最終話

もうひとつの姉妹の形 後編

〜4〜
 お姉さまに何か考えがあって私を避けているというのであれば、ただ信じて待とう。
 そう思えるようになって数日、いよいよ明日は卒業式。
 薔薇の館で明日の打ち合わせを終え解散したあと、私はなぜか校舎に戻ろうとしていた。
 自然とお姉さまが一年過ごした教室、三年藤組に向いていたのだ。
 別にお姉さまに会えると考えてのことじゃない。
 そうじゃないんだ。そうじゃなくて、ただ……そう、寂しかった。
 それは理屈でないだけに厄介だった。
 何か忘れ物をして戻る学生のように、私は廊下を突き進む。見つかるあてなんて何もないのに。

 すると、そこには――。

「忘れ物、ですか?」
 思わず声をかけてしまった。
 ぼんやりと教室の真ん中に立っていた、「いるはずのない人」は振り返る。
「ああ、祐巳」
 そこには、どれほど望んでもかなうことのなかった、ニッコリとほほえんで私を迎えてくれる「いつもの」お姉さまがいた。
 たったそれだけ。少し前までは当然のように与えられていたものが目の前に返ってきた、それだけで涙がこぼれそうになってしまう。
 でも、そのまま泣いてしまうのはちょっと悔しかったので、ぐっとこらえてもう一度尋ねた。
「何か、忘れ物でもありましたか?」
「忘れ物、といっちゃ忘れ物かな」
 決着をつけないままにはできなかったから。そう言うと、お姉さまは扉を閉めてと人差し指を振った。
 言われるままに閉めた後、問い返す。
「決着、ですか?」
「そう。決着」
「結果はどうでした?」
「勝てたんだと思う。……それよりごめんね、私の勝負に祐巳をメチャクチャに巻き込んで」
 どうやらお姉さまが決着をつけねばならない何かが、今回の出来事につながったようだ。
「……聞いても良いんですよね?」
 お姉さまは黙ったまま後ろ隣の机をたたく。そこへ座れってことだろうか?。
 もう一度繰り返した。そうなのだろう。どなたか知りませんが、机に座ってごめんなさい。心で謝って腰掛ける。
 すると、お姉さまも机に座って窓の外を眺めたので、私も自然にそちらへ目がいく。
 ぽっかりと綿のように浮いた雲には赤みが差し始めている。日暮れはもう近い。
 どれほど二人で空を眺めていたのだろう? 数秒? あるいは数分かもしれない。
「私さ、のめり込みやすいタイプなんだ。それもどうしようもなく。祐巳も知っているよね?」
 栞さんのことを言っているのだろう。私は黙ってうなずく。
「それでもってお姉さまから『大切なものができたら一歩引け』と言われたら今度は二歩も三歩も引いちゃって。それも相手が望んでいるって分かっているのに。ずいぶんと酷なことをしちゃったよね」
 今度は志摩子さん。
「そんな私の前に現れたのが祐巳。あなたのおかげで私は救われた。ありがとう、本当に感謝してる」
「そんな。私は何も……」
 改めてそう言われると、あの姉妹になれた日のことを思い出して照れくさい。
「謙遜しなくていいよ。本当に祐巳のおかげなんだから。で、三度目。今度こそ良い距離で関係を築いてこられた、そう思ってた」
 私もそう思っていたのだけど違うというのだろうか?
 『やっぱり祐巳は佐藤さんにべったりだな。その点では確かに心配だけど……』
 ふと、そのとき脳裏に祐麒との会話が思い浮かんだ。まさかお姉さまが考えたことって……
「卒業が近づくにつれ、何かしら皆やり残したことを考えたりしてた。由乃ちゃんなんかは江利子に果たし状を送りつけたりね。そこで思ったんだ。もし、祐巳と別れたらどうなっちゃうのだろうって」
 ああ、やっぱり。お姉さまが何を言おうとしているのかが分かった。それにしても……
「同じことを繰り返していないだろうか。結局依存しているんじゃないだろうか。もしも、祐巳がいなくなってしまったら? あの時、私を支えてくれたお姉さまも蓉子ももういない」
 耐えられなくて、どうかなってしまうかもしれない。それがたまらなく怖かった。
 そう言って立ち上がると私の方を向く。
「だから、私は自分と勝負をすることにした。卒業までの間、自分の気持ちを抑えつけることができるかどうか。たとえ、どれだけ祐巳に会いたくても、話したくなっても」
 正直、私だって負けないくらい、ううん、それ以上に依存してしまっているかもしれない。お姉さまがいなくなった世界なんか考えられないくらいに。
 とはいえ、どうして「我慢できるかどうか自分を試そう」なんて考えられよう。
 でも、お姉さまは違うんだ。
 確かに、少し鈍感でチャランポランに見えたりするときだってある。でも、それはお姉さまの一面に過ぎない。
 もうひとつの顔はとても繊細で弱い人。
 それだから……それ故に、あまりにもつらい二度の出来事を経験しちゃったから。
 本当にこの人は……
「バカ、ですね」
 うつむいて、お姉さまの顔を見ないままそう言う。顔を上げたらそれだけで涙がこぼれそうだったから。
「うん、蓉子にもそう言われた。江利子なんか馬鹿の天然記念物として飾って鑑賞したいとまで言ってたよ。その通りだと思う。それでもやっておかなくちゃいけないことだったんだ。でも、そんな私の勝手でつらい目にあわせちゃって本当にごめん」
 お姉さまへの愛おしさが胸の中にとめどもなくあふれている。もうちっとも怒ってはいないし、怒れない。
 だけど、せっかくだから、一つ聞いてみた。
「……私が勝手に吹っ切れて『あなたなんかもう知りません!!』とかなったらどうするつもりだったんですか?」
「ああ、そんなこと考えもしなかった。祐巳は……私が好きなあなたならきっと分かってくれると思っていたから」
 ……反則だ。もう限界だった。とどめることができなくなってしまった涙が頬をつたっていく。
 私は立ち上がった。胸の中だけに収めきれず、あふれ出てしまった想いの行き所を求めて。
 そして、突然のことに驚いているお姉さまの首に腕を絡め……
「え……!?」
「本当に……バカ」
 少し背伸びして、唇に……キス。

 ファーストキスは、コーヒーのほろ苦さと涙のしょっぱさが混じった味だった。

 唇が離れた後、まだ呆然としているお姉さまの胸にそのまま飛び込んだ。我ながら恥ずかしすぎて、これ以上お姉さまの顔を見ていることができなかったから。
 すると、私の鼓動に負けないくらいお姉さまの胸もドキドキと高鳴っていた。
「しょうがないから、許してあげます。私も、お姉さま……あなたのこと大好きですから」
 顔の見えない位置をキープしたまま、私も想いを伝える。
 半ば宙に浮きかけていたお姉さまの両腕が私をギュッと抱きしめた。
「……さんざん誰かを不幸にしてきたこんな私でも、祐巳は幸せにできたんだよね」
「はい」
「ありがとう……祐巳と出会ったから私は前を向いて歩いていける。本当にありがとう」
 私はお姉さまを抱きしめる。もっと、もっと強く。
 西からの日差しが差し込む教室に一つできた影は、いつまでも消えることがなかった。


〜5〜
 すっかり日も暮れ、綺麗な半月が頭上でやわらかな光を放つ中を、足音が二つ。
「まったく。祐巳ったらちっとも離してくれなかったんだから」
「えぇ!? それはお姉さまでしょう?」
 あのあと、守衛さんが見回りに来るまでずっとあのままだった私たち。
 守衛さんが廊下を歩く足音で気づいてあわてて飛び離れて、なんとか見つからないようにこっそりと校舎の外へ出たのはいいのだけれど、当然のように下校時刻は過ぎている。
「うーん。正門、閉まっているかもしれないねー」
「いや、お姉さま。そんなのんきに言わないでくださいよ」
「あ、祐巳にはまだ教えてなかったっけ? 私が昔、愛用していた場所があるんだわ。この前見に行った時も治ってなかったから余裕、余裕」
 なんでも、木陰に隠れた先にある塀には、少し崩れて登りやすくなっているところがあるそうな。そして、この前ゴロンタを探していたとき近くまで来たので久々に覗いてみたのだという。
「……却下」
「祐巳でも簡単に登れるよって……なんでよ?」
 月明かりだけだからはっきり見えるわけじゃないけど、絶対にむっとしてるよ、この人。
「何が悲しくて、卒業式の前日に泥棒やら不審者のまねをしないといけないんですか!!」
「ちょっと、姉を不審者呼ばわりするわけ?」
「あなた、薔薇さまなんですから、そういう箇所はとっとと学校に報告してくださいよ!」
 曲がりなりにもお嬢様学園の生徒が「まあっ、なんて危険!」ならともかく、「これは使える!」って……。
「じゃあどうすればいいのよ?」
「姉なんですから、何か考えてください。正攻法で」
「もう、祐巳ったら本当に贅沢なんだから」
 まだぶつぶつ言っているけど、それでも考えてはくれるらしい。
「そうだ。祐巳が何か忘れ物をして、それをどこに落としたのかも分からずに校内を下校時刻にも気づかないほど夢中で探してて、姉の私もずっと手伝っていたってのはどう?」
 ちょっと弱いかもしれないけど、お姉さまがよそ行きスタイルで説明すれば何とかなるような気がする。
「忘れ物をしたのは逆の方がピッタリな気もしますけどね……あっ!」
「なに? ……まさか本当に忘れ物をしていたとか?」
「とんでもない! 忘れ物をしていたのはお姉さまですって。あなた薔薇の館にいったいいくつ物を……」
 静寂が支配しているはずの学園に仲むつまじげ?な話し声が響く。
 二人が姉妹の絆を深めた夜。


 月と、マリア様だけが二人を見ていた。



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