守ることを指導する学校
 ・進路を熱心に指導する学校
 
 どこもそうだと言われるかもしれないが、事実、以前いじめられていた子や不登校傾向にあった子がなじんで自信を取り戻すことは多かったと記憶している。きちんと挨拶できて、茶髪やピアスや化粧をした子がいないのは就職斡旋で評価が高かった。卒業してプータローになる率も低かったはずである。身に付いたことは将来絶対役に立つのだから。
 
                   これは良かった点。
 
逆に、教員が熱心に指導しすぎるために生徒の自主性は育たなかった。すべての行動に教師が提示するのを待ついわゆる「指示待ち」がとても目立った。卒業してすぐに生徒は自立出来るわけではない。道を探してさまよったり、もがき苦しむことへのチャレンジ精神や苦しさへの耐性をつけてあげるのが本来の学校の役割なのだろうと思う。とかく生徒たちは自分で考えることを億劫がった。もっとも、「自分で考える」というのは人間の能力の大きなファクターだから、能力差は歴然としているし、それが苦手な生徒が多く入学してきているのは分かり切っているのだから、私たちは嘆いていてはいけないと思った。そこで、何とかしようと考えるのだが、少しおせっかいが過ぎたかもしれない。すべて解答を覚えさせようとするあまり、むしろ「指示待ち」を助長してしまった。何とか卒業する前に形にしてあげたいという気持ちと、高校3年間で促成栽培はできないということをいつも心に留めて、その生徒の出来る限りを応援してあげればよいのだと思う。教員の達成感に一喜一憂するより、生徒の将来にどれだけ残るかが一番大事なのだと思う。これが反省点である。
 
                    次回更新に続く。