絵門さんのメッセージ その3

踏み込み屋の言いなりになったり、周囲の人たちに合わせてばかりいるのは時間の無駄であって、自分の中から生まれる思いを大切に、一歩一歩前へ進むことこそ正しい道なのだ。そしてそれは、生涯報われることはない、ということを認識しなければならない。報われないというのはとても残念なことであるが、しかし、それが即ち不幸であるということではない。

 

●幸せは相対的
多くの人は、「素敵な人と結婚して、年収が1千万円あって、新築の広い家に住んで、大きな車を買って…、こんな暮らしができたら幸せだろうなぁ」などと漠然と思っているのではないだろうか。しかし、そんな人でも冷静になってみれば、そういった暮らしが実現したところで、必ずしも幸せになるとは限らないということに気づいているのだと思う。では、どうなれば幸せなのか? 私は、第一章「草原の心拠・序」の冒頭で、幸せというものは不幸が取り除かれたときにのみやって来る。ある人が、それまでに受けた不幸の量より、より多くの幸せを享受することは絶対にない。と書いたが、絵門さんも「ゆっくり日記」の中で、人の幸せ感というものは、すべて「相対」だとあらためて思う。と書いているように、絵門さんのメッセージの中で「幸せは相対的である」ということが重要なものの一つになっている。

特に興味深いのが、次の記述。入院中、謙虚な心で得た幸せ感の方が勝るのだ。あの究極の中で小さな光を見いだしていた時の私は、生きてきた中で最も心の奥がイキイキしていたようにも感じる。このときの絵門さんにとって“入院中”というのは最も病状が悪かったときで、常識的に言えば、人生の中で最も不幸な時期にあたる。にもかかわらず、絵門さんは逆に「最もイキイキしていた」と表現しているのである。これは、今までに大きな苦しみを経験したことのある人なら理解できるのではないだろうか。死ぬほどの苦しい状況に置かれたとき、人は「生きたい」という思いが内側から湧き出てくると同時に「あの何でもない普段の生活が、なんて幸せなことだったのだろう」と思い知らされる。普段私たちが健康で何も問題がない状態を当たり前だと思い、特に幸せを感じないことを本田美奈子.さんは「あたりまえ病」と表現している。私たちは絵門さんや本田美奈子.さんのメッセージを肝に銘じて「あたりまえ病」にかからないようにしなければならない。

現在でも貧しい国々では、生活に必要な水を得ることさえ難しい状況に置かれている。苦労してやっと手に入れた水でも、濁っていて不衛生な場合が多い。それに比べて日本では、世界でもトップレベルの技術で浄化されたきれいな水が、どこかへ出かけなくても自宅で蛇口をひねるだけで簡単に出てくる。その水を「マズイ」「なんか臭う」と言って、わざわざお金を出してペットボトルに入った天然水を買うことは、他の国々の人たちには理解できないだろう。
参考…「がんとゆっくり日記」P165、「ありがとう」P9

 

●わからないことは、わからないままでいい
絵門さんがかなり頻繁に発信していたのが、この「わからないことは、わからないままでいい」というメッセージ。その真意を探るために「不思議に元気」の第三章に綴られている、絵門さんが理想とする医師と患者のやり取りの節を改めて読んでみると、「今の世の中、あまりにも統計的なデータで先を決めつけてしまうことが多すぎるんじゃないの!」という絵門さんの声が聞こえてくるようだ。今や、ありとあらゆる分野で異常なほど、この統計データが重んじられている。ある企業が新規出店を検討する際、その店の前の道を通行する人数や年齢層、職業、時間帯、周囲の店の種類、競合する店の数などを事細かに分析し、「ここなら黒字でやっていける」とか「ここはダメだ」と決めつける。あるいはスポーツの世界でも、「このバッターは内角の際どいコースを攻めて2ストライクに追い込むと、次の外角のボール球を空振りする傾向がある」などと分析して、その通りの配球をする。こうしたやり方は、たしかに一定の効果を挙げていると思うし、さまざまな分野の発展に寄与してきたと思う。

しかし、絶対視は禁物だ。何しろこの世は無常である。統計のとおりにならないのが、この世界なのだ。そもそも、何事も統計のとおりになるのだったら、この世の存在意義がない。にもかかわらず、統計データを絶対視する傾向が強まっている。ビジネス、とりわけマーケティングの分野では真っ盛りだ。しかし一体今までに幾つのコンビニ店が閉店したことだろう。私が見たものだけでも数え切れない。統計データがそんなにあてになるというのであれば、それでロト6を当てて生活したらいかがかと思う。

医療の分野においても当然この統計データは重視されていて、絶対視している人も大勢いるだろう。絶対視している医師は当然のごとく「たすかる見込みはない」「もってあと半年だ」などと口走る。しかしそう告げられた患者や家族は、希望や気力を失うこともあるだろう。「病は気から」というように、気力というものが病気と深く関わっていることを考えれば、これは大変な問題だ。絵門さんが最も問題視していたのは、このことなのだ。

統計データはあくまで参考にしかならない。統計データに基づいて将来のことを決めつけるのは愚かなことだし、危険でもある。
参考…「うさぎのユック」、「がんとゆっくり日記」P134、「がんでも私は不思議に元気」第三章、「生きているからこそ」P46

 

●一日一日がいのちの記念日
絵門さんが最も力を込めて発信していたメッセージが、この「一日一日がいのちの記念日」だと私は思う。何か特別によい事があった日が記念すべき日なのではなく、生まれてから死ぬまでのすべての日が、かけがえのない特別な日「いのちの記念日」なのだ、という意味。上に書いた「幸せは相対的」ともつながる話である。このことに気づいているか否かで、人生は大きく変わってくる。そして、このことに気づくためには、死ぬほどの苦しい経験がどうしても必要だ。

だからといって、自ら進んで死ぬほどの苦しい経験をしろ、ということではない。自分の道を歩む、自分らしく生きる、ということが大事なのだ。「うさぎのユック」のはじめの方に、とても印象的な「天の声」のセリフがある。ゆっくりとよーく考えながら、一つずつ決断して生きていくのですよ。人が生きていく上で、基本にすべきことだと思う。

一日一日がいのちの記念日。だから、毎日をひたむきに生きる。これは、本田美奈子.さんの「LIVE FOR LIFE」(生きるために生きる)というメッセージと共通する点が多いと思う。こうしたメッセージを発信している人は意外と多いのかもしれないし、これから増えてくるのではないかとも思う。増えてきてほしい。こうしたメッセージや活動が将来的に融合し、大きな動きとなれば、世界がよい方向へ大きく動き出す可能性が充分ある。
参考…「うさぎのユック」、「がんと一緒にゆっくりと」P194、「ありがとう」P9

 

●絵門さんの謎、この世の謎、究極の疑問
さて、ここまで絵門さんのメッセージを具体的に見てきた。どのメッセージも、基本的に生きることに前向きなものばかりである。しかし、絵門さんはそう単純な人ではない。絵門さんはプライベートに関わるような細かい情報まで著書やコラムなどで公表していたので、絵門さんに関する謎は少ない。しかしそれでも、幾つかの謎が存在する。タキソールに代わる新たな抗がん剤の使用を断った理由については「不思議に元気」の第6章に詳しく綴られているが、患者会の資料などを読むとどうも他にも理由があったらしい。また、絵門さんはスピリチュアルなことに深い関心を持っていたにもかかわらず、著書や講演などでは具体的なことにほとんど触れていないのも謎である(こちらも唯一、患者会のイベントでは触れている)。

しかし、私が思うに、絵門さんに関する最大の謎は「ゆっくり日記」の最終回ではないかと思う。なにしろ「経過報告は次回も続きます。」で終わっているのである。それまでのゆっくり日記では、一つの話題を複数回にまたいで書いているものはなく、毎回完結であるのに、なぜよりによって最終回だけこのような形になっているのだろうか。自らの死を予感した絵門さんが「経過報告は次回も続きます。」としておいて、翌週のご自身の訃報につなげたのではないかと勘ぐることもできるが、夫・健一郎さんのコメントによると、絵門さんは最期の最期までご自身の死を予感してはいなかったようなので、この見方は否定される。

もう一つの見方としては、体の危機的な状況を感じた絵門さんが、ゆっくり日記を数回にわたって続く形にしておけば、この世にとどまる理由ができて、その間は死なないのではないか、と考えたのかもしれない。絵門さんの性格からすれば、私はこれはあり得ることだと思う。しかし、それでも謎が残る。それまでの連載に比べて、最終回は明らかに雰囲気が異なる。冒頭、今回からオブラートに包まない、と書いている。つまり、今までは明るく前向きな気持ちになるような文章を書いてきたが、今回からそれはしないというのである。実際、当時のご自身の状態を「竜宮城から帰って、現実に戻った浦島太郎」と表現し、自然治癒によってがんが治ると信じていたことについても、「そうは問屋が卸さなかった」と悲観的に書いている。こうしたものは、それまでのすべての著書や講演などにおいて避けてきた表現である。

絵門さんのメッセージに関心を寄せる人でも、おそらくこのゆっくり日記の最終回からは目をそむけると思う。しかし私は、絵門さんがこの最終回に書いたことと、きちんと向き合わなければならないと思っている。絵門さんがここに書いたことは、この世の最大の謎について問題提起している。つまり、「苦しみによって魂が成長する世界」というものが、本当によいものなのか、本当に必要な世界なのかという、究極的な疑問である。

このころの絵門さんは、もう待ったなしで二つめの抗がん剤を使うかどうかを決めなければならない、差し迫った状況にあった。おそらく周りのほとんどの人は、抗がん剤治療を受けるように勧めたと思う。絵門さんは何度も、この抗がん剤治療について「これは神様が与えた新たな試練で、これを乗り越えればまたさらに精神的に成長するのだ」と自分に言い聞かせようとしたと思う。しかし、結果として、最期まで受けなかった。絵門さんはこの抗がん剤の副作用がつらいことや、長くて1年くらいしか効かないということを知っていた。私は、絵門さんは、この“神”が与えた“新たな試練”を拒絶したのだと思う。「苦しみが人を成長させることはわかった。でも神様、もういい加減にしてよ! どこまで人を苦しめれば気が済むの!!」 私は、絵門さんのこういう心の叫びが、ゆっくり日記の最終回から感じられてならない。

果たして本当に、この「苦しみによって魂が成長する世界」に正当性はあるのか。何の罪もない子供が地雷を踏んで片足を失ったり、心やさしい人が他人の保証人になったことで多額の借金を背負わされたり… といったことを見るにつけ、私は深い疑問を感じずにはいられない。神はこのような悲惨な現実、理不尽な現実を見て、心が痛まないのだろうか。

絵門さんは若いころ、キリスト教の洗礼を受けた。熱心な信者ではなかったようだが、乳がんだという診断を受けたとき、知り合いの複数の医師から、偶然にも聖路加国際病院を薦められ、結果的にそこで治療を受け、復活し、精力的に活動した。「お別れの会」が行なわれたのも、聖ルカ礼拝堂。絵門さんの魂とキリスト教が強く結ばれていることを示している。

そういったことが、私を聖書の世界へと導いた。この世の究極の疑問を解き明かすためにも、次回から、聖書の世界へ足を踏み入れたい。
参考…「がんとゆっくり日記」P247

2010年11月26日

 

 

…つづく