ティーハウス 2004年10月5日 〜 2005年9月19日 掲載分

 


歴史問題

今回は歴史問題についてちょっと考えてみたいと思います。歴史問題について「軍国主義が…」なんて書き始めると、すぐに「うわぁ」っていう感じで引く人も多いと思うんですが、日中・日韓関係の問題、靖国神社の問題、領土問題、どれをとっても私たち一般市民が「過去の事実を知らない」ということが最大の問題だという気がします。

まず、この世に“絶対的な価値観”というものがない以上、日本が過去にやってきたことを「絶対に間違っている」「絶対に正しい」と言うことはできません。一人一人がどう考えるか、です。まず、明治維新でわが国は「大日本帝国」になりました。この「帝国」というのが重要です。その後、政治においても経済においても庶民の生活においても急激な変化が起こり、世の中が活発になる反面、さまざまな混乱も起きました。第一次世界大戦が終わったあたりから経済が徐々に行き詰まり、1929(昭和4)年には世界恐慌が起こり、国民の不満は頂点に達しました。こうした不満の中で「超国家主義」という思想が生まれ、特に軍部において強い支持を受けました。これが「軍部内閣結成」という流れを作り出し、1931(昭和6)年の満州事変からその動きが顕著になります。五.一五事件、二.二六事件などを経て軍部の発言力は徐々に増し、1941(昭和16)年、ついに軍部内閣(東条内閣)が現実のものとなります。

私はこの歴史に対して思うことが四つあります。一つは、明治維新で帝国主義になり韓国併合などで大陸に侵略したことについては、正しいとは言えないまでも、“仕方がなかった”という気がします。なぜなら、この時代、常にヨーロッパ列強の「アジア侵略」という脅威があったからです。日本がもし何もしなかったら、どうなっていたでしょうか。恐らくアジア全土がヨーロッパの植民地になっていたと思います。そして、すでに広大な植民地を保有していたヨーロッパ列強に軍事的に対抗するためには、日本も領土を広げざるを得なかったと思います。また、当時の日本人は現在と全く違う価値観をもっていたことも考慮に入れる必要があると思います。二つ目は、帝国主義が間違いではなかったとはいえ、昭和に入ってからの『軍部の権力増大→軍国主義』はやはり間違いであったと思います。それは結果が如実に物語っています。三つ目は、日本は敗戦国であるとはいえ、アメリカやヨーロッパの国々に対する謝罪や反省は無用だと思います。2度にわたる世界大戦はヨーロッパの国々の帝国主義が発端です。またアメリカについては、真珠湾攻撃とは全く比較にならない残虐なことを日本の一般市民に対して行ないました。特に「一般市民に対しての2度の核爆弾使用」といったことまで許されてしまうのか、戦勝国は何をやっても許されるのか、はなはだ疑問です。四つ目は、韓国・中国をはじめとするアジアの人々に対しての差別と非人道的な行為については、反省して謝罪しなければならないということ。山口淑子さんが「李香蘭」として活躍していたとき、初来日した時の様子をこう書いています。「おい、その格好は何だ、ええ?」警官は私の中国服を指さして舌打ちした。「いいか、日本人は一等国民だぞ。三等国民のチャンコロの服を着て、支那語なぞしゃべって、それで貴様、恥ずかしくないのか」(中略)これが夢にまで見ていた日本の第一歩だった。(「李香蘭・私の半生」山口淑子・藤原作弥著) 謝罪するというのは、日本政府が何かの機会に頭を下げることよりも、私たち一人一人が謝罪の気持ちを持つことが大切だと思います。

ここまではいわば一人の社会人として歴史問題を見てきましたが、ここで視点を変えてみて「草原の心拠」的視点で見てみると、地球の悲しい実態というものが見えてきます。誰もが殺し合いをしたくないという気持ちをもち、また、相手もそういう気持ちをもっていることがわかっていながら、それを避けることができない…。草原の心拠のコーナーで書いたように、悪魔が私たち一人一人の心の中に住んでいるのです。人間は基本的に「闘い」が好きです。人間は他の人に勝ち、他の人より優位に立つことが好きです。人間はサッカーや野球が好きです。人間はトランプやチェスや将棋が好きです。たしかに「闘い」は人生をおもしろくすることがあります。しかし、その「闘い好き」が、今までに莫大な苦しみを生んできました。 …人間は、まったく闘わなくても幸せになれます。本当は闘う必要などないのです。私たちが本当に闘うべき相手は、心の中に住む悪魔なのです。

そういえば「帝国主義」という単語を辞書で調べていたらおもしろいことが書いてありました。@政治上では、軍事的に他国を征服して大国家をつくろうとする侵略的な立場。A経済上で、独占資本がはばをきかす、資本主義の最後の段階。(「国語辞典」講談社) あぁなるほど、最近流行りの「M&A」というのは「帝国主義」と言えばわかりやすかったんだ…

参考文献 … 資料日本史(東京法令出版)、要説日本史年表(山川出版社)

2005年9月19日

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WWFファン@

交通機関の中で環境的に最もクリーンで、最も安全なはずの鉄道であのような痛ましい事故が起きてしまったのは本当に残念です。そして、このような出来事の背後にも“競争社会”という悪魔の影が見えてきています。並走する阪急宝塚線との熾烈な争い。2年前のダイヤ改正で快速の停車駅「中山寺駅」がひとつ増えました。にもかかわらず、それ以降の駅到着時刻が2年前と全く変更されていません。通常、駅に停車するには減速の時間も含めて1分〜2分多くかかることを考えれば、これは恐ろしいことです。JR西日本では運行の正確さを15秒単位でチェックしているとのこと。そして、あの快速電車が向かっていた尼崎駅では、なんと1秒単位でのチェックが行なわれていたそうです。すでに数回の訓告処分を受けていた運転士が、自分のミスで生じた1分半の遅れを取り戻そうと必死であったことは容易に想像がつきます。

アメリカの新聞で興味深い調査が行なわれていました。何分遅れると、「電車が遅れた」と感じるか。アメリカ人は5分、イギリス人は6分、日本人は1分だそうです。これは日本人がせっかちだというよりも、日本の鉄道が非常に正確に運行されているという背景があるでしょう。しかしその分、乗務員にはプレッシャーがかかります。鉄道会社はまだマシな方かもしれません。運送会社のトラック運転手の中には寝る時間も充分になく、赤信号で停止している間に仮眠をとるドライバーもいると聞きます。「バブル崩壊⇒不況」という流れが激しい生き残り競争、経営側の権力増大という現象を引き起こし、私たちはまるで明治の殖産興業の時代のような過酷な労働を強いられるようになってしまったようです。

前回のこのコーナーで、世の中のさまざまな問題について「原因がはっきりしてきたな」と書きました。本当にはっきりしてきたと思います。あとは“行動”です。その行動のひとつとして、私は最近WWF(World Wide Fund for Nature=世界自然保護基金)の会員になりました。これからは「自然保護」もこのHPの重要なテーマになるでしょう。といっても私は団体行動のとれない人間ですので、私なりの方法で取り組んでいきたいと思っています。このHPは今まで「いかなる企業や団体とも関係がない」としてきましたが、これからはWWFの活動は微力ながら応援して行こうと思っています。

WWFの会員は、申し込みをして会費(月々500円〜)を納めるだけで誰でも簡単になれます。リンクのページ「せせらぎの懸け橋」にWWFの公式なリンクを設置しましたので、興味ある方はご覧になってみてください。もちろん、無理には勧めません。届いたパンフレットなどを見ていると、自然保護活動についてわかりやすく書かれていて、これから自分なりのペースでの楽しい活動ができそうです。WWFの活動については、今後もこのコーナーで少しずつご紹介して行こうと思っています。“NGO=偽善”というイメージをもたれている方々には不快かもしれませんが、私は自然保護活動は重要であると思っています。

2005年5月1日

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日本のこれから

先日、NHKで「日本のこれから〜格差社会」という番組をやっていました。私はこのHPでも書いてきたように、競争社会については否定的な考えを持っているので、興味深く番組を拝見し、アンケートにも参加させていただきました。今まで、競争社会について異を唱えるというのは全くの少数派だったと思うのですが、今回テレビ番組でこれだけ大きく取り上げられたということは、いよいよ「競争社会に対する疑問」というものが表面化してきたかなと、嬉しく思いました。

それより10日くらい前、やはりNHKなんですが、ラジオ番組で五木寛之さんと桐野夏生さんの対談をやっていて、これも興味深い内容でした。

五木「今、人々の心の中に“見えない壁”がどんどん増えているような気がするんです。引きこもりとか最近はニートと呼ばれる人たちもいますが…」
桐野「ええ。それに、そういった人たちの“消極的な反乱”がますます増えるんじゃないかと思います。デモ行進とか暴動とかの積極的な反乱ではなく、ネットで知り合った人同士の集団自殺とか」
五木「あぁ、なるほどね。そういった反乱ですか…」


格差社会というのは具体的に言うと、年収二千万円以上の富裕層と年収二百万円以下の貧困層が増えている、つまり貧富の差が大きくなってきていることを言うのですが、最近のニュースを見ているとこの二つの層、富裕層と貧困層に属する人たちの犯罪が増えているような気がします。

こうした最近のさまざまな動きを見ていると「原因がはっきりしてきたな」と感じます。それは、道義とか道徳とか倫理とか人道とかモラルとかマナーといったものをおろそかにし過ぎたということです。「心」に関することをおろそかにし過ぎました。しかしそれは、国や学校が特定の価値観を押しつけるわけには行かないのです。ひとりひとりの人が自主的に持つしかありません。逆の観点から見れば、今こそ正しい価値観が広がるチャンスかもしれません。

もうほんと、あとは現実的にどうすればよいか、ということでしょうね。上記の「日本のこれから〜格差社会」という番組では、スタジオで参加されていた一般の方々がそれぞれにご自分の考えを持ち、中には私と同じような考えを持った方もいらっしゃるということがわかり、本当に嬉しく思いました。

2005年4月6日

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人間・機械

偽造キャッシュカードで他人の預金を不正に引き出す犯罪が急増しているそうですね。主に、他人のカードを読取装置にかけて情報を盗み、それを別のカードへ書き込んで偽造するという方法が多いそうですが、しかし、そういう「スキミング」と呼ばれる方法も今となってはレベルが低いんだそうです。最先端を行くプロたちは、電話会社を装って銀行のATMに盗聴器を仕掛け、その電話回線を流れる信号(カード情報、暗証番号、名前、取引内容、取引金額などが含まれる)を“盗み”、カードを偽造するそうです。もうこうなっては対処のしようがありません。

もちろん、このままではいけないということで、銀行側もセキュリティを強化した(と言っている)ICカードなどを導入するようですが、しかしこれ、実に怪しいようです。スキミングができなくなるどころか、逆に非接触でやりやすくなるという話もあります。それに、磁気カードよりも偽造しずらいとはいえ、いったん偽造方法を確立してしまえば、あとは簡単に何枚でも偽造できるでしょう。指紋や瞳などを照合する「生体認証システム」と呼ばれる方法にも必ず盲点はあるでしょう。ICカードに変えたからといって安心できる状況ではないようです。

いわゆる「いたちごっこ」で、こうしたことに対する設備投資というのは相当な額になると思うんですが、そこまでして機械化を維持する必要性というのは… 理由がわからなくなっちゃいますね。実際専門家の話でも、カード偽造に対する最善の対処法は「カードを作らないことだ」と言ってます。

企業っていうのは、機械を導入したがりますよね。銀行に限らず工場とかオフィス、お店、駅、その他さまざまな施設…。その理由は人件費を減らすこと以外にも、作業が楽になるとか、速くなるとか、いろいろありそうなものですが、よく考えてみると全然楽にはならないんですよね。例えば、今まで3人で手書きでやっていた事務処理があるとします。そこにパソコンとプリンタが導入されて作業が自動化されるとどうなるでしょうか? 「あいた時間は休憩していてください」なんてことにはなりません。事務員は一人に減らされ、その事務員には別の作業が任されるようになるでしょう。結果的に、作業が楽になった人はいません。給料が上がった人もいません。2人の人が職を失ったか、他の部署に回されただけです。企業っていうのは、従業員よりも機械が好きなんですね。

それともうひとつは、単純な作業は機械がやるようになってしまったので、人間がやる仕事は重労働とか接客とか高度な技術を要する専門職など何パターンかに集約されつつあります。これが、求人が多いにもかかわらず失業率が高いという状況を産み出していると思います。つまり、実は徐々に働きづらい世の中になってきているのです。

だからといって、「じゃあ機械を撤去して、やっぱり人間がやるようにしましょう」というのもおかしな話だと思います。実際、工場での単純作業や、オフィスでの事務処理などは、誰だって「機械がやってくれればいいのにな」と思うのはごく当然のことだと思いますし、農作業のように機械が人間の生活を豊かにしてくれた例はたくさんあると思います。問題は、機械を導入したあと、その空いた時間で人間が何をするかです。「空いた時間で別の仕事をしましょう」ではおかしいと思うんです。「機械を導入したから、人を減らしましょう」ではおかしいと思うんです。「機械を導入したから、労働時間を減らしましょう」ということがなぜ出来ないんでしょうか。

今、ホームレスやニートと呼ばれる人たちがたくさんいます。昔「メトロポリス」という映画がありましたが、実際、機械や文明に翻弄される社会になってしまっているのかもしれません。ただ人件費節減のために機械を導入するのであれば、人間には何の恩恵ももたらされません。偽造カードの話で言えば、どんなにセキュリティを強化しても人間の道徳心が失われて行くのであれば、金融機関のオンラインシステムは崩壊します。 …結局、私たちの「心」の問題なのです。

2005年2月8日

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知 足

最近、棚の奥から引っぱり出したり、あるいは友人から借りたりして、古い音楽をよく聴いています。特に1970年代から80年代前半のもの。年寄りじみたことを言うようですが、このころの音楽を聴いていると「懐かしい」と感じると同時に、「あの頃は良かった」としみじみ思ってしまいます。しかし、これが単に「年をとったから」ではかたづけられない気がするのです。

古い音楽を聴いていると、当時の風景がよみがえってきます。ビルの工事現場、湖のボート、ウルトラマン、デパートの屋上の乗り物やゲーム機…。新幹線、高速道路、人工衛星、アポロ月面着陸、コンピューター…。考えてみると、この時代っていうのは私たちが「技術の進歩」に最も衝撃を受けていた時代だったんですね。世界中の人々が「これから世界が変わるぞ!」という確かな実感をもっていたと思うんです。だからこそ、一つ一つの出来事に感動があったんですね。初めて高速道路を走ったとき、初めて新幹線に乗ったとき、初めてファミリーレストランで食事をしたときなどなど、それらの一つ一つが「新しい時代」を感じさせてくれたので。

その「新しい時代」に入った今、どうでしょうか。当時思い描いていたような輝かしい時代ではないですね。高速道路がまだ珍しかった頃、高速道路を走って感動したなら「高速道路って素晴らしい」と思いますし、新幹線に乗って感動したなら「新幹線って素晴らしい」と思ってしまいます。でも、そこに落とし穴があるような気がします。実は、高速道路が素晴らしいのではなくて、それまで一般道で長い時間かけて、しかも信号や歩行者などに気をつけなければならないという厳しい状況だったものが、高速道路の誕生によって短時間で快適に行けるようになった、その変化が素晴らしいのです。昔は夜行列車で8時間かけて大阪に行ったのが、新幹線の誕生によって2〜3時間で快適に行けるようになった、その変化が素晴らしいのです。くどいようですが、その“変化”が素晴らしいのです。だから、高速道路や新幹線が「あって当たり前」になっちゃいけないと思うんです。

これから高速道路を走るときは、同じ区間を一般道で走るのと比べてみてはいかがでしょう。新幹線に乗るとき、在来線と比べてみてはいかがでしょう。かなり気持ちが違うはずです。そしてそれは「知足」にもつながります。つまりそれで満足することです。それ以上のものを求めないということです。もう充分快適じゃないですか? まだこの先リニアモーターカーまで追い求めますか?

70年代〜80年代前半の音楽を聴いていると、子供の頃感じていた、「新しい時代が来るぞ!」というような何とも言えない良さをとても感じます。その素晴らしい新時代は、実はちゃんとやって来てたんですね。それを素晴らしいと思えないのは、それを受け取る私たちに問題があるようです。

2004年11月25日

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姫 神

目を疑うような衝撃的なニュースが飛び込んできました。草原につづく道の広告を出せるスペースはないだろうかと図書館で各社の新聞を見ていると、10月2日の朝刊社会面に「姫神さん死去」の文字が…。「姫神さん」とは私の最も好きな音楽アーティスト「姫神」(星吉昭)のことです。

58歳…、体調を崩していたとか体が弱かったとか、そんな情報はまったく目にしていなかっただけに、本当に突然で目を疑いました。姫神との出会いは、もう約20年前、まだ「姫神せんせいしょん」という名で活動していた頃、FMで聴いたのが最初でした。しかしその頃は特に好きというわけでもなく、気に入った曲を2〜3曲聴いていた程度でした。それから10年くらい経ったある日、CD店でぶらぶら見ていると、なにやら非常に日本的で幻想的なジャケットが目に留まりました。それが姫神の「浄土曼荼羅」というライブアルバムでした。ジャケットが気に入って買ってしまう、いわゆる「ジャケ買い」だったのですが、その音楽はそれ以後の私を姫神ファンにするのに充分な内容でした。

姫神の創り出す音楽の魅力は何なのかを考えるとき、結局は「良い音楽とは何なのか」というところに行き着くと思います。もちろん良い音楽というのは人それぞれ違うでしょうから、私にとっての「良い音楽」ということになりますし、正確には「私の好きな音楽」と言う方が良いかもしれません。

俺は、よく小さい頃から音楽っていうのはハートがあって人間がそこに出るもんだっていう考え方に対して否定的だったわけ。全部、楽器なんて玄関のブザーを鳴らすのと同じなんじゃないかって、常にそういう気持ちがあったわけ。でもそれに関して、だいたい九対一くらいで俺は常に非難されてきた。シンセサイザーとか誰が押しても同じで、そっちのテクノっぽい方がだんだん強くなってきたわけじゃない。それについてテクノ・ポップっていうものを用いてね、「バカヤロー!音楽にハートなんかない」なんていうことが言えるようになったっていうことは本当に嬉しかった。(「銀星倶楽部11」ペヨトル工房)

これは近田春夫さんの発言です(姫神とは無関係)。要するに、多数の人が良いと感じる音楽を作る方法を理論的に体系化できるかどうかという問題なんですが、まだ私がハタチくらいの時に上記の発言を見たときは非常に共感しました。ある意味では正しいと思います。それは例えば、有名なシェフが作った料理をレシピにして、そのレシピに従えば他の人でもそのシェフと同じおいしい料理が作れる、という意味においてです。しかし、食事の良し悪しというのは、結局味覚だけじゃないんですよね。その他のさまざまな要素、特に「心」や「魂」に関する要素がとても重要なわけです。

現在のほとんどの音楽が左脳とか右脳だけに働きかけ、それでも心とか感情までは届くのですが、さすがに魂までには届きません。そんな中で、「青い花」や「花鳥巡礼」は魂を癒し、「この草原の光を」は魂を感動させ、「神々の詩」は魂を奮い立たせ、つまり、姫神・星吉昭さんは魂から音楽を作ることのできる数少ないアーティストだったのです。姫神の音楽には、私の20代後半から30代前半にかけての非常に苦しい時期を本当に助けてもらいました。特に、カッコつけない素朴な日本的なメロディーが、どんな状況にいても私の心に安らぎをもたらしてくれました。

いやぁ…、言葉で言い表せないくらい非常に残念で、また寂しいです。最も好きなアーティストが亡くなり、もう新作が聴けないというのは…。それに58歳というのは早すぎます。今後は長男の星吉紀さんが後を継いで姫神は続行するということで、それも楽しみですが、やはり吉昭さんのように魂から音楽を作るというのはなかなか難しいと思います。恥ずかしながらというか、幸運にもというか、私は今年4月に発売された遺作となるアルバム「風の伝説」をまだ聴いていません。最後の“新作”に心が少し救われます。

私はイーハトーボの住人になりたいとかねてから思っていますが、星吉昭さんは正真正銘のイーハトーボの住人です。私がご冥福をお祈りするまでもなく、これからもイーハトーボから私たちを見つめてくれるのでしょう。今夜は少々のお酒を飲みながら、じっくりと姫神の音楽を聴いてみましょうか。星さんを送り出す曲としては「見上げれば、花びら」が一番いいんじゃないでしょうか。とにかく姫神の音楽は素晴らしいです。星吉昭さん、本当にありがとうございました。

2004年10月5日

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