珊瑚礁





 何度目かのロールプレイを終えた後相田先生は新しいキャラを考えたと言ってあたしに一枚のスナップ写真を見せてくれた。
 写っているのはあたしと同じくらいの歳のウルフヘアの少女でジュンヤさんと同じような銀髪をしている。目は切れ長でとても視線の圧力が強いとあたしは思いそう言ったら先生はそうだろう、この子はぼくの同級生なんだけど、とにかく眼力が強い子だったね、今はもう会わないけれど、と言っていた。

「この子をモデルにして、ってことですか?」

「うんそう思ってくれていいよ」

「昔の想いびとだったりとかそういうものなんですか」

 先生は答えず、洗面所へ行って鏡の前で顔を洗っていた。今夜あたしたちは麻布のホテルの高層階の部屋に泊まっている。絨毯の上を裸足で歩くと長めの毛が柔らかにあたしの足を包んでくれて自分の家の安っぽい絨毯とは違ってさすが高級ホテルは違うと思った。絨毯には珊瑚の絵が織り込まれている。

「名前はなんていうんですか?あ、この写真の子じゃなくて新しいキャラのほうです」

 あたしのほうを振り向いた先生のくせっ毛がかすかに揺れてそれは湿り気を含んでいるせいで重くなっている。

「綾波澪」

「アヤナミレイ?」

 綾波澪だよ、と言って先生は備え付けの便箋を一枚ちぎってボールペンで名前を書いてみせた。さんずいにゼロと書いてレイと読ませる。

「同じ名前だよ」

「綾波澪、いい名前ですね」

「彼女はとても元気がある子なんだ、転校生でね、初夏のよく晴れた日にぼくのいるクラスに転入してくるのさ」

「先生もこの子と同じクラスメイトという役柄なんですか?」

「ああ、カメラと軍事関係が好きという、まあいわゆるオタクだね、ぼくの中学生時代というのはそうだったからね」

「たしか港のそばに住んでらっしゃったと以前聞いたかと思いましたが」

「うんそうだよ、よく覚えていてくれたね、ぼくが住んでいたのは第3新東京市だったんだけど、新横須賀市が近くてね、あそこは軍港だから戦自や国連軍の艦船がいつも停泊していたのさ、ぼくはそれを撮りによく出かけたものだよ」

「今でいう第2新横浜みたいな感じですか?」

「そうだね」

 7月20日から聖霊は夏休みに入る。先生は夏休み中の数日間を利用して沖縄へ旅行に行かないかとあたしを誘っていた。いわゆる撮影旅行ということだ、以前言っていた、写真のモデルになれないかという話しの繋がりだという。あたしも先生との付き合いが長くなってきて、前ほどには拒否反応も少なくなってきている。

「どうだろう、日程としては3日間ほどを考えているんだ、これはもちろん正式な仕事だから報酬もきちんと払うことができるよ」

「母さんがなんて言うかですね、あと友達にも、いちおう先生とお付き合いさせていただいてることは内緒ですから」

「それとなく訊いてみるといいよ、ちょっと出かけるからってね」

「はい、ところでこの写真いただいてもいいですか」

「いいよ」

 日が昇ってからあたしは先生といっしょに吉祥寺の大きなショッピングセンターに行って服を買った。綾波澪は制服が聖霊のようなセーラー服ではなくブレザー、ブラウスにセーターという組み合わせだそうなのでそれに似た服を揃えた。グレーのプリーツスカートにブラウスは学校制服としてはポピュラーなタイプでセーターは濃緑のラインが入った山吹色、それからワンポイントとして赤色のネクタイがある。そのお金ももちろんあたしが先生とのロールプレイで得たものだ。先生から貰った小遣いは今までで相当な額になっているがあたしはあまり使い道も思い浮かばなかったので宝石つきのアクセサリーとかそういう目立たないものを買ったりあとは服や化粧品などの費用に当てている。先生と会うときに少しでも綺麗に飾っておければいいだろうと思ったのでそういう商品を買うほかにファッション雑誌などにも目を通すようになって、私服も今では小学校のころから着たきりスズメだったような野暮ったいトレーナーやパーカーではなくこじゃれたカシュクールブラウスやフレアスカートなんかを着るようになっている。

 服屋の店員の女は先生と同じくらいの歳のおばさんであたしと先生を見てあら娘さんのおめかしですかと先生に言っていた。
 わたしもアナタくらいの娘が居てね、年頃でしょう、そろそろおしゃれにもうるさくなってきたのよ、お小遣いが足りないってね、わたしによく言うのよ、最近は子供服でも高くなってきてるでしょう?こちらで今セールをやっていてね、夏物は今年はベアトップがはやりなのよ、これなんかちょうどいいんじゃないかしら、店員のパーマをかけたおばさんは服がたくさん掛けられたハンガーを移動させて一着を取り出して見せた。

「あたしは肌がちょっと弱くて、露出の多い服だと日ざしがきついかもしれませんね」

「ならこれみたいなカットソーはどうかな?薄手だし通気性がいいからそんなに暑くはないと思うよ」

「ですね、これくらいのやつで」

 買った服を店名のロゴが入った二つの大きな紙袋につめてもらいあたしと先生は通りに出た。車をとめているパーキングまでしばらく歩く。

 服もずいぶん増えましたしそろそろクロゼットの整理をしなければいけませんね、

 先生は古い服やおしゃれ着なんかだったらぼくが預かってもいいけれど、と言ったけれど今のところあたしの部屋のクロゼットを占領しているのは小学校の頃から着ていたようなボロいものばかりなのであたしは今度部屋の掃除をしたときにまとめて古着屋に売ります、と言って横断歩道の前で立ち止まった。青信号が点滅して赤に変わるところでもう渡りきることはできないので何人かが歩道の黄色い視覚障害者用の鋲が付いたタイルの上で立ち止まったが燕尾色のスーツを着た若い男が鞄を頭に載せて早足でひとりだけ横断歩道を渡って行ったのであたしは彼が営業マンで仕事で急いでいたのだろうと思った。

 駐車場は天井が鉄骨むき出しで低く圧迫感がある。普通の車ではエンジンが入っているところにフェラーリではラゲッジがある。ボンネットを開けて買い物の袋を入れると元通りに閉じ、あたしと先生は車に乗り込んだ。

 それからあたしの家がある福生の住宅街まで送ってもらい、服の入った大きな紙袋を両手に抱えて、別れ際にあたしは先生の頬に軽くキスをした。

「澪はこんなふうに元気のある子なんだね、明るくて、普段のあたしとは正反対な感じだけど、なんでだろうねとてもすんなり入り込めるよ、どこかでこんなふうに明るくなりたいって気持ちがあったのかな、どうなのかな?」

 先生は満足そうに、そしてやや恥ずかしげに微笑み、きっとそうだと思うよ、ぼくは君の学校での生活とか小さい頃からの暮らしとかを聞いて思ったんだけれど、君ぐらいの年頃だと誰しもがある程度はこんなふうにスカシたりクールなふりをしたりするものなんだと思うんだ、ぼくもそうだったしぼくのクラスメイトたちにもそういうやつは居たしね、だけどそれはある種の通過儀礼みたいなものだと思うから、君もいつかきっと、明るい素敵な女性になれると思うよ、先生の丸眼鏡の向こうで一重の目が穏やかに細められるのをあたしは見ている。

「それじゃあ後で詳しい日程はメールで送るよ」

「わかりました」

 あたしは両手に紙袋を携えたまま、先生のフェラーリが交差点の向こうに姿を消すまでじっと立ち尽くしていた。一般の住宅街にこんな高級車が居るのはちょっと違和感があるように思えて、でもそれがあたしの今の状態を表しているのだと、そこらの街娘が王子様に見初められて、なんていう西洋のおとぎ話のようなのともまた違う気がして、ここは日本なのだから日本らしい芸能界の有名人がお忍びで女の子と付き合うような、そういうのにいちばん近いと思っていた。あたしはただの一般人だが、今こうして相田剣介という著名なカメラマンと交際をしている。これだけでもあたしが普通の大衆とは違うという要素にはなりうるだろう。そして先生が言うようにあたしがモデルになって写真集のひとつでも出せばそれこそあたしも芸能人の仲間入り、芸能人といってもピンキリだが、それでも仮にも芸能人の端くれにでもなれることは確実だろう。
 それが身体で稼ぐということの意味なのだ。
 モデルというのは自分の身体を商品にしている。自分の身体に商品たる服を着せ、それを着こなすことが仕事なのだ。そして、自分の身体を見せることが仕事なのだ。先生が今あたしに持ちかけている話しは後者だ、あたしの少女の身体を撮影することでそれを商品に仕立て上げることが先生の力によってできる。先生はそれによって作品を創りたいと思いあたしに協力してくれと願っている。あたしは最初はそれを躊躇っていたが、今はそれに応じてみようという気持ちが起きていた。
 それはある意味では先生との付き合いというものがそこまでを含めてのものだという認識、それを拒めばあたしは先生との付き合いまでも拒むことなのだという認識、このまま先生と付き合っていくためには先生の求めに応じることが必要なのだと思っている。
 あたしが先生から貰ったお金は既に7桁に届こうとしている。それだけのお金を先生に出させてしまった以上、あたしはもう後戻りはできない、そう思っていた。このまま付き合っていきたい、付き合っていかなければならない、あたしはある意味ではそういう強迫観念に駆られている。もしあたしと先生が別れなければならないということになったらどうなるのだろう?先生は最初、追っかけやスキャンダルなどとは無縁だと言っていたがそれもあたしを安心させようという方便だったのかもしれない、現実にいい歳をした中年男が中学生の少女と交際しているなどそれだけで恰好のゴシップ記事の種だ。先生としても当然そういった事態は避けたいだろうし、そうなればあたしと先生は会うこともできなくなる。ましてやロールプレイなどという倒錯した性の趣味などは望むべくもない。
 あたしはにわかに自分の中に不安が湧き上がっていくのを感じていた。先生と別れなければならなくなってしまう事態、たとえば週刊誌の記者にあたしたちの逢瀬が盗撮されたり、それをネタ元にマスコミやワイドショーが騒いだり、そうなれば当然学校での居場所もなくなってしまう。最悪、退学処分なんてことにもなりかねないし、先生も無事ではすまないだろう。あたしたちはそれだけ危険なことをしているのだ。
 だからジュンヤさんや伊吹社長のきちんとした後ろ盾が必要なのだ、少なくとも彼らの力が及ぶ範囲、どれくらいなのかはわからないけれど、その中でならあたしたちは守られている。
 あるいは本当に、あたしが女子中学生ではなく一介のコールガールにでもなってしまえるとしたらその方がいいのかもしれない、金持ちでそれなりの地位もある男がそういったサービスを利用するのはごく当たり前のことだから、そうなればよしんばその現場を見つかってしまったとしても不審には思われない、そうなれるのかもしれない。

「あら帰ってたの、ずいぶん遅かったじゃない」

「ちょっと友達と遊んでてね、それより例のリゾートホテルの話しはどうなったの、彼はちゃんと話してくれてるの?」

 今日は母さんは珍しく家にいたのであたしは服の入った袋をそのままクロゼットに押し込んでからリビングに下りた。

「ええ8月から勤めることになったわ、それでね、今のイオンでのお仕事も引継ぎしなきゃいけないし、それに群馬って遠いから帰る時間も今まで以上に遅くなると思うの、群馬は軽井沢なんだけどね、通勤は高速を使って車で1時間弱ってところなんだけど、そこらへんはうまく調整してもらって、朝は出る時間を早めてそのぶん夜は早く上がらせてもらおうと思うの、お客さんが泊まるのは夜だからね、部屋のメンテナンスとかお洗濯とかのお仕事は午前中に済ませてしまうのよ」

「コーヒー飲む?」

「お砂糖二つ入れてね」

 あたしは戸棚からコーヒーカップを二つ出してインスタントコーヒーの瓶を開けて粉をスプーンですくって入れ、母さんのぶんには角砂糖を二つ入れて自分のぶんにはなにも入れずにテーブルに持っていって魔法瓶から湯を注いだ。コーヒーの粉が湯にかき乱されて溶けていく。

「彼も忙しいからね、式は挙げられそうにないの、彼今ホテルの再建プランの作成に追われててね、なかなか会える機会も無いのよ」

「結婚式なんてやる歳じゃないでしょうに」

 あたしは呆れ気味に言って、母さんは冗談だと思ったようで口に手を当てて微笑んでいた。

「それでどう?学校はうまくいってるの?ホテルのお仕事始めたら、滞納してる学費もきちんと払えるようになると思うから」

 本当は相田先生に全部払ってもらっているがそのことは内緒だ。

「うんまあ、そこそこね。別に今はそんなに難しい勉強するわけでもないから、でも2年になったら進学先にあわせてコース選択があるのよ、理系か文系かってね、あとたしか女子クラスにはミッションスクールもあったからそっちに行くって人もいるみたい」

「あなたは文学が似合うと思うわよ」

「そうかな?」

「ええそうよ、覚えてる?小学校の頃に作文の課題があったじゃない、たしか3年生だったかしら、主人公の男の子と女の子、それに宝島の地図を使って物語を作るっていうの、あれあなたが書いたの先生とっても褒めてくださってたのよ、文集みたいにしてわたしたちにも見せてくれたじゃない、今でもしまってあるのよ」

「そういえばそんなのもあったような気がするね」

「だからあなたはそういう、想像力っていうのかしら、世界観を構築する力が優れていると思うのよ、だからきっと作家なんか向いてるんじゃないかしら」

「難しい言葉使うね」

「まあね、母さんも昔はいろんな人にお仕事で会ったものだけれど、お話しをさせてもらった人もおおぜい居るしね、そういう人たちと話してるとわかるのよ、芸術家っていうのね、そういう人たちってのはどこか普通の人とは違うのよ、彼らは本当に自分の中にあるひとつの世界を持っているのよ、誰しもがね、作品を創るっていうのはその自分の中の世界を切り取ることなんだって、あるひとは私に話してくれたのね、あなたもきっとそういう世界を作る力があると思うのよ」

 あたしが子供であるということも考慮してか、母さんはあたしに昔の自分の仕事について語ってくれたことはあまりない。こうしてその片鱗だけでもあたしに見せたということはどういう心境の変化なのだろうか、それともあたしが先生とやっていることをある程度にしろ察しているということなのだろうか。

「父さんのことってあんまり覚えてないんだ」

「お父さん?」

「うん、あたしが小学校に入ったばかりのころじゃない、離婚したの」

「お父さんはね、ちょうどわたしの同級生の後輩だったのよ、たまたま職場がいっしょでね、その縁で知り合ったの」

「なんだ、よく来るお客と仲がよくなってとかじゃなかったんだ」

「そういうのじゃないわよ、そういうひともたしかに居るけれどね、たしかにお父さんも若いころはそれなりに通ったりはしてたみたいよ、だけどわたしがいたのはもうちょっと高級なところだったからね、値段も高かったし、あなたももうわかるとは思うけど普通のヘルスとは違って専門的なところなのよ」

「SMクラブみたいな?」

「近いわね、それよりあなたもそういう言葉覚えてきたのね、わたしの中学生のころなんてそういう言葉は遠い世界の出来事だったわよ」

「今はネットとかあるじゃん」

「まあ、興味を持つのはわかるけどほどほどにね、知識は知識として、ちゃんと分けて考えるのよ」

「わかってる」

「ともかくね、わたしも結婚してからもお仕事続けてたし、それでお父さんは自分とは釣りあわないって思ったのよ、男の人の気持ちってのも難しいところがあってね」

「子供もできてたのに?」

「それはお父さんしかわからないわ」

 赤ん坊だったころのあたしの世話をしてくれていたことは覚えている。しかし、それ以降はぱったり記憶がない。母さんが仕事ばかりで家に居なかったから、あたしの世話をしてくれるのは父さんしかいなかった。だから育児なんかの勝手もわからず手探りで、環境の整備もうまくいかずに弱視なんかを発症させてしまった。結局は治ったからそれはそれで別に構わないが、それでも父さんはあたしを放って家を出て行ってしまった。引き取ろうという考えはなかったのだろうか、それとも自分の稼ぎでは子供を養うことができないと思ったのだろうか。

「子供ができた時点で引退しようとかそういう考えはなかったわけ?」

「ああいうお仕事は結婚してたり子持ちでもやってるひとってのは多いのよ」

「他の人のことなんて関係ないのよ、どうなの?父さんの気持ちって言うんならそれをちょっとでも考えてみようとか思ったりはしなかったの?橋の下で拾ってきた子供ってわけじゃあないんでしょうに」

「めったなことを言うもんじゃないわ」

「本当に血を分けた子供ならもう少しその辺考えてくれてもよかったんじゃない」

 母さんはそれきり黙ってしまったのであたしはすっかり冷めたコーヒーをひといきに飲み干すとカップを流しにつけてさっさと自分の部屋に上がった。

 クロゼットの整理を済ませてしまう。既にサイズの合わなくなっている小さい服をまず取り出してまとめ、それからもう着ないと思われる古着を出し、ほつれたり傷んでいるものは捨てるので別にまとめておき、それから今日先生と買ってきた新しい服を入れていく。その中のフリルつきのブラウスとホットパンツは今日着ようと思ったのでベッドの上に放り出しておいた。取り出した古着を紙袋につめ、部屋の隅に寄せてからあらためて着替える。白とベージュの組み合わせは涼しげだ。

 古着をつめた紙袋を持ってリビングに下りると母さんはまだコーヒーを飲んでいたのであたしはいちおう言っておくことにした。

「夏休みに友達と2泊ぐらいの旅行に行くことになったから、何日って日取りはまだ決まってないんだけど、あとこれから古着売りに行ってくる」

「わかったわ、くれぐれも気をつけてね」

 あたしは家を出てから駅に向かい杉並にあるPeep Cheepへ行った。ここは古着のほかに雑貨も扱っているのであたしのお気に入りの店だ。デパートの大きな紙袋で二つぶんということで相当な量だったので店員さんはカウンターの横にお腹に大きなポケットのついたトレーナーやディズニーアニメのキャラクターがプリントされたジャンパーや厚手のデニム生地のスカートをまとめて並べて数えていて計算が終わるまでの間待つのも暇なのであたしは近くの商品を見てまわり青いサファイヤのはまったネックレスを買うことにした。やっと計算が終わったようであたしは勘定をしてもらい5千円札を受け取って代わりにサファイヤのネックレスを差し出して3980円ですと言われたので5千円札をそのまま返した。店員は若い女であたしがさっそくネックレスを付けてみるとよく似合ってるわよとネイルアートのついた指で頬を撫でながら言っていた。

 身軽になってから今度はレイコに電話する。

「あのさ、夏休みにちょっと家族旅行に行くことになったの、そんでまだいつっては決まってないんだけど、だからそのときはちょっと家空けるから」

 レイコはわかった、ケイたちにも伝えておくと言って電話を切った。あたしはつけていたイヤカフスが受話器にぶつかってカツカツという音が聞こえてそれがすこし耳障りだったので服の裾で携帯のディスプレイを拭ってから畳んでポケットにしまった。

 それからマナの部屋に行くと彼女はちょうど伊吹社長の地下クラブに行くところだったのであたしは相田先生と撮影旅行に行くということを伝えなければならなかった。マナはよく社長のクラブに通っているらしく、他にも新歌舞伎町には社長の所有する店が何軒もあると教えてくれた。

「マナの部屋、なんかいい匂いするね、芳香剤なに使ってるの?」

 あたしが言うとマナは笑いながら首を横に振った。

「ううん消臭スプレーの香りだよ、私これやるから」

 そう言ってマナは人差し指と中指で煙草を挟むしぐさをして口元で往復させて見せた。ポケットから取り出した紙箱には赤い丸が描かれている。ジュンヤさんと同じラッキーストライクだ。彼のお気に入りに合わせてマナも同じのを吸うようになったのだそうだ。

「それより相田さんともうそんなに仲良くなってるんだ、もうエッチとかはしたの?」

「最初の2回だけね」

「なにそれ?」

「ううんなんていうの、ただ寝ればいいってもんじゃないっていうか、特殊な趣味の遊びっていうか、芸術系の人の趣味って感じでね、ともかく裸になったりはするけれどそんなにズコバコやるってわけじゃないのよ」

「なんだか難しい話しだね」

「大人の世界って難しいんだと思うよ」

「そだね」

 電車を乗り継いで新宿駅に着いてから、駅のレストランで昼食にした。マナはアメリカン・ピッツァがお気に入りのようでうれしそうにチーズたっぷりでお願いしますねと言っていた。あたしはそれほどおなかも減っていなかったのでカフェオレだけにしておく。

「ねえマナ、あなたの今の仕事ってどれくらい稼げるの?」

「興味あるの?」

「すこしね」

「半端な気持ちではやらないほうがいいよ」

「それはわかってる」

 あたしはカフェオレをストローで一口飲んだ。

「本当にいろいろだよ、小遣い程度にやってる子も居るし、中には何人とも付き合って金巻き上げてブランド物とか買いまくってる子も居るし、私の場合はまず生活費稼がなきゃならなかったから最初のうちは結構がんばったよ、鳴海さんにもいろいろ教えてもらったしね、私が相手にするようなのって中年のおじさんでたとえば会社の中でも結構な地位に就いてる人が多いから、気に入られるとポーンと十何万ってお金をくれるんだよ、まあなんにしろこの仕事は身体が資本だからね、ある意味体力勝負だから薬なんかも普通に使うしそれに結構お金かけてたからね、よくてトントンってところだったかなあ、どっちにしろ本格的にやるってなれば後ろ盾は必要になってくるしね、その辺は鳴海さんに聞けばわかると思うよ」

 ピッツァの上にはチーズで塗り固められたサラミとピーマンの薄切りが乗っていてそれがマナの細い手につかみ上げられて口の中に消えていく。あたしはその様子をじっと眺めながらあたしもあのピーマンのように誰かに食べられてしまったら何もかものしがらみを消せるのだろうかと思っていた。

 食べ終わってから口の周りをナプキンで拭いて、マナはあらためてあたしの目をきっと射抜いてきた。

「山城さんから聞いてるよ、あなたは学校では男子たちとやりまくってるんだって?」

 ケイのやつしゃべってるの、とあたしは小さく口ごもった。いや、マナはこないだレイコに連れられてあたしがマワされたのを見ているから当然知っている、あのあとでケイもマナにしゃべったのだろう。

「私が言いたいのはね、そんなふうに安売りしてたらいずれにしてもまともに稼げやしないよって、自分の身体なんだから自分できっちり守らなきゃやっていけないよってことなのよ、あなた相場もわからないでしょう、そういう基本的な知識もなしにひとりで始めたってろくなことにならないんだからね」

「マナはいつからやってたんだっけ、11だっけ?」

「そうだよ」

「てことは2年前か、ジュンヤさんはたしか半年とか言ってたから、それまでの1年くらいはどうしてたの?」

 お冷で唇を湿らせ、ひと息ついてからマナは話しを再開する。

「そのころの私は新歌舞伎町を主に寝ぐらにしてたんだけどね、あそこは昔から浮浪者とかも多いし、新宿駅周辺とかのにぎやかなところだけ見てると想像できないかもしれないけど本当に通りから一歩裏路地に踏み込めばそういう薄暗い町があるのよ、私はそういうところで寝泊りしてたの、ホームレスのおじさんたちとも何人か知り合いになったりしたしね、食べ物とか万引きなんかしてきて物々交換したり、知ってる?あそこで宿無し職無しで暮らしてる人ってね、決して落ちぶれたとか落ちこぼれたとかいうわけじゃあないのよ、50歳くらいのおじさんだったんだけど、その人はセカンドインパクトのころにちょうど学生でね、自分のことをインテリゲンチャだった言ってたんだけど、そういう自分にとっては働くってことは罪悪なんだって、他人のために自分の時間を使うのはものすごく無駄なことなんだって、それでドストエフスキーとかマルクスとか三島由紀夫とかのことを話してくれたのね、そんなふうに社会体制に反抗してる人たちが多いのよ、世の中に合わせようとすること、大衆に合わせようとすることが大嫌いなんだってね、だからそういう人たちは貧しいのを別に困ったことだとは思っていないし、自分が自分として生きていられてとても幸せだって言うのよ、私はそういう人たちに囲まれて暮らしてたから、働くことの意味とか人と人との信頼関係とか独りで生きていくっていうことの意味とかを彼らから学んだのよ」

 マナの瞳は鋭い。目つきそのものは穏やかで優しいが、その瞳の奥に秘められた眼光だけは本物だ。いくつもの修羅場を潜り抜けてきた、そんな光だ。
 あたしがそれにやや警戒心を見せたのを感じ取るとマナはふっと緊張を抜くように瞳の光を消してまた点け、今度はやわらかい瞳で微笑みかけてくる。そう、これが演じてるってことなんだ。マナもまた、あたしと同じようにいくつもの人格を使い分ける能力を持っている。それは人が社会生活を送る上で当たり前に行っていることだけれど、こうして目の前に見せ付けられるとあらためて感服してしまう。

「生きていこうと思えば、どこだって天国になる」

 思わず口をついて出た呟きにマナは一瞬の間を置いてうなずいた。考えてもいなかったのに、思い浮かべてもいなかったのに、意識してすらいなかったのにまるでここにいない別の誰かが、あたしの背中の後ろに立っている守護霊か何かがあたしの口を動かして言葉をしゃべらせたかのように感じられた。

「そのとおりだと思うよ」

「うん、まあ、そうだね、その、今言った人たち、ホームレスのおじさんたち、彼らもきっと自分がこうして生きていられる場所が天国だって、そう思ってるんじゃないかな、お金持ちになって大きな家に住んで豪華な食事をしてっていうのだけが幸せじゃない、自分が本当に納得して自分の心を落ち着けていられる場所が天国だって、そういう意味なんじゃないかな」

 言葉をどもらせたあたしにマナが吹き出す。

「なによ、自分で言った言葉でしょ?」

「ああなんていうか、なんにも考えずにぽっと出た言葉だったから自分でもよくわからなかったの、それだけだよ」

 それからゲームセンターで遊んだり高島屋タイムズスクエアでショッピングをしたりして時間を潰したあと、午後7時の開店と同時にあたしたちは伊吹社長の地下クラブに入っていた。いつもの夜のように若者たちがいつもの仲間たちと思い思いに遊んでいる。マナはまだ慣れないあたしの手を取っていっしょに踊ってくれた。最初はすこし恥ずかしかったけれどすぐに慣れて、流れている音楽もあたしの好みだったので30分もするころにはいい感じにリズムに乗れるようになっていた。

 休憩がてらに外の自販機でコーラを買って飲んで空き缶をゴミ箱に押し込んでからクラブに戻ると吹き抜けのフロアの上階に伊吹社長がいるのが見えた。隣には大学生くらいだろうか、見たことのない若い男がいる。
 あたしたちはコンクリートの階段を上って、マナが先に立って伊吹社長に挨拶した。

「こんばんわ、社長」

「こんばんわマナちゃん、今日はお友達を連れてきてるの?先輩気取りもいいけどほどほどにね、危ない人もここには多いから」

 社長の隣にいる青年がこちらを見て軽く会釈した。

「ああ紹介するわ、彼、相模ケイイチロウ君っていうの、歌手デビューを目指して修行中なのよ、みんなはケイ君って呼んでるわ」

 相模さんは群青色の生地にSEX&DRUGとプリントされたTシャツを着ている。

「ああでも、ケイってあたしの友達にも同じ名前の子いますし、まぎらわしいですね、なんて呼びましょうか?ケイイチロウ、ケイイチ、ケイチ、そうですねケイチさんって呼びましょう」

「相模、でいいよ」

 あたしがそう言うと相模さんは照れくさそうに頭をかいた。

 それから彼も交えて近況などについて語り合った。相模さんは大学生で新帝都大学の文学部で社会心理学を学んでいて、彼自身もさまざまな実験の担当者になったりして被験者を扱っている性質上、人間の集団心理というものについては独自の価値観を持っているのだという。それが彼の書く曲にも現れていると伊吹社長は言っていた。

「それを言ってくれたのは私の知り合いのプロデューサーなんだけどね、碇シンジ君っていうの」

「碇さん、ですか、どんな人なんですか?」

「とても素敵な人よ、音楽の才能がすごくあってね、激しい感情をこめた曲を書くのが上手いのよ、相田君とも中学校時代からの友人でね、シンジ君も昔はここのクラブで活躍していたのよ」

「そうなんですか、さすが社長は顔が広いんですね」

「まあね、こういう仕事をしているとね」

 さっきから考え込むようにして黙っていたマナが首をかしげながら相模さんに訊いた。

「あの、相模さんってもしかして相模コウイチさんのご親戚か何かですか?」

「よく知ってるね、相模コウイチは僕の父親だよ」

「誰、そのコウイチさんって?」

「相模コウイチ、芸名皇耕一、プロジェクトT.T.G.がかつて擁した伝説のアーティストよ」

「伝説のアーティスト?」

「うんもう15年くらいは前になるかな、ちょうどCGTが動き出したのと同時期かな、プロジェクトT.T.G.ができたばかりのころ、まだ駆け出しだったプロジェクトT.T.G.を一躍メジャーにのし上げた歌手なの、曲数自体は少なかったんだけどそのどれもが当時のJ−POPの究極といわれるくらいに群を抜いたヒット曲ばかりでね、だから今でもものすごい希少価値がついてマニアの間では垂涎のアイテムになってるのよ」

 マナが得意げに説明する、相模さんはどこか懐かしげな顔をして聴き入って、やがて穏やかに話し始めた。

「その頃は僕もまだ小さい子供で父のことはあまり覚えていなかったんですが、父と同じように音楽の道を目指そうって思ったときにですね、そうするといろいろと思い出してきたんですよ、幼かった僕に父はいろいろ大切なことを教えてくれました、自分の力で歩いていくってこと、友達になるのはその人が好きだから友達になるんだってこと、社会的に悪いことだと思われていてもそれを確信犯でやっていくことの意味、そんなことを教えてくれていたんです、もちろんその頃は僕も3、4歳でしたからね、言われたことの意味もよくはわかってなかったと思うんですが、今こうして作曲をやり始めて、また大学でも心理学を勉強し始めてようやくわかってきた気がするんですよ」

「いいお父さんだったんですね」

「そうだね」

「でも芸能活動と家庭との両立は大変だったんじゃないんでしょうか?」

「さあそこまでは僕も覚えていないよ、ただ父はほんとうによく僕の遊び相手になってくれたのは確かだよ、今の僕は父の背を追いかけていると言ってもいい、そうすることで父が見ていた何かを見つけられるんじゃないかって、父がどうして音楽の世界を目指してそして降りたのか、そのことを知りたいと思っているんだ」

「そうなんですか、あたしは両親が離婚してまして今は母と暮らしてるんですが、相模さんはご両親はお元気で?」

「僕は実家が四国でね、大学に入って上京してきたんだ、実家には祖父母だけがいるよ、父は歌手を辞めてすぐに飛行機事故で亡くなっているんだ」

「そうだったんですか……」

 まずいことを聞いてしまったかとあたしは口をつぐんだが、相模さんはそんなあたしの心配を吹き消すようにからりと笑った。

「気にすることはないよ、僕ももう昔の思い出と現在の人生との分別はつくからね」

「すみません」

 沈黙がしばらく続いて、マナが割って入るように話し始める。

「相模さんはご自分でも作曲をなさるんですか?」

「うん、僕はひとりで曲を書いて自分で歌っているんだよ、今は習作ばかりだけれど、いずれ本命の曲が完成したらレコード会社に持ちこむんだ」

「私も趣味でですけどすこしやるんですよ、MIDI機器をそろえて、相模さんはアコースティックで?」

「そうだねエレクトーンとギターを持っているから、それで直接録音してるね、マナちゃんだっけ、君はコンピュータを使うのかな」

「ええCakewalkSONARを使って、いちおう自分でも歌ったりするんですけどちょっと上手くなくて、それはこの子にお願いしようと思ってるんですよ、彼女歌上手いんですよ」

「やだマナ、そこまで言わなくても」

「レコード会社はどこを目当てに?」

「アルカディア・レコードを考えているよ、あそこは今インディーズバンドの投稿を広く受け付けているからね、僕もそれに応募してみようと思っているんだ」

「あそこも今着々と勢力を拡大してますよね」

「そうね、マイ君は本当によくがんばってると思うわ、あれだけの広範囲のジャンルをカバーするなんて並大抵のことじゃないもの」

「あれ伊吹社長も知ってるんですか?」

「ええ、アルカディアももともと私のクラブからスタートしたものだからね」

「そうなんですか、てことは言うなれば伊吹社長は今の日本の音楽業界の生みの親って感じなんですね」

「そこまで大げさなものでもないけどね、ただシンジ君やマイ君は20年代のJ−POPブームの牽引役だったから、そういう意味では彼らが昔の仲間たちに出会った場所、そして再びひとつの目標に向かって一歩を踏み出していった場所となったここのクラブの存在は大きいと思うわ」

 相模さんは現在実家を離れて第2東京でバイトをしながら大学に通っているそうだ。そのバイト先というのは六本木のホストクラブで、そのつながりでジュンヤさんとも知り合いだそうだ。ジュンヤさんの紹介で父親の親友だった島風さんというホストクラブの社長と引き合わせてもらい、彼の店で働いている。昼間は大学、夜はバイト、そして仕事が終わってからのわずかな時間に曲作りとほとんど休む間もなくがんばっているそうだ。

「習作なんだけれど、B’zのカバーもやってみたんだよ」

 そう言って相模さんはマナにカセットテープを渡していた。S−DAT規格のテープで白くて細いラベルが貼ってあって細字のボールペンで愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないと書かれている。

「懐かしの名曲ですね」

「そうなのかい、これは僕が中学生のときにものすごくヒットした曲なんで気に入ってるんだけれど」

「そのころは私たちはまだガキンチョでしたよ」

 マナは可愛さを前面に押し出した笑みを浮かべる。こうやって表情をつくることができるのも立派な演技力のひとつで、人間関係を構築していくうえでの大切な能力なのだ。

 数日後、モコの家に電話してマナと新歌舞伎町のクラブに遊びに行ったと話すと今度あたしたちも連れていってよと言われたので場所を案内すると答えた。モコの家にはちょうどケイたちも遊びに来ていたようで電話を代わると言われて待っているとケイがちょっとあんた今どこにいんの、と急いた声で話し始めてなんのことだろうと思っていると青葉シゲルさんのプライベートライヴが今度伊吹社長の地下クラブでやるからチケットをもらえないかという話しだった。どうして伊吹社長のことを知っているのか訊いたらマナから聞いたと言っていた。マナはさっそくケイたちとも仲良くなっているようでこの点はマナはあたしよりも社交的だなと思う。

「うまくいくかわかんないけどともかく聞いてみるよ」

「サンキュね、頼むわ」

 やけに急いでいたがあたしは理由が思い当たらなかったのでケイのことは頭の中から放っておいてその夜また地下クラブに行って伊吹社長がいないか捜したが見つからなかったので教えてもらっていた携帯の番号にかけた。
 あたしが事情を説明すると伊吹社長はしばらく考え込んで、じつは青葉シゲルさんは私の旧い馴染みなのよと言っていた。連絡をとることもできるけれど、彼もスケジュールが立て込んでいるのですぐにとはいかない、直接でなくても構わないのなら今度ザドアーイントゥサマーのメンバーが遊びに来る予定があるのでリーダーの洞木トウジという人が青葉さんとそして彼が所属するプロジェクトT.T.G.の代表である森川さんと知り合いだというので彼を経由で頼めるだろうと言っていた。ホクマ・グルーヴ・ターミナルとアルカディア・レコードは伊吹社長と直接コネクションがあるがプロジェクトT.T.G.についてはあくまでも洞木さんとの個人的な交際しかないので頼むとすれば彼しかいないのだという。
 あたしはその線でお願いしますと言って電話を切り、マナにもその旨を伝えた。後日マナと二人で、ザドアーイントゥサマーのメンバーが来るという日にいっしょにまた社長の地下クラブに行き、あたしたちは先日相模さんたちと話した上階のフロアから伊吹社長と洞木さんのやりとりを眺めている。

「そうでっか、ほなそうゆうことでしたらわしからユキはんにはゆっときますわ、ええと何人ぶんでしたっけ?」

「6人よ」

「わかりました、いやあせやけど最近の若い子たちでも青葉サンのファンけっこうおるんですなあ」

「最近はオヤジブームらしいのよ、ちょっとワルな雰囲気のさわやか中年の男がもてる時代なのよ、シンジ君みたいにね、それに青葉君も懐かしのロックっていって売り出してるからね、興味を引く人も多いんじゃないかしら」

「へえー、センセみたいなのがでっか、ホンマいろいろですなあ」

「それはそうと、お義姉さんは今回ももちろん来るのね?」

「アネキでっか、あいつもほんと毎度毎度よう飽きんわって思うんですけど、今回もライヴの日にあわせて休み取るゆうて会社の人と大もめしたらしいですわ、ヒカリがこぼしとって、わしらも実家出た身なもんであんまり口挟むのもどうか思て今までは放っといたんですけどね」

「まだご結婚のお話しはないの?」

「本人にその気があるかどうかですなー、ただもうおとんもおかんもあきらめとるゆう感じで、追っかけだけしてれば満足ってとこですわ、そうそういっぺんライヴをテレビ中継したときがあったんですけどそんときにアネキたまたまカメラに映りよって、それビデオに録画して親戚じゅうに見せまくっとったんですわ、あんときはさすがにわしもやってられん思いましたけどね」

「でも、コダマちゃんがそれでいいっていうんならむやみに口出しもできないんじゃない?結婚してないのは私も同じだしね、ノゾミちゃんやヒカリちゃんで家のほうのことは任せられているんでしょう?」

「まあー、その辺りのややこしい話しはみんなヒカリがまとめとるって感じですね、やっぱり三人きょうだいやと真ん中がいちばんしっかりしとるゆうのはホンマですわ」

 伊吹社長と洞木トウジさんがグラスを傾けながら話していて、黒髪のロングの山岸マユミさんがそんな二人を見守るようにグラスを持って立ち、浅黒い肌をしたドラマーのムサシ・リーさんがマユミさんを踊りに誘おうと手をつかんでいる。ザドアーイントゥサマーはデビュー当初はマユミさんがヴォーカル、洞木トウジさんがギター、ムサシさんがドラム、そして碇シンジさんがベースというロックバンドとしてはシンプルな四人編成だったが現在では碇さんがプロデューサーを専業にしているのでマユミさんがリードヴォーカル、トウジさんとムサシさんがバッキング、そのほかのパートを碇さんがシンセサイザーで演奏するという形態になっている。

 やがて話しはまとまったようで伊吹社長はチケットをあとで郵送すると言ってくれた。あたしはそれをケイたちに伝え、するととても喜んでいたのでなに大したことじゃないよと言って電話を切った。

 そうこうしているうちに相田先生との撮影旅行の日がやってきて、あたしは先生と彼のアシスタントさんとメイクさんがそれぞれ一人ずつ、計4人のメンバーで沖縄行きの飛行機に乗っていた。

 疲れがたまっていたのだろうか、飛行機の座席であたしは眠ってしまってまた久しぶりにあのオレンジ色の溶液の中にいる夢を見ていた。ここ数ヶ月間の間で知ったさまざまな知識、出会った人々、それらがなぜかとても懐かしいものに感じられて、ずっと昔から知っていたような気がして、それは生き物があたしに自分の知っているものを教えているのだと思っていた。トウジさん、ヒカリさん、そして、碇さん、彼らの名前がなぜだかわからないけれどもとても懐かしく感じられる。もちろん、伊吹社長や相田先生もだ。あたしはずっと前にも彼らに会ったことがあるような気がする、もしかしたらあたしが生まれるよりも前に。生き物はそんなあたしが生まれる前の記憶を持っていて、それをあたしの意識の中に持ち込んだのではないか、だからあたしはこの夢がただの夢ではない不思議な世界へいざなわれているのだと思っている。
 飛行機の揺れで目を覚ますと相田先生はどうしたんだい、うなされていたみたいだけどと言ってあたしの顔を覗き込んだ。あたしは大丈夫です、久しぶりに長い夢を見たものでと答えてあと何分くらいで着きますかと尋ねた。
 この間伊吹社長のクラブで碇さんという音楽プロデューサーが相田先生の旧友だという話しを聞いたのを思い出したのでそのことを言うと先生は中学校のころの親友だった、あたしがこれから演じようとしているキャラクター、綾波澪のモデルとなった少女とも友達でみんな仲良しグループだったのだと言っていた。
 そう語る先生の表情はとても懐かしそうで、あたしはもしかしたら自分が先生と同じ記憶の線上に立てるのかもしれないと思っていた。あたしと先生には相容れない年齢の差、人生経験の差があるがあたしの見る夢はその差を埋めてくれるのではないか、時を越えてあたしたちの思い出をつないでくれるのではないかと思っている。

 飛行機は那覇空港に着陸してあたしたちは荷物を持ってホテルにチェックインしロケハンも兼ねてさっそく浜辺に出てみた。新箱根湾の深く黒い海と違ってここ沖縄の海はとても澄んでいて綺麗な青色だ。浜辺の砂も綺麗で、第2東京の海のように護岸が大きく張り出しているような場所もなく砂浜に余すところなく穏やかな波が打ち寄せている。相田先生は試しにカメラを構えて何枚か撮り、するとあたしはすんなりと綾波澪になることができた。先生からもらった写真は肌身離さず持ってきている。写真の中の彼女はあたしに少し雰囲気が似ているような気がするが、こうしてカメラを向けられると自分がどういう姿を求められているのかというのがまるでその写真の中の少女から語りかけられるようにしてあたしの中に声が響き、あたしは綾波澪と自分とが共存できているという感覚をはっきりと受け取っていた。彼女はアヤネのように危険な存在ではなく、むしろずっと昔からあたしといっしょにいたかのように、いっしょにいるべきであるかのように、そこが彼女のいるべき場所であるかのようにあたしの中に存在できている。
 綾波澪。
 それがあたしの名前だ。あたしは転校初日にクラスメイトとなる男の子と登校途中に曲がり角でぶつかり、転んで彼にスカートの中を見せてしまう。転入の挨拶をしたときにその男の子の幼馴染の勝気な女の子からそのことをからかわれ、なによあなたたちできてるのと逆に言い返してやる。その男の子と友達である先生は彼女らの言いあいを聞き流しながら平和だなあ、とつぶやくのだそうだ。教室の窓からは近くの戦自基地から飛び立った戦闘機が哨戒のためゆっくりと旋回しているのが見える。
 とても楽しい中学校生活のひとコマだと思う。あたしももしかしたら、もっと違う友達とこんなふうに穏やかな生活を送れていたのかもしれないと思ったけれど、そもそもあたしがこんな性格になってしまったのは赤ん坊の頃から家でほったらかしにされていたからで母さんはそれを見て聞き訳がいいなんて勘違いをしていてあたしはそのせいで友達もできずに不良みたいになってケイたちとはみ出し者の群れを作ることになったのだ。だけど澪は、綾波澪はそんなあたしの心のもやもやを吹き飛ばせるくらいに明るくて快活だ。彼女の感情の構造をあたしの心に当てはめてその通りの受け答えをするとまるで自分が本当に澪になってしまったかのように心のもやもやが晴れていって今までにないほど満たされた気分になることができる。先生はあたしに教えてくれたのだ。このあたしに、自分の中に内包した狂気に翻弄されて人間関係を作ることのできなかったあたしに初めて他人との付き合いというものを教えてくれた、かけがえのないものを教えてくれた。だからあたしは先生に感謝している。先生はあたしのことを経済的な面でも支えてくれたし、こうして心の中にも少しずつ分け入って、決して無理に引き剥がそうとはせずにあたしの心の殻をすこしずつ溶かしていってくれている。あたしがもしこれから先もわきあがる狂気に心を翻弄されそうになったとしても、澪のことを思い出せばきっと鎮めることができる。澪のように明るくなれば、澪のように友達もたくさんできて、きっと楽しい人生を送ることができる。先生はあたしにその先鞭をつけてくれたのだ。

 あたしは澪になりきったまま、ホテルに戻った。澪でいることが楽しい、普段のやくざな自分よりも、澪でいるほうがきっともっと素直になれる、素直な感情を守ることができる、そう思っていた。そこまで計算して先生があたしに綾波澪という少女を演じさせたのなら大したものだ。あたしは先生を尊敬している。
 だからそんな先生に、夜を誘うようなしぐさを見せたのは失敗だったかもしれない。先生は照れくさそうにというよりは気まずそうに、いやぼくは明日に備えて機材の点検をしておかなければいけないからと手を横に振って自分の部屋に引っ込んでいってしまった。あたしはひとりホテルの廊下に取り残されて、風呂あがりで浴衣を羽織っていたのでそれがいやに寒々しく感じられて胸元を押さえながら部屋に戻った。今回は4人ともがそれぞれシングルの個室をとっている。メイクさんが女の人なのでいっしょに泊めるのはまずいという先生の配慮だ。それであたしもひとりで部屋にいる。
 あたしはようやく気づいた。今回の撮影では、先生もまたあたしと同じ中学生の自分、中学生だったころの自分になりきっていたのだ。カメラを覚えたてでものを撮るのが楽しく、さまざまな映像をフィルムに焼き付けることにかけがえのない喜びを感じ、そんな少年時代に憧れだった少女を今目の前にもってきて、そこでそんな場違いなしぐさをされても対応に困ってしまうとそういうことだろう。

 翌日はあたしはセーターを脱いでブラウスとスカートだけになり、夏の日ざしがまぶしい浜辺で撮影をした。胸元のボタンを開けて下着を見せてみたり、風になびくスカートの向こうに白いパンツが見え隠れしたり、そんな配慮も忘れない。先生はあたしにだけこっそり教えてくれたが、中学生の頃は女子の着替えをこっそり撮ってその写真を売っていたというのだ。意外にワルだったんですね、とあたしが言うといやいや君には負けるよ、と冗談まじりに返されたのであたしもいっしょになって笑った。

「楽しかったよ、相田君、またみんなで海に来ようね」

 あたしの水着は白のワンピースで、先生は迷彩色のトランクスだ。ここでも軍事オタクなのは変わらないらしい。あたしは撮影だということも忘れてしまうくらいに気分がよくなっていて水着のお尻のところをちょっと指でかきあげてみたりもして先生はそれを下から覗き込むようにして撮っていた。

「さあ綾波、日も暮れてきたしそろそろ戻ろうぜ、シンジや惣流も心配するだろ」

「うん、そだね、あっあと鈴原君はどこいったかな?洞木さんといっしょかな?」

「スイカ割りしてたみたいだな」

「あはは、最初に回しすぎて目まわしちゃったりしたのかな?そういえば鈴原君って泳ぎは得意なんだっけ」

「ここだけの話しだけど、あいつは意外に運動ダメなんだよ、体育の時間にバスケの試合やったときもひどかったぜ、シュート外しまくりでよ」

 シンジ、つまり碇君の幼馴染は惣流アスカラングレーさんといって日本人とドイツ人のクォーターなのだそうだ。家が隣でいつも寝坊している碇君を毎朝起こしにいっているらしい。うらやましい。鈴原君は学校では制服ではなくいつもジャージを着ている。熱血漢の関西弁使いだ。洞木さんはそんな彼にほのかな想いを寄せる学級委員長。
 という以上のことはぜんぶ前の晩に食事をしながら先生が語ってくれたことで、ここに登場した人物たちもみんな先生の中学校時代の友人たちなのだそうだ。先生が中学生だったころはちょうどサードインパクトがあってとても明るい学校生活など送れたものではなく、ここであたしたちが演じて見せたような日常のひとコマも還ってくることのない青春時代への憧憬なのだ。あたしは綾波澪になって明るい女の子を演じ、先生もまた童心に帰って少年時代の自分に浸っている。そんな中で撮影されたいくつもの写真が先生の手によって編集され写真集になる。メディアは本ではなくDVDにするそうだ。夕日を眺めながら、ビーチパラソルの下であたしはメイクの女の人に髪をとかしてもらいながらあなたは本当にすばらしい子だわ、先生が言っているとおりに、と言ってもらった。あたしはありがとうございます、と答えて耳につけていたイヤカフスを外した。これももう必要ない。あたしにはもう澪がいるから、彼女がいるから、きっとひとりでやっていける。あたしは珊瑚のついたイヤカフスを砂に埋めた。銀はいずれ海に溶けてしまって、珊瑚は海底に彩りを添えるだろう。

 帰りの飛行機でもまたあの夢を見た。ただ今度は今までと違ってずっと恐ろしくて猟奇的なものだった。あたしは鎖かワイヤーか何かに首を吊るされて真っ暗闇の中にぶら下げられていて何かが腐ったような臭いがしてドアの向こうに明かりが漏れていたのでそこがトイレではないかと思った。ドアの向こうには二人の男と一人の女が居て男の一人は短髪でサングラスをしていてあごひげが分厚くてもう一人はもっと年かさの白髪頭の痩せぎすの男だった。女は顔が見えない。暗さに目が慣れてきて、あたしはその女が丸坊主の頭でお面をつけていたので人間に見えなかったのだと気づいた。お面は逆三角形の模様が彫りこまれていて目の穴が7つ開けられている。彼女は下腹が異様に出っ張っていて真っ白い肌をしていたのでなおさら人間ではない印象が強い。お面をした女は二人の男に両腕をつかまれて鉄の十字架に磔にされ、白髪頭の男が彼女の両手を十字架に押さえつけてサングラスの男が右と左の手のひらに一本ずつ太い楔をハンマーで打ち込んでいく。女は声さえ上げることができずにビクンビクンと痙攣していて手から血がだらだらと零れ落ちていて、そしたらサングラスの男がチェーンソーを取り出してその女の足を太ももの付け根からばっさりと切り落とした。十字架が立てられているのは今までの夢でよく見たオレンジ色の溶液が満たされたプールになっていてその中に切り落とされた女の足が水音を立てて落ちてやがて沈んでいき血が溶けて広がっていく。足がなくなって腰だけになった女に男たち二人が代わる代わるおまんこをして最後にサングラスの男が綾波澪によく似たしかし真っ蒼な髪をして紅い瞳をした少女を連れてきてその少女は先が二つに分かれた槍を持っていてその槍を女の胸に突き立てた。女はもはや微動だにしなかった。意識が途切れる瞬間、これでリリスは封印されたという男の声が聞こえた。サングラスの方か白髪頭の方かどちらが言った言葉なのかまではわからなくて目が覚めたらちょうど着陸のアナウンスが流れているところだった。
 あたしは先生にあたしの身体にへんなところはないですかと訊いて首と太ももを見せたけれど先生はなんともないよと言ったのであたしは安心してまたDVDの出来上がりがどんなものになるのかを思案することにした。





続く 戻る トップ