2024年

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今回の「tuzi now」は2021年(令3)5月の出来事です

2月17日(土)

「皆既月食〜2021」

皆既月食の5月26日は水曜日で、太極拳の練習日だった。
どうしても観たくて、練習抜け出しては夜空を見上げる。
今晩は晴れて月食日和。
赤銅色の隠れた月は美しい。幻想的でもある。
次回は12年後。




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今回の「tuzi now」は2023年(令5)3月の出来事です

2月18日(日)

「ファイナル〜2023」

私は「限定」とか「ファイナル」という言葉に弱い。
「鉄道開業150年記念ファイナルJR東日本パス」という切符が発売された。
この「ファイナル」に反応してしまったのだ。
3日間乗り降り自由のフリー切符で、新幹線の座席指定を4回まで取れる。
決してお安くはないが、ネットから限定なので、つい購入をクリックしてしまった。
これまた「ネット限定」というところにも脅迫感漂っていた。
3月2日〜3月12までの連続する3日間となると、私には3月5日〜3月7日しか空きがない。
東日本フリー区間には静岡近くで富士山を見るとか、福井に行って国宝の城を見るとかも可能である。
新幹線を乗り継いで行けば日帰りだって可能かもしれない。
そしてこのフリー切符を最大限に活用できるのではないかとも思う。
でも、極力宿泊を避けて日帰りで3日間通いたい。
なので、東京駅に朝9時着の指定を3日間分予約することに決めた。

今回の目的は、その1、皇居の城門全11を制覇すること。
その2、忠犬ハチ公の剥製と、明治天皇の愛馬、金華山号の剥製を実際に見ること。
その3、香港の味、腸粉を食べること。
というわけで、遠出は難しい。
もっと時間があれば、念願の葛飾柴又帝釈天、寅さんを訪ねたいところだが、今回も見送るしかなさそうだ。
1日目は皇居めぐり。2日目は横浜中華街で腸粉。3日目は剥製メインの博物館めぐり、と決めた。
もちろん、それぞれの詳細は下調べして計画済みである。


1日目・3月5日(日)
「東京マラソンと電池切れ」
東京駅に朝9時到着。
「さあて、江戸城の城門制覇すっぞ!」
気合は十分、東京駅北口をを出た。


なんだなんだ?この青ジャンパーの群集は?は?東京マラソン?知らなかったよ・・・
皇居周辺は警備も厳しく、進入禁止のポールが張り巡らされていて、道を渡りたくても渡れない。
近くを散歩中のご夫婦も道を渡りたいらしい。
みんなで渡れば怖くない精神で、私たちはポールを跨いで渡りだした。
当初の計画通り、@和田倉橋を渡ってA桔梗門へ晴天のもと軽快に歩き出した。
B坂下門でのこと。カメラの電池が切れた。相変わらずスマホを持っていない私。
確か、和田倉門近くに休憩所があったような・・・?
とりあえずC皇居正門に向かう。警備の人に電池切れを訴える。
「近くで手に入りませんかね?」なんなら譲ってもらえないだろうか、くらいに思って聞いてみた。
「駅まで戻らないとありませんね」とにべもない返事。
せっかく全城門制覇しようと意気込んでいたのに、カメラに収められないのでは仕方ない。
今日は日曜日、明日は月曜日・・・ということは美術館めぐりはできない。
よし!日程変更して、今日美術館めぐりをしよう。急遽予定を入れ替えることに。

さっそく東京駅に戻って、上野に移動。
まずは科学博物館へ直行。目指すは忠犬ハチ公の剥製。
それは丹念に見ていかないと見落としてしまうような、ごくごく普通に他の剥製たちにまぎれて展示されていた。
「思いのほか大きくない」
目を引いたのは首輪だった。ハチ公号の首輪はシックでかっこよく、時代を感じさせるクラシカルな渋みがあった。
もちろん他の展示物も網羅して楽しんできた。
お土産を買おうと思って、ミュージアムショップに立ち寄ったところ、ハチの生誕100周年グッズが。
知らなかった・・・私って持ってるかも・・・
次に向かうはエゴン・シーレ展。これは上野に着いたら旗がやたらあったので、観ていこうと。
東京都美術館は混雑していた。そして予約制でチケット販売はなかったのだ。
諦めて、今度は東京芸大美術館に向かった。こちらはなんと受験日のため休館。ガッカリ。
次の目的地新宿に移動する前に、上野やぶそばを食したい。
うっわー、お昼時でもあって長蛇の列。並んでまでも、そば食べなくてもね。
上野駅に向かってる途中、ワゴンセールでプーマのジャケット衝動買い。
私、プーマに目がないんです・・・。
新宿ビックカメラでようやく電池を調達。
新宿に来た目的は花園神社の骨董市である。目当ては手巻き腕時計。
私は滅多に腕時計をしない。出かける時は大抵懐中時計(手巻き式)を持ち歩いている。
手巻き式の腕時計を持っていないわけではないが、母から譲り受けた高級時計なので普段使うにはもったいない。
だから骨董市にありはしないかと、立ち寄った一件目にはめぼしいものはなく、二件目で見つけたものの
結構なお値段。そりゃ、手巻き式となればプレミアムが。それにしても高い。
諦めかけた3件目でもそれらしきものがケースに入って置かれていた。
「これは手巻き式ですか?」
そうだ、という。値段を聞いたところ、1,000円だと言うではないか。
「動くけど、時間が合うかどうか分からないよ」
動くならとダメもとで購入。後日、ちゃんと動くし、時間も合うことが分かった。
新宿から信濃町絵画館へ移動。
銀杏並木の奥の絵画館建物自体は知っていたが、中を見学したことはなかった。
教科書に載ってる、大政奉還の絵など多数所蔵。実際は巨大絵画ということが今回の見学で知った。
でも、私が見たいのは絵画ではない。
明治天皇の愛馬、金華山号の剥製である。今日は偶然にも剥製ばかりがお目当てなのだが・・・
金華山号の話しは父から聞いて興味を持っていた。
その金華山号について調べてみると、絵画館に剥製があるとのこと。
このことを知ったのは数年も前のことだが頭に残っていた。
受付で確認したところ、展示されてるとのこと。ひととおり絵画を見て回っていたら、
金華山号が収められた時の絵もあるではないか。明治天皇が馬に跨っていたら、これが金華山号だろうかと思ってみたり。
そして、いよいよ金華山号の本物にご対面。
栗色の小柄な馬。
一度は埋葬されたが明治天皇の希望で掘り起こされて剥製に。骨格も展示されている。
金華山号
宮城県鬼首産
岩手県前沢で買い付けされた。他に数頭がいた。この時の様子が絵画になっている。
明治天皇の愛馬となり数々の逸話を残す。
○明治天皇が見えられると、お辞儀をして跪いた。
○橋の前でピタッと止まって動かないので、調べてみたら木が腐っていて危なかった。
修復後は何事もなかったかのように渡った。
○大砲の大音にも動じることはなかった。などなど・・・
小柄ながらサラブレッドの血統。背高148cm。
金華山号を堪能して池袋に移動。
以前、テレビで話題というか取り上げられていた、本場のディープな中国料理が食べられるフードコートが池袋だった。
そこに行けばもしや私が食べたい本場の腸粉があるのではなかろうか。
そんな期待を持って池袋へ。でも、どこなのかさっぱり分からない。
しばしウロウロして、ふと見上げるとそれらしき看板が。やっぱ、私って持ってるかも。
そのビルが中国物産館になってるみたい。
お目当てのフードコートに行ってみる。3時くらいだったが結構混雑いていた。だけど腸粉はない。
食材や雑貨などみて、下の階に移動。書店と小さなフードコート。
こちらはテレビで紹介されたいので客は常連の中国人だけが数人いるだけ。
小腹がすいたので何か食べようかと見てたら、なんと腸粉をみっけ!やっぱ、持ってるよねー。
迷わず注文。おやつというよりしっかりした一品料理で日本人向けの腸粉だった。
味は・・・美味しいけど・・・香港の腸粉とはまたちょびっと違う。


腸粉が食べられて嬉しい気持ちで本日の最後の目的地、巣鴨に移動。
前々から巣鴨の刺抜き地蔵に来たかったし、商店街で買物もしたかった。
地蔵通商店街はおだんごや大福や私の大好きな柔らか系お菓子に溢れている。
還暦祝いに友人と私の赤パンを購入が目的のひとつ。
Sサイズ、Mサイズ、Lサイズ。
普段ならMサイズかLサイズでしょ。そう心の中で思うものの、デカすぎるでしょ!
Sサイズ、これすら大きいでしょ。でもこれが最小でしょ?
もう迷うことはない。Sサイズ2着ゲット。ひとつは贈り物としてリボンかけてもらう。
還暦祝いに渡したら地蔵マークがカワイイと喜んでくれて、Sサイズは穿けないよ、と語っていた。
もったいなくて穿けないとも語っていた友人だが、後日穿けたの報告があった。
私はパンツの上に赤パン穿いてますからー。
寄り道しているうちに5時も近くになろうとしていた。お線香買ったところで「もうすぐ閉まります」をなんとか滑り込みセーフ。
両脇にお見送りの僧侶が立ち並ぶ中、合掌しながら後にした。
大福とわらび餅を大量購入。一日目を終了、無事ノルマ達成。
明日は月曜日なので、公共施設が休館を考えると、明日は横浜方面へ。


2日目・3月6日(月)
「定番の横浜中華街」
石川町から延平門へ。関帝廟へ直行。お線香あげておみくじ占いを。良いことひとっつもない運勢。


気にせずおかゆを求めてさまよう。
人気店はすでに行列ができている。並んでまでおかゆでもない。
謝甜記でおかゆを食す。美味しかったです。満足♪
お腹も満たされて、お買い物♪
線香3箱と関帝廟であげるような線香の束を購入。玉の指輪、ビーフン、太極拳の教室の皆にお菓子・・・
ふ〜。
書道用品が置いてあった貿易商店が見当たらない。通りにはこれまでなかった新店舗が増えていた。
行きつけの商店がなくなってしまいがっかり。
新店舗、西遊記で腸粉と杏仁で一休み。ここの腸粉は少々硬めでえびも香港風ではないけれど、ソースはいけてた。
杏仁はもちもち感があって申し分なし♪
中華街を出て、思い出の桜木町へ。
何年も前から桜木町を訪れて、お世話になっていた大○ホテルを訪ねてみたかった。
「カネちゃんはどうしてるんだろ」
でも現在も営業してるとはとても思えない。
桜木町駅を降りたら迷うことなく行けるかと思っていたが、完全に迷ってしまった。
ピオシティの中で迷い込んだのがいけなかった。あらぬ出口から出てしまったのが命取りだったようだ。
橋を渡るのは確かだが、果たしてここはどこなんだ?の橋なのだ。
たまらず通りがかりの若い学生さんに声をかけた。
「伊勢崎モールに行きたいんだけど」伊勢崎モールにさえ行ければ迷うことはない。
ところが、その女性スマホのマップで説明しようとしだした。いまどきだな、と思いながら理解できないだろうと諦めた。
次に子犬を抱いたセレブ奥様風に声をかける。
すっごく丁寧に教えてくれたけど、私の場合ざっくりと「あっちの方」と指差してくれたほうが理解しやすい。
素直に教えてもらったように歩いて、あとは感を頼りに歩いたら、やっとのことで伊勢崎モールに出てきた。
ここまで来てしまえば、懐かしの大○ホテルは目前だ。
うん、うん、分かるぞー。果たして・・・高層マンションになってました。
ここから桜木町駅までは目を閉じても行ける。ピオシティにも立ち寄りたかったけど、
歩き疲れてしまい、すぐ電車に乗ってしまった。
浜松町で思いついて途中下車し、増上寺に行く。
浮世絵でも有名な大門が見てみたい。
実際に目で見た大門は素晴らしかった。けれど東京タワーとコラボの本堂はいただけない。
あれが良いのだ、と言われるが、私的にはミスマッチに思える。
時間も遅かったので、宝物殿も徳川墓所も見れなかった。
本堂でお線香とお守り購入して本日タイムアップ。
明日は最終日。いよいよ皇居城門をめぐります。


3日目・3月7日(火)
「城門制覇」
朝9:00東京駅丸の内中央口出発。
今日も晴天。暑くなりそう・・・
1日目と同様、@和田倉橋、城門跡から巡る。ほどなくA桔梗門が見えてくる。
しばし歩いてどっしりしたB坂下門、玉砂利歩いてC皇居正門D桜田門(高麗門、渡櫓門)
ここまではサクサクッと進んで来れて、一区切り。
桜田門を出て堀沿いに進む。警視庁前を通って国会議事堂を前方に見て歩き続ける。
奥にE半蔵門が見えてくる。
しばらく歩くと公園があって、その先から千鳥ヶ淵緑道に入る。
F乾門を過ぎて北の丸公園に入る。科学技術館前を通って日本武道館を目指す。
G田安門の登場に感動した。堂々たる風格が感じられる。
田安門 重要文化財
枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。
江戸城完成当時に遡る現存唯一の建物である。
武道館前に戻って吉田茂像前を通って急な石段を下りてH清水門
清水門 重要文化財
枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。


国立近代美術館をみたかったのだが入れ替えのため休館。なんて日だ!
歩道橋を渡りI北桔梗門。手荷物検査を受け皇居東御苑に入る。
天主台に登ってからJ平川門へ暑くてたまらず上着を脱ぐ。
平川門には高麗門、櫓門、木橋が揃っている。3点が揃ってるのはここが唯一。門までに急坂あり。
しばし東御苑内を散策。
石室(火災の際、大奥の貴重品などを避難させた)
富士見多門櫓から御所を臨む。松の廊下跡を見たところで想像力が働かない。
富士見櫓を見てK大手門。江戸城の正門。
門にいたるまでは大番所、中之門、百人番所、同心番所、そして三の丸尚蔵館とつづく。
尚蔵館には伊藤若冲など収蔵されている、はずだけど新施設への移行準備のため休館。なんて日だ!
仕方ない伊藤若冲のクリアファイル購入で我慢することに。
大手門には高麗門、櫓門。昔は木橋がついていたが現在はコンクリート製になっている。
現在13:00、所要時間4時間
12城門制覇
御徒町に移動し、ジュエリー街をぶらりしながらアメ横まで歩く。
ラム肉串を食べて小腹を満たし、上野天ざる蕎麦を食べる。満腹じゃー。現在2:30
東京国立博物館で大安寺の仏像展とアイヌ展、常設展をみる。
企画展では何度か訪れているんだけど、常設展は初めてかも・・・


国宝の宝庫なはずなのに、そのほとんどは公開してないのね。
16:45退館
さあて、西郷さんに会って帰るとするか。
歩き始めたら上野東照宮を見つけた。行ったことがないので寄ることにした。
家康、吉宗、慶喜が奉神。五重塔も立派、桜が咲いている。
金ピカじゃー
17:00閉門
西郷さんを見上げて、なにかを忘れてることに気がついた。
佐伯祐三展・・・忘れてた・・・国立博物館見てる場合じゃなかった・・・終わってるし・・・(泣)
18:30
上野駅から帰宅の途に。



(おわり)



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)10月の出来事です

2月20日(火)

「飛び初段〜2023」

令和4年(2022年)4月から弓道を始めた。
前々から興味があったので、「ようやく重い腰をあげた」といういつものパターン。
なーんにも知らない状態で、とりあえず始めた。
近くの体育館で、弓道の道具を毎回設置して練習を始める。我町には弓道場がないのだ。
まあ、私としては、「こんなもんなんだろう」と不思議にも思わないくらい何も知らなかった。
会員は私を入れて5,6人てとこ。
指導は5段を持ってる先輩。
この先輩やたら声が大きい女性(私より年下)で、ゴム弓で握り方などから始まった。
週に一度の練習。
何週かゴム弓練習が続いて、いよいよ本弓を持って巻藁練習になった。
右手に‘弓がけ’という道具を使うのだが、会から借りた。‘胸当て’も借りた。弓ももちろん会から8kgを借りた。
みんな借り物です。
6月に入って、弓道協会に入会しないと昇段試験が受けられないとのことで会費を徴収された。
私は今年の試験を受けられそうにないと内心思ったが、とりあえず支払った。
父は出かける私が面白くないのか、弓道する私を完全にバカにしていた。
そんな父が10月に突然逝ってしまって、弓道どころじゃなくなって、もちろん昇段試験は受けられなくなった。
父の初七日の頃、指導してくれてる5段の彼女がお悔やみに来てくれた。
父は工務店をしていたので、作業場には材木が残されている。
結局それ欲しさに来たことが判明。差し上げることは良いのだが、タイミングというものがあるでしょ(怒)
その日のうちにもう一人の先輩(お悔やみなし)とやってきて、材木を漁っていった。
私だったら、お悔やみとは別にお礼を考えるところだが、そんな常識など持ち合わせていないのは明らか。
不要な物、くらいにしか考えていないのだ。私にしては不用であっても遺品ですから(怒)
高々半年の付き合いでも、以前から不信感はあった。正直「やっぱり」という感触だった。
年が明けて練習に戻って、的前で射るようになっても、弓が弱い(8kg)こともあって全然届かない。
9kgに上げても全然届かない。一度も届かないまま1年が過ぎた。
私は体が小さい。よって弓を引くリーチも短い。
理屈からいえば、同じ強さの弓で引いてもリーチの長い人と短い人とでは飛ぶ距離は違って当たり前。
ならば小さい人ほど強い弓を引かねばならない。そうでしょ?
でも、指導の女は強い弓を与えてはくれない。
その指導力にも疑問を持っていた私は業を煮やし、勝手に10kgの弓を使い出した。
それでも届かない。一度も届かない。
弓の強さだけじゃない、フォームやら様々原因はあるのだろうが、10kgでなんとかせねばならない。
指導が的確でないのだ。指導者としての力量にも欠けるのでは。
私はあらゆる本から習得し始めることに。
初めて矢が届いたのは2023年5月のことだった。しかも的中。
だからといって同じ射ができるかといえばそうではなく、また届かなくなる。たまに届いたり、的中したり・・・
2023年の昇段審査が10月にある。
申し込みは6月とのことなのだが、審査を受けるかどうか迷うところだ。
昨年始めて審査を受けた先輩が3人おりまして、初めて審査を受ける人は「無指定」となる。
「無指定」なので、その力量で2級かもしれないし、1級かもしれないし、的に当たればいきなり初段もありえる。
普通1級なんだそうで、昨年受けた先輩3人も1級になった。
私は昨年受けられなかったので、今年初めての審査なので「無指定」で受けることになる。
あらかじめお題2問について筆記の提出がある。そして10月の実技である。
2射中、1射でも的中させれば初段確定。
「狙うしかないでしょせっかく受けるんだから飛び初段狙いですよと公言して憚らない私。
ろくに届きもしないで大風呂敷広げた私。誰も本気で聞く人などいない。
10月の実技に合わせて、9月に入って何度か審査会場となる弓道場に行って練習した。
2023年審査を受けるのは「無指定」の私と、昨年1級保持者の2人が「初段審査」を受ける。
飛べるのは「無指定」だけで、後は順次昇段していくしかないのだ。
だからこそ飛ばねば。
10月の第1週。団体戦の大会があった。メンバーが足らず私が借り出された。
「来週の審査の予行練習と思って」と言われ出場することにしたものの、不安もあった。
不安と言うのは、矢の数である。
私の矢は会からの借り物なのだが、4本しかないのだ。
本番は2本あればよいのだが、大会では4本使うわけだから、1本でも損傷させてしまったらおしまいだ。
損傷させないためには何としても的まで届かせることが必要。
届かず下に落ちて、途中の側溝にぶつかるものなら、折れたり、矢尻、はずが取れたり・・・使い物にならなくなってしまう。
たからせめて的横の土まで届かせたい。
その思いが強かったのか、的中はなかったが、なんとか全射届かせることができた。
精神力の成せる賜物。
ふ〜、矢が無事で一安心。

そして翌週の審査本番。
当日発表の立ち位置は、4人立ちの2番になった。
私以外の3人のベテラン感が半端ない。
1番射は男性、2番が私、3番の女性は座れず立射、4番の女性はかつての国体選手。
4番の女性と少し話したが、指導者を尊敬し、また尊敬に値する指導者に付いていた。
羨まし〜
私の指導者とは天と地だ。
本番をむかえる。緊張感はまるでない。
1射目、1番(男性)が的中させた。
「(飛び初段確定じゃん)」
2番(私)の1射目
「(惜しいっ。次こそは)」
2番(私)の2射目
「あちゃー、外した〜(1級だ。。。)」
もう、ガックリ感充満して、「千と千尋の神隠し」の臭い神のようにモワ〜となって戻った。
1番の1射だけが的中で、3人の女性陣は2射とも外していた。
初段審査を受ける先輩2人と合流して、ダメだったっぷりを報告。
さっさと着替えて審査結果を待つ。
審査受験者の98%は高校生だ。
結果が張り出された。
飛び初段から確認。6名しかいない。
「!」
私たち4人と高校生の的中者2人だった。
「え?的中させられなかったのに飛んだ・・・」
マグレでも奇跡でも運だけでも初段くれるんだったらありがたく。
飛び初段になった私に、指導5段の女が皆の前で言い放った。
「今年の先生方の中に甘い先生がいてね。運も実力のうちね」
人間性が問われる発言。指導した人間を貶めて‘おめでとう’の一言もない。
だからあなたは6段落ち続けてるのよ、と言いたい。言わないけどね
昨年受けた先輩2人も初段審査に合格した。私も並んじゃったよ〜。
来年は3人して2段審査。

2024年2月現在。
2段審査では弓返りが実技で問われるのだそう。
無理!
全然できない〜(泣)
私が入会してからあれよあれよと会員が増えて10人ほどになった。
後輩に抜かれる日々をおくるtuziです。



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)10月の出来事です

2月22日(木)

「一周忌〜2023」

令和4年(2022年)10月突然父が逝ってしまい、人目憚らず泣きました。
平成26年母を亡くしたときは父の悲しみが私の悲しみを超えていただろうことを思うと泣くわけにはいきませんでした。
父も同様に耐えていたのだろうと思うと尚更泣くわけにはいかず、
喪主の父に代わって一切を仕切り、あいさつも喪主に代わって話さねばならず、で悲しむ余裕すらありませんでした。
令和4年父を亡くしたときは私が喪主です。
母も父も悔いなく送れたかと問われれば、むちゃくちゃ後悔、懺悔せねばならないと答えます。
父を送る葬儀は盛大に。
最初で最後の喪主として父にふさわしい葬儀をだしたい。
お通夜の振る舞いも大量に余して、お悔やみ礼状も印刷しすぎたりと無駄も多かったものの、できる限りのことはした。
喪主としてのあいさつ、娘としての勤め・・・
葬儀が済んでも、毎週のお墓参りに集まる親戚や近しい人への振る舞い。
四十九日の法要にはお膳を手配して、手料理も数品作る。引き出物も持たせて一区切り。
静かな日々がかえってきた。
ひとりの日々・・・この先ずっと・・・死ぬ時もひとり・・・
ひとりで両親の供養をしていくのだ。何回忌までできるだろうか・・・

令和5年10月、命日に一周忌法要をした。
親戚と、近所の近しい人だけを呼んで、自宅で法要をいとなんだ。
法要後の供養膳を準備し、自宅でいただいた。
親戚も高齢になってきて、移動するよりも自宅に用意したほうが望ましいし、
私としても父が見守る中で食したほうが供養膳らしいと考えている。
お膳のほかに料理を作ったが、みんなに配ったりしても作りすぎて食べ続ける羽目になったが。
父のお墓参りの日は、前日まで大荒れでも、当日はぽかぽか陽気で晴天になる。
天気の心配いらずなのだ。

令和6年10月は三回忌をむかえる。
何をごちそうしようか、全力を尽くしたい。



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)11月の出来事です

2月23日(金)

「県民文化祭〜2023」

令和4年(2022年)10月突然父が逝ってしまった日は日曜日で、
私は町の文化祭で太極拳教室の練習成果を舞台で披露してきた日だった。

一周忌の命日は月曜日でしたが、前日の日曜日はやはり秋の文化祭だった。
しかし、私は翌日の法要準備の料理や仕込みがあるし、生花も仏前と墓前と準備せねばならず、
おそらく舞台を務めるには無理がある。
私は出場できないが、生徒さんたちで舞台にでてはどうか、もちろんその指導は行います旨を話したのだが
指導者が出ないのでは心もとないので、今年の文化祭のお舞台は見送ることに決まった。
私の私事で生徒さんの発表の場をなくしてしまうのは申し訳ないので、
県民文化祭に立候補した。
選出されるかどうかは、まだ先にならないとわからない。
日程は11月半ばなので、まだ練習時間はある。

町の秋の文化祭には毎年参加をしていた。
田舎町には分不相応なホールがあり、その舞台での発表なのだが、客席はいつもガラガラ
舞台のために何ヶ月も特訓しているのに、悲しくなるくらい客席はガラガラ
やる気を無くし、張り合いのない舞台発表を繰り返している。観客は数えられるくらいガラカラ
でも、今回は県民文化祭。
県民だもの出演も県全体の地域にわたって、しかも2日間の舞台である。
私たちは2日目の出演と決まった。しかも後半である。
観客だって町のとは比べものにならないでしょう。満席とはならないまでもガラガラはないでしょう。
なにせ、初めての県民文化祭出演なので、期待も大きい。
演目は3演目。
太極拳、太極剣、最後は私のソロ演目は楊式刀。
刀の演目は久しぶりなので自分にも特訓を課した。
普段の練習の他にも練習日を設けて、太極拳、太極剣も特訓した。

本番当日
乗り合いをして、会場近くでお昼ごはんを皆で食べてから会場入り。
受付に知り合いの方がおられた。
「どうですか、お客さん入ってますか?」
「少ないんですよ」
意外な言葉にショックを受け恐る恐る観客席のドアを引く。
ガーン
いない、観客がいない。
どういうこと?
県民文化祭なのに、町の文化祭より少ないんじゃ・・・
はるか遠くまでやってきて、この誰もいないに等しい所で舞台をせねばならないのか・・・
私たちの太極拳はこんな所で見せるにはもったいないほどレベルが高いんだぞ。
そう自負しているのに、このガラガラは情けないと言うしかない。
しかし、数人でも観客は観客、渾身の舞台をお見せした。
観た方々からはお褒めの言葉をいただいたが、やはり張り合いのなさは否めない。
来年の町の文化祭時期は父の三回忌に当たるが、日にちが離れていれば出演も可能だ。
もし、ぶつかったとしても、だからって替わりに県民文化祭には出演しないことを心に決めた私でした。



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)11月の出来事です

2月26日(月)

「四国再び〜2023」

令和4年(2022年)10月突然父が逝ってしまった。
ほんの15分目をはなした間のことで、いったい誰が想像できたというのだ?
元気なまま逝ってしまったと勝手に思っている。
平成26年母が逝ってしまった時は四十九日法要、百か日法要、新盆、秋彼岸済ませても、
年内に供養の四国88ヶ所に出かけることができた。
父の供養に再び四国を巡礼する心積もりでいるが、四十九日法要、百か日法要で年を越してしまう。
年内に出かけるのは無理なので、早くても新盆、秋彼岸、一周忌を終えて11月に予定しようと考えた。
母の供養で88ヶ所を巡ったので、父の供養には「別格20ヶ所」を巡る。
このことは母の供養の時から計画していたことでもある。
「別格20ヶ所」は歩ける距離ではないし、ルートが示されている本や資料もほとんど見当たらない。
なので、バスツアーに申し込んだ。11月下旬、私は再び四国に向かった。

1日目・11月25日(土)
「海外より遠い四国」
朝家の前のバス停から高速バス乗り場までバス移動。
高速バスを2回乗り換えて新宿バスタへ。夜行バスで徳島へ。早朝6時、徳島駅着。
家から所要21時間。
どんだけ田舎に住んでんだ?てことです。
21時間あったらヨーロッパ往復できる時間じゃないか!
でも哀しいことに四国どまりなんです(涙)
そりゃ、飛行機でひとっ飛びすれば3時間くらい?
新幹線でピュ−て走れば6時間くらい?
前泊して朝の7時集合に、余裕で現われることができるんでしょうけどね。
経費削減です。

2日目・11月26日(日)
「別格20ヶ寺〜一日目」
「別格20ヶ寺」バスツアー参加者は15名ほどでした。
座席指定の大型観光バスに乗りこんでお参りが始まります。
2席1名で後方にはまだ空いてる席があります。
私は前から2列目を指定されました。ここが地獄の座席になろうとは知る由もなかったのですが・・・

@大山寺、一ヶ寺目から大型観光バスをおりて、タクシーに乗り換える。
くねくね山に向かってタクシーは走る。大型バスでは登れないのだ。
A学童寺には‘脳天不動尊’が奉られています。首から上の病気に御利益とあります。
納経所でお守りを見つけたので即行で買い。
というのも、私、出発の一週間程前、突然歩けないほどのめまいに襲われ、それから不調めまいが続いてるんです。
四国の巡礼をひかえていたので、30年ぶりに病院に行きましたよ。30年前の診察券を持って・・・。
めまいは耳鼻科という情報もありましたが、我町内には耳鼻科がないので、とりあえず内科を受診しました。
訳を話して20日分の薬を出してもらいました。これでなんとかしのぐしかありません。
横になるとめまいが起こりやすいので、夜は薬を飲んで、朝ふらふらしてるので朝も薬飲んで。
そうすれば日中は大丈夫。そんな調子なんです。だから脳天不動尊に守ってもらわねば、ということです。
2ヶ寺お参り後昼食。この昼食会場も山の中である。四方八方山に囲まれています。
昼食メニューは‘シイタケづくし’焼き巨大シイタケ、巨大シイタケの天ぷら。
外の露天でみかんの袋詰めが売っていました。
お接待(差し入れ)しようと「おいくらですか?」と尋ねると「130円」と。
私、耳がおかしくなったんじゃないかと思いました。いやホントに。130円てどういうこと?
袋に小粒だけど1kg以上は入ってますよ。それが130円て。聞き違えでしょ。
思わず「え?」て声がもれてしまいました。
一袋購入して、ツアーの皆さんにお接待して、それでも余ってたのに、さらに道の駅で同じくらいの袋180円で購入して
みかんだらけになってしまいました。結局これが最終日まで食べきることができなかったという・・・。
それにしても安すぎます。値段がイタリア並みじゃん。
昼食後B慈眼寺。ここのお寺さんは山深い上に、本堂まで山ひとつ超えるくらいのなが〜〜〜い上り坂が続きます。
いつ終わるのか知れないほどのなが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い上り坂です。キツイなんてもんじゃなかった。


その先に本堂と‘穴禅定’という空海が修業したという鍾乳洞があります。
身体を曲げながら、泥だらけになりながら狭い岩場を入るので、太ってる人はNG。
希望者だけ入ります。
私は体調を考えてパス。めまい起こしたらアウトだし、みんなに迷惑かけるし。
第一、そんな荒修業したところで何を悟れようか・・・。体調が万全でもパスしてたかも。
パスした御夫婦とおじさん三人と私は本堂を三周祈りながらグルグル周ってました。
早々になが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い坂を下りてバスに戻って、皆を待ってました。
1時間過ぎ・・・2時間過ぎても戻りません。
隣りの席の岐阜のおっちゃんは「詰まったな」と。心の声「(そうかも、遅すぎるもん。)」
大阪のおっちゃんは「こんなもんだろ」と涼しげ。心の声「(待ってるほうの身にもなってくれよ。)」
結局、何事もなく皆はバスに戻ってきました。

3日目・11月27日(月)
「別格20ヶ寺〜二日目」
C鯖大師本坊の大日不動明王がありがたく、超立派である。
父の御本尊・大日如来と母の御本尊・不動明王が合体してるんだもの。
昼食後、D大善寺、高知唯一のお寺。ここは本堂まで石段が100段ほど。キッツーい。
愛媛に入ってE龍光院。宇和島泊。
宇和島は私の好きな町です。ほどよく田舎町で、闘牛はあるし牛鬼もある。宇和島城もある。
四国で住むなら宇和島。


10年前は早朝に宇和島城に登城した。夜に宇和島駅にも行った。駅前に闘牛の像があったが暗くてよく見えなかった。
駅前の商店でお土産を買いたかったが、あまりにも閑散としていたので入店する勇気がでなかった。
そんなわけで今回こそは闘牛像をしかとカメラに収めたい、駅前に歩きだした。
「!」
駅が、駅が、新しくなってる。ビルになってるではないか。
ロータリーの中にあったはずの闘牛像は分離帯に設置されていた。



4日目・11月28日(火)
「別格20ヶ寺〜三日目」
愛媛大洲F出石寺、途中思いがけず車中から大洲城がみれた。10年前にも見たかったが見逃していた城である。
中州の小高い丘に立つ城は思いのほか立派だった。
出石寺へもタクシーに乗り換えて向かう。1時間近く乗っていただろうか。
山みっつ超えてようよう参る(落語・夏の医者)といったような、しかもやっと着いたと思ったら
そこにはさらなる石段が待っていた・・・。本堂まで1kmほどの道のり・・・。
帰りもまた山みっつ超えて下りて、G十夜ヶ橋へ。ここは空海が橋の下に寝たという謂れの橋です。


昼食後H文殊院。御本尊は文殊菩薩と地蔵菩薩。私のためのお寺さんのように思います。
衛門三郎の位牌、八人の子供の位牌があり、鉢の八つの窪みもあります。ということをたった今知りました。
I西山興隆寺、もみじの紅葉がとっても美しいけど・・・それよか九十九折れのなが〜〜〜い階段がツライです・・・。


J生木地蔵、本尊の地蔵菩薩を空海が彫っている時、一夜のうちに彫らねばならないところ、天邪鬼に邪魔されて
片方の耳を彫り残して立ち去ってしまった、ことから耳病に御利益があるといいます。
私のめまいを治して〜
K延命寺を参って、丸亀に宿泊。

5日目・11月29日(水)
「別格20ヶ寺〜四日目」
本日はQ海岸寺から。山門が力士像で、大師堂でお米とお札をいただく。あれ?あの米どこいったかな?
M椿堂、私はお寺さんで出しているネーム入りの線香を買っている。ここは250円とかなりリーズナブル。
聞けばお寺で出してるのではなかったのでスルー。手ぬぐい300円を購入。
よくよく考えてみれば、お線香を買いだったでしょ。手ぬぐい買ってどうしようっていうの・・・。
R香西寺、厄除け弘法大師像発見!これで厄払い完了!
N箸蔵寺、ロープウェイで行く。こんぴら奥の院。神仏一体。ロープウェイ降りてから200段ほどの階段。
神社なのでおみくじを引いた。
「旅行:見送ったほうがよい」ってあるけど。もう来ちゃってますからー残念!(byギター侍)
O萩原寺、ここの階段もハンパなく長く、般若心経の文字数の階段。
本堂の細工が素晴らしく、なぜか天狗が掲げられてます。
L仙龍寺、ここもタクシーで山の上に。本堂までの道のりは、急坂でした(泣)
急坂といっても並みの急坂とはちゃうで。(なぜか関西弁)
立ち止まったら、つま先で立ってないとズリッとしそうな、垂直に近い急坂なんやで。(なぜか関西弁)
本堂は2階。雰囲気が妖艶、不動明王も霊験あらたか。
琴平温泉泊。
将棋の藤井聡太グッズが。大局はなかったが本人が訪れた記念だそう。

6日目・11月30日(木)
「別格20ヶ寺〜最終日」
本日は最終日。P神野寺から。池に向かって大師像があり、大師堂代わりになる。
この時もお寺さんの線香に夢中になってるうちに、皆が大師像に向かっていた。
私はてっきり池に行ったのかと思っていたら、大阪のおっちゃんに呼び止められ合流した。
私はバス車内2列目の席をあてがわれたが、この大阪のおっちゃんは私の斜め前。
そして私の前の席には地獄からの使者ともいうべき男の席だった。仮に‘ねずみ男’と呼ぼう。
大阪のおっちゃんと、ねずみ男は隣り同士だったのだ。
この二人の会話が酷いものだった。
大阪のおっちゃんは声が低いのでまだ許せるが、ねずみ男はこれ見よがしに車内中に声が響く。
会話の内容がまた自慢、いや手前味噌な内容。
ほとんどがお参りしたお寺さんの内事情だったり、住職の私的な内容だったり・・・
「私はこんなに知ってるんですよ」アピールが車内に響く。
私は頭が痛くなり、しまいには吐き気さえもよおした。
私の隣の席の岐阜のおっちゃんも同感で、それはアイコンタクトで以心伝心するくらいの同感ぷり。
岐阜のおっちゃんと私は後方の空いてる席に避難することにした。
後方に移ってすぐ「大変だったね」とねぎらいの言葉が。
後方に移ったのにも関わらず、ねずみ男の声は響きわたっている。
皆、同じことを感じていたのだ。知らぬは当のふたりだけ・・・。
迷惑は車内ばかりではない。納経するときも、感に障るねずみ男の声は響きわたる。
皆が静かに無言の祈りを捧げる時も、誰も知らない言葉を声高に唱え始める。
うるさいっ!
集中できないっつーの!
納経して静かに父を供養し、懺悔したいのに。ねずみ男の声が邪魔をする。
S大瀧寺、満願。ねずみ男の影響か実感に乏しい。

これから京都、東寺にお礼参りへ。
高松から淡路島へ明石大橋。昼食は淡路島で。たまねぎが名産と知る。
蛇口をひねるとオニオンスープをいただいてみた。美味しい♪


京都、東寺
大師堂で納経し、立体曼荼羅の本堂へ。
大日如来が父の10歳頃の顔にそっくりだった。
私は京都に2泊するつもりで宿を予約していた。東寺から近いので、皆さんとはここでお別れ。
「皆さん、どうかお元気で」とあいさつして別れた。
四国遍路満願
合掌

(京都編へつづく)



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)12月の出来事です

2月28日(水)

「念願の比叡、京都編〜2023」

6日目・11月30日(木)
「初めてのゲストハウス」
せっかく京都に出たのだから、京都に2泊、滋賀に2泊。行きたかった城を巡ってから帰ることにする。
今後そうそう関西に来ることもないだろうから、この機会に周りたい。
遍路の皆さんと別れて、東寺近くの予約していたゲストハウスへ。
分かりやすい地図のおかげで迷うことなく到着。
美人の女主人から説明を受ける。鍵が少々面倒ではあるが、大まかに自宅にいる感覚だ。
キッチンにはお茶、コーヒー、紅茶が揃ってるし、食器も使っていいし、冷蔵庫、電子レンジも。
お湯を沸かせば温かい食事が作れる。
食事ができる玄関ホールのテーブルにはお菓子も揃ってる。
寝室は2段ベッドが向かい合わせで2台。今晩は私ひとりだそう。
しっかりした木造のベッドで、カプセルホテルとは大違い。寝心地抜群だった。
ゲストハウスとはなんぞや?
私が感じたのは自宅とカプセルホテルの合体っ(by トムブラウン)
せっかくの京都なのだから、何か美味しいものでも食べに行こう、と外出。
京都駅にも近いので、駅方面に歩きだした。
寒い!
駅で美味しいのないかな・・・?
ウロウロしてたら、お遍路で一緒だった女性とばったり。
しばし、ねずみ男の話題で立ち話。
彼女は何度か遍路のツアーに参加していて、ねずみ男は迷惑男で有名なんだとか。
「そうだったんですね・・・」
「災難だったわよ」
「もっと早くに席を移ればよかった・・・」
「そうよねえ・・・」
駅にはめぼしいものはなく、近くのイオンモールも覗いてみたが、特別惹かれるものはなかった。
帰りがけにコンビニで買って、リビング(玄関の土間)で食べよう。
私が予約したゲストハウスはボロボロの町屋を買い取ってリフォームした私好みの宿。
戻ったら、美人主人から旦那さまに交代になっていた。
コンビニで買い込んだのをレンジで温めて、食べ始める。
「落ちつく〜♪」
四国で買ったみかんを宿の主人におすそ分け。
会話が始まる。
「明日は比叡山に行こうと思ってるんですが」
「坂本からですか?」
「坂本からのほうが早いですか?」
「乗り換えなしで電車一本で行けますからね」
「実は京都側から行こうと思っていたんですよ・・・でも乗換えがないほうがよさそうですね」
こんな会話が出来るのもゲストハウスならではなのかな?
四国では連日、登山並みの歩きに階段の日々だったので、明日に備えて早めに就寝。


7日目・12月1日(金)
「比叡山」
遍路で知り合った岐阜のおっちゃんに「紅葉時期の京都は混雑して時間通りに事が運ばない」と、散々脅されていた。
「比叡山も混んでるぞー、どこに行っても外国人の団体がいるんだ」とも。
計画では京都側から比叡電鉄で行くつもりだったが、昨晩の宿の主人の言うように、滋賀側から行くことに急遽変更。
JR一本で駅に到着。
でも駅から坂本ケーブルの駅に行くまでが長かった。
通りすがりの人に尋ねると「バスがあるよ。おっ、ちょうど20分があるよ」と。
納得して待っていたが、20分が過ぎてもいっこうにバスがやって来ない。
どうしたんだ?と思ってよくよく見たら、始発は9:20だった。
現在8:30なんですけどー(泣)
無駄にまってしまった。
「歩くしかないのか」
私は観念して歩きだした。遠い!しかも登り!結局40分も歩いた(泣)
ケーブルの出発時間にはちょうどいい時間に到着。すぐ乗れた。しかも空いていた。
長さ日本一坂本ケーブル頂上からの眺めは琵琶湖だった。滋賀県だものね。
ケーブルを降りてからも10分くらい歩いてようやく延暦寺到着。
ずっと来てみたかった比叡山延暦寺♪
ウキウキします♪
比叡山をくまなく堪能するつもりで今日の予定はここだけです。
御朱印帳を預けて根本中堂へ。修復中ですが、内部は拝観できます。
根本中堂から文殊堂、大黒堂をみて、鐘楼で突いて大講堂へ。


私的には根本中堂より大講堂に感動を覚えました。
なぜなら、比叡山延暦寺は最澄の天台宗総本山と覚えていたからです。
ところが、ここ比叡山で修業した歴代の高僧の肖像画を眺めていると、ここで辛かっただろう修業を積んで
全国に仏教を広めた高僧のなんと多いことか・・・。
遥かインドから中国から招いた僧、その僧から学んだ修業僧たち。
そんなことを考えると、ここ延暦寺の懐の深さを思うのです。
大講堂から阿弥陀堂、東塔へ。その後国宝殿を拝観。こちらは期待はずれでした。
ひととおり東塔エリアを見学し、2kmほど離れた西塔地域まで歩くことに。
エリア間にはバスが走っていて、フリーパスを購入すればお得に乗れるんです。
ですから歩くなんて物好きはいないのでしょう。
西塔に向かう山道は私ひとりきりで、ほんとにこの道で合っているのか不安になったほどです。
林の中の山道なんですから。
浄土院が見えてきて、どうやら西塔へ着いたよう・・・。

西塔地域
親鸞が修業した常行堂と法華堂を渡る廊下が特徴的なにない堂、をくぐり釈迦堂へ。


ここから横川地域へは4kmも離れてる。
さすがに歩くには遠すぎる。
西塔からバスに乗った。

横川地域
横川と書いて‘よかわ’、と読みます。西塔地域からさらに山奥です。
横川中堂では特別内陣拝観。私も拝観したのだけれど、記憶が・・・どんなだったか・・・
聖観世音菩薩を観たはずなんですけど・・・記憶にございません・・・
さらに奥に進む。
元三大師堂を拝観してふと、道元大師得度の地、の碑を見つけてしまった。
見つけてしまった、から行くしかないでしょ。
我家は曹洞宗なんです。
かなり階段を下り・・・下りながら、またここを上るのか・・・そんなことを考えながら下る・・・下る・・・
誰も訪れていないのか、落ち葉が厚く積もっている。


ようやく着いた。誰もいない。誰かが訪れた形跡もない。
シィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
ひとりポツンと、ベンチでおやつを食べる。
遍路で一緒だった人にもらったお菓子、友人が持たせてくれたチョコレート、四国で買い込んだみかん。
静かだ
物音ひとつしない
しばしおやつ休憩をして、意を決して上りはじめた。
横川から東塔へバスで移動。
お土産を買いたい。柿のお菓子が美味しそうだ。伝統の味とある。3箱購入。

坂本ケーブルを往復買ってあるので、駅に歩く。
15:00
ケーブルを降りて駅まで歩きはこりごりだ。
バスに乗る。
乗り合わせた親子の会話が聞こえる。地下鉄で京都に戻るという。ならば、と私もつられて途中下車。
なのに路線図をみてもさっぱりわからん。どうして京都に戻れるのかさっぱり分からん。
結局、駅まで歩く羽目に。
今日も帰りがけコンビニで夕飯と朝食を調達。飲み物は宿にあるしね。
主人が受付におられた。
明日朝10:00チェックアウトなのだが、その前に東寺(観智院)で宮本武蔵の襖絵が観たい。
その旨を話すと、「落書きされてもおかしくない近さ」「あれで入館料500円は高すぎ」と散々な言いよう。
果たして・・・

(京都市内編につづく)




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3月3日(日)

「京都市内編〜2023」

8日目・12月2日(土)
「東寺から竹内栖鳳」
宿に荷物を預けたままで、東寺に向かう。
早朝なので観智院はまだ開門していない。
いよいよ宮本武蔵の襖絵とご対面だ。私と同じように開門を待っている若い女性がいた。
「もしかして宮本武蔵ですか?」話しかける。
「ええ」
やっぱりね。
庭園だけは撮影オッケー。
御本尊に御あいさつ。
「わあ、素敵〜♪」
鳥に乗ってるう〜。馬に乗ってる〜象に乗ってる〜、獅子に乗ってるし〜。
面長な顔立ちが個性的で素敵♪
うわ、こっちの愛染明王もカッコいい〜♪
頭に獅子が乗ってるし〜。
で、宮本武蔵は・・・。
え〜?これ・・・?
てか、何が書いてあるのかさっぱり分からん。
かろうじて竹は分かる。
鷲?
どこがじゃ。
宿の御主人が言っていたとおり、むちゃくちゃ至近距離で見れるにも関わらず、分からん。


宿に戻って荷物を駅のロッカーに預ける。
今日は京セラ美術館で開催されている竹内栖鳳展を見に行く。
駅前にはバス案内の若者が多数、さすがは御もてなしの京都。
バスで京セラ美術館に向かうが、思いのほか遠い。
途中、坂本竜馬の碑とか、義経と弁慶の五条大橋を横に見て、市役所を通り、平安神宮前へ。
竹内栖鳳展で印象に残ったのは、兎。虎の栖鳳の異名があるが、私的には虎より兎、犬、雀・・・。
丹念に見て周って昼に。
「お腹がすいた・・・」
土曜日だからか、平安神宮にはマルシェの露天が立ち並んでいた。
無添加ぶたまん、を食べる。


この後の予定はすぐ近くの京都国立近代美術館で上村松園などを観たかったですが、
展示に竹内栖鳳もかぶってるし、なにより疲れてしまって、美術館のハシゴは辛かった。
予定を変更して、これまた近くの京都市動物園にいくことにした。
入館してしばし休憩。チョコレートとめまいの薬服用。
園内は思ったよりこじんまりしていた。
癒される〜♪
動物園に来て正解でした。


今日はこれから彦根に移動する。
彦根は宿が高いので、ひとつ手前の南彦根に宿をとってある。
琵琶湖線で移動。

「近江ちゃんぽん」
南彦根駅に到着した時は暗くなっていた。
宿は駅前のはずなのに、なぜか見つからない。というか、分かりづらかった。
受付には先客のグループがいて、待ってる間会話が聞こえてきた。
「近くに食事できるところは?」
地図を示して「名物は近江ちゃんぽんです」と説明している。
ふむふむ。
部屋に荷物を置いて、私も食事に出かけることに。
さっき耳にした近江ちゃんぽんが食べたい。
とりあえず教えてもらった中華料理店を目指したが、もう閉まってました。
こちら方面には他に食べられそうな所もないので、コンビニに入った。
おお!
さすが、ご当地ちゃんぽんがあるではないか。
温めてもらって、部屋で食べよう。

部屋に戻って、まずは風呂。
ゲストハウスはシャワーだったので、数日振りに湯船に浸って生き返った。
さてさて、ちゃんぽん。
うまいっ!野菜たっぷり。絶品です♪
鶏がらが効いてます♪



(安土城へつづく)




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3月5日(火)

「滋賀の城、安土城〜2023」

9日目・12月3日(日)
「安土城」
いよいよ城三昧のスタートです。まずは安土城から。
南彦根から4駅で安土駅。出口は両端に2口。まずは資料館に行って情報収集しよう。
駅から安土城に向かう地図も持っていないし。
地図などなくても案内看板があるとか、なんとかなると思ってやって来た。
それに駅を降りたら安土城に向かう人がわんさかいて、その後を付いて行けばなんとかなる、くらいに考えていたのだ。
ところが、駅に降りた人がほとんどいない。日曜日だというのに・・・。
資料館では情報収集というより買い物をしてしまった。荷物増やしてどうするよ?
さて、安土城をめざそう。
どの山が安土山かも分からぬまま、とりあえず山方面に歩きだした。
誰も歩いていないし、普通に住宅街だ。しかも日曜なので静かだ。
前を歩いている男性を発見。
「(安土城に行くに違いない。)」勝手にそう思って付いて行ったが家に入ってしまった。ただの住人だった。
前を歩いている女の人を発見。
「(安土城に行くに違いない。)」勝手にそう思って付いていくことに。
一応、念のため聞いてみることに。「あの、安土城に行かれるんですか?」
「いいえ、安土城は反対ですよ」
「えっ・・・」
私はあらぬ方向に進んでたみたいだ。
また駅まで戻って、構内を抜けて反対出口に降りた。
「こっちじゃん〜」
こちらの出口駅前には信長像があったのだ。
「男前だね〜♪」
出口を間違えていたのだ。だったら資料館の人も反対出口だって、教えてくれてもよさそうなのに・・・
私は、やはり山方向に歩きだした。
看板とか、行き先を示す矢印とかなんもない。所々、高い位置に看板があるけど、分かりづらい。
安土城に行く途中で、セミナリオ跡が見たいと思っている。
でも、この調子じゃ見つけられそうにないんですけど。
また住宅街に迷い込んでる・・・。しかも誰もいない。静かすぎる。
車を洗っている住人発見。
「あの、安土の山を目指してるんですけど」
「反対だよ」
またぁ?
「あの、どの山ですか?」
「ここからは見えないな」
はぁ?
どんだけ歩くのよ?
教えられた方向にしばらく歩いて、歩行者発見。
「あの、安土の山を目指してるんですけど、どの山ですか?」
「あの山だよ」
やっと、目指す山が見えて一安心。もう大丈夫!
歩き出してしばらくして
「あっ」
奇跡的にセミナリオ跡に辿り着いた。てか偶然通りかかったのだ。
何もない、ゴミの集積所と小さな広場があって、碑が立ってるだけだった。


見たかった、と言ってるけど、何なのかは知らない。
誰か教えて。
広場のベンチにお年寄りが二人ほど坐ってたけど、歩きつかれて聞くのも面倒になってきた。
住宅街を抜けて、吹きっさらしの田んぼの中、山を目指して歩いていたら、遠くに階段が見えた。
偶然、散歩中の男性発見。
「あの、あそこの階段はなんですか?」
「神社があるんだよ」
「ん〜、じゃあ登れるんですね?」
「もともとは安土城の階段なんだけど、今は登れない。昔の安土城の碑があるだけ」
サラリと重要なこと言ってくれるじゃないの。
「えっ!行ってみます!」


登城口はこの反対側にある。
南山裾帯郭の虎口、西側石塁の枡形虎口、など見学しながら登城口に到着。
ここに到着するまで、1時間以上は歩き通しだ。だってまず反対出口に出て結構歩いてから戻って出直してるし。
だけど念願の安土城なだけに、これまでの疲れも吹っ飛んだ。
足取りも軽く、登城を始める。
紅葉真っ盛りで、もみじがキレイ。
二の丸付近には‘信長公本廟’がある。祖先初代から4代の墓所もある。


安土城は言わずと知れた織田信長の居城で、本能寺で暗殺されて炎上した城である。
信長の首は発見されず・・・
実は、私は安土城が炎上したことで何も遺溝がないと思っていた。
ところが数年前、安土城の番組を見て、立派な石垣が残されていることを知り、いつかは訪れたいと考えるようになった。
その後、作家、司馬遼太郎の番組を見て、遼太郎少年が遠足で訪れた安土山登山で。案内は総見寺の住職だったそうで、
「安土の山全部が信長公の墓所」と説明されたのだそうな。
なるほど、山全体が墓所となると、古墳に登城しているようなものだろうか。
平成元年から20年間発掘調査が行われたというから、現在のように整備されてから35年ほどしか経っていない。
それほど高くない山なので、ほどなく天主台に。


天主台からの眺めは田んぼの向こうに琵琶湖。
信長築城当時、安土山は琵琶湖の中に突き出ていた。天主からは琵琶湖が一望だったのだ。
ならば、現在の琵琶湖までの田んぼは何なのか?
琵琶湖を埋め立てて開墾したのだ。なぜそんなことを?
愚問だ。
生産性を上げるため、利益を求めるため。人間の欲は限りない。
そして安土の山は琵琶湖から遠のいた。

下山するとする。
帰りは総見寺跡を通ることに。総見寺は現在は登城口近くに移築されている。
当時の寺跡には、仁王門が残っている。


そのまま下りると、秀吉邸跡に出てくる。
少し登って、移築された総見寺へ。総見寺は織田家の菩提寺である。
特別拝観券(抹茶付)を購入していたので、内部へ。
誰もいない。貸切じゃないのか?
仏前に信長公像、中央に位牌発見。この法名は信長ですよね・・・。
抹茶をいただいてしばし休憩。
お腹が空いてきたな・・・。
滋賀県立安土城考古博物館に行って食べよう。安土城近辺には食事できる施設はないのだ。
考古博物館までは、また田んぼの中を延々歩かねばならない。
15分から20分くらいかな。
寒いっ。

田んぼの中に教会ドームのレンガ造りのステキな建築物。背後の山の紅葉が燃えるように紅い。
資料館内の食堂でお昼ごはん。
カレーかうどんか、の二択になりそうなくらいの食堂だ。
せっかくなので近江牛。
ステーキなんて洒落たメニューもないし、近江牛の名がついたメニューはうどんしかない。


遅めの昼食を終え、資料館へ。展示は古墳時代から始まる。
ここでもほぼ貸しきり状態で見学。
古墳時代の竪穴式石室が体験できるように実物大模型が設置されていた。
子供たちが入って楽しむためのものだろうが、誰もいないのでかがんで入って、出てくる時油断した。
かがんで完全に出たつもりで起き上がったら、出口にガーン!脳天を思いっきりぶつけた!
痛いのなんのって・・・とんでもないことして入ってしまった。まったく・・・
痛ぁーいよぅ(泣)
四国の脳天不動尊もかたなしだ。
戦国時代の展示では、教科書で見覚えがある信長、お市の肖像画、自筆の書状など。
もっと歩けば観音寺城跡や瓢箪山古墳などあるが、もう歩くのはイヤだ。
それじゃなくとも駅に戻るには、また田んぼの中を延々歩かねばならないのだ。
ぽつぽつ雨も降ってきた。
フードをかぶって寒さに耐えひたすら歩く。
寒いっ。
やっとのことで駅に戻ってきた。ホームで電車を待ってると、相撲像発見。
そうだった。私としたことがうっかりしてた。
信長の相撲好きは有名で、ここが近代相撲の発祥の地とも伝わっているのだ。


南彦根に戻って、駅前のコンビニで夕飯と朝食を調達。
昼は近江牛、晩はコンビニ近江ちゃんぽんの連ちゃんで決まり♪

(彦根編へつづく)




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今回の「tuzi now」は2023年(令5)12月の出来事です

3月9日(土)

「滋賀の城、彦根編〜2023」

10日目・12月4日(月)
「佐和山城」
私は、連日朝の7時に宿を出て、夕方4時くらいには戻れるように行動してきた。
今日も7時に宿を出て、彦根駅まで一駅。
駅のロッカーに荷物を預け、まずは佐和山城へ向かいたいと思う。
駅前に武将の像。
彦根藩初代藩主、伊井直政とある。彦根で伊井と言えば大老伊井直弼しか知らないが、
駅前に像があるくらいだから、それなりの人物なんだろう・・・。
プレートによると「徳川四天王のひとり。関が原の戦いで武功をあげ佐和山城を与えられた。
その後、現在の彦根城に着工したが、完成を見ずに41歳で病没した」とある。
彦根35万石の基礎を築いた人物。初代は苦労するもの。瞬殺でファンになっちゃった。


佐和山目指して歩き出す。
分かりやすい地図があるので迷うことはなさそうだが遠い。
今日もかなり歩かねばならなそうだ。もう10日も歩き通しで足がパンパンです。
毎日登山してるようなものだし、歩くだけでも10kmは毎日歩いてるはず。
年齢のわりに健脚なのは太極拳のおかげだと思う。
足はパンパンだけど、特に疲れはない。ただ寒いっ。
20分〜30分歩いたろうか。
佐和山城はかつて石田三成の居城で、登城は石田三成の菩提寺を通って登る。
ちなみに隣りのお寺は、伊井家の菩提寺でした。
登城口のある菩提寺に到着。現在8:15。
登山許可証は9:00からとある。山門も9:00にならないと開かないとある。
45分も待ってらんないよ。
石田三成像の先に山門がある。確かに山門は閉まっている。だけど横の木戸は開いていた。
行っちゃえ。
境内の庭園を抜けて、檀家の墓横を過ぎて、いよいよ登りに。
ハイキングコースとあるので、このまま整備された木の階段が続くのだろう。
と、お思いきやとんでもなかった。
整備された木の階段は見せかけで、すぐにただの土の登り坂に。
しかも落ち葉が敷きつめられているので、滑りやすく危険な足元に。
途中、崖になっていて、手をつかないと登れなかったり、
カーブが細くなっていて、ここで足を滑らせたら山肌を滑落してしまうう怖い箇所も。



これのどこがハイキングコースなんだよっ
私は何度も引き返そうかと思ったほどで、しかも登山許可を取ってないので、
ここで足を滑らせて遭難したらそれっきりだ。


途中何度も手をついたり、枝につかまったり・・・
それにしても佐和山城跡の頂上はまだまだ先なんだろうか?
ここまで登った以上、引き返すのも悔しい。
さらに細く急坂にさしかかる。手をついて、足がズリッとなりながら這い上がる。
ふ〜
ようやく頂上に。
もちろん誰もいない。
やはり琵琶湖が見渡せる。
・・・ん?あれはもしや。
やっぱり彦根城だ。
佐和山からは四方八方見渡すことができる。
この辺の山の中でも一番の高さ。
佐和山城がいかに要所だったかが偲ばれる。


途中挫けそうになりながらも登ってきて本当によかった・・・。
紅葉が真っ赤で、紅葉のじゅうたんに。


しばし、ベンチで休憩してたら、年配の御夫婦が登っていらした。
地元なんだそうで、私のキツかった話をしたら、毎日の散歩コースと言う御夫婦には、
文字通りハイキングコースのようでした。

そろそろ下ることにする。
反対方向に下りることもできるが、彦根城に遠くなる、と御夫婦に教えてもらったので、
登ってきたコースを下りることにする。
登りより下りのほうが慎重に足元に気をつけなければならない。
なにせ落ち葉の上に、むき出しの岩場が朝露で濡れてツルツル状態になっているのだ。
私は慎重に時間をかけて下りた。
途中、登ってくる女性とすれ違った。
メガネを曇らせ、「観光に来たんです」と話す彼女。
「キツイんですけど・・・」と私にキツさを訴える。
分かります、分かります。私もそうでした。
「頂上はもうすぐです。最後の最後に難所が待ってますよ」と知らせて別れた。

御城印は駅前の観光協会へとある。
私は駅前に戻ることにした。また20分〜30分歩かねば・・・。
駅前に戻ってさっそく観光協会へ。これから佐和山に行く人たちが訪ねていた。
私も先に寄るべきだった、と思ったところで、観光協会の存在すら知らなかったのだから寄るすべもないが。
観光協会の中には売店もあって、彦根のお土産が買える。
羽二重もちを見つけた。美味しそうなのでお土産に購入することに。
さあ、最後のミッション、彦根城を残すのみ。
・・・腹減った〜

(彦根城につづく)




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今回の「tuzi now」は2023年(令5)12月の出来事です

3月13日(水)

「滋賀の城、彦根城編〜2023」

10日目・12月4日(月)
「彦根城と彦ニャン」
佐和山城から駅前の観光協会まで歩き小腹がすいたので、駅近くでお好み焼きを食べた。
よし、この旅最後のミッション彦根城をめざす。
駅前通りをまっすぐ進む。途中、おやつに彦根ういろを購入。
現在11:00
彦根城登城の前に御城印を購入することに。ここ彦根城では肉筆は書いていない、とのことだった。
いよいよ彦根城登城だ。
彦根城は、先の井伊直政が着工したが、完成を見ずに病没。
その後、2代直孝に引き継いで18年の歳月をかけ築く。
石垣は佐和山城から、天守は大津城から、長浜城や小谷城からも材料を調達。
リサイクルによって築かれた彦根城は皮肉にも現在国宝。
私が彦根城を知ったのは、映画やテレビのロケとして登場する橋のようにみえる天秤櫓の存在がきっかけ。
あとは熊本のくまモンとマスコット界の2大巨頭、彦ニャンですよね。


登り始めて、いくつかの櫓が公開されており、のきなみ全部に入ってみる。
途中の売店で、井伊直政の御城印を発見。
「井伊の赤鬼」のフレーズに惹かれ悩んだ末に購入。赤鬼て書いてあったら、そりゃね悩むよ・・・。
あっというまに天守に到着。
あまりのあっけなさに「これが天守?そうなのか?」と疑ったほどだ。


天守を眺めながら途中買ってきたういろ(黒糖)でおやつタイム。
徳島ういろはモチモチしてるけど、近江ういろはシャバシャバしてる。名古屋ういろもシャバシャバ系ですよね。
天守内部へ。
なんてったって国宝ですからね。
階段がハシゴのように急勾配なのは覚悟の上です。60度だそうです。
下りは坐るような形で下りることになります。
格子の隙間から佐和山城を望む。山々が連なってる中でやはり一番高いかも。
あそこに登ったんだ、としみじみ思う。ついさっきのことなのに。

帰りは黒門方面に下りよう。


と思ったが、遥々ここまで来たんだから、彦ニャンに会って行かねば。
実は、天守に行けば彦ニャンがウロウロしてんのかな、くらいに考えていたのだ。
でも実際は、お散歩の時間が決まっており、決まった時間、決まった場所にしか現れないのだ。
彦ニャン登場まで、あと20分。
徐々に人垣ができてきた。
観客の花道を彦ニャン登場♪


しっかりショーでした。
お姉さんの軽快なトークと、声を発しない彦ニャンとのかけあいショー。
彦ニャンにはスタイリストがついています。
鈴を鳴らしただけで、スタイリストが見繕いして整えます。超がつくほどの過保護っぷり。
30分のショーを勤めて、また観客のが道をあけてのお見送り。
彦ニャンは天守に一礼して楽屋にはけていった・・・。
この彦ニャンのモデルは「井伊の赤鬼」井伊直政だが、赤鬼もニャンコのマスコットになっては形無しだ。

彦ニャンショーを見て、黒門ではなくて登城した元の道を下りた。
チケットについていた玄宮園に行ってみたが、興味が持てず、すぐ出てしまった。
そこへ堀を周遊する屋形遊覧船がやってきた。


それで思い立って、歩いて堀を一周してみることに。
歩き始めてしばらくすると、
ん?橋がある。
えー!?大手門?
こっちが正面じゃん。それにこっちにも登城口があるんじゃん。
知らなかったよ・・・。
こちら側は武家屋敷が並んでいたエリア。道沿いに石垣がめぐらされている。
堀沿いに一周しようと思って歩いていたが、行き止まりになってしまい、結局一周することはできなかった。
また表御門まで延々戻ることに。
さすがに疲れた。
遅くなったが食事がしたい。
ここはやっぱ近江ちゃんぽん食べ比べでしょ。
てか、コンビニとですけど。
見た目はいっしょです。味は・・・


う〜む。
ちょっと塩が効いている。お好み焼きも味が濃かったし。近江の味付けは濃いのかな?
私的にはコンビニのほうが口に合う。軍配はコンビニに。
三成めしも食べてみたかった・・・。
でも、2食は食べらんないし(涙)


11日目・12月5日(火)
「消えためまい」
お土産が詰まったリュックを背負い、カートを引いて京都に移動。
バスを乗り継いで誰も待っていない自宅に戻ったのは翌日の昼だった。
夕方6時には眠気に襲われ、早々に就寝。
滋賀最終日まで、めまいに襲われたのに、帰ってきたとたんにウソのように消えた。
以来、めまいは一度もなく、大量の薬が残された・・・。
とにかく旅先で健康保険証を使うことにならずにすんで幸いだった。

今回の遍路は父の供養で満願して、滋賀に移動して城めぐりしながら考えた。
父は歴史好きで詳しい人でした。私も城が好きで、一緒にめぐっていて欲しい。
父も一緒に歩いてくれてて城を見てて欲しい。
いや、そうじゃない。
そんなのは私の身勝手な願いでしかない。
なぜ生きてるうちに一緒に行かなかったんだ。
生きてるうちに・・・
だから私は懺悔あるのみなのだ。

(おわり)



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今回の「tuzi now」は2023年(令5)12月の出来事です

3月19日(火)

「餅を搗く〜2023」

正月は、母がしていたように料理をして重箱を作っていた。
12月28日は毎年恒例の餅搗きをして、翌日の夜は切り餅にする。
大晦日にはナメタを食べるきまりははずしたことがない。
元日から七草がゆまでは毎朝餅がつづく。おつゆ餅のための具は年内のうちに作る。
あんこ餅のこしあんこも作っておく。そして納豆餅、の三品が我家の朝です。
母が亡くなってからも父とふたりで、毎年変わらない正月支度をして新年を迎えてきた。

2022年父が亡くなってから、喪中に入った。
2023年の正月は喪中で、神社のお札も、家庭祭礼(宮司さんが家庭の神棚を拝む)も行わなかった。
長年途絶えることなく用意してきた正月支度が初めて止まった。
一周忌を迎え法要をし、私はひとり再び四国に旅立った。
帰宅して2024年の正月を迎えることに。
喪が明けたから・・・?
明けてないんですけど。
二度と明けることはないんですけど。
でも、神社からお札を受取らない名目もなくなり、嫌がおうにも受取らざるを得なくなり、
家庭祭礼も断る名目がなくなり、気分は喪中なのに、正月を迎えざるを得ない状況に追い込まれる。
ひとり正月だが、また母の正月支度を復活させる。
12月28日餅搗き。機械で搗くので最低でも一升。
12月29日ひきなを作る。料理三品を作る、こんぶ煮、レンコン炒め、ニンジンの甘煮。
12月30日なめたを煮る。
12月31日お膳を仏前に供え、かまど神、神棚に拝礼。
元旦、ひとりで餅を食べる。
父がいたなら七草がゆまで食べて、なくなっていた餅が・・・なくならない。
当然、料理もなくならない。
いつまで正月が続くんだ?
結局、餅は冷凍庫に。
この空しさはなんなんだ?
この正月になんの意味があるというのだ?



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3月22日(金)

「正月1月2日」

新年は、‘紅白歌合戦’が終わって、‘ゆく年くる年’中で除夜の鐘が鳴った瞬間が年明けである。
私は‘ゆく年くる年’のファンで、全国の鐘の音を聞くのを楽しみにしている。
除夜の鐘を聞き逃したくないので、‘ゆく年くる年’が始まる前に年越しそばを作り終えるようにしていた。
年越しそばを食べながら‘ゆく年くる年’で除夜の鐘を聞きながら、
「新年明けましておめでとう」のあいさつを父母と交わす、が恒例だった。
母が亡くなってからも同様に父とこのルーティンは変わらなかった。

ところが数年前から神社で御札書きを頼まれるようになり、11時半頃までに神社の本殿に行くようになった。
早めの年越しそばとなり、楽しみにしていた‘ゆく年くる年’も見られなくなってしまった。
父も早くに就寝するようになり、私は新年に間に合うよう、本殿に向かう。
本殿では、新年明けて12時ちょうどに宮司が神前に祝詞をあげる。
それに合わせて参拝に来る人が結構いらっしゃるのだ。
祝詞のあとに巫女舞が奉納される。
その後、お祓いを受ける方々の御札に氏名や会社名、合格祈願の学生さんの氏名、商売繁盛から健康祈願、
厄払いを受ける人の年齢、氏名・・・をお札に墨書きするのです。これが私の役目。
一人一人、お祓いを受けますので、御札も人数分書かねばなりません。
新年明けて2時間ほどで一区切り。朝からは交代するので、私は元旦の朝はゆっくりできる。
元旦の朝はゆっくり餅を食べて、近くのスーパーに発売りに出かける。

正月三が日の神社は本殿で祈願、お祓いをしている。
本殿には入らず、お賽銭をあげて参拝に来る人がほとんど。
本殿下では御札いろいろや、各種お守りやおみくじ、干支の置物やら・・・を売っている。
年越しそばなど温かいものも、年明けの夜中に本殿下で売っていたが、コロナ禍でなくなった。
参拝に来た人たちは、おみくじを引いたり、一年の安全を願ってお守りを買い求める人も。
毎年、神社の親戚のお兄ちゃんが店番を任されている。
そのお兄ちゃんも寝ずに元旦の朝を迎えているので、今年はピンチヒッターで2日の午前中だけ‘お守り売り’を頼まれた。
初めてのことです。
私はお金を扱う商いは不得手だし、会計係りとかも不向きだ。
元旦は近くのスーパーの初売りに行くが、2日は誰もいない家で箱根駅伝見ながらゴロゴロしてるだけ。
‘お守り売り’を引き受けた。ひとりで店番だ。
参拝に来た人が寄るといっても、全員が立ち寄るわけでもなし、と私は勝手に高をくくっていた。

お守りや、御札など品数も多い。お守りだけでもバリエーションが豊富だった。
おおまかに健康祈願、厄払い、合格祈願、学業、スポーツ上達、しかもそれぞれ数種類ある。
キーホルダー系も数種類あるし、交通安全の矢タイプもある。
鈴が付いてるタ高級タイプもあればカードタイプもある。
値段もまちまち。値札は付いてないので暗記するしかない。
朝9時からということだったが、早めに8時半に入った。
鍵が開くのを待っていたかのように、お客さんがなだれ込んでくきた。
お守りが飛ぶように売れる。
ひっきりなしにお客さんがやって来る。行列さえできる勢いだ。
狭い店内にお客さんがひしめいている。
「どんと祭に納めたいんだけど」と言われて預かったり、
「御朱印が欲しいんだけど」という人に特別に分けてあげたり、
「熊手は売り切れなの?」と言うお客さんに、私が来た時点でなかったので
「置物タイプの熊手だけになりますね」と薦めたら、あっさり売れちゃったり・・・。
3個しかないので表に出してない「干支の置物はありませんか?」とたずねられて
箱から出してみせたら金ピカの龍で、お客さんと同時にビックリしたり・・・(笑)
とにかく忙しかった。
のどがカラカラになってもお茶を飲む時間すらない。トイレもガマンしていた。
大体が3点、4点、多い人だと6点以上買う。6点にもなったら暗算は無理がある。
おつりも出さなきゃならない。
ふ〜。
休む暇なく計算しては売りつづけ、午前中だけで15万円以上売り上げた。
こんなに忙しいとは、思いもしませんでした。



今回の「tuzi now」は1月の出来事です

3月25日(月)

「初売り弓道具」

令和4年(2022年)4月から始めた弓道。
指導者としての資質に疑問を持ちつつも、他の先輩たちのアドバイスに耳を傾けたりしながら
どうにかこうにかつづいている。というか指導者がいない弓道会なのだ。
一年間、的に遠く届かなかった頃は、本気で辞めようと思った。
それでも続けていたのは、袴を買ってしまったことや、教本を数冊買っていたこと。
無駄になっちゃうじゃん。
それはなんだか悔しい。
届かないことで腐っていたけど、‘石の上にも三年’もう一年だけ続けよう。
袴を着る機会もまだないし・・・

二年目になっても、道具は会からの借り物で練習をしていた。
袴だって、指導の女性に(仮にKと呼びます)買うように言われて、ネットで購入したものだ。
考えてみれば、審査でも受けない限り着用することのない袴を買わせるってどういうこと?
二年目の秋に初めて審査を受けて、初段になった。
この時も、会からの借り物で受けた。
そろそろ‘弓がけ’を買うように言われ始めた。
‘弓がけ’は自分の手に合わせて購入しなければならない大切な道具だ。
ネットで購入するにはリスクが高い。
やはり弓道具店に行って、実際手に合わせて購入しなければならない。
指導のKが「初売りだと割引になる」というので、その時に必要な道具を揃えることにした。

我県に弓道具店は一軒しかない。
私は高速バスと地下鉄を乗り継いで、初売り初日にやってきた。
‘弓がけ’が欲しい旨を告げると、私の小さな手を見て小さいサイズを5つほど出してくれた。
同じサイズでも手縫いなので、微妙に違うのだという。
手にかけてみると本当にぜんぶ違う。ふたつまで絞って悩む。決めては親指。
お目当ての‘弓がけ’を購入して、他に小物や弦など購入。
せっかく来たんだから、矢も買っちゃえ。
でも種類が多すぎて選びきれない。しまいには上の色だけで決めてしまった。
なんだかんだで4万円の出費。これでも5千円ほど割引されてる。
道具も揃えたことだしもう辞めるわけにいかない。

新しい‘弓がけ’に慣れるまで数週間かかった。
弓以外は自分の道具で練習を始める。
今は‘弓返り’を課題にしているが、このことに囚われると、コントロールがめちゃめちゃになるし、
的中に集中すると‘弓返り’の練習にならないし・・・悩みは尽きない。
4月から3年目に入る。
上達しなくても腐らずつづけたい。
だって私には伸びしろしかないのだから。



3月28日(木)

「カーリング女子」

夏季オリンピックで楽しみといえば重量挙げとレスリンググレコローマン
冬期オリンピックで楽しみといえばカーリングジャンプ複合
パラリンピックで楽しみといえばボッチャ
私が楽しみにしている競技はマイナーなのか、深夜の放送にまわされたり、録画で結果だけの放送だったり、
グレコローマンにいたっては放送がないんじゃなかろうか。
全試合放送なんて言ってるけど、主力日本選手が出場している競技に限っているのかも。

現在、カナダでカーリング世界大会が開催されいる。
時差が12時間あるので夜中の2時とか、朝の7時とかの放送だが、ライブ中継があるだけでもありがたい。
総当りなので12試合、出場13カ国のうち上位6カ国が本戦に進める。
ルールは把握しているのだが、私のようなド素人が考えるに
どうして石が込み合った中を進めようとするのか理解に苦しむ。
空いている方から中に回り込めばいいじゃないか・・・そんなことを考えながら見ている。
それに日本チームは石に勢いがない。のろい。だから試合時間がかかりすぎる。
のろいから弾き出せなかったり、相手の石に当たっても弱いから動きが小さかったり。
デンマーク戦の第10エンド最後の1投がそれだ。
もう少し相手の石に強く当たってさえいれば2点入ったものを・・・。
ナイス〜♪じゃないから。
だいたいが弱く投げて、ブラシ(=スイーパー)に頼りっきりだからいかん。
遅いストーンほどよく曲がる、の性質を利用するならまだしも、曲がりもしない。短く止まる。
押し込むこともできない。投げた石を無駄にしてしまったではないか。
ナイス〜♪じゃないから。
ひどい時は自分の邪魔張りの石(=ガード)に当てて失敗してみたり。
自分の石がサークル内にないのに、むやみにガード置いてみたり。だから点数に結びつかない。
結局自分の石が邪魔をしてサークル内の相手側の石が出せずに大量失点されている。
なんで?
なんでそれが最良の作戦なの?
なにがしたかったんだ?
・・・これから強豪国との対戦があるというのに、すでに格下に連敗している。
優勝候補スイス、カナダとは格が違う。個の実力=精度に明らかな差が感じられる。
氷の状態がどうのこうの・・・曲がらないどうのこうの・・・ウェイトの選択に苦しむどうのこうの・・・
どれも言い訳にしか聞こえない。
相手チームは同じ条件でナイスショット連発してるじゃないか。
スウェーデン戦第3エンドのトリプルショットは素晴らしかったし、一石二鳥ショットも見られた。
最終試合イタリア相手に第6エンドの気持ちのいい4得点もあった。
でも総じて日本チームの実力不足=精度の低さが目立った。
もしくは本調子になったのが最終日だったということか・・・
予選で日本チームは消えるが、決勝まで放送を続けて欲しいものだ。
私が見たいのは、ナイスショット♪なのだから。

また、今回の世界大会にはオリンピック出場もかかっている。
2025年までのポイント制で、開催国のイタリアを除いて上位7位以内が条件。
2024年今大会の結果が11位というから危ういのではないのか?
最終予選もあるので一概には判断できないが、もし日本チームが出場できなかったら、
カーリングのオリンピック中継もなくなるかもしれない。
そりゃないよ・・・。
私が見たいのは実力者同士の好試合、世界のナイスショット♪なのだから。



今日の早朝5時、カナダ対スイスの決勝戦が行われた。
どんなショットも狙い通りに投げられる。どんなこともできちゃう。
どんなに石がお互いくっついてても、相手の石にだけ当てて出せる。そして自分の石を残して内側にロール・・・
こんなことが当たり前にできちゃう。
日本チームなら通れずに自分の石に当ててしまいそうな、狭いガードの間を通らせるなんて朝飯前。
ガードの真裏に石を置きに行くなんてことも簡単にできちゃう。
それをまたはじくのも簡単にできちゃう。
スピードもある、当たりも確実、隠れ方も完璧、一石三鳥、四鳥・・・
出来ないことがない。
これが世界だ。
スイスチームは世界ランキング1位。監督はカナダ出身。
カナダチームは世界ランキング3位。監督はもちろんカナダ人。
第3エンドが終了。2対2。私の見立てはスイスだが、地元カナダには観衆の大応援がある。
勝敗の行方はいかに・・・
第9エンド、カナダ最終投のスーパーショット。シビレル3得点。
第10エンド、スイスは2点取らねばならないところで、タイム。
コーチを呼んだが結局、コーチの言うことを聞かず、別の選択を。選手主導だ。
でも、カナダ4点配置であと2投・・・うっわーミスショット届かない。
1投残して降参。7対5。
スイス5連覇ならず、5大会ぶりカナダ優勝。




4月3日(水)

「嫁」

彼岸の入り日には五目御飯、中日は牡丹餅が定番だ。
今年、私はうっかりして五目御飯をしなかった。
牡丹餅用にあんこも用意したのに、それすらし損ねた。
機を逸してしまったが、まだ彼岸中だから22日に五目御飯をした。
お隣のばあちゃんにお昼に食べてもらおうと、おにぎりにして5個作った。
お隣はおばあちゃんと、息子夫婦の3人家族。息子といっても私より年上だが。
おばあちゃんが我家に来て言うには「うちの嫁はろくでもない」と言う。
おばあちゃんにガミガミ言うし、それが露見しないように目を光らせているのだそう。
そうなのかなあ・・・?
私が伺った時などは、人当たりがよく明るくて親切な女性、そんな印象だからだ。
おばあちゃんからすれば息子の嫁だから、印象が悪く感じるだけなんじゃ・・・?

五目御飯を持っておばあちゃんの部屋に行った。
おばあちゃんゾーンは内部でつながってはいるが、玄関も別で、リビング、寝室、トイレ、浴室も独立していて、
冷蔵庫、電子レンジも完備されている。
私が行った時ちょうど、息子夫婦が留守だった。
おばあちゃんと話ししているうちに車で息子夫婦が帰ってきた。買い物にでも行ってきたのだろうか。
レースのカーテン越しに私がいるとは知らずに・・・。
おばあちゃんは、律儀におにぎりの包みを持って、お嫁さんに五目御飯をもらったことを告げに行った。
「おばあちゃんがもらったんでしょ、食べたらいいじゃない」
おばあちゃんの声は聞こえない。
「冷蔵庫に入れて食べたらいいじゃない」
おばあちゃんの声は聞こえない。
「いいから、少しずつ食べたらいいじゃないの」
おばあちゃんの声は聞こえない。
「面倒くせーなー」
声のトーンといい、口調といい、おばあちゃんに対してこんな言葉使いだったんだ。
私の知ってるお嫁さんの口調、言葉とは思えない。
鬼嫁・・・これが本性なんだ・・・
せっかく熱々をおにぎりにして来たのに「面倒くせーなー」はないでしょ。
すぐにお嫁さんは、おばあちゃんにおにぎり2個を持って来た。
私がいるとも知らず、持ってきて少し動揺したようにも見えた。
おばあちゃんの言ってたのは、こういうことだったのか・・・。
以前から昼食だけは部屋で一人で食べるということは聞いていた。
でも朝食と夕食は息子夫婦と食べると思っていた。実際そのようだった。
それが今や、朝も部屋に持って来られ、昼はパン、夕飯も持って来られて、三食とも一緒にとることはないのだそう。
90歳を過ぎたおばあちゃんは一家内で完全に別居。
上げ膳据え膳とはいえ、一人で食事とは・・・。
私と一緒じゃん。
いや違う、ぜんぜん違う。私は父とも母とも食事だけは揃って食べていた。
一緒に食事することで、健康状態も把握できるし、
「美味しい?」「まあ、こんなもんだろう」「美味しいよ」なんてつまんない会話もできる。
家族がいて一人で食事するのと、家族がいなくなった私の一人はまるで違う。
嫁はともかく息子は何も言わないのか、何も感じないのか。
90歳を過ぎた母親を一人で食事させるなんて、私には理解できない世界が隣りにある。



4月11日(木)

「17年ぶり」

17年ぶり?
いやあ、もっとでしょ。
金融緩和が解除され、金利が上がり始めた。
17年ぶりていうけど、利子がただ同然になって、そのうえそのただ同然の利子から税金を徴収されて・・・
そうなってから17年以上でしょ。
私の感覚では30年は経ってるぞ。
だってさあ、定期預金が馬鹿らしくなってから17年以上経ったでしょ。
30年前だったら、倍々ゲームじゃないけど、利子だけでまとまった金額になったものです。
好景気だったとは思いませんが、現在のように小数点以下の桁が多すぎて覚えられないくらいの率ではなかった。
ていうか、世間は好景気でも、私は好景気を経験したことがない。
バブル以前も経験していますが、働き通しで好景気を感じたことがないのだ。
だからか、お金を使うこともなく、まとめて定期預金をしていた。
忘れた頃に行ってみると、「増えている・・・」そんな時代でした。

そんな時代を知ってる私としては、現在の小数点以下の桁が多すぎて覚えられないくらいの率では
馬鹿らしくて、貯金する気になれない。
・・・というか、田舎に越してから生活費をまかなっていたので貯金する余裕などなかったのだが。
とにかく「利子をあげろ」と郵便局に行くたびに郵便局員に無理押ししていた。
黒田日銀総裁の考えは誤りだ。金融緩和は逆効果、と郵便局相手に噛み付いていた。
だって、国債だのニーサだの理解できない商品を勧めるし、簡易保険に促されるし。
元本割れ覚悟の高利子商品をもちかけるし。うんざりしていたのだ。
どれもこれも小数点以下の桁が多すぎて乗れない。
「理解できないからー」
「減らしたくないからー」
と断り続け、「だから利子が上がればいいのよ」と郵便局員に訴えた。
利子が上がれば、世間一般に預金額が増えて、購買意欲も出て、好景気につながるというもの。

やっとだ。
ダイヤモンドのカラット数だったら、粒がないに等しい小数点の桁から抜け出せる?
小数点の桁にもよるが、いや小数点をなくせ。
うまくすればホントの景気が戻ってきて、この物価高から需要が増えることで値引きに転じるかもよ。



4月17日(水)

「さっぱどしたじゃ」

大阪場所。
新入幕の尊富士が初優勝。
尊富士は伊勢ヶ濱部屋、親方は横綱旭富士。私はずっと伊勢ヶ濱部屋の力士を応援している。
古くは安美錦、今場所は審判してました。
十両に落ちちゃったけど宝富士。
幕内の翠富士、錦富士、熱海富士、新入幕の尊富士。横綱の照ノ富士。
翠富士と熱海富士は静岡だが、親方が青森なので、青森県出身力士が多い部屋だ。
尊富士は五所川原出身。
「五所川原・・・憧れの地」
五所川原といえば、私が行ってみたい東北ナンバー1である。
立ちねぷた、太宰治、木造駅の遮光埴輪・・・今年の夏にも旅しようか、と思っていたほどだ。
伊勢ヶ濱親方のぶっきらぼうな解説も気に入っている。
部屋での指導は厳しいと聞いてるし、解説だからって舞の海みたいにいい加減なこと言わないし。
解説でもあくまで取り組みに厳しい姿勢を崩さない言動が好きだ。
豪栄道の解説も好きで、楽しみにしている。

とにかく伊勢ヶ濱部屋は厳しい指導の親方もいるし、横綱もいるし、所属の力士たちは恵まれた環境にいると思う。
先に、暴力事件を起こして処罰され降格された宮城野部屋とは大違いだ。
もっと遡れば、伊勢ヶ濱部屋の横綱日馬富士がカラオケ店でナマイキな力士に暴力した時、
ほんとだったら、居合わせた白鵬が止めに入るくらいでないと。
黙って見てたんだろ?
平成の大横綱なんて言われてたけど、私は張り手ではいる取り口を好とは思っていなかった。
取り口が汚い、そう思っていた。
勝てばいい、自分だけ火の粉が除けられればいい、そんな人間なんでしょ。
だから部屋を持っても、弟子を指導できないんだ。
親方が目を配ってないから常習化してるのに見て見ぬふりだったのか、気づかなかったのか。
どっちにしろ、部屋で起きた不祥事は親方の責任。前々から親方としての資質が問われていたようだ。
元横綱に胡坐かいていたんだろうが、親方失格、降格は当然。



話しがそれました・・・。
荒れる大阪場所、といわれるそうですが。
豊昇龍に負けるまでひとり全勝の尊富士。一敗のまま優勝に大手。
朝乃山との一番。「難敵だな・・・」とは思った。朝乃山は懐も深いし、身体も大きいし。
たとえ負けても二敗。まだ差はある。豊昇龍が四敗になって脱落、大の里だけが可能性を残している。
朝乃山との大一番。
地元では祖父母や恩師、五所川原市では大スクリーン設置しての大応援。
ここで優勝が決まるかのような中継になった。

はっけよーいっ
四つに組んで右ざし・・・負けて土俵下に足から落ちた。
尊富士の様子が・・・足を痛めた・・・激しく痛めて肩を借りないと歩けない。
車椅子で運ばれ、医務室直行。医務室から救急車で病院に運ばれた。
前にも誰かいたよね?
朝乃山と組んで怪我した人。縁起の悪い対戦相手だ。
朝乃山は勝ったインタビューで「自分で優勝が決まってしまうのは嫌だった」と語った。
分かる、分かる・・・
だって、記録づくしの優勝だもの、繰り返し繰り返し録画が放送される。未来永劫・・・。
負けた尊富士の怪我は、優勝の期待から一転、心配に変わってしまった。
私などは、明日の千秋楽は休場だろうと思ったほどだ。
もし、休場で大の里が勝てば、星が並んで優勝決定戦が出来ず大の里の優勝。
もし、出場して勝てば優勝だが、負けて、大の里が勝てば優勝決定戦。
あの足では勝てないでしょ。優勝決定戦で大の里相手だったら、尚更勝てないでしょ。
私は休場が濃厚な気がしていた。
捻挫だと、ひどい捻挫だと考えていたので、もしかしたら痛み止めで出場もありかな、と期待もありつつ・・・



なんと尊富士出場だと!?
解説は伊勢ヶ濱親方だと!?
照ノ富士が途中から休場したけど、千秋楽の解説は初めから決まってたんだろうけど・・・
尊富士の相手は豪の山。
「なんとかなりそう」
痛み止めの薬を飲んで、痛み止めの注射もしてきてるだろう。
大の里の相手は豊昇龍。てことは優勝を占うのは豊昇龍次第じゃん?
解説の伊勢ヶ濱親方とアナウンサーの会話。
ア「尊富士の足はどうですか」
伊「歩けますからね」
そういうこと?歩ければいいのか?
ア「声かけましたか」
伊「無理して欲しくないですからね」
それは休めってことじゃん。
ア「取り組み中に痛めたんでしょうか」
伊「落ちて足を着いた時ですね」
そうなんだ・・・取り組み中に踏ん張った時、足首変な折れ方してたけど。



いよいよ取組だ。
尊富士は足首に包帯。

はっけよーいっ
ぶつかった。
いつもの尊富士の休みのない攻めだ・・・が豪の山も残した。
方向転換しても尊富士は前に前に攻め続ける。押したー。
勝ったー(拍手)
尊富士のホッとしたような笑顔。
東前頭17枚目24歳。初入幕で優勝。初場所から10場所目=110年ぶり至上最速。
大正から110年ぶり
敢闘賞、技能賞、幕内優勝と殊勲賞、三勝とも獲得は24年ぶり6人目。

ア「青森の人たちも喜んでいるでしょうね」
伊「大変なこと起きてるんじゃないですか」
ア「師匠表情が変わりませんが」
伊「気持ちはグッときてます」
ア「昨日は何か声をかけられたんですか」
伊「抱えられて帰ってきて、「無理です」と言いました。じん帯が伸びてますからね。
その後また来て本人が出場するというので。本人はやらないで後悔、私のほうは止めて後悔するなら
止める方が我慢して、んじゃやれば、ということで」
捻挫じゃないんだ。じん帯が伸びてたなんて・・・

この後の、大の里の取り組みについて
ア「大の里は今日の一番が大事ですね」
伊「いや、毎日大事ですよ」
あくまで厳しい姿勢が崩れない親方。
結局、大の里は豊昇龍に敗れた・・・



豪の山に勝って自力で優勝を決めた尊富士の第一声はさっぱどしたじゃ(=スッキリした)だった。
晴ればれとした気持ちが表されている津軽の言葉だ。
入門から8場所で十両優勝。新入幕で11連勝は大鵬と対。
優勝インタビューで「記録も大事ですけど、記憶に残る力士に。ファンの応援に応えるようになりたい」と語った尊富士。
ア「どうでしたか」
伊「100点のコメントですね。「ファンの応援に応えるように」というのは良かったんじゃないですか」
厳しい師匠から100点と褒められたコメントだった。
尊「親方が解説だったので褒めてもらえるようがんばりました」
優勝が決まり控え室で表彰式を待ってる様子が映った。
黒の羽織袴に着替えた部屋の兄弟子たちが尊富士を囲んで談笑。
宝富士がポケットみたいに袴に両手をつっこんでいるのリラックスムードでまた好い。
微笑ましい光景。
兄弟子たちと笑顔の尊富士。正装に着替え祝福する兄弟子たち。
グッときました

昨晩、兄弟子に「ヤバイ」と言ってた尊富士。一度は親方に「無理です」と告げた。
その後、照の富士に「おまえならできる。記憶に残る力士になれる」と言われた瞬間、
怖いくらい歩けるようになったと言う。
再度親方に「休場したら一生後悔する」と話しにいったそうだ。
親方は自分もここで止めたら後悔するということで、親方が折れて(我慢して)本人を尊重した。
親方としては「無理してほしくなかった」のだ。
いい親方だね。体調を気遣って、でも自分が我慢して出場させて。
部屋には怪我を乗り越えた横綱照の富士もいて、大事な時に貴重な言葉もかけてくれて。
これだから伊勢ヶ濱部屋ファンはやめらんない。
尊富士の趣味は香りのいいボディクリームを塗ることだそうな。
たっぷり塗って、しっかり怪我を治してけっぱれ。



4月23日(火)

「働き方改革」

海岸に突き出た半島に病院がある。入院病床25も併せ持つ総合病院。
地域には欠かせない病院だ。
ところが、4月から入院は受けられないことになった。
「それは大変じゃん」
病気になった患者の身になったら、そう思うのは私だけじゃないと思う。
なぜ、そんなことになったか。
派遣されて来ていた医者が来なくなったこと、が要因らしい。
では、なぜ来なくなったか。
それは「働き方改革」で勤務時間の上限が決められて、
その上限を超えて勤務させれば、病院に対して罰金罰則が架せられるからという。
しかも医者にカウンセラーがつくという。過保護な医者の誕生だ。
はあ?
そんな柔(ヤワ)な奴は医者になるな
韓国の名医「ホジュン」を見ろよ。タダ働きしろ、とは言わない。
だけど、患者をたらいまわしにする病院、無責任な勤め人医者でいいのか?
4月からは、入院しなければならない患者は遠くの総合病院に行かざるを得ない。
遠いよ。
患者は心細いし、家族も何かと大変。
「働き方改革」の一環でカウンセラーに診てもらう医者。
なんだそれ?
医者が不足しているのではない。医者を目指す者の人格の問題だ。
そもそも「働き方改革」を考えた秀才はどんな奴なんだろう?
出て来いやー
日本の医療はこれでいいのか?
「医は仁術」
頭のいい人が編み出した「働き方改革」のしわ寄せは患者が負うのだ。
何のために医者になったんだ?
誰のために医者がいるんだ?
患者を診ない時間、医者は何をするんだ?
病気で苦しんでる人を無視して、医者は何を楽しむんだ?
「ホジュン」を見ろよ。
大昔の医者じゃないか、というなかれ。
今も昔も病気に苦しむ人を助けるのが医者だ。




今回の「tuzi now」は3月の出来事です

5月9日(木)

「席を譲られたおばあちゃん」

昨年の3月にJR「ファイナルチケット」で3日間東京、横浜をめぐった。「ファイナル〜2023」参照)
今年も3月にお得な「たびキュン早割パス」が平日限定で売り出された。
さっそく1ヶ月前に予約した。
上野で開催されている「印象派展」と東京芸大美術館のリベンジ。
両国国技館で番付購入、相撲博物館のリベンジ。
今回は1日だけの日帰りです。

入谷
直前になって仕事が入った。
これがめちゃめちゃ大変な作業で、出かける前日までに提出しなければならないので
毎晩11時過ぎまで仕事をして、なんとか締め切りに間に合わせた。
しかも春到来を思わせる暖かな日が続いていたのに、出かける当日に限って雪の予報だった。
朝9時に上野に着いた。雪は雨にかわっていたが、風が冷たく寒い。
チケット案内所で印象派の絵柄付チケットを購入するつもりだ。
公園口から出るつもりで向かっていたが、入谷口が目に入った。
入谷・・・
入谷にも鬼子母神があったんじゃなかったっけ?
フリーチケットだから、とりあえず入谷口から出てみた。
看板の地図を見つめる・・・
入谷・・・ん〜?
近くに旅行者のガイドさん風の女性が、誰かを待っていた。
「あの、すいません。入谷に鬼子母神があったかと思うんですが、御存じないですか?」
彼女はスマホを駆使してすばやく調べてくれた。
「ありますね。地下鉄の入谷駅の近くです」
時間も早いので行ってみることにした。雨のなか地下鉄入谷駅を目指して歩きだした。
しばらく歩いてから、若い兄さんに聞いたら、「大通りに出て真っ直ぐで、すぐです」と。
すぐ、かと思いきや、ぜんぜんすぐじゃない。遠い・・・。
ようやく地下鉄入谷駅が見えた。
今度は自転車の兄さんに「真源寺は御存じないですか?」と聞いたところ「あそこです」と。
本当に駅の真近だった。


雑司が谷の鬼子母神にはすすきふくろうがいたり出店があったりしたが、ここには特筆するものがなかった。
来てみて思う、無駄足だったかも・・・。

上野
また雨の中上野駅に戻り、公園口からチケット案内所へ。
目当ての印象派展を購入するつもりでいたが、次々と訪れる人は皆「本阿弥光悦展」を購入。
印象派展は人気がないのか?
とりあえず国立博物館に行ってみることに。
印象派から脳内が本阿弥光悦になっちゃいました。「本阿弥光悦展」に急遽予定変更。
刀剣の展示から始まったが、私的には惹かれるものではなく。
刀剣女子だかなんか知らないが、下から覗き込むように丹念に見ているが、本当に解ってるんだろうか。
私には刀剣の良さが理解できない・・・。
そんな私でも、彼の伸びやかなの数々は当時としては斬新で革新的だったと感じた。
その特徴的な書は私の目から見ても「これは光悦、これは光悦じゃない」と見分けられるほど秀逸。
蒔絵の箱は豪華絢爛で、それの使い道は経典入れだった。当時の信仰が厚さがうかがえる。
硯箱も複数あったが右横に納められるのは小刀なのか?その使い道は?
圧巻は焼き物だった。光悦の書も素晴らしいが、それ以上に焼き物は他を圧倒していた。
金沢に贈ったという飴釉薬茶碗が印象深い。
「もらえるならこれがいい。くちが薄くて飲みやすそう♪」
「コーヒー茶碗にするなら白楽茶碗がいいわ♪」
美の万能作家、本阿弥光悦。才能もさることながらセンスの良さが成せる技。
このことは現代でも変わることはない。一芸に秀でる者、万能に通じる。

もうお昼になっちゃった。お腹すいた〜・・・おっ?
呉昌硯!?
書道をかじった者なら、篆書(てんしょ)の大家としてその名を知ってるはず。
私は呉昌硯のファンでもある。


正倉院の展示も見ていこう。
軽い気持ちで訪ねたが、これが素晴らしく良かった。
小さいながら菩薩像の曲線美
神楽面には目を奪われた。どれもこれも素晴らしい。


本阿弥光悦、呉昌硯、正倉院を堪能して東京芸大に向かった。
昨年は入試中で美術館も入試会場で入れなかった。
今年こそは・・・


嘘でしょ。
今年も・・・入試期間に当たっちゃった。3月は無理ってことね(泣)

池袋
それにしてもお腹がすいた。上野で食べるか、池袋で腸粉食べるか・・・。
池袋に行こう。中国物産館で朱肉も欲しいし。
記憶を頼りにビルを見つけ腸粉にありついた。ものすごく空腹だったので麺も注文。


西安涼麺の写真は美味しそうだったが、出てきた麺は写真とかけ離れていた。
そして辛い。寒いのに冷たい麺を注文したのも大失敗。腸粉だけで十分ボリュームがあったのでお腹いっぱい。
がんばったけど、辛くて寒くて食べ切れなかった。ごめんなさい。
ビルの物産館は食品のみで雑貨はなかった。
別の物産館にも行ってみたがどこも食品ばかりで、目当ての朱肉は手に入らなかった。

巣鴨
諦めて、巣鴨に移動。
山手線に乗り座れず立っていた。目の前に坐っていた女性が「どうぞ」と私に席を譲ろうとする。
「すぐ下りますから」と坐らなかったが、私の何がそうさせたのか・・・。
坐りたそうな顔をしていたということか?
席を譲られる歳になった、ということか?
いや、まだ早いでしょ。てことは白髪がそうみせるのか?
確かに、父と一緒にいると「奥さん」て呼ばれて「娘です」て何度訂正したことか。
それにしても、目元まで帽子かぶってたのになあ・・・
マスクもしてたのになあ・・・

巣鴨の目当ては豆大福。前回はとげ抜き地蔵までで、その奥の商店街に行かなかった。
今回は商店街の奥まで堪能し、激安バックと仏具店でみつけた仏壇掃除用羽根を購入。
地蔵尊前の飴もお土産に購入。

両国
次は秋葉原で乗り換えて両国へ。
両国へは2駅だけ。
なのに、ここでも席を譲られた。しかも彼女は立ち上がってしまったではないか。
「坐って下さい」「いえ、大丈夫です」「どうぞ坐って下さい」「いえ、大丈夫です」「どうぞ、どうぞ」
「すぐ下りますから」と、やっとのことで若者を坐らせた。
そんなにおばあちゃんに見えたのかい?
目元まで帽子かぶってマスクまでしたのに、チラと見える白髪でなの?

数年ぶりの両国。
駅前に相撲グッズの出店が並んでいたのに、なくなっていた。
数年前は事務所で番付を買って、相撲博物館を見ようとしたらたまたま休館日だった。
今回こそは番付買って、相撲博物館を見るぞ。
あれ?
閉まってるんですけど。
事務所にすら入れないんですけど。
閉められた柵に張り紙が。
「事務所で番付表は販売しません。郵送しか受け付けません」旨の告知。
そうなんだ・・・
それよか相撲博物館は今回も休館日なのか?
警備の人に柵越しに聞いてみた。
「3時30分までの入館なので終わりました」
ガーン
現在4時5分前。勝手に5時まで開館してると思ってました。
遅すぎたのね(泣)


両国駅に戻って、看板地図を見てたら芥川龍之介生誕、勝海舟生誕、吉良邸跡・・・
せっかく来たんだから歩いてみるか。
芥川龍之介の碑は道端だし、勝海舟生誕の地は公園。吉良邸跡は住宅街の一角。
赤穂浪士討ち入りで、ふた手に別れるほどの邸宅で、墨小屋まである広さは感じられないほど縮小されていた。
当時の86分の1だそうです。
最後に回向院で力塚をみて、備え付けのパンフレットをもらって両国をあとにした。
帰宅後、パンフレットを広げてみたら、奥に参るべき墓があったんじゃ・・・。
知らなかったし。
他にも面白そうな施設も・・・リベンジがまたひとつ。

上野
再度、上野に戻り、朱肉を探してアメ横をさまよったが結局見つけられなかった。
夕飯を食べちゃおうかと思ったが、駅中で柿の葉すしとお茶を買って新幹線に乗り込んだ。
昨年は、指定を取るより自由席のほうが空いていてゆったり乗れたので、
そのつもりで乗り込んだらとんでもなかった。
6号車から乗り込んで、ようやく一席見つけたのは2号車だった。
座れただけでラッキー。
デッキはもちろん、通路にも座れなかった人たちが立っている。
とても買い込んだ弁当を食べる雰囲気ではなかった。

今回もリベンジできないまま持ち越しになったことがいくつかある。
それに、席を譲られるのは初めてで、しかも2回も譲られたのには驚いた。
マスクしてて、眉まですっぽりベレー帽、オシャレなスカーフまでしてた私の年齢を推し量った上で譲ったってことよね?
いつのまにか、そうさせてしまうほどのおばあちゃんになってた、ってことですか?
今度譲られたら理由を聞いてみようかな、なんて。
いや、そんなこと聞いたら‘傷口に塩’になっちゃうか。
そういえば、彦根でも駅で荷物を持ってくれた若者がいたっけ。
今思えばあの時も、私が荷物を重そうにしていたからじゃなくて、おばあちゃんに見えたからか?
ていうか、おばあちゃんが、持つには重すぎる荷物に見えた・・・。
どっちにしろ、おばあちゃん、ってことじゃんよ。。。



5月15日(水)

「生涯現役」

年齢を重ねるごと、普通は・・・普通って漠然としてますけど、例えば年金をもらうとか、還暦を過ぎるとか
区切りの歳を迎えたら、仕事をセーブして趣味を楽しんだり、はたまた没頭したり。
とにかく時間に余裕ができるもの。高齢になれば若い頃のように活動的でもなくなるだろうし。
いや、考えようによっては時間に余裕が出来たことで、世界をまたにかけて旅して飛び回るということもあるでしょうが。
まあ、いずれにしても主な収入源であった仕事はセーブするか、減少するか、するものだろう。
でも、私の場合逆行してるんですけど!

私は、本業の設計の仕事は依頼があれば続けるつもりである。
「生涯現役」を貫こうと考えている。
働かなくても生活に困らないから仕事をしない、そんな風に私は考えない。
人間は何かしら社会と繋がって、責任ある仕事を持ってることが必要と思っている。
たとえどんなに忙しくても、はたまた暇になっても、リタイアするつもりはない。

昨年までは、地区の生涯学習委員とコミュニティ推進委員、敬老会のボランティア、
班長、町提出書類一式作成と地区の仕事をこなしてきた。
今後も出来なくは無いが、思うところあって、これらを返上することに。
全部を返上することはできず、班長と町提出書類一式作成は今年度も手伝うことになってしまったが。
近所のおじさんが言うには「区長が頼りにしてるんだから一気に全部引き上げたら可哀想」と。
頼りにされてるかは甚だ疑問だが、言われてみれば一理ある。
だから、徐々に手を引こうと思う。

本業の仕事の他に水曜日の夜に太極拳を教えている。
木曜日の午前中は弓道。土曜日の夜は自宅で書道教室。
その間、作業ができないしわ寄せは、土日返上で仕事をすることになる。
もしかしたら、加えて水曜日の午前中に公民館で書道を教えることになるかもしれない。
これまで教えていた先生が辞められるそうなのだ。
話し聞いてて感じたんですけど。
なんかさあ、一人暮らしだから身軽だ、って誤解されてません?誤解してますよね?

むしろ歳を追うごとに忙しくなってるんですけど。気のせいじゃないですよね?
固定された用事を作る時点で忙しくなっちゃいますよね。準備も必要だし。
私、太極拳は死ぬまで続けますし、仕事も生涯現役でしょ。
書道だって、一旦始めた弓道だって辞める気さらさらないし。
やっぱ、増える一方じゃん・・・。年々忙しくなってる。
こんなはずじゃなかった人生です。

そもそも20代で結婚。結婚した時点で扶養家族、職業は専業主婦。
子供を大学に進学させ、自分も上京。もしくは留学させ、自分も海外生活。
晩年は・・・大好きな編み物をしながらのんびり過ごす。
そんな計画だったのに、結局どれひとつ叶わなかった人生。
20代は設計事務所で男社会の中で男女差別と闘い、偏見のなか女設計者として認めさせた。
「言いたいことがあれば」と所長がいうので、またとない機会とばかりに本社社長に虐げられた実情を訴えたのに
なぜか顰蹙をかった。
この春からの連続ドラマ「虎に翼」の時代を私も踏襲してきたくちだ。
大正とは時代に隔たりがあるというのに、私も大正と変わらない扱いを受けた。
社内での男女差別など昭和の後半でも当たり前だったのではなかろうか。
だって女は‘寿退社’だなんて言われて喜んでいた時代が昭和、平成にもあったくらいなのだから。
社内では女が電話を取るのも当たり前、お茶を入れるのも、茶碗を洗うのさえ当たり前だった。
なんの職種にせよ、そんな扱いから脱却し、パイオニア、第1号になる人の苦労は並大抵ではない。
その後に続く人たちはその苦労の末切り開かれた後を歩くので、
その者たちに時代を切り開いた人の苦労など想像もできないだろう。
私の苦労など時代に埋もれていくだけだ。
見切りをつけて何度も辞表を提出するも、本社まで届けられず所長で留め置かれた。
わずか7年7ヶ月の会社員に何度辞表を書いたことか・・・。
20代後半、苦労奮闘の末、病に倒れついに退社。
30代、退社を知った出身の専門学校の恩師が「授業を手伝え」と成り行きで学校の非常勤講師と
結局は退社した事務所の仕事と二束のわらじ。
太極拳と出会い、海外を飛びまわった。筝曲のお稽古に演奏会もあった。
そして仕事を持ったまま、両親に対して後悔しないためにも田舎に引っ込んだ。
母が病に倒れ、介護しながら数年過ごしたが亡くなり、父とふたりで過ごし、その父も逝ってしまった。
その間続けてきた、太極拳と書道。教える気などさらさらなかったのに、成り行きでどちらも教室になってしまった。
結婚にも子供にも恵まれなかったが、お金にだけは困ったことがない。
というか、使う暇もなかったし、両親を養うことでしか使いようがなかった。
現在も退社した事務所の仕事をフリーで続けている。
勉強もがんばったことがないし、受験勉強も試験勉強も就職活動もしたことがない。
努力とは無縁の人生。
でも、自慢じゃないが、成績はトップ3だったし、特待生で授業料免除になったこともある。
就職活動もしないで入社した設計事務所は東京本社で、私は差別の中でも男より仕事が出来た。
だからこその現在に至るまで長年の依頼だと自負している。
太極拳だって好きだから続けてきたし、書道も好きで始め独学ながら本部師範の上の地位に就いた。
教える気などまったく考えていなかったが、どちらもなぜか仕事になってしまった。
私は運だけで生きている、成り行きだらけの人生なのです。
「生涯現役」だなんて自分にカッコつけてるけど、どれも退職のない仕事なだけで、
しっくりこないのは「こんなはずじゃなかった」をこじらせた結果なんだろう。



5月21日(火)

「都合のいい嘘」

私の住んでいるド田舎は、「部落」という差別語がまかりとおる地区である。
戸数は100に満たない。
区長を筆頭に役員が数人、その下に10班に各班長がいる。
班は、その昔「契約講」という名称で冠婚葬祭を助け合っていた。その名残ではないかと思う。
現在では「契約講」の意味は成さず、町報や募金や回覧等を回しあう班、といったことくらい。
それでもド田舎では、班に属していないというだけで、これまた差別語の「村八分」的存在になってしまう。
田舎は実に住みづらいところなのだ。少なくとも私にとっては・・・。

助け合わねばならないはずの班であるが、田舎者の集まりであるから、己の保身しか考えず、
ほんの数年前まで助け合うどころか、貧しい家をコケにするようなありさまだった。
また、火事をおこした家に手伝いのトラックを父がだして働いても、感謝するでもなく、
「当たり前」程度にしか思わない馬鹿者もいる。
そんな奴等に愛想を尽かした父は怒り心頭、ついに班を脱退したのだ。
もう30年も前のことだが、私は父の考えはしごく当然と思って聞いていた。
母は、今後の地区との付き合いが途絶えるのを心配したようでもあるが、最終的には父に従った。
当時、班を脱退するということは大変な決断である。
当時の班長が我家にやってきて説得をしたが、父の考えは変わらなかった。
娘の私が説得すれば父が折れるのではないかと考えたかどうか知らないが、
班長が「家族として思いとどまるよう言わねば」と言ったときには、きっぱり「父が決めたことに私も同意してます」と答えた。
忘れもしない、田舎者の班長は、あっけにとられ「あんたがお父さんに入れ知恵したんだな」とまで言われた。
こんな馬鹿者と付きあってらんない。そう思った。



いつの頃からか忘れたが、区長は班に属していない4軒で班を作った。
これもまたおかしな話だ。4軒の他にもう1軒班に属してない家がある。完全に「村八分」だ。
その1軒には区長は町報すら渡していなかった。そんな区長の考えは間違っていると私はかねがね密かに思っていた。
結局、町に直談判してもらっているようだ。当然の対応だ。区長としての怠慢ではないか。
とにかく、班外の4軒の班なのだ。どう考えてもおかしい。
そして現在4軒のうち2軒は空家となり、我家とS家の2軒だけの班になってしまった。
Sさんは当初「どこかの班に入れて欲しい」と考えていたようが区長は「そういうわけにはいかない」と言い放ったのだ。
以来、私家が万年班長で過ごしてきた。
それがつい最近になって「班を辞めるか、どこかの班に属してもらわないと困る」と区長が言い出した。
こういう区長なのだ。自分の都合で二転三転
「Sさんは、どう考えてるんでしょうね」と言おうものなら、
「それはSさんの家の考えなので、あなたには関係ない」と言うではないか。
関係なくはないでしょ、4月から班長になってもらおうと考えてたんですから

3年前に「生涯学習委員」を引き受けた時は、「スポーツ関係は出席しなくていいから」という話だったが、
結局、「町の方針は文化もスポーツも報酬もらってるんだから出席なんだね」だって。
スポーツ担当の「生涯学習委員」がいるにも関わらずだ。
しかもその男性、何にも出席せず報酬だけいただきしてるんですけど
私にばかり「報酬もらってるんだから」って言ってるけど、私はまじめに出席してるんですから、
欠席なしで、最低賃金割り込んでるんですから
区長に何も言われる筋合いじゃないんだよっ
5年前から「コミュニティ推進委員」も兼ねていて、こちらはまったくの無報酬。
それに加えて、書記に代わってパソコンで資料も作ってるのに、書記はなにもしないで報酬だけもらってる。
そのくせ、私には「支払いにやりくりが大変」とか言ってる。それを私に言いますか?だったら書記にさせろよ。
その書記の仕事私にさせて「やりくり」だなんて、どの口が言ってるんだっ



「生涯学習委員」の3年間は「敬老会」のボランティアもしてきた。
料理の手配から買い物、墨でさまざま書いたりを、ひとりでこなしてきた。
だけど、度重なる失礼極まりない言動に怒り心頭の私は、もうガマンも限界だ。
任期が終わる4月からはすべてのことから手をひいて、お役御免で考えている。
「生涯学習委員」「コミュニティ推進委員」「敬老会ボランティア」「町に提出書類作成(書記の仕事)」そして「班長」
これら一切の役職を御免こうむりたい。

「生涯学習委員」は任期が終了するのでいいとして、「コミュニティ推進委員」は区長が別の人を見つけた。
だが、「敬老会ボランティア」は前任にも手伝いを要請するのだそうだ。
「お役御免」を伝えた私に一言のねぎらいの言葉も無く、4月から手伝わないなら会合には
「来なくていい。来てもらっては困る」と言い放った。

ところがどうだ。
当日の会合に私の姿がないことを不思議に思った、敬老会の役員さん、
ボランティアの皆さんが「tuziさんは?」と発言されたらしい。
その時の区長の言ったことには「tuziさんは今日、都合が悪くて欠席です」だったそう。
そうじゃないだろっ。
欠席ではなくて、「お役御免」でしょうがっ
区長は私が不在のところで自分に都合のいい嘘をついているのだ。
今回ばかりではない。
私のいないところで、私の言ったことと違うことを、自分に都合よく捻じ曲げて公表しているのだ。
区長としての資質は、ずっと以前から疑問視していた。
ボランティアだって役職だって、やって出来ないことは無いのだ。
だが、こんな区長には協力したくない。それが私の本音だ。
残る「町に提出書類作成(書記の仕事)」も書記にしてもらおうと伝えた。
区長は書記の男を擁護しているが、その実、能力がないからできないのだろう、と思っている。
別に私じゃなくても結局誰か頼める人がいるのだろうが、都合がいいから私に作らせてる、そんなところだ。
父が生前言っていた、「区長はズルイ男だ」は大正解だった。
そんな男に関わった私が馬鹿でした(涙)

(つづく)



5月27日(月)

「計算ができない男」

月に一度、各班の班長が寄って「班長会議」を開いているのだそうだ。
でも、私は一度も呼ばれたことが無い。
男の班長たちは年に数回、草刈りをしてその日当で温泉に泊りがけで行くのだそうだ。
女の班長は私を含め3人いるが、草刈り作業をしないので、温泉旅行には参加できない。
いまどき、男女差別なんて流行らない

総会があった。
私はいつも委任状を渡して、一度も参加したことが無い。
だが、今年に限って区長が「町長が来ることになってるので、あいさつして案内して」と
私に参加することを要請してきた。いつもの通り、「班長手当て」を持ち出してだ。
参加というより、受付で町長を丁重にお出迎えせよ、の要請だ。
まったく虫のいい話だし、女性蔑視も甚だしい



さて、話を戻して男班長たちの温泉旅行であるが、
総会終了後、後片付けをしてから、区長と各班長だけが残って会合があった。
その時、初めて、そんな行事があることを知ったのだ。
我関せずで黙って聞いていると、今年は泊りがけするには作業量が足りず、日帰り温泉となった、らしい。
名目は、日帰り温泉ではなくて「研修会」なんだそうだ。
だから、班長の一人が講和を行うことになっている。この男、M氏は話しがやたら長い。
長いばっかりで、絵空事をべらべら述べるだけで、解決策もなければ結論もない。ただダラダラ話すだけ。
退屈極まりない、早く帰りたい・・・そんなことを考えながら私は耐えていた。
ようやく話が一区切りし、区長が口を開いた。
「tuziさんも参加でよろしいですね。ただ作業をしていないので全額負担になります」
私が不参加しようと言おうとしたその時、間髪を入れず、ある班長さんが
「区長、そんな事言わないで部落で負担してやれよ」と言った。
区長はグズグズなにか言っていた。

後日、私以外の女班長2人にも参加不参加を聞いたところ、案の定不参加ということだった。
そりゃ、そうでしょ。
全額負担してまで、わざわざ男班長に混じって温泉に行かなきゃなんないんだ
そしてここからが本題だ。
区長は、私に講和を要請してきた。
区長は区長なりに考えたんだろう。講和をすれば謝礼が発生する。それで会費を帳消しにしようという浅はかな考え。
「それで、会費はおいくらですか?」
「3,000円ということで。謝礼が3,000円でどうです?」
「資料作って、カラーコピーしますから、それは自己負担ですね。講和もボランティアですか・・・
でしたら、不参加ということで」
区長「そうですね。資料代はお支払いしますから、5,000円お支払いしますね」
tuzi「では会費の3,000円は班長さんたちの前でお支払いします」

そんなこんなで、男班長の中に紅一点。
講和依頼がなければ行くこともなかったのだが・・・。
ここド田舎では、女なんて面倒くさい生き物で、
料理やら漬物やら持って行かないと「気の利かない女」のレッテルが貼られる。
私は父のために作っていた、カリン酒と、白菜の漬物、ヤーコンの炒め物を重箱に詰めて持って行った。



部屋を貸しきって、講和が始まる。
M氏からだ。
やっぱり長い。やたら長い。区長が20分で止める、と言った約束など無効になっていて、止めやしない。
30分しても終わらず、結局40分話してようやく終わった。
私の持ち時間は15分しかないではないか。どうしてくれようぞ
私は2度にわたる「四国遍路」の壮大な話だったのに、大部分を省略せざるを得なく、
空海の生涯もそこそこに、近江の城に関してはまったく話すことができなかった。
ま、長ければいい、ってもんじゃないけど、それにしても酷すぎる。
持ち時間が無さ過ぎ、それもこれも区長がいい加減な嘘をついて止めなかったせいだ

ひとっ風呂浴びて、宴会が始まった。
私も持ってきた、お酒や料理を振るまっていたが、女というだけでお酌なんかさせられて、
私には誰もついではくれない。手酌だ。
女性蔑視というより、気の利かない男どもだ
私はこれまで男社会の中で仕事をしてきたし、男には負けないくらい仕事ができた。
だから、今も依頼があるのだと思っている。
第一、我家の父も母も対等で、私も女だからって酌を強要されたことなど一度も無い。
仕事での宴会では、自分は動かず、男社員に酌をされて当然と思っていた。

それがどうだ。
田舎者のおじさん連中は時代錯誤にも程がある。
こんな屈辱は耐えられない
田舎者は悪気なく、私の怒りを買っているのだ。スルーするしかない。
もう、二度と参加することもないだろうし・・・。



数日後、区長が、謝礼を持ってやって来た。
「約束の4,000円ね」
はあ?
約束は5,000円だったはず。
黙って受取ったけど、4,000円てことは、会費の3,000円引いたら、残りが1,000円。
資料代、コピー代、講和代、お酒、漬物、料理、バスの中でのおやつ・・・で1,000円て計算ですね。
どんな計算をしたんだ?
気持ちの小っさい男だぜ
こんな小っさい男に関わった私が馬鹿でした(涙)

(おわり)




6月2日(日)

「春の健診」

春、4月は町民の健康診断が実施される。
胸のレントゲン、尿検査、身長体重、血圧測定、復位計測、心電図、血液検査と簡単な健診だ。
それで病気が早期発見できるような健診ではない。
それでも、見栄で体重を少しでも軽くしたいので、一週間は酒抜き。
夜のポテトチップスも我慢して・・・代わりに板チョコ食べちゃってましたけど。
食べないようにしようというストレスは体に悪い・・・。

健診当日
体重、復位ともに昨年より減少。よって肥満指数も減少。
毎年正常値の血圧は昨年よりも下がって、問診も心電図も問題なし。
ただ。。。
また身長が縮んでました。
もう、3年連続で縮んでます。
マックス155cm(←これでも人生マックスなんです)が年々縮んで、
153cm台が何年か続いて、昨年は151cm台に・・・。そして今年ついに150cm台に。。。
年々5mmくらいづつ縮んでいる計算。
来年は140cm台に突入するのでは・・・。
そういえば健診とは関係ないけど、足のサイズもマックス23.5cmから23.0・・・そして今は22.5cmが余裕になり。
身長といい、足のサイズといい、これじゃ子供じゃん!



今回の「tuzi now」は3月の出来事です

6月6日(木)

「太陽光」

我家は東西に両隣、南と西の半分が広大な空き地になっている。
空き地といっても、持ち主が近所に住んでいる。
30数年前まで、温室が5棟ほど立ち並び、鉢花を作っていた。
その際のボイラーが、我家の西にありその音に悩まされ、受験勉強はおろか、長年安眠妨害に悩まされた。
私が田舎を離れているうちに、花作りは中止になり、ボイラーの運転も止まった。




ガラス張りの温室は、そのまま残されたままで、いつしかジャングル化していた。
その広大な土地は我家の両隣までの3軒に及ぶもので、住所の番地も3番地に分かれている。
我家と接している線の延長上で、西側一帯が1区画だ。
土地の持ち主Sさんは奥さんと二人暮らし。お子さんが二人いるが離れて暮らしていて戻って来そうにない。
Sさん夫婦も高齢にさしかかり、朽ち欠けたハウスやボイラーなどを
「負の遺産」として子供たちに残さないよう取り壊し、広大な空き地となった。
空き地となったとたん、今度は土地の売却話しが持ち上がり、太陽光がやってくることになった。
日本中、空き地と聞けばどこにでも出来てる、あの太陽光だ。
Sさんは子供たちに残さないためにも、土地を貸すのではなく売却するという。
全部の土地は売れず、我家の西側に接する土地だけが太陽光の会社に売ることが決まった。

昨年の秋頃、太陽光の話しが本格化し、我家にも太陽光の会社の人間がやって来た。
反対したところで、どうになるものでもないから承諾するしかないのだが
「音がでる機器類は我家の反対側の西に離してください」
希望だけは伝えた。
太陽光が設置されるのには反対ではないが、音が出るのには我慢ならない。
だって、今後の人生、その音に悩まされることになるのだから・・・。

パネル設置の工事が始まったのは、今年1月。
暖冬なのでパネル設置には半月ほどで完了。
それにしても、丈が高い。
私が見てきた太陽光はもっと地面に近く、低いタイプばかりだ。
でも設置された太陽光はパネルの下を人が立って歩けるくらい高い。それだけでも圧迫感がある。
しかもあれだけ言ったのに、機器類が私の寝室の間近に設置されてるではないか。




私の寝ている2階からの風景は一変。
3月に入って構内柱が立った。
これが我家の土地との境界ギリギリに立てた。しかも大仰なトランスまで上がっている。
景観上も気になるし、雷が落ちないとも限らないほど高い。
電柱が倒れるのは、よほどの地震に限られるだろうが、とても気になる。
お隣のMさん宅には距離がある。音も聞こえないし景観も変わらない。
私家だけが大迷惑。
電柱もそうだが、一番の気がかりは、分電盤から向こうに並んでいるコンデンサ10台ほどだ。
これが唸り音を発生させるらしい。
工事をしていた職人に「もうワンスパン移せないのか」と直談判に行った時に聞いたのは
「冷蔵庫のうなり音くらい」と、なんでもないことかのように言っている。
人事だと思って
癇(かん)に障るじゃん

(2階寝室から撮影)

こりゃいかんと思って、太陽光の会社に電話した。
翌日、担当者がやって来て、「これまで音で苦情は出てません」とか言うけど
それはこんなに近くないからでしょ
「我々、連絡いただければ音を測りに来ますから」
低くたって気になり始めたら寝れないでしょうが
「夜は運転しませんから音はでません」
いやいや、早朝明るくなったら運転始まるでしょうが
夏場など4時、5時には明るいんだから。そうでしょう?
担当者は面倒くさそうに「何かあればいつでも連絡下さい」と言って帰って行った。

運転開始は3月28日、売電が開始される。
迷惑を被るのは100%我家だ。
そりゃ、怒っても仕方ないのは私にだって分かっている。
寝室を変えるか、移住するか。
父は生前、ここを売って好きなところに行けばいい、と私が反発すると悲しそうに語っていた。
売らなくてもいい、だがここに安住できなければ、どこかに移住するしか・・・。
山奥のぽつんと一軒家? 
憧れの中国、住むなら洛陽?
言葉の通じないイタリアの村?

運転開始まであと10日あまり。
音が出る前提とすれば本気で移住を具体化していかねば・・・。



・・・あれ?
運転開始しましたよね?開始したはずですよね?
音は聞こえません。
だけど、電波障害みたいにテレビから音が出るようになりました。
それはパソコンだったり、固定電話からも聞こえてきます。
パソコンは画面が乱れもします。困ります、パソコン異常で仕事に影響がでてしますのは。
電磁波ですか?電界ですね?
私は知らず知らず健康を害してしまうのでしょうか?
最悪です(泣)
しかも夜は「運転しない」と言っていたのに、光ってるんです。
未知との遭遇みたいにウェーブしながら光ってるんです。薄緑の光がウェーブしてる・・・。
怖いです(泣)

後日、太陽光の会社に連絡して電波障害の症状は改善されました。
光のウェーブはメモリが光っていたのでした。
でも、目に見えない電界が存在してるのは確かと思います・・・。



6月12日(水)

「刑事がやって来た」

私はネットで買い物をする。
本やCDはアマゾン、電化製品は楽天市場というように大手からクレジットカード決済で購入。
宿泊や交通はもっぱら楽天トラベルで予約している。
まれに中国企業の激安商品も購入するし、インドにある宝石商から激安ジュエリーを購入したこともある。
どこも怪しげな感じではないし、時間はかかるけど確実に商品は届いている。
私も疑ったこともないし、これまで一度もトラブルはない。
先日はヤフーオークションで落札し決済した。3日後には商品が届いた。
丁寧な手書きのメモ書きまで付いていた。

さて、私は3年前から弓道を始めた。
今年初めて自分の矢と弓がけを購入した。あとは弓だけ購入すれば一式揃う。
現在、弓は借り物である。
弓を購入するにはkgで表される強さで判断せねばならない。
同じkg数でも、若干強さが違ってくるので、やはりネットで購入するには無理がある。
それに、練習を積めば、強さも上がってくる可能性もある。
買い時というのも見極めねばならない。
とはいえ、やはり自分の弓が欲しい。
昨年、額縁が欲しくてリサイクルショップを覗いたら偶然弓を見つけた。
矢とセットで4,000円、というのでダメもとで購入してきた。
結局、強すぎて引けない。
先輩に聞いたら、「細くすると弱くなる」というので電動カンナで削ってみた。
弱くなるどころか、中心がずれてしまって使い物にならなくなってしまった(泣)
厚みが変わらないから、弱くにもならないし、こんなことなら削ってダメにしまうこともなかったのに(泣)
竹弓だっただけに惜しいことをした、とガッカリしていたのだ。
だから、よけい欲しくなったのだと思う。

中古で構わないからネットで激安弓が出ていないだろうか。
メルカリはスマホがないと購入できないし、ヤフーオークションは中古なのに新品と値段が変わらないし
第一、弓の強さがまるで分からない物ばかり。
そんな中で、「これは!」という弓を見つけた。
強さもバッチリ。未使用品が1万円台で買える。
第1候補、矢と弓のセットで1ヶ月ほど使用したとある。
第2候補、未使用の弓。
第3候補、数ヶ月使用して、握り皮を新品に交換。弦も新しいのが付属。
まずは第1候補に注文確定。
支払いはコンビニで購入するビットキャッシュカードで、とある。
「なんじゃ、そりゃ?」
丁寧な説明がある。
コンビニでビットキャッシュカードを購入し、支払う。
暗証番号を入力する。
「コンビニに行かなきゃなんないのね?」
私は早速車を走らせた。
ド田舎の我家から一番近いコンビニには歩いては行けず、車を走らせるしかないのだ。
「ビットキャッシュカードが欲しいんですけど」店員に聞く。
「こちらです」
「何にお使いですか?」
「ネットで購入した代金を支払います」
「こちらを使用して支払って詐欺が多いんです」
「そうなんですか」
「こちらを購入する際は警察に相談されたほうがよろしいかと」
「ふうん・・・」
「お客様、少々お待ち下さい」
「はあ・・・」
店員と立ち話しながら、待っていたが、ところで私は一体何を待っているんだ?
「いま、警察が来ますから」
「えー、そうなの?」
コンビニがすでに通報をしていたらしく私服の警官が到着。
私の職業、住所、身分証まで確認されて、
「サイトの画面を見せてもらってもいいですか?」
「はあ、いいですけど。パソコンなので家に行かないと」
「我々もお宅に伺ってもよろしいですか?」
「はあ、まあ」
ほんとに警察の人なん?
ネットより、現実の目の前の人のほうが疑わしいんですけど。
結局、我家に刑事と名乗る男が3人やって来た。
金色の警察手帳をパラッと見せられたけど、それすら怪しい。
男3人は私が操作した画面を見て、
「これは怪しいですね。」
「どこかからの画面を見せて、お金を集めて商品が届かない可能性があります」
「そっか、メールに返信なかったしね。、じゃあ、第2候補のここは?」
「あー、偽サイトですね」
「ほんとにぃ?」
「第3候補のここは?」
「同じですね」
「ま、確かに電話が使われてませんだったりしてましたけど」
「それにしても安いんですよね。ダメもとでもいいんですけど。こちらだと支払いが口座振込みなんですよ」
「それして、個人情報抜かれたりすると、知らぬ間に口座からお金が消えたりするんで」
「やめた方が賢明ですよ」
「支払い画面で、ネットのアドレスが変わるのって、その時点で怪しいですから」
「ほー、なるほど」
刑事3人はどれも中国企業だ、と断定し、購入をやめるように言って去っていった。
ビットキャッシュは詐欺、口座振込みも危険。
一旦は警察に諭されて素直に購入を諦めたのだが、数日経ってやっぱり騙されてもいいから購入してみようかな、と
サイトを開いたら、画面が真っ赤で「詐欺の疑いあり・・・うんぬんかんぬん・・・」
うっわー、警察が強制閉鎖しちゃったのねー(泣)
ま、警察は何でも疑ってかかるのが仕事で、安全なものでも疑うのが仕事だから。



君子危うきに近寄らず?
安物買いの銭失い。
その上、口座から知らないうちお金が消えちゃうのは勘弁して欲しい。
大谷なんか24億消えてたんでしょ?それでも気づかなかったんでしょ?
私も記帳もせずにほっぽってる口座あるけど、せいぜい24万てとこでしょ。
それでも1万消えてたら気づくって。
大谷は24億消えて、しかも還って来ないんでしょ?
それでヒット打てる彼のメンタル、ある意味鈍感でしょ。
24億も消えてたことに気づかなかった時点でかなり鈍感でしょ。
しかも、あれだけ公私共に引っ付いていた時点で、水原が賭博してるなって気づくでしょ、ふつう。
それにも気づかなかったんだから、正真正銘鈍感でしょ。
しかもその賭博の金づるにされてたんだよ?
なぜに平然としていられる?鈍感にもほどがある
大谷の頭の中には野球のことしかないのね?
それに、24億盗んだ水原の保釈金が380万て安すぎません?
盗んだ金額とつりあわないんですけど。たったの380万て。
司法取引かなんか知らないけど、そもそも水原を自由にする必要ないと思うし、
ギャンブル依存症だなんて軟弱な病名与えられて、治療したからって治らないでしょうよ。
治療法というのがカウンセリングだそうだから、その場しのぎにしかならないのは明白。
だって、言い訳に嘘に嘘を重ねてきた男なんだから。
そもそもどんなに負けても、大谷という金づるがいたことでやめられなかった訳だし。
胴元だって、そこんとこ分かりきって水原を利用してたんだろうし。
胴元は大谷の金を引き出せるために、水原のギャンブル好きにつけこんで利用する。
軟弱な水原はどんなに負けて借金がかさんでもギャンブルをやめることも出来ず、
ついに胴元の狙い通り大谷の金を運ぶカモになった。
この構図のトップは胴元だ。胴元の一人勝ち。いや、胴元の上には上の存在があるのだ。
それに、メシャーリーガーはお金に無頓着で、信用できる人に口座を管理してもらうのが普通らしいけど、
そもそも大金を預けて信用できる人なんて存在しませんから。
今回の大谷の場合、銀行も大金動かす時点で本人に確認すべきでしょ。銀行にも責任ありだと思う。
とにかくお金の管理は、他人ならなおのこと、身内だって信用できませんて。
とにかく、水原は盗みに盗んで24億。その保釈金がたったの380万。
みんな金額に鈍感になってません?

(つづく)



6月18日(火)

「ダメもとで詐欺にひっかかる」

私は少額でもキャッシュカードで買い物をする。財布の中に現金は数千円しか入っていない。
先日も、チョコレートの特売を買いだめしようとして、わずか500円ほどの会計にキャッシュカードを使った。
普通、カードを抜き取ってからレシートが発行されるのに、その時はなぜかレシートを先に渡された。
てっきりカードを抜き取ったと反射的に思ったのかもしれない。
抜き忘れて来ていたのだ。
1時間後に別の店舗でワインを買おうとして気がついた。
前の店舗に戻る時間がない。最終のバスに乗らねばならない。
幸いチェーン店だったので、近くの店舗に駆け込んで調べてもらった。
私のカードらしきはすでに交番に届けられていた。
とりあえず家に帰り、電話をして問い合わせたところ、やっぱり私のキャッシュカードだった。
受け取りに行けるのが2週間後だという旨を話したところ、交番から中央警察署に移動されるとのこと。
私は特に急いでないから、交番に保留しておいて欲しいのだが、できないのだろうか?
とにかく、電話では平日に中央警察署に行かねばならないとのこと。
それが無理なら郵送希望するということだった。
送料かかるじゃない。
購入店舗で抜き取られていないのをチェックしてないのにも責任あると思いません?
「お客様・・・」」と声くらいかけないと。思えばレジ係り、若いお姉ちゃんだったもんな・・・。



そういえば、ビットキャッシュカードのつづきの話し。
ふたつのサイトは警告画面になって見られなくなった。おそらく警察がロックしたのだろう。
でも、ひとつだけ相変わらす見ることが可能だった。どうしてひとつだけ網の目をくぐったのかは分からない。
私は、安いからダメもとで、お金をどぶに捨てることになっても構わないつもりで
あえて詐欺にかかることにした。
あれほど警察に止められてにも関わらずだ。
ビットキャッシュカードは別のセブンイレブン店舗から入金することに。幸い(?)こちらの店舗は警戒が緩かった。
「入金に成功しました」の画面。
メールが届く。
「発送の準備を進めます」
もしかして届くのか?
それから一週間経過。
「ご注文いただきました商品についてですが、先日ご購入頂いた商品は、現在一時的に欠品しております。
代わりを受け入れていただけますか?
せっかくご注文いただきましたところ大変申し訳ございません。返金します」メールが届く。
なんだか矛盾したような内容だ。やっぱり詐欺か。QRコードに誘導される。
返信に「代わりの品を送るようにしてください。在庫がある、と最初にありました。返金なら、現金書留で郵送して」
3分後に返信がきた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。会社の規定により私たちはpaypayでしか返金できません。
できるだけ早く返金を行うためにラインで連絡してください」
「ラインはできません。スマホがありません。代わりの品を送って」と返信しても
「返金を受けましたか。商品の交換が必要な場合は返金担当者にお問い合わせください
アフターサービスの問題はこちらでは処理できません」
あくまでラインに持っていこうとする。でも私はスマホをもっていないため、QRコードが読めないし、paypayでも受取れない。
「なぜ代わりの弓と矢が送れないのですか?paypayでしか返金できないのもおかしいです。
しかもラインでだけの連絡もおかしいです」
完全に詐欺なんじゃないか?てか、ラインに入り込ませてからが本番なんじゃなかろうか?
3日後に返信がきた。
「カスタマーサービスは販売前の事項だけを管理してアフターサービスの権限がありません
ラインに連絡してください。具体的な商品番号を教えてくれます。
できるだけ早く返金を行うためにラインで連絡してください」
ほらね、ラインを強調し過ぎでしょ。
もう、何を言ってもラインから返金受けろの一点張りなので面倒になって連絡をやめた。
やっぱ詐欺だった、って話し。
ラインから情報を抜き出し乗っ取る手口ではなかろうか。ラインからが詐欺本番だと思うな。
この時点で警察に被害届出すかどうかで迷ってます。
自宅に出向いてあんなに止めたにも関わらず、申し込んだなんて恥ずかしくて言えないよ・・・。
それに、支払ったお金だって戻ってきそうにないし。
警察に叱られて終わるんじゃ、私も割に合わない。

(おわり)



6月24日(月)

「捨てる神あれば拾う神あり」

近郊の都市に用事があって行った。
出てきたついでに街を堪能しようと、いつも寄るビルをめぐっていた。
最後に立ち寄ったビルで古本市&中古レコード市が開催されていた。
その中で木彫りの熊、こけし、浮世絵、民芸品なども売られていた。
前回行った時は、リサイクルショップでこけしを買ってきた。
私ったら、なんでこけし買っちゃったんだろう??
自分でも不思議でしかたない。
それは銘が入ってる大きいこけしで、顔が可愛いかった。
本棚に自分が購入した小さめのこけしが2体並んでいるが、購入したこけしは大きすぎて本棚に入らない。
今はパソコンの横に置いて仕事をしながら眺めている。
私自身こけし好きの自覚はない。
だって本物のこけし好きの人たちのコレクションは凄まじいものだからだ。
私が高校生の時、社会経済の先生が書道部の顧問で、こけし好きの先生だった。
どこそこでこけし市があって、なんて話しをよく聞かされていた。
それは全国に及ぶもので、どんなに遠くても出かけて大量に購入しているのだった。
私のはそんなんじゃない。
どうしてこけしを買っちゃったんだろう?と自分に問いかけるくらいなんだから。
それでも温泉地を訪れるとなんだかんだ記念にこけしを買ってしまう。
こけしに限らず、木彫りの物が好きなんだと思う。それに関しては自覚もあるくらいだ。
だから先日の古本市で見つけた、木彫りの熊に引き寄せられてしまったのだと思う。
「買いでしょ」
オーソドックスな鮭を咥えてる黒ヒグマが大小数体、
鮭を咥えず雄たけびをあげている茶ヒグマも数体、かなり大きめのが展示されてた。
どれも中古なので状態を丹念にチェック。
顔つきも様々。
いい顔だなと思っても木が割れていたり、鮭の造りがイマイチだったり・・・。
見てるうちに「こんなん買ってもなあ・・・」と悩み始めたり・・・。
結局、鮭が立派な小ぶりの熊に決めて「家に来るかい?」と購入して来た。

家に連れ帰って、よくよく見てると今にも噛み付かれそうに見えてくるから不思議。
「でも、あなた鮭咥えてますから残念ー」(byギター侍)
汚れていたので、刷毛でなでていたら木屑も落ちてきたので、上からラッカーを塗ってピカピカに仕上げた。
「我家に来たからには、もうどこにも行かないんだからね」


ピカピカになったよー、鮭も美味しいよー♪ ・・・あっ、ネコが俺の鮭を狙ってるー(怒)

木彫りの熊は古本市だったが、セカンドハウスやブックオフに寄ってみると、
私好みの木彫りの置物が信じられない値段で売られている。
誰も見向きもしないし、需要もないからだろう。
先日は木彫りのアイヌの夫婦像を見つけた。
2体の首がビニルの紐で縛られていて痛々しい姿だった。
「買いでしょ」
迷いなく手に取った。
「うっ、重い・・・」
北海道の木なんだろうが、この重たい木は何の木なんだろう?
散々買い物して両手がふさがっていたし、やたら重かったけど、それでも我家に連れて帰りたかった。
首に巻かれた紐を早く外してあげたい。
がんばって連れ帰り、さっそく茶の間の見えるところに飾った。
「素敵♪」

首は絞められたけど、私たち離れ離れにならなくてよかったわね・・・



6月30日(日)

「幼い頃のtuzi'sエピソード」

先日、我家と親しくしていた家で不幸があった。
お通夜に行った。
そこに懐かしい顔を見つけた。
あいさつに行くと、何十年も前に会ったきりなのに、マスクしてたにも関わらず「tuziちゃん!」とわかってくれた。
今や80代になったというその男性は、私の父の一番弟子。
弟子入りしたのは私が生まれる前のことだ。
それでも私はその優秀だった一番弟子のことをよく覚えているし、幼かった私と一緒に写った写真もある。
私自身とても親しみを持っている。
同期でもうひとり弟子がいた。もちろん、その人もこともよく覚えている。
先の一番弟子を仮にヤマさん、同期の弟子をカズさんと呼ぼう。
カズさんは数年前に他界され、天涯孤独だったカズさんをヤマさんが面倒をみて葬儀を出してくれたそうだ。
ヤマさんは今回不幸があった家の娘と父の仲人で結婚して、東京で成功を修め向こうに住んでいる。
ヤマさんからすれば父は先生で、母は先生の奥さん。
母が亡くなった時も、参列はしなかったが豪華な灯篭一対をおくってもらった。
もちろん父の時も高額なお悔やみをいただいた。
そのヤマさんがお通夜がすんでから、我家にお線香をあげに来てくれた。
数年前から糖尿が始まり、その影響で脳梗塞になった。歩くのも不自由だ。
タバコも吸わないのに肺がんが発見されて手術をうけ、その後心臓の血管が詰まりそうになりカテーテルで治療。
「こっちに帰ってくるのも今度が最後だと思うよ」と語った。
成功を修めた建設会社はふたりの息子さんか継いで、娘さんも近くに嫁ぎ、孫9人に恵まれ幸せだと語る。
体を壊す前は登山が趣味になり、峰を渡って山小屋をはしごした。
息子さんに仕事を任せ、これから悠々自適が時間が取れるという矢先の脳梗塞だったそうで。
そんなこれまでのことなど話していたが、なんの拍子か私の幼かった頃の話になり・・・

毎年、盆暮れに東京から帰省すると我家に寄っていたのだが、
その時幼かった私にお土産に花火を買ってきたのだそう。きっとお盆の帰省の時だろう。
カズさんから私にお土産がなかったらしく、
「ヤマちゃんから花火もらったけど、カズちゃんからはないの?」
と言ったらしい。なんて正直な子供なんだ。というか、子供は素直に言葉を発するものだ。



幼稚園時代、私は乗り合いバスで定期券を持って幼稚園に通っていた。
バス停は家のすぐ近くだし、乗って15分くらいで幼稚園近くのバス停に着く。そこに幼稚園の先生が待っててくれる。
帰りは先生がバスに乗せてくれて、家の前のバス停で下りる。そんな毎日だ。
当時はバスに車掌が乗っていて、幼稚園の先生が「この子供は○○で降ろして下さい」と乗せる。
バスで通う幼稚園児は私ひとりだ。毎日のことだから、車掌も分かってるはず。
昔の乗り合いバスは、ぎゅうぎゅう詰めで、座れないし掴まるところさえないのが当たり前。
小さい私はどんどん後ろに追いやられる。車内は‘おしくら饅頭’状態だった。
そんなある日。
私が下りなきゃならないバス停で下りられなかった事件が発生。
「(あ、バスが止まらない)」そう思った私は、「ちょっとすいません!」と何度も言ったそうな。
「ちょっとすいません!」と言いながら客の中を掻き分けながら進んだんだろう。
幼稚園児が「ちょっとすいません!」と言うのを聞いた大人たちは
「この言葉遣いをする賢い子はどこの子供だろう?」と舌を巻いたそうだ。
このバスの中での出来事は近所の人から父の耳に入り、父はこの「ちょっとすいません」が気に入り、
のちに父からこの話しが繰り返しされるのですが、そのたび母は「車掌がいけない」と語るのでした。
下りるべきバス停を150mほど通り越して、バスは急停止。
幼かった私にとっては未知の世界から帰宅したちょっとした冒険だったことを覚えている。



またある年のクリスマス。
幼稚園に上がる前の幼かった私。サンタクロースを信じていたわけではないが、
外国にはそういうおじいさんがいて、トナカイに乗ってやって子供たちにプレゼントを配ってる、入口は煙突。
幼い私も存在だけは知っていたようだ。
父と交友のある自転車屋さんが、赤い靴にお菓子が入ってる定番のプレゼントを持って来てくれた。
既に寝ていた私の枕元に母が置いた。
朝起きて、私は母に「サンタクロースってほんとにいるんだね」と言ったそうな。
私が小学校に上がってからも自転車屋さんは舞妓さんの刺繍がされた裁縫箱などもプレゼントしてくれた。



極めつけは、これは今だに語り草になってるのだが、まだよちよち歩きの頃の話し。
近くに住む私の叔母(父の姉)が息子(私のいとこのキヨシ)の授業参観日に私をおぶって行ったそうな。
なんでわざわざ私をおぶって行ったのかは、もはや他界した叔母に聞くこともできないが、
叔母にも特に理由はなかったのだろう。
とにかく背中におぶさった私は、キヨシの授業参観に行ったわけで。
授業中、先生が質問してみんなが手を挙げる中、キヨシが手を挙げなかったのだろう。
背中の私が声を発した!
「キヨシ!手を挙げろ!・・・キヨシ!手を挙げろ!・・・」と。
もっともな話しだと思うね。
いい歳したキヨシ(東京在住)が、会うたびにこの話しを私にする。
「恥ずかしかったんだぞ」
後年、叔母も私に「なんでtuziを連れてきたんだ!」とキヨシに学校から帰ってくるなり怒られたと語った。
叔母にもキヨシの記憶にもこの時のことは深く刻まれたようだ。
当の私は記憶にないのですが、この話しは私のお気に入りで、
「手を挙げなかったからでしょ」
そんなやりとりを飽きもせず初老になったキヨシと私は爆笑しながら繰り返すのでした。




7月11日(木)

「叔母の死」

6月上旬、叔母が亡くなった。
昨年の秋に病気が見つかって精密検査を受けに総合病院に行ったものの、苦痛のあまり結局検査は受けられなかった。
高齢でもあるため、無理にリスクの高い外科手術をすることはしない方針で、
痛みをやわらげながら過ごすということになった。
叔母は不幸な人生をおくってきた。
結婚相手が酒乱で暴力をふるう男で、しだいに二人の子供にまで手をあげる始末。
そもそも、私の父は叔母の結婚に唯一反対した人だった。
母の妹である叔母は、母と同じ理容の免許を持ち、美貌で優秀な女性だった。
そんな叔母に縁談が持ち上がった。相手は同じ理容業で開業している男。
実家の兄(母の弟)は「県内でもトップクラスの理容業だ」と豪語し、妹を嫁がせる気満々。
お祖母ちゃん(叔母の母親)も良縁と決め込んでいた。
唯一、義兄である私の父だけが
「財産云々じゃなく相手を見て嫁がせるべき。そんなに急がなくても嫁ぎ先はいくらでもある。」
と、この縁談に反対した。父の人を見る目は確かだった。
案の定、母屋には住めず倉住まいしたうえ、今で言うDV夫で、叔母は理由もなく青あざができるほど殴られた。
そんな日々が続いていたのに、心配かけまいと「転んでしまって・・・」と叔母は周囲に話していた。
ほどなく、叔母は幻聴を聞くようになり、やがて精神を病み入院生活に。
美しかった姿は薬の副作用のため見る影もなく太ってしまった。
「手に職をつけたほうがよい」というお祖母ちゃんの考えで、母も妹の叔母も理容の道に進んだのに、
お祖母ちゃんの「店を持っている人なら不自由なく暮らせる」という、
進歩的なんだか古いんだか訳わかんない考えに振り回された結果がこれだ。
叔母は子供たちのために我慢していたのだろうが、自分の幸せを一番に考えるべきだった。
病気になるまで我慢する必要がどこにある?
結果、子供たちをも不幸にしてしまったではないか!
第一、何のための手に職なんだ?一人でも食べていくための手に職ではないのか?
子供たちを連れて出るべきだったと、私ならそうすると思う。
そんな殴るような、また精神的苦痛に耐える必要などないではないか。
手をあげないまでも精神的苦痛はある。それだって立派な暴力だ。我慢にも限界がある。
そんな男の所にいなくたって、人生どうにでもなるさ。
お祖母ちゃんにも頼れず、もちろん実家の兄にも頼れず、苦しんだ挙句叔母はついに精神を病んでしまった。
人生は、自分にとっての幸せを求めて選択すべきだと私は思う。
ただ誰しも選択の目が狂うことはある。結婚となればある意味博打(ばくち)だ。
叔母は不幸にも結婚相手に恵まれず、選択すべき時に決断をせず、精神を病んでしまった。
おそらく、「嫁ぎ先を出る」という選択肢が叔母にはなかったのだと思う。
以来、50年もの入院生活。取り返しのつかない人生を歩んでしまった。
哀れでならない。可哀想でならない。
あの男とさえ出会わなければ・・・叔母の人生を返せ!犯罪だろ!
結婚した相手の男は、叔母が病気になったとたん離婚を切り出した。
病院の主治医を丸め込んで離婚に成功。
叔母は旧姓に戻って亡くなった。

叔母の人生をメチャクチャにしたDV元夫も昨年亡くなっていた。
子供たちによれば一周忌が5月だったというから、5月幾日が命日なのだろう。
憎き元夫だから叔母には月が変わるまで生きて欲しかった。
6月に入って、私は密かに安堵していたが、叔母は月が変わってすぐに力尽きてしまった。
月は変わったけど、元夫と命日が5日しか変わらないことが後日判明。
たった5日だなんて・・・
どこまで悪縁引きずるんだ・・・。

(つづく)



7月17日(水)

「親子の情」

叔母が病んで、すぐに男は離婚を言い出し、病院を言葉巧みに丸め込んで離婚が成立。
叔母は旧姓に戻って50年ほど入院生活。そして最期まで病室のベットで亡くなった。
なんということだ。
あんなに美しく賢い叔母が、こんな所で亡くなっていいはずがない。
精神病棟で50年も過ごし終わる人生は、人生と呼べるのだろうか・・・。
そう、それも人生だ。

叔母が犠牲になっても守った子供たちは、父親の元で暮らすことになったが、ほどなく継母がやって来た。
その継母には連れ子がいた。女の子で、叔母の娘と同学年。当時まだ小学校低学年。
叔母の娘と連れ子は、仲が好くなることなくギクシャクした関係のまま大人になった。
叔母の娘は父親の再婚にも反発し、家出をしたほどだった。
母親は病気で入院したが、良くなったら帰って来ると信じ、だから尚更のこと父親の再婚は腑に落ちなかったのだろう。
それでも継母を迎え、娘は頼る大人がいないまま成長。結婚した今でもほとんど人と話さない。
結婚相手は優しい夫ということで安心したが、子供に問題を抱えている様子。表情も暗い。

叔母にはもうひとり男の子がいた。弟はまだ幼く、母親の病気のことも理解できなかっただろう。
継母に育てられた、といってもいい。
現在、その継母と二人暮らし、一旦は理容師になったが店をたたんで、継母と同居し会社勤めしている。
実母が亡くなって、葬儀にだけは参列したが、家から喪服を着ずに式場で着替えている。
継母に気を使ってのことだと言う。もちろん実母が亡くなったことも継母には伝えていないらしい。
継母にそこまで気を使う必要はないと思うのだが。
実母が亡くなって葬儀に参列するのは当然ではないか。
なぜ隠れて参列せねばならない?
その神経は私には理解できない。

ところで、叔母の葬儀一切は、叔母の生まれ実家の叔父(叔母の兄)が喪主をつとめた。
金銭的なことは、亡くなった叔母が残してくれたお金で十分まかなえたはずと私は思っている。
叔母は無駄遣い一つしない、むしろ倹約家だった。というかそういう性分なのだ。
服は何十年も着たおすし、何でも物持ち良すぎるし。だから叔母は大金を残していたはず。
喪主は叔父だが、実質取り仕切っていたのは、叔父の娘(私の従姉妹)だ。
葬儀一切を取り仕切った従姉妹は二人の子供たちに、10万円ずつ渡していたが、
お悔やみで半分回収してしまったから娘のほうは交通費で相殺されてほぼゼロじゃん。
これまで疎遠だったにしろ実の娘なんだから、もう少しお金で渡してあげても・・・ま、それは措いといて。

この従姉妹が葬儀に参列した叔母の息子に思いのたけを言って聞かせている。
「何もあんたが継母の面倒見なくたっていいんだよ」
「いま家を出て独立しないと、このままずるずる面倒見ることになるんだからね」
「介護しなきゃならない義理なんてどこにもないんだから」
「本当の娘がいるんだから、そこに行ってもらえばいいことなんだから」
本当の娘は海を渡った他県に住んでいるのだが。
とにかく、‘説得’を通り越して‘考えの押し付け’になってやしないか、と思って聞いていた。
だって、息子もいい歳の大人なんだから、その判断くらいは自分で決められる、と思うのだが。
「このまま流されたら、あんたが面倒みることになるんだよ」
と従姉妹は強く言うけど、息子にしてみたら「それでもいい」くらいに思っているのではなかろうか。

実の親なら育ててもらって当たり前、と思って悪態ついているうち亡くなってしまい
孝行したい時に親は無し
となるところだが、叔母の息子としては継母に育てられただけに恩義しか感じてないのではないか。
育ててもらった、という恩義があるから、むげに出来ない。
息子の性格が優柔不断というだけでなく、恩義が勝っているのではないか。
だからといって、実母の死を隠す必要はないと思うが。
ふたりの叔母(私の母の妹たち)も従姉妹に賛同しているのか、はたまた圧倒されたのか頷くばかり。
従姉妹にガーッ、言われた息子の今後はいかに・・・。

(つづく)