絵門さんのメッセージ その2
●死生観、そして、人間の尊厳
先日テレビを見ていたら、加藤和也さん(美空ひばりさんの長男)が出演されていた。美空ひばりさんが最期の時を迎えるときに、体全体が跳び上がるほどの電気ショックを何度も与えられているのを見て、「もうやめてください!」と思わず医師に言ったという。患者の生命を1分でも長持ちさせる… これが医師の務めなのかもしれない。しかしそれは、患者の意思や家族の意思、もっと言えば、人間の尊厳とは、かけ離れたものなのかもしれないと、番組を見ていてそう感じた。
絵門さんの著書「母への詫び状」の中に、絵門さんのお母さんの最期に際して、こんな一節がある。もう、苦しむためにこの世に戻ってこなくていい。病院に行って、意識を取り戻して、管を体にいっぱいつけられて、拷問のような日々を過ごすのであれば、このまま、もしかして今、天国に向かうお花畑を歩いているのであれば、そのまま笑顔で迷わず歩いていってほしい……私はただひたすら、そう祈っていた。そう祈りながら、母の命が助かることを祈っているのではない自分が、悲しかった。
絵門さんは一貫して、たとえ一秒後に死ぬのであっても、その一秒前まで生きることに向かっていなくてはならない と言っていた。しかしこれは、そんなに単純な話ではない。絵門さんの言う「生への執着」は、極めて奥が深い。絵門さんは二つめの抗がん剤(正確には三つめ)の投与を拒否している。抗がん剤を投与した方が、命が長く続く可能性が高いことは絵門さんもわかっていたようだから、先ほどの考えとは一見矛盾している。「不思議に元気」にこういう箇所がある。私は、ある意味で執拗に「生」に執着している。またある意味では全く執着していない。「生への執着」という言葉の意味するところは、一言では語れない。「生への執着を捨てる」ということが、すなわち「とことん生に執着して生きる」ということでもあると思うのだ。 たしかに… 例えば自殺する人は、一見、生への執着が全くないように思える。しかし実は逆。生への執着が本当にゼロならば、死ぬ必要も全くない。
絵門さんは、生への執着をいったん完全にゼロにしようとした。その時、魂が表面に表れる。魂の「生きている間にあれもやりたい、これもやりたい」という意志が表れる。それが「とことん生きる」という考えにつながる。しかし、魂の意志には「精神的な成長」というものがその根本にある。治る見込みが少ないという状況の中で、抗がん剤の副作用が続いたり、いくつもの管を体に通されての「延命処置」は、精神的な成長に寄与しないどころか、むしろ悪影響を及ぼすかもしれない(そうでない人もいるかもしれないので、延命処置を完全に否定するものではない)。絵門さんは、「自分の体の声を聴いて、抗がん剤をやめて自然治癒の道を選ぶことにした」と言っているが、それはすなわち、魂の声を聴いていたのではないかと思う。そしてそれこそが「人間の尊厳」ではないだろうか。
私は死ぬことより、長く生きられる健康な体に戻れないと烙印を押された状態で続く時間の方が恐ろしい。(「ゆっくり日記」) 絵門さんはこのようなことを繰り返し言っている。つまり「死の一秒前まで生に向かっていなくてはならない」というのは、ただ単に生の時間を引き延ばすということではないことがはっきりとわかるのである。絵門さんの言う「生への執着」は、つまり、「自分らしく生きる」「魂の意志を貫く」ということだったのだ。
参考…「不思議に元気」P92、P187、「がんとゆっくり日記」P196
●好きにさせてもらうわ
絵門さんについて誰かが書いたコメントや記事を見ると、「前向きな人だった」と評されていることが非常に多い。たしかに間違ってはいないと思うが、ただ私は「絵門ゆう子=前向きな人」と単純に捉えてしまうことには強い疑問を感じる。絵門さんのメッセージの大きな特徴のひとつは、前向きでもきれい事でもないものが数多く含まれている、ということではないかと思う。そして、私はそういったメッセージにも強く共感するのである。
「不思議に元気」にはこういう記述がある。私は、今思い出しても泣きたくなるほど真面目な日々を過ごし、さんざんな思いを味わった。母も含め、謙虚に、素直にがんという病気に取り組んできた多くの仲間を天国に見送った。そうした経験を通し、周りにひんしゅくを買うことも覚悟の上で、自分をとことんかわいがるべき、という境地に私は行き着いた。自分の体が良い方向に向かう、その道筋を見つけられるのは、誰よりも自分だ。「周りに厳しく自分に甘く、自分の中から生まれる思いを大切にしよう。生も死も、結局最終的には自分だけのこと、だから好きにさせてもらうわ、と開き直って、自分を大いにかわいがろう!」と、今は言いまくっている。 自己中心を肯定する過激な発言にも見えるが、ただ絵門さんがここで言いたいのは、お母さんのときも含め、病院、民間療法、自然療法、健康食品、健康器具、宗教、超能力者、霊能者… ありとあらゆるものに救いを求め、言われたとおり真面目に実践してきたのに、何ひとつよい結果が出なかった、もう人になんか頼っていられるか! ということだと思う。
これに関連して、絵門さんが造り出した「踏み込み屋」という言葉がある。踏み込み屋とは、他人の性格や内面にまであれやこれやと指図してくる人を言う。私個人的に思うことは、面と向かって「あなたはこうすべき」「これはやるべきじゃない」などと露骨に言ってくる人はそう多くはない。しかし、言葉に出さなくても、表情や態度でそういう意思をこちらに示してくる人はとても多いと思う。特に、絵門さんや私のように、普通の人とは違う価値観を持っている人は、そういう目に遭い易い。また、他人だけでなく、実は自分の中にも周囲に合わせようとして「こうすべき」「こうすべきでない」という意識が働く。これら内側からと外側からの二つの働きかけによって、私はかなり自分の行動や言動を抑制してきた。いわば、内側からと外側からの二つの踏み込み屋の言いなりになってきたわけだ。そしてそれは、絵門さんと同じように、言われた通りにやっていれば良い結果になるだろうと思っていた。しかし、今冷静に考えてみて、何ひとつ良い結果を生み出していないことがわかる。ただ単に自分を萎縮させてきただけだと思う。
だから、今現在の私は、絵門さんの「自分の中から生まれる思いを大切にしよう」というメッセージに強く共感するのである。もちろん、マナーやモラルを無視するという意味ではない。が、その範囲内で、社会的な体裁や他人の間違った意識(何でもないことを悪意に取ったり、自分と違うものを排除しようとする意識)を一切気にせず、自分の道を突き進みたいと思う。まさに「生きるも死ぬも最終的には自分だけのこと、だから好きにさせてもらうわ!」という心境だ。
参考…「不思議に元気」P161〜P167
●神々の言い分
しかし、自分の道を突き進んだからといって、現実的に良い結果が得られるというわけではない。結局私の場合(おそらく絵門さんや宮沢賢治も)、どっちみち苦しい現実が待っていると思う。「なんだ、この世界は!」と神を恨みたくもなるが、しかし神の立場になって考えてみると、意外なことがわかる。
神々は、私たちが未熟であるがために、私たちに真実を知らせることができないのだ。例えば、自分の足で登ることに意味がある「修行の山」があるとしよう。神々が私たちに真実を知らせてしまうことは、その「修行の山」にロープウェイやケーブルカーを造ってしまうようなものなのだ。その山自体に何の意味もなくなってしまう。同じように、私たちに真実を知らせてしまえば、地球が何の意味もない場所になってしまう。ロープウェイを設けても、私たちがその山の意味をきちんと理解し、ロープウェイを使わずに自分の足で登り続けるのなら問題ない。しかし、私たちの魂はそこまで発達していない。私たちの内面には未熟な欲求や衝動があるために、例え自分の足で登ることが正しいということを理解していても、おそらく大半の人がそのロープウェイに乗ってしまうだろう。これはまさに、エバ(イヴ)が食べることを禁じられていた木の果実を食べてしまう創世記の一節を思い出させる。
神々は、私たちに真実を知らせたくても、それができないのだ。それとまったく同じ理由で、この地球上に、真の価値観をもたらすこともできない。私たち一人一人が持っている価値観や社会に通用している価値観は、真の価値観とはまったく異なる。正反対である場合も多い。もし、絵門さんや宮沢賢治のような真実を知っている人たちに、険しい道を歩いた末にあからさまにバラ色の幸福がもたらされてしまったら、他の未熟な人たちも、そのバラ色の幸福を得たいという利己的な目的のためだけに、険しい道を歩くようになってしまうだろう。これは「金の斧・銀の斧」の話の、後からやってくる愚かな者が自分の鉄の斧をわざと池に落とす行為と似ている。こうなってしまうことは、神々にとっては絶対に避けなければならない事態なのだ。
絵門さんに「がんの完治」がもたらされなかったのも、宮沢賢治に「中央文壇での成功」がもたらされなかったのも、このような理由によるものだったのだ。ひいては、世の中のすべての“理不尽”の原因がここにあったのだ。これは、よくよく考えてみれば、教師が試験の解答を生徒たちに事前に知らせることがないのと同じで、まったく至極当然のことだ。だから、真実を知っている人は死ぬまで険しい道を歩くしかなく、死ぬまであからさまに良い結果がもたらされることもない。まさに、試練が大きいほど、あなたも大きいのだ(*1)。
その代わり、あの世に戻った後、魂の大幅な成長により、本物の“バラ色の幸福”が得られるでしょう。
(*1)「やっぱり今がいちばんいい」エム ナマエ著(愛育社)より
2008年8月18日