最終話

もうひとつの姉妹の形 中編

〜3〜
 ――マリア様、今日も一日私を見守っていてください。
「では、お先に」
 マリア様へのお祈りも済ませ、ちょうどやってきたクラスメイトに声をかけ歩き出そうとしたそのときだった。
「お待ちなさい」
 背後からのその言葉に、思わず背筋がピンと伸びる。ああ、祥子さまのこの一言から始まったんだよなあ。半年程度しかたっていないはずなのにずいぶんと昔のことに感じる。
「ごきげんよう、蔦子さん」
 とりあえず、その感慨は置いておいて、くるりと振り返ってにこやかにご挨拶。
「タイが、曲がって……もう。最後まで言わせてよ、祐巳さん」
「その冗談は結構ですっ!」
 ごきげんよう、と口元に笑みを浮かべ、近づいてくる蔦子さん。
 しかし、その間もカシャッ、カシャッと撮影が止むことはないためまるでロボットみたいな姿に思わず苦笑い。
 しかし、新聞部ならともかく、蔦子さんには撮影されてもなんとも思わなくなってきているあたり、私の元々あまり豊かでない感性もちょっと問題ありなレベルに到達してきているのかも。
「うん、朝はこんなものかな」
「撮り慣れているでしょうに」
「とんでもない。ここ最近では貴重な一枚ですとも」
「あー……」
「昨日なんかすごかったし。ま、あれはあれで記念になるかもしれないけど」
 カメラをポケットに収めた蔦子さんからの返事は思ってもみないものだった。
「へ?」
「ああっ! その顔もいいね」
 まだしまうべきじゃなかったかとぶつぶつ言っている蔦子さんに思わず尋ねる。
「ねえ、それってどういうこと? 私、少なくとも昨日は笑っていたよね?」
「祐巳さん、それを私に言う?」
 私を真っ直ぐ見据える蔦子さん。
 ……確かに。ずっと撮り続けていた人には作った笑顔はバレバレだったのだろう。
「ま、誰も彼もにってわけじゃないけど、少なくとも志摩子さんと桂さんは気づいていたね。祐巳さんのこと、不安げに見てたよ」
 全然気づかなかった。昨日の私は相当呆けていたのかもしれない。
「そっか。心配かけてごめんね」
「わ、私は別に何もしていないから。でも、その様子だとうまくいったようだけど?」
「う〜ん。お姉さまと、という意味なら進展無し」
 照れくさそうにしていた蔦子さんが一転して不思議そうに私の顔をのぞき込む。
「どういうことか、聞いていいわけ?」
 姉妹関係は何も変わらず、されど私は元気いっぱい、これいかに?
 こんな感じで疑問符が飛んでいるに違いない。蔦子さんにもずいぶん迷惑をかけたので正直に話すことにしよう。
「……ふ〜ん。なかなかどうして。祐巳さん、強いわ」
 昨晩、祐麒にしたのとほぼ同じ説明だったんだけど、まさかまったく同じ反応が返ってくるとは。
「そ、そうなのかな?」
「うまくいくよう……いや、うまくいくに決まっているだろうけど。その日が早く来るのを祈ってるわ。じゃ、部室に寄ってくるから」
 理由を聞く暇もなく去っていってしまうところまで一緒だった。


 ……何をしているのだろうか、この人は?
 お手洗いの帰り、廊下に生首。もとい、三奈子さまがいた。
 下に続く階段から首だけひょっこり出して。風紀に厳しいシスターがこの方の姿を後ろから見たら、怒りを通り越して目を回してしまうかも。
 げ、目があった。
「祐巳さん、祐巳さん」
 こっち、こっちと手招きしている。ただでさえ、あまりおつきあいしたくないのに、こんな珍妙な格好をされた方からは今すぐ逃げ出したいところだ。
 しかし、この方の場合、逃げたところで追い回されるに決まっているのだ。どうせ捕まるなら、ていうわけで素直に三奈子さまの元へ向かう。
「……何なさっているんですか。三奈子さま」
 声が大きいと唇に人差し指を立てるので、もっと近づいてもう一回尋ねた。
「何をなさっているんですか?」
「見つかるわけにはいかないからね」
「……これじゃ、かえって目立っていると思いますけど」
「見つかりたくない人にさえ見つからなければそれでいいの。ささっ、まずはこっちへ」
 なるほど。でも誰に? と、考える間もなく手を取られて引っ張られた。
 階段を下っていきたどり着いた先は一階の階段下。死角になっていて、放課後の掃除の時間でもなければ好きこのんで人がやってくる場所ではない。
「ここなら大丈夫ね」
 一息つく三奈子さま。こっちとしては引っ張り込まれたあげく二人きりである。あまり気持ちの良いものではない。
「で、なんの御用ですか?」
 念には念をと、まだ辺りをうかがっていた三奈子さまに問いただす。
 私がそう言うやいなやくるりと振り返り、じっと見つめてくる。
 元から行動が読めない方だけど、それでもこうも奇妙な行動ばかり取られるとなんというか……
「ふむ、いつもの顔ね」
「はぁ?」
 言うに事欠いて、いつのも顔、だぁ? いきなり連れ込んだあげく、この一言。いくら何でも失礼すぎやしないだろうか、この人。
「ああ、ごめんなさい。容姿の意味で言ったわけじゃないわ」
 ようやくこちらの思いに気づいたのかフォローにもなっていないようなことを言う。
「……じゃあどういう意味で言ったんですか」
 うーん、と人差し指を頬にあて首をかしげたあとに飛び出た言葉は思ってもないものだった。
「いつもの祐巳さんってのが一番近いかしら?」
「いつもの、私?」
 オウム返しに問いただしてしまう。
「そう。昨日見せてた作り物の笑顔じゃなく」
 愕然とした。三奈子さまにもばれていたというのだろうか。それでこんな強硬手段に打って出たとか?
「何いってんですか、三奈子さま。昨日は病み上がりでちょっと気分が悪かっただけですから。何でもかんでも事件にするのは勘弁してくださいよ」
 肩をすくめ、「またか、この人」と呆れている様子を上手に演技できたと思う。
「ま、解決したのならそれで良いけどね」
 私の返事なんか聞いていなかったようにつぶやく。
「ああ、記事のことを心配しているのかもしれないけど一切載せないから安心して……ってこれは虫が良すぎるかしら?」
 苦笑する三奈子さま。ご自分の前科はさすがに理解されているようである。
「紅薔薇さまに止められているからですか?」
「ああ、そうそう。元々そのためにあんな形で祐巳さんをお呼び立てしたのよ。紅薔薇さまに見つかったら、どう弁明しようとも無駄そうじゃない?」
 ご自分の立場をよく分かってらっしゃる。しかし、その口調からするに本当に新聞とは無関係というのだろうか?
「いや、実を言うと紅薔薇さまにストップをかけられたあとも、まったく祐巳さんたちのことをあきらめたわけではなかったんだけど」
 ……かえって安心してしまう。正直、あまり信用できない人からその人らしからぬ品行方正な返事が返ってくるよりもよほど頷けるというものだ。
「仮に今回記事にできなかったとしても、背景を知っておけば今後の参考にすることも可能でしょ? そういうわけで、昨日、祐巳さんの様子をうかがってみたらあの笑顔。もう、いっぺんにその気が失せたわ」
 ……これはもう完全にばれているとしか言いようがないだろう。
 思えば、この方。「ではないか」「のように思われる」をはじめとして憶測で記事を書かれることは多々あるが、ご本人が直接嘘をつくことはなかった気がする。
 全面的に信用したわけではないけど、この件に関しては素直に認めてしまおう。
「やれやれ……そんなにバレバレでしたか。修行が足りなかったんですかね?」
 冗談めかしていったつもりだったのに、三奈子さまはクスリとも笑わなかった。
「無理して冗談にしなくても良いわよ。ただ、そうね。普通の人なら騙せたんじゃない?」
「新聞部部長たる三奈子さまだから気づけた、と?」
 確かに普段から追いかけられているしなあ……。
「いいえ。新聞部としての私は気づかなかったわ。真美も間違いなく気づいてはいないでしょう」
 よくできた演技ではあった、と三奈子さま。では、どうして?
「どうしてか? ……それは、昨日のあなたが見せた微笑みとよく似た顔をする友人がいるから。ま、こっちは現在進行形で続いているんだけど」
 苦い顔をしてそうこぼす。
 三奈子さまのご友人に今もなおつらい思いをしている方がいらっしゃるのか。
「あんな顔をする子をこれ以上見たくなくてね。余計なお節介だとは思うけど、つい祐巳さんを呼び止めちゃったわけ。悪かったわね」
「あ、いえ。こちらこそご心配をおかけしまして」
「気にしないで。ただ……そうね、いつの日か単なる笑い話として話せる時が来たら、そのときは記事にさせてもらえると嬉しいわ。同じような想いを抱えた子がほんの少しでも、心から笑えるようなものをきっと書いてみせるから」
「そのときは、きっと」
「楽しみにしてるわ」
 軽く手を振って、三奈子さまは教室へ戻っていった。
 後ろ姿を見送ったあと、壁にもたれてしばらく待つ。
 紅薔薇さまにばれるとまずいから、少し時間をおいて帰ってほしいと頼まれたからだ。
「よく似た顔をする友人、か」
 三奈子さまのあの一言を思わずつぶやいてしまう。
 蔦子さんは志摩子さんや桂さんは気づいていると言っていた。私も同じような気持ちを味わわせていたのかもしれない。
 ちゃんと謝ってそれからお礼もしないと、そんなことを考えながら歩き始めた。


「祐巳ちゃーん」
「ロ、紅薔薇さま!」
 昼食にするべく志摩子さんと薔薇の館に行こうと廊下に出た時だった。
 目の前の団子のような人だかりをスパッとモーゼのように切り開いて紅薔薇さまが現れた。
 さっきから廊下が騒がしいと思ったら紅薔薇さまが来ていたのか。道理で。
「祐巳ちゃん、それに志摩子も。ごきげんよう」
「あ、はい。ごきげんよう紅薔薇さま」
「今日はね、祐巳ちゃんとお昼ご飯をご一緒したくて来ちゃった」
 てへっと笑う紅薔薇さま。
 普段より幾分幼げに見えるそのいたずらっ子のような微笑みに「おぉ」とか「わぁ」とか歓声が上がる。私も思わず首を縦に振ってしまったのだけど……
「はい……って。はいぃ!?」
「そう、良かった。うん? どうかした、祐巳ちゃん?」
「いや、その、お誘いは嬉しいのですが……」
 薔薇さま自らが食事を誘いに来る。それだけでも驚くべきことだけど妹である祥子さまや孫の志摩子さんにならまだ納得もいく。そんな日だって時にはあるだろう。
 しかし、私に、である。目の前に志摩子さんだっているのに。
 私の表情の変化を見て納得がいったらしい。くるりと志摩子さんの方を向くやいなやとんでもないことを言い放った。
「うっかりしてたわ。ごめんなさい、志摩子。祐巳ちゃん借りるわね。さあ祐巳ちゃん、行きましょう」
 ここにいらっしゃる方は本当に紅薔薇さまなのだろうか? どこかの怪盗のようにベリっと一皮むくと黄薔薇さまかお姉さまが現れるのではなかろうか。
 そんなことを考えたまま楽しげに微笑みながら見送っている志摩子さんを残して、紅薔薇さまに連行されていくこととなった。
 ……何か今日は同じ展開を何度も繰り返しているような。
「えーと。祐巳ちゃん、どこ行こうか」
「てっきり行くあてがおありになるのかと……」
「薔薇の館で祐巳ちゃんにお茶でも入れてあげようと思ったんだけど、せっかくだから別の場所にしようかなと思って。あ、そうだわ」
 そう言うやいなや紅薔薇さまは立ち止まり、ポケットからお財布を取り出した。何かを探しているのだろうか?
「よし、あったあった。さあ祐巳ちゃん、行きましょ」


「あの……」
「うん、どうかした?」
「本当に良かったんですか?」
「大丈夫。お店の人だってご自由にって言ってくれたでしょ?」
「はぁ……」
 連れ行かれた場所は大学のカフェテリア。窓際のテーブルにお弁当を広げて雑談をしながら食べていたのだけど……なんとも居心地が悪かった。
 救いといえば、人がまったくいないこと。大学は春休みのど真ん中で、ランチでここを使う人はほとんどいないらしい。
「はい、食後のコーヒー。前に江利子が先生からちょろまかしてきたコーヒーチケットのことを綺麗さっぱり忘れていたわ」
 使わないままになってしまうところだったわね、と微笑む。
 こんなささいな一言でも紅薔薇さまはもうリリアンを巣立ってしまわれる、そのことが実感できて寂しくなった。……そしてお姉さまも。
「あ、おいしい……」
 コーヒー自体もインスタントではないから深みがあるのだけど、紅薔薇さまが入れてくれた砂糖とミルクの量が良いあんばいだった。私好みの味だ。
「どう? 聖にはかなわないけれど私もなかなかのものでしょう?」
 紅薔薇さまが言っているのはお姉さまの妙な特技のことだ。
 あの人は魔法でも使っているんじゃなかろうかというくらい絶妙に人の好みに合わせられるから。
「ありがとうございます。紅薔薇さまがいれてくださったのもおいしいですよ」
「どういたしまして。それにしても自分はブラックばっかりなのに、どうしてあんなにうまいのかしらね?」
「さぁ、謎な人ですから」
 謎な人と言ったのが受けたのか紅薔薇さまはくすくすと笑った。
「本当ね……そんな謎な人間の妹になって五ヶ月。いままでどうだった?」
 コーヒーを飲む手が止まる。紅薔薇さまのお話はその話だったのか。妹になっての総括のようなもの。
「そうですね……いろんなことがありましたね」
 いきなりロザリオを渡されたかと思えば「妹体験してみない?」がなれそめなんて姉妹はそうはいまい。
 あれから時間にすれば半年もたってないのに、いったいどれほど多くの出来事があったのだろう。お姉さまと泣いて笑って……
「……本当にいろんなことがありました」
 様々な想いを込めて、もう一度口に出す。
「……そうね。今、今はどう? 幸せ?」
 つらいとか悲しいとかそう言う気持ちがまったくないといえば嘘になる。でも紅薔薇さまが聞きたいことはそういうことではないだろう。そしてそれは私が思い出せたこと。だから自信を持ってはっきりと答える。
「はい! お姉さまが大好きですから」
「そっか」
 安心したような、そして気のせいかもしれないけど、どこか寂しげにもう一度「そっか」とつぶやいた。
「少し、昔話をして良いかしら?」
 黙ってうなずく。
「ありがと。私は中等部からの入学ってのは知っていたわよね? そして、入学早々、聖や江利子と知り合うことになったの。今思うとすごいことよね、将来の薔薇さまが三人とも同じクラスだったんだから。おまけに今とは似ても似つかぬ関係で」
 その頃のことを思い出しているのだろう。窓の外を眺めながらクスリと笑う。黄薔薇さまが以前言ってたっけ。お姉さまとは犬猿の仲で紅薔薇さまがいなかったらどうなっていたのか分からないって。
「江利子は……変わったというよりはあの頃から今の形に近づいてきた、という感じかしら? ……でも聖はずいぶん変わった」
 お姉さまの話になり、さっきまでの楽しげな表情が消え去った。
「栞さんとのことがあれば、当たり前なのかもしれないけれど……あのとき、私はそばからずっと見ていて全部わかっていた。だから、そのまま行けば聖が不幸なことになるってわかっていたのに、最後まで口を出せなかった。最後の最後、もう手遅れになってからようやく……」
 栞さまが修道院に入ることをお姉さまに知らせた話だ。そのときまでお姉さまは栞さまと離ればなれになるなんてことまるで、考えすらしなかった。……『いばらの森』の須加星と同じように。
「志摩子の時もそう。動けなかった。たとえそれが本人のためであっても、口だけじゃない、本当に聖が嫌がるようなことをしてしまったら……怖かった。そう、私は怖くて動けなかったの」
 その気持ちは痛いほど分かる。
 お姉さまは一部の人を除いて「人」そのものに無関心なところがある。自分を含めて冷めた目でしか見られないことがあったともいっていたっけ。
 もし、お姉さまが今誰かのことが嫌になったとするなら、かつて黄薔薇さまに向けたようなむき出しの敵意ではない、関心を持たれない対象に成り下がるのだろう。
 今の私のように「避けられる」のではない、「相手にされない」のだ。そんなのとても耐えられない。
「結果だけ見たら、栞さんの時も、志摩子の時も動かなかったからこそ……聖は祐巳ちゃんと出会い、今みたいに本当に楽しそうに笑ったりできるようになった。だから、必ずしも悪かったというわけではないとは思う。……でも、過程はどうあれ結局聖を救えたのは、あのときはいなかった祐巳ちゃんだけだった。ずっとそばにいたにもかかわらず私ではどうにもできなかった」
 どうにもできなかったのよ、とうつむき気味にもう一度。
 ……うすうすは思っていたけれど、やっぱり蓉子さまもお姉さまのことが……
「……前に妹は支えだって言ったのを覚えている?」
「はい……『包み込んで守るのが姉。妹は支え』でしたよね?」
「ええ。姉の方は置いておいて、妹の方は本当にその通りになったわね……今の聖があるのは祐巳ちゃんのおかげ。あなただけが聖を立派に支えることができる。だからこれからも聖のそばにいてくれるかしら?」
 私ではなくてって、そう言っている。きっとより相応しいものにバトンタッチという感じなのだろう。でも、これだけは伝えないと。
「お姉さまは、紅薔薇さまに本当に感謝してるって、今の私があるのは蓉子のおかげだって、どうやっても返しきれないくらいの恩があるって言ってました。栞さまの時だってそう、紅薔薇さまがいたからこそお姉さまはお姉さまであれたんです」
 紅薔薇さまは少し間の後、言葉を加えた。
「わざわざ伝えてくれてありがとう。……でも、聖にはもう私は必要ないでしょうね」
「……」
「だから、聖のことをお願い」
「はい」
「ありがとう」
 私にお礼を言った蓉子さまはどこかすっきりした顔をしていた。
 栞さま、志摩子さん、静さま、そして蓉子さま……お姉さまはなんて罪づくりなのだろう。結局、私だけがお姉さまの一番そばに残った。
「あのっ! 何か私にできることはないでしょうか?」
 そんな紅薔薇さまのために何かしたくなって、でも私なんかが紅薔薇さまのためにできることなんてお姉さまのこと以外ではまるで思い浮かばなくて、情けないけど直接聞いてみた。
 すると、「そうね……」と紅薔薇さまは少し考えてから私にお願いをしてきた。
「……じゃあ、これは祥子のお姉さま、志摩子のおばあちゃんとしてのお願いだけれどいいかしら?」
「はい、もちろん」
「二人のことで、一つ心残りがあるのよ。解決したかったけれど、できなかったことが」
「……」
「いずれ、そのことが表に出てくると思う。そのときに大なたを振るうことになったなら、ためらわないで欲しいのよ」
「大なたですか?」
「ええ」
「ふるうことに不安なら私に連絡してちょうだい。大なたを振るう前でも後でもいいから」
 連絡をくれたら飛んでくる。責任は自分がとる。……あの二人のことでそこまでのことなんてあるのだろうか? いや、あるからこそ、こうして言っているのだろう。
 それにしても、私が紅薔薇さまのためにできることって聞いて、祥子さまと志摩子さんのことが返ってくるなんて……
「祐巳ちゃん、どうかした?」
「なんでもないです」
 そんな人だからこそ、あのお姉さまが根負けしてしまったのだろう。そして、そんな人だからこそ、お姉さまのことを私に託したのだろう。
 紅薔薇さま、本当にありがとうございます。
「さて、結構長居しちゃったわね。そろそろ出ましょうか」
「あ、はい、そうですね」
 今から校舎に戻ったらちょうど予鈴がなるくらい、という絶妙な時間だ。
「それにしても祐巳ちゃん、あなた強くなったわね」
 カフェテリアを出て、高等部に戻る途中でそんなことをおっしゃる。まさか紅薔薇さまにまでそう言われるとは。
「あの姉だから鍛えられたのかしらね……ってどうかした?」
 私が複雑な表情を浮かべていることに気づいたようだ。
「いえ、その……昨夜は弟に、今朝は蔦子さんに同じことを言われたんですけど。全然実感がなくて。おまけに二人とも理由を聞く暇もなく去っちゃうし」
「ふーん」
 そう言うと、紅薔薇さまの顔が楽しげなものに。……この顔はさっき私を連れ去ったときに浮かべていたものだ。
 ってことは。
「じゃ、私も内緒」
「えぇー」
 私が情けない声を上げると、くすくすと笑い出す。
「まあ、そのうち分かるわよ」
 紅薔薇さまはまぶしげに青空を見上げながらそう言った。


後編につづく