第一章
草原の心拠 序

幸せとは何か
私たちは本当に幸せだろうか? 確かに物質は豊かになった。テレビは自宅に居ながらにして遠くの映像や映画作品などを見ることを可能にした。新幹線は東京⇔博多間を5時間で移動することを可能にした。インターネットはさまざまな情報をボーダレスにやり取りすることを可能にした。そして、それらは私たちに幸せをもたらすはずだった。しかし、そうした実感が私たちにあるだろうか。

そもそも幸せとは何だろうか。例えば、東京から博多まで5時間で行くとしても、その間にマナーの悪い客が近くに居たり、博多でつらい仕事が待っていれば、幸せな気持ちにはなれないだろう。逆に、博多まで徒歩で1ヶ月かけて行くとしても、その間に出会う人々がとても親切にしてくれたり、長年待ち焦がれていた郷里に帰るということであれば、幸せな1ヶ月になるだろう。私の長年の観察によれば、(いわゆる)幸せというものは不幸が取り除かれたときにのみやって来る。ある人が、それまでに受けた不幸の量より、より多くの幸せを享受することは絶対にない。これは幸せに限らず何でもそうである。不快さがなければ、快適さもない。不景気がなければ好景気もない。にもかかわらず、世の中のほとんどの人が、総理大臣とか大統領と呼ばれる人までもが、「右肩上がりの世界」を実現できると思い込んでいるところに最大の問題がある。

 

何のために生きる?
「無気力な若者が多い」と言う人がいる。何に対してもやる気を出さず、目的を見出せずフラフラしているというのだ。しかし、それはむしろ大事なことではないだろうか。そんな簡単に人生の目的などというものを見つけられるはずがない。ましてや一国一城の主になるとか、金をふんだんにもうけて老後は安泰で暮らすとか、そんなことが人生の目的であってはならない。ハタチそこそこで自分の進路を決定するのも結構だが、30歳、40歳になってもまだ自分の進路を決定できなくても構わないと思う。なぜなら、その人は何年もの歳月をかけてさまざまな環境に身を置き、自分の目的、何のために生きるのかというその答えを見出そうと努力しているからだ。(単なる怠け者は別だが。)

「何のために生きるのか?」 ほとんどの人がこの答えを見つけることをあきらめているが、私は不可能ではないと思っている。最近テレビである有名な占い師が「人生っていうのは修行なんですよ」と言っていた。私はこの占い師のファンではないが、これに関しては私もそのとおりだと思う。修行という言葉にピンと来なければ、勉強とか学習と言い換えても良い。私たちの魂が生徒であり、地球が学校である。ただし、目に見えるような教師は居らず、基本的に自主学習である。総じて言えば、「何のために生きるのか?」、その答えは「魂の成長のためだ」と言える。

 

人生の目的・方針
人生の目的を定めるというのは、一見非常に有意義な気がするが、実は非常に危険なことでもある。なぜなら、その目的が間違っていれば何年もの時間、あるいは一生を棒に振る可能性もあるからだ。若い人にはなかなかわからないかも知れないが、自分の人生を変えてしまうような大きな出来事を経験した人にとっては、自分が今現在持っている価値観が何かをきっかけにしてアッという間にひっくり返される可能性があることがわかるはずだ。そういった意味から言って、具体的な人生の目的などというものは絶対に定めるべきではないと思う。そんなものを定めて、それにしがみつくようなことにでもなれば、それこそ人生を棒に振ることにもなりかねない。

かといって、何の目的も指針も持たないというのは果たしてどうだろう。何を決めるにも迷いが生じるし、第一さっきも書いたように、一生無気力なままで人生を終えることになってしまう。これは苦痛だ。

そういったことから言えば、「一時的な人生の方針」というものが最も有効なのではないだろうか。これは、今現在持っている指針を絶対的なものとするのではなく、あくまで一時的な方針とすることである。

 

草原の心拠
その一時的な方針として、具体的に何を置くかは人それぞれだろう。だから、ここから先はさらに私の個人的な話になる。

私が仏教に出会ったとき、その奥深さに圧倒され、「これこそ自分が追い求めていた答えだ」と思った。しかし、その思想を現実の中でどう実践したらよいかはわからなかった。その後「老子」に出会ったとき、その無為自然という教えが仏教よりも身近に感じられた。しかしやはり、現実の中でそれをどう実践すればよいかはわからなかった。それくらい仏教の無色(むしき)の世界や老子の無為の世界と、現実の世界があまりにもかけ離れているし、また、かといって、現実の世界を捨て去ることが正しいとはどうしても思えなかった。

それと、現実の世界に何の魅力もないかというと、そうとも言えない。素晴らしい自然もあれば、素晴らしい人もいる。それを具体的に表現したものが宮沢賢治の「イーハトーボ」ではないだろうか。私はこのイーハトーボや老子の無為自然、仏教の禅の思想、それと非常に興味深い内容の本「Abduction to the 9th planet」(Michel Desmarquet著)などをベースにして、一つの心のよりどころとしてまとめることがとても意味のあることだと感じている。そのまとめ上げたものを「草原の心拠」と呼びたい。(なお、第二章では絵門ゆう子さんのメッセージが加わる。)

なお、この文書は“論文”ではない。一つ一つの物事について、できる限り筋道立てて説明するような書き方はしていないことをご理解いただきたい。

順路