この世を観る
何はともあれ、まず、この世がどんな世界なのかを理解しないことには何も始められないだろう。この世を理解しないで生きるのと、この世を理解した上で生きるのとでは、人生の重みがまったく変わってくる。
禅によれば
仏教の核心に「四諦」というものがある。釈迦は「この世は苦の世界だ」と言い切る。それは、この世は無常の世界であるのに、われわれ衆生が執着心を持っていることに原因があるという。私は今までこのことに今ひとつピンと来なかったのだが、最近になってようやくピンと来るものがあった。それは、もともとこの世の根本存在つまり全ての精神的存在が“成長”を求めていて、その成長のためには“変化”が必要であるということ、その結果創造されたものが「宇宙=変化の世界」であり、われわれはそのさまざまな変化を“苦痛”として感じる、ということである。
ここでふたつ大事なことがわかる。苦痛を無くすためには執着心を無くせば良いとか、執着心の持ち主である自我を滅すれば良い、というような考えになりがちだが、実はそうではなくて、変化と苦痛を受け入れて精神的に成長すること、それが唯一の苦痛を無くすための手段ではないだろうか。とすれば、「悟り」というのは何か特別な一大イベントではなくて、何らかの苦痛を乗り越えたとき自らの魂に立ち帰って、「何かひとつ大事なことを理解した」、これが「悟り」だということがわかる。
Abduction to the 9th planetによれば
もうひとつ、この世を観るにあたって「Abduction to the 9th planet」を読んでみよう。この本はオーストラリアに住むミシェル・デマルケ氏の体験を書いたもので、オーストラリアでは非常に話題になった。日本では「超巨大・宇宙文明の真相」というタイトルで徳間書店から出版されている。この本ではこの世について、とても具体的に書かれている。
我々は謎を解く鍵をあなたに教えましょう。聖霊は唯一の目的「彼の精神的必要を満たす」ために惑星、太陽、植物、動物などを創造しました。聖霊は物質界を通して精神的体験を求めたのです。このことを理解するのはなかなか難しいことですがあなたは前進しています。そして聖霊は無限小の部分を人間に挿入しました。これは個人のアストラル体にあたります。アストラル体をはじめ人間の九つの体には「ハイアーセルフ(高次の自我)」が9分の1づつ住んでいて、それぞれは中心で統合されています。このハイアーセルフはさらに高位のハイアーセルフの9分の1にあたっていて、それはさらに高位のハイアーセルフの9分の1にあたっています。これは源にさかのぼるまで続き、聖霊の精神的体験の壮大な濾過作用を形成しています。
アストラル体は肉体で体験した全ての感覚をハイアーセルフに伝えます。この感覚は九つのハイアーセルフのフィルターを通過して聖霊を取り囲む「エーテルの海」に到着しますが、もしその感覚が汚れたものであると途中のハイアーセルフで引っかかってしまいます。もしあなたが精神的に進歩して第一段階のハイアーセルフのフィルターが必要なくなると、アストラル体はそのハイアーセルフを切り離します。また、惑星にも九つのカテゴリーがありアストラル体の進歩に応じて、より高いカテゴリーの惑星へと移り住んでゆきます。地球は最も低い第一カテゴリーの惑星で、これは幼稚園に例えることができます。第二カテゴリーの惑星は小学校に例えることができ、どちらも大人による指導が必要になります。高いカテゴリーに進むほど物質的にも肉体的にも恵まれた状態になります。アストラル体はさまざまな人生を通して得た全ての認識を記憶している体です。それは物質的にではなく、精神的にのみ高められます。
これによれば、この世は我々の魂(アストラル体)が成長するための世界であることがわかる。もちろん、ここに書かれている事が100%真実だと言うつもりはない。
老子によれば
この世について観るなら、老子の言葉は欠かせない。
老子においては太初に「道」があり、その「道」は言葉もなく名もなく、あらゆる秩序と明晰なるものを拒んで、暗くかすかに静まり返る非合理な混沌であった。この現象世界のあらゆる存在は、この暗く定かならぬ混沌の中から生じてき、やがてまたその混沌の中に帰ってゆく。どのような言葉も栄光も、またどのような文明も栄華も、それが人間によって作られたものである限り、いつかは崩れ去り滅び失せ、「道」の混沌の中に虚しく呑み込まれてゆく。
ここでは、この世の根本存在である「道」が現象世界のあらゆる存在を生み出すという点では先程の「Abduction…」と共通するし、それによって創造されたものがいつかは滅び失せるという点では、仏教の無常観と共通する。
この世とは
現時点で「この世とは何か」をまとめてみれば、それは「魂の成長のための世界」であり、それは次々に移ろい変化する無常の世界であると言えるだろう。その魂の成長は、当面我々にとっては「苦痛」というものを通してやってくるが、いずれ成長するにしたがって苦痛の割合は少なくなるだろう。そして、この世を理解することによって初めて、私たち一人一人が正しい価値観を持つようになる。