理想の世界

「天命」を読む
前のページで、この世がとても不条理と思える苦しみに満ちた世界であることを書いたが、そのページをUPした直後に、まさにその答えを提示するかのような1冊の本が出版された。五木寛之著「天命」である。

この本の中で、ガンに冒され都内の病院に入院している20歳位の少女の話が出てくる。「どうして自分だけが、こんなにきれいな夜景の中で、苦しまなければならないのか、その理由がわからない」と言う。「神はなぜ自分だけにこんな苦しみを与えるのか、その理由をどうしても知りたい」と言う。私も知りたいし、著者の五木さんも知りたいのだろう。しかし、五木さんも結局その理由は「わからない」と言っている。私が前のページで挙げた、戦争に巻き込まれて死んでしまう5歳の子供の例はどうだろう。あるいは最近多発している幼女誘拐・殺害の事件などはどうだろう。なぜそんな悲惨な死を遂げなければならなかったのか。もっとわからないのではないだろうか。

もしその理由を強いて求めるなら、「因果応報」という言葉があるように、過去(過去生)にその理由を求めるしかないが、それはどんどん過去に遡ることになり、結局は「悪の起源は何か」ということになってしまう。そうなるともう、アダムとイブが蛇にそそのかされて食べてしまう禁断の果実の話になってしまう。ただ、この世のさまざまな不条理な苦しみや悲しみの背後にはそういった“神がかりな”事情があるということは知っておいたほうが良いと思う。人間が根本的に悪い性質を持っているわけではなく、何らかの事情で悪い性質を“植え付けられてしまった”ということを知ることはとても大事だと思う。

 

何が大切なのか
この世で最も大切なものは何だろうか。命か、愛か、平和か、家族か、健康か、それともお金か…? そのどれもが「ノー」である。頭を冷やしてよく考えて欲しい。あなたの心の一番深い所が、あなたの魂が、本当はこの世がどんな世界であって欲しいのか、本当はこの世がどんな世界なのか、本当は何が最も大切なのか、知っているはずです。それは「高い精神性」です。心のきれいさです。それ以外のものが最も大切な世界というのを想像してみてください。例えば生物学の世界で言われている「利己的な遺伝子」。遺伝子の存続こそが最も大切だという世界。たしかに理論的には、そういう可能性もあるでしょう。しかし、あなたはそんな世界に住みたいと思いますか? 遺伝子の存続を第一に考えて生きて行きたいと思いますか? 「高い精神性」以外のものが尊ばれる世界というのは、結局意味のない世界です。私たちがそんな意味のない世界に存在しているわけではない、ということは私たちの心や魂がよく知っているはずです。

もちろん、命とか愛とか平和とか、そういったものが「大切ではない」と言っているわけではありません。心のきれいさを大切にするなら、そういったものも自ずと大切になるはずです。

※ここで言う「愛」とは、恋愛感情などの「愛欲」のことです(2021年1月14日追記)。

 

理想の世界
とすれば、理想の世界とはどんな世界だろうか。まず高い精神性が尊ばれる世界であり、そして物質も豊かなほうがいい。さらには、健康で幸せで長生きできるほうがいい。いや、正確に言うならば、高い精神性が尊ばれる世界なら、自ずと物質が豊かで幸せな世界になるはずだ。果たして、このような世界はどこかに存在するのだろうか? 真っ先に思い浮かべるのは「天国」とか「極楽浄土」だろう。あとは最高に進化した“カテゴリー9”の惑星「ティアウーバ星」というのも「Abduction to the 9th planet」に描かれている。こうした精神的にも物質的にも非常に高度に進化した惑星というのは、この宇宙のどこかに幾つか存在しているのだと思う。そして、地球上での今までの宗教的な活動では、そうした高度に進化した世界に“移り住む”ことを目的としていた面がかなりあると思う。しかし、ここで一つ何か大事なことを忘れていないだろうか? この地球を理想の世界にすることは、果たして本当に不可能なのだろうか?

 

この世は本当は素晴らしい
理想世界と現在の地球との間には、大きなギャップがある。しかし考えてみれば、私たちが逆に理想世界に生まれていたらどうだろう。ぬくぬくと幸せで楽しい毎日を過ごすのも結構だが、苦しみや悲しみがまったく無かったら「やるべきこと」もまた無いのではないだろうか。「存在意義」が薄れるのではないだろうか。

五木寛之さんの「天命」を読んでいて、とても心打たれる部分があった。釈迦は死の直前に、かつて住んだ場所、この世界の楽しさや美しさを弟子に何度も語ったそうだ。ブッダは、今死に瀕しながら生きていること、そのときに見えるものが、圧倒的に素晴らしいという認識のありかたを示しているのです。生存することの意味。この世は生きる意味がある。生きる価値がある。そのたしかな自覚。ブッダは死の瞬間に、それをはっきりと見たように私は思います。そしてそのとき、世界はまったく異なった相をあらわした。光に満ち、苦しさも憎しみももちろんない、無常の概念を超えた、永遠に光り輝く世界です。

この地球の現状が悲惨なのか、それとも美しいのか、それはどこかに絶対的な基準があるのではなく、見るほうの精神性の問題なのだ。それはどこかの偽善者かお調子者が「地球は美しい」「人間は美しい」などと軽薄に語った言葉とはわけが違う。この地球をそれでもなお「美しい」と感じられるとしたら、それはこの苦に満ちた地球を真正面から見据えてきた者だけが到達できる境地ではないだろうか。理想世界と現在の地球との間に大きなギャップがあるからこそ、私たちに「やるべきこと」、存在意義がある。そして、そのことにはっきりと気づいたときに初めて、地球が素晴らしい世界に見えてくるのではないだろうか。 …やはり、宮沢賢治もまたこのことに気づいていたからこそ、現実の岩手の地と理想郷「イーハトーボ」を重ねていたのではないだろうか。

順路