《目次》
    1、最果ての中の最近傍………………2
    2、伸ばした手の行く先………………11
    3、闇中のコントラスト………………24
    4、出口の見えない迷図………………34
      懸絲傀儡とその提線………………50
    5、重なり合う泡沫世界………………72
      奪う側、奪われる側………………91
    6、錯雑のシンクロ模様………………115
      幻想ヴァリアシオン………………130
    0、錯想逢夜……………………………App.




 人の心とは、存外にうまくできているのではないだろうか。
 少しでも乱れれば、すぐさまその修正に向かう。損傷した箇所は、今一度復元しようとする。絶妙なバランスをもって自分という存在を保つのであり、天秤がかすかにでも傾けば、意識せずとも静止の方向へと持っていくのである。
 例えばその術とはどんなものなのか。
 嫌なことから目を背ける。自分の殻に閉じこもる。記憶の奥底に封じこめる。様々な逃避行動が数多く存在しているが、それらも修正する術のうちに入るだろう。
 しかしながらこれらは、世間一般にはあまり褒められた行動ではないかもしれない。弱い人間だと謗られることすらある。本来、誰もそんな行動を責めることなどできはしないはずであるのに。誰もが等しく持つ人間の本能であるのに。
 人の心とは、存外にうまくできているのである。その一つとして逃避という行動があり、人は現実を手放すことなく、日々に安寧を求めることができるのだ。
 ところが、誰かにその機能を唐突に奪われたのならどうなるだろうか。背かせた顔を力ずくで正面へと押し戻され、安息の部屋を奪われ、綻んだ記憶の糸を手繰り合わせられてしまったのなら。
 答えはたった一つしかない。明快で明朗、実に極当たり前な結果。
 壊れる。
 逃げ場を失った人間は、壊れることによってこそその逃げ道を己の手で作っていくのだ。
 例えるなら、彼のように――
 
「綾波……」
 砂浜に座ったまま、どこか焦点の合わない目で呟いたのは、碇シンジという名の少年だった。背丈は、同年代と比べ、高くもなく低くもなく。体型もやや華奢に見えるくらいで、どこにでも居そうな線の細い少年。髪の色は黒。そして、瞳の色も黒。おおよそ特徴的なところなど見つけられない少年ではある。
 次に、顔立ちの方はと言えば、やはりそれもありきたり――というわけでも実はなく、ここだけは少々周りと一線を臥す部分ではあった。極めて整っているというわけでもないが、どこか中性的な雰囲気を醸し出す顔の全体像。いや、一般的に認識される男らしさというものが、どこか欠如している顔と言ったほうがいいのかもしれない。意思の弱そうな眉。オドオドして落ち着きのない瞳。引き締まることのない口元。だから男性でもなく、しかし女性でもない。すなわち中性なのだ。
 彼は今、赤に染められた世界にその身を置いていた。すべてが原初へと戻された世界。罪もなく、ただあることだけを許された世界。いわゆるサードインパクト。赤の海に溶け合う者以外にとっては、なにもかもが終わった世界だった。
 そして溶け合う者以外とは、実のところたった二人しかいない。少なくとも彼、碇シンジが認識している中では。
 彼自身と、少し離れたところでなにも言わなく――いや、言わせなくしてしまった緋の髪の少女。その二人だけがサードインパクトという補完からはじき出された。
 否、その表現もまた違う。二人こそが拒絶したのだ。人を形作るATフィールド。それは、拒絶の具現。彼らには、その心に自由に踏みこませるような人物が存在しなかった。心を解け合わせられるような人間など、この世界にはどこにも存在しなかったのだ。
 以前はあれほど感じられた意志のある瞳が、今はもう濁った蒼へと変わってしまった少女。彼女の拠り所となるその存在は、補完の直前に獣たちにもぎ取られ、バラバラに彼らの胃袋へと姿を消した。
 次第にその心を虚ろにしていく愚かな少年。彼は、そのすがりつくはずの存在を、第十六使徒と共に文字通りこの世から失った。そして、代わりとなるはずだった、心の隙間を埋めてくれるはずだった不可思議な少年でさえ、自身で存在を無かったことにした。
 だからこそ、今こうして二人は人の姿を保っていられるのだ。とても皮肉な話ではあるのだけれども。
「綾波……」
 今一度彼は呟く。それは、目の前に巨大な骸として横たわる、自分の知らない誰かのことではない。それは、無事の生還に涙した己に冷たい目を差し向けた、自分の知らない誰かのことでもない。彼の中で、思い出としてしか存在しなくなってしまった少女。恐怖を撒き散らす世界からの、唯一の逃げ場たる存在だった少女。綾波レイ。
 いや、その言葉も正しくなかった。綾波レイと認識されるものは、この世界に数多く存在していたのだから。あえて呼称を付け加えるとしたら――
《二人目》。
 それこそが、彼女を彼女たる存在として繋ぎとめる名前。
 しかし、碇シンジにとっては少し事情は異なる。彼が綾波レイと呼ぶものはただ一人、《二人目》でしかない。他はすべて彼女の偽者であり、影であり、幻。
 だが、その論議も無意味なものでしかないだろう。《二人目》は、この世のどこにも存在しないのだから。第十六使徒と共に、彼女の望みでもあった無へと還り、碇シンジに触れる術を永遠に失った。いや、失ったはずであったのだが。
「今までどこに行ってたのさ」
 シンジは、たった一人しかいない世界で誰かに呼びかけた。もちろんそれは、彼女が呼びかけていたとおり綾波レイなのだろう。それは疑うべくもない。そう、疑うべくもないのだが、問題はそこではなかった。
「ずっと探してたんだよ? 今まで綾波の偽者まで出てきていたし……」
 彼は、なにも言わずにただ微笑むだけのレイを目で合図し、自分の横に座らせる。が、砂浜には彼女の足跡も、座った跡もない。それどころか彼女の存在自体がどこにもなかった。あるのは、揺らぐことすらしない大気だけ。生命の息吹を感じさせない、冷たいそれ。
 では彼はなにを見ているのか。
 幽霊?
 それはある意味、そうなのかもしれない。現実には存在せず、彼の意識の中においてのみ形を取る彼女。他の人間にとっても、誰一人として姿を感知することのできない彼女。すべては、彼の心が作り出した幻だった。壊れた心が形作らせる幻想の少女。
 シンジはなおも呟く。なにもないはずの虚空に向けて。たった一人しかいないこの世界に背を向けて。
「綾波は他の人たちみたいに僕のところから離れていかない? せめて君だけはずっとそばに居てくれるよね?」
 その声を受け、空気が揺らいだ。いや、幻に生きる少年だけがそう感じることができた。彼の目にしか映らない希薄な少女は、彼の願望そのままにこくりとうなづく。
「よかった。そう言ってくれて」
 なんとなく確信はしていた。彼女は決して自分を拒絶するはずがないことを。自分の願いをすべて受け入れてくれることを。しかし、それでもどこかしらに不安は存在したのだ。カオスを内在する、人の意識そのままに。
 彼女がはっきりと答えてくれたことによって、肩に掛かった力が脱力する。そこで、また不意に空気が揺らいだ。彼にとっては、目の前の少女が頭を軽く撫でてくれる感覚。シンジは気持ちよさそうに目を細め、在りもしないはずの感覚に想いを寄せる。
 その時に、なぜか目だけは閉じなかった。理由は――彼が無意識の内に知っていたから。
 瞑ってしまえば、彼女の存在を捉える術は殆どなくなってしまう。掻き消えてしまう。
 自分が騙しうる感覚は、今のところたった二つ。
「……え?」
 その数少ない術のうちの一つ、聴覚が彼女の声を拾った。
(このままでいいの?)
 代わり映えのしないくすんだ青の制服、代わり映えのしない無表情な顔。そのままに彼女は告げる。いや、実際にはそうではない。彼女の姿言葉は、シンジの心の具現。彼こそがそう思ったのだ。つまるところは自問自答。
「いいよ。別に」
 浮かんだ問いを、投げやりにも吐き捨てる。しかして、それも紛れもない本心ではあった。望むものはそれほど多くない。自身が望むのは、無変化。他と違い、決して拒むことを知らない傍らに立つ少女と、永遠に過ごし続けること。こうして、やることもなくただこの砂浜に在りつづけるのは、たまらない至福だった。
(そう……)
 少女は、わずかな間を置いてから彼の言葉を――彼のすべてを受け入れる。まるで、生前の姿そのままに。
 それを見たシンジは、微かに微笑んだ。愛しくなり、彼女の頬へと手を寄せていく。
 彼らしくない大胆な行動ではあろう。理由ならあった。それは、彼女は自分でもあるから。人の心に臆病な彼は、心内をすべて知っている彼女にだけは触れることができる。
 しかし。
「なっ!?」
 大気すらも動きを止めているように錯覚させる穏やかな空気の中、生命であることを主張しているような潮騒の中、初めて彼は驚きの声を上げた。
 自分の手には、なにも感触がない。柔らかな皮膚の感触も。心地よい肌のぬくもりも。彼女の頬を突き抜け、おそらくその口腔へと己の手がある。
(そう。あなたは私に触れられないの)
 口の中に彼の手を収めながらも、変わることなく呟くレイ。それが逆に彼を不安にさせた。常に冷静であった彼女としても、己が体を侵食されて、平静でいられるものだろうか。
 見て取ったか、その心細さを打ち消すように、幻の存在たる彼女はなおも続ける。
(触れられるようになるためには、あなたが私と同じ存在に――使徒になればいい)
 だが、口から出た言葉は荒唐無稽なものだった。
 使徒となる。なぜそうならなければ自分に触れられないなどと言ったのだろう。彼女が生きていたころは、しっかりとお互いに接触することができたであろうに。頬を叩かれたりもした。胸を鷲掴みにしてしまったこともある。
「そうだね」
 しかしシンジは、そんな彼女の言葉をためらいもなく受け入れた。なぜなら、彼女の言葉は、すべて自分の考えでもあるから。自分が思ったからこそ彼女に喋らせたのだから。
 そう。
 ATフィールドは心の壁。誰もが張れるが、それは自分自身に対してだけ。だが彼は知っていたのだ。それを外にも張る術を。エヴァ――いや、使徒という存在を。完全な使徒となれば、自分はATフィールドを張ることができ、また、己の心の中にしか存在しない少女も具現化される。だからこそ彼女は、つまり自分はそんな答えを出したのだった。
「でも、どうやったらいいのかな」
 問いかけるまでもない。答えなら、最初から頭の中に存在していた。
 サードインパクト。
 不完全なままに終わらせてしまったため、自分は中途半端に神への道を断たれてしまったが、あのとき望みさえすれば、願いは容易く叶えられたはずだ。
 確証こそはないが、シンジには事実として理解されている。それが、唯一の希望でもあるから。縋れるたった一つの真実であるから。
 彼は望む。
 もう一度、そばに寄り添う少女に触れられることを。
 自分が使徒として姿を変えることを。
 過去へと回帰し、ふたたびサードインパクトをやり直すことを。
 

〜バンクシア〜

作 秋代紫苑


 唐突に感じたものは、すぐ後ろで鳥たちが一斉に飛び立つ音だった。木の葉を揺さぶり、宙へと身を躍らせたあと、比較的大きめな鳥に見られる低く独特の濡れた羽音を響かせながら、次第に音源を遠ざからせていく。鳴き声は聞こえてこない。よほど切羽詰っていたのか、ただ、普段から鳴いているものだと自分が思いこんでいるだけなのか。
 少年はその音に反応して、空を見上げた。後ろを振り返り、鳥の姿を確認しようとしたわけではない。彼が視界に収めようとしたものは、空そのもの。目の端に無粋な高層ビルが建ち並んでいるが、それはきっちりと無視しつつ、さらには、背後にあるだろう、移動していく空の染みにも興味を向けることもなく。まっすぐ上だけに視線を向ける。
 淡く、透き通った空の色。どこまでも平坦なそれを彩るのは、作り物めいた滴の塊。
「……青」
 浮き出るように存在する雲が右から左へと流れていくさまをどのくらい眺めていたのだろう、やがて彼はポツリと呟きを発した。間の抜けたような声音は、おそらく言葉に出した本人すら、その声に気づくことがなかったに違いない。事実、少年は先と変わることなく場に佇んだままだった。視線を一度も動かすことなく、青の色彩を瞳に映し続ける。
「赤い空じゃ、ない?」
 誰に向けたでもない呟きは、むしろ自身に向けて発せられていた。
 彼が知っていた空は、言うとおり、赤に染まったものであったのだ。生けるものの象徴たる、血の赤。それは同時に、死の象徴でもある。血を蓄えるべき器を灰燼へと帰し、あらゆる魂魄を形なき海へと流しこませた、殺戮の証拠としての。
 いや、死という言葉は適当ではないだろう。生の名残として、残照として、死というものが存在する以上、すべてを無へと還したサードインパクトは、その匂いの欠片すら漂わすことはなかった。あるのは、なにもないという矛盾に満ちた事実のみ。
 だが。
(さっきまで僕は……)
 赤く彩られた虚無の世界にいるものと認識していたはずが、なぜかこうして、青に澄んだ空を見上げている。今も視線を転じてみると、おおよそ見ることがないと決め付けていた光景を目の当たりにできた。
 夏の陽光を吸いこみ、濃く色づく葉が緩やかな空気の流れに晒され、音もなく揺らめくさま。その木陰で涼を授かり、人より短い生涯を思ってか、忙しげに鳴き声を奏でる小動物たち。周りを埋め尽くす、人間の手によって作られてさほども経っていない小奇麗な建物。唯一、人の姿が見られないのが不自然といえば不自然であったが、確かな生の気配がここにはある。
 少年はしばしの間それらを見つめた。
(還ってきたのよ、碇くんは)
 呆然としていた彼――碇シンジは、そんな言葉をかすかに捉え、視線を右へとずらす。あるのは、じりじりと照りつける日の光を涼しげにさえ受けている綾波レイの姿。
 視線を受け、彼女はゆっくりと微笑んだ。決してシンジにしか判らないような、わずかな顔の皮膚の動き。
「ふふっ、そうだね」
 見分けがついたことが誇らしいのか、彼は口元を緩めると改めて周囲を見渡した。
 明るい世界。なにもかもが明るい光に晒され、透明な感触をもたらせる。
 心地よいわけではなかった。決してそれが心地よいわけでもないが、どこか自分を祝福してくれるように感じるのは、明らかに錯覚なのだろう。
(多分、こういう気持ちを懐かしいというのかな)
 不思議と気分は落ち着いていた。こみ上げるなにかもない。あれほど切望していたものだったというのに、いざ手に入れてしまうと、取るに足りないことなのではとすら感じる。
 彼は、視界に横切る風景を、それこそ無感動に検分していった。
(過去への帰還か。結構なんとかなったもんだね)
 誰も彼もが姿を消してしまったゴーストタウン。くすんだ記憶にわずかに残っている、自分の持つ鞄。一年中着ているせいか、すっかり見慣れてしまった黒と白の中学校の制服。
 ためしに、ズボンのポケットへ手を差し入れてみる――と、一枚の硬い紙片の感触があった。取り出す。
「葛城ミサト、さん……か。あんまり憶えてないな。どうしてだろ」
 手にしたものは写真で、そこには妙齢の女性の姿が一人だけ写っていた。つくづくラフな格好で、肌の露出をものともせず、それどころか胸の谷間を強調すらしながら。
 ここに注目と書かれた谷間を、本当に見つめることはせず、シンジはその人物について思い返してみた。
(僕の上司で、家族……だったっけ。家族? そういえば、どうして一緒に住むようになったんだろう。それだけじゃなくて、声も性格もなんとはなしにしか覚えてないし)
 不確かな記憶だ。それほど過去のことだというわけではない。極々最近の、少なくとも風化してしまうほどの年月があったわけでもない。だが、彼女のことを大部分忘れている。
 人は、忘れることで生きていける。誰かが自分に語ったような気がするが、こういうことなのだろうか。すべてが風化していく人の記憶の中で、さほど大事とも思えないようなつまらないものを封じこめ、己が大切にしていることだけを永遠にとどめておく、と。
(それもまた一つの正解なんだろうな。だって――)
 葛城ミサトの写真をポケットに収めていた時点で、間違いなく己は初めてこの街に訪れたときへと遡っていると言えた。が、どうやって戻ってきたのかが、霞みがかってよく憶えていないのだ。
 無我夢中で過去へと戻る方法を模索していたことは憶えている。エヴァをあれこれいじってみたり。綾波レイに似た巨大な亡骸を探索してみたり。血の味がする海へと身を潜らせてみたり。
「まあ、憶えてなくとも別に困らないか」
 過程ではなく結果。それさえ得られれば、別に取るに足りないことだった。あやふやな記憶をはっきりさせてみたところで、なにかを得ることもないし、労力の無駄でしかない。今という現実を、ただ受け入れられればいいだけなのだ。
 思案にくれていたために俯き加減になっていた顔を上げ、思考を無理やりに中断させる。
「ん? あれは」
 視線を巡らせた先。熱気のためか、揺らいでいる空気の先に、人影がおぼろに見えた。
 青で統一されたシルエットに、アクセントとして映える赤の目。よくよく見てみれば、自分の隣で気配すらなく静かに立っている少女に、あまりにも似ている存在だった。
 ショートカットで、シャギーのかかった蒼銀の髪。染みの一つもなく、血管の浮き上がりも見られない、人形めいた白磁の肌。髪の色とよく似合っている、青を基調としたブレザーの制服。それに包まれた、あまりにも線の細い、触れただけで折れてしまいそうな肢体。現実に存在を感じさせず、幻想の住人めいたところまでもが瓜二つ。
「ねえ、綾波? あれって誰なんだろうね」
 しかしシンジは、驚くこともなく隣にいる彼女へと問いかける。彼にとって、綾波レイとは隣の少女だけであったのだ。他はすべて、自分の知らない存在。受け入れ難い存在。たとえ姿形が同じで見分けがつかないからといえども、そばに寄り添っている人物が本物だと認識している以上、陽炎に揺らいでいる目の前の存在などに興味はなかった。
「まあ、どうでもいいか」
 そう。どうでもいいのだ。自分の逃げ場たる綾波レイ以外は。
 彼の思考は、常にそれを機軸に作られる。綾波レイこそが彼の世界の中心。彼女に関わっていないものは、すべて関知の外、興味に上ることもない。
「それより、これからどうしたらいいのかな」
 彼方に見える偽りの揺り籠から目を離し、最も信頼しているパートナーへと問いかける。
 どこか先に見えた幻よりも希薄に見えてしまう綾波。彼女は、いつもの独特な間を置いてから、おもむろに口を開いた。
(あなたの好きにすればいいわ。周りが勝手に動いてくれるから)
 周りが動く。それは、自分を敬い、かしずいてくれるという意味ではない。まったくの逆で、己を蔑ろにするという意味で使っていた。
 彼はエヴァに乗るためにこそ、この場に呼ばれてきている。それ以上でもそれ以下でもない。素直に乗ると言えばそれでよし。嫌がるものなら、あらゆる手段を用いて乗せにかかることだろう。すなわち、どう動いたところで結果は同じで、彼には今このときくらいしか自由に動ける時間はないのだ。
「とはいえ、好きに動くってことは……」
 できそうにない。自分の記憶が確かなれば。
 溜息交じりに呟く。すでに今取りうる選択肢は、極々わずかしかなかった気もする。
(確かこの後って――)
 陰が舞いこんだ。自身と相棒、それに、視界に見えるものを広範囲に覆い尽くす陰。伴い、僅かな涼もそこにはある。
 はるか空から迫り来る、突き刺さるような光の束が遮られたのだから、それは確かに当然とも言えよう。しかし涼と言っても、脳髄を中心とした痺れるような冷ややかな感触だった。つまりは恍惚。背筋はあまりの歓喜にぞくぞくと震え上がる。
「使徒が現れるんだっけ」
 ゆっくりと。長らくも時間をかけ、ゆっくりと振り向く。
 怯えから来る動作ではない。期待だ。この焦れるような感覚が胸をむず痒くさせ、心地よく染み入るそれは、一瞬で終わらせてしまうのを惜しませた。だからこそ、少しでも長く持続するようにと時間をかける。
 だが永遠は、人であるかぎり、決して手に入れられるものではない。ものの数秒でシンジは体ごと後ろへ向き直っていた。
「……第三使徒」
 見えたのは、予想にたがわぬ巨躯だ。人の姿とさほど変わりないそれは、全身が深い緑で覆われている。必要以上に上半身が特化していて、特に肩は、詰め物でもしているかのように盛り上がっていた。
 見るべきところは、その肘。上腕に並行するように筒状のものがついていて、奥からかすかに光を覗かせている。生物としてはあまりにも不自然なところではあるが、もとより常軌を逸した存在のせいか、そこまで違和感はない。
 顔――なのだろう、そのように見える丸い白のお面のようなものは、普通の人間と違い、胸に相当する部分にあった。そして、虚無を具現化させたような深淵の闇を持つ瞳。
「羨ましいな」
 圧倒的な存在感を放つ使徒を、目に、心に焼きつけ、微動だにせず立ちつづける。
 生まれながらにATフィールドを張ることができる存在。それは、自身が唯一望んでいるものだ。不完全なままである自分を昇華させ、かの者と同じ段階を上ることが、己の持つたった一つの命題である。
「あ……」
 その羨望の視線に気づいたのであろうか、こちらへと使徒が振り返った。自分が見られているのか、それは定かではない。暗く輝く瞳からは、その意思を窺うことはできそうになかった。ただ、己の存在を掴んでいることだけは確かだ。
 時が止まる。動くものはなに一つとしてない。今まで聞こえていた蝉やその他の鳴き声も、不思議とやんでいた。いや、やんでいたのだと錯覚しただけだろう。今このかぎりにおいては、自分の意識が使徒にだけ向けられ、使徒もまた、こちらを意識する。
 羨望に返してくる使徒の感情とはどのようなものだろう。ふと考えがよぎった。好奇なのか、殺意なのか、はたまたそこらに転がる石と同様に、なにも感慨を浮かべないのか。
「少なくとも殺意だけはなさそうだけど。それだったらとっくに――」
 不意に。
 停滞を破ったものがいた。自身の直上を、それほど高くない位置で通過していく一機の戦闘機。耳を割くような音とともに、その場に立つことすら容易ではない暴風を辺りに撒き散らし、凍った時の中で存在を主張する。
 シンジは舞い上がる砂から目を保護するため、腕をかざし、視界を覆った。しかし目は守れたもののそれだけで、服から露出している部分の肌には、飛び散る砂がチリチリと打ちつけられる。
 やがてそれも収まったとき、ふたたび目を使徒へと向けてみると、そこは一瞬の内に戦場と化していた。先の一機だけではなく、三機、四機と数を増やし、己の目指す存在である使徒へとミサイルを打ちこんでいく。
 対する使徒は、それを涼しげに受け、ハエを払うかのように腕を薙ぎ払っていた。たまに腕の関節部から出る、凝縮された光でできたかのような槍で、撃ち落してもいる。
「あ……あれ、は……AT……フィールド」
 そんな中、シンジは微かに見たような気がした。オレンジ色の輝きを。一枚の半透明な板状の盾を。自分の願望を投影させ、幻を見ただけなのかもしれないが、確かにその目で。
 瞬間、無意識の内に手を伸ばしていた。渇望するものがそこにある。掴めるわけもないし、掴んだところで自分のものになるわけでもないが、どうしてもその行動を抑えることができない。欲するままに手を伸ばす。
 と。
 伸ばす手の延長上から、赤黒い塊が肥大化して、視界を覆い尽くし始めた。あたかも彗星のように黒い煙の尾を引きながら迫るそれは、痺れたままの脳ではなんであるかを直後に理解しきれない。やがて目前に迫った時、ようやく正体を掴むことができた。
「さっきの戦闘機、だろうね」
 興ざめだ。二度も邪魔をされては。
 こちらに向けて墜落してくる無粋な戦闘機を見据え、シンジは低く呟く。この際、自身の危険などは関係ない。死ぬことだけは困るが、腕の一本や二本消え去ったところで構わなかった。避けようともせず、ただ嘆息のみを漏らす。
「ATフィールドでも張れたらめんどくさくないのに……って、それじゃあ本末転倒か」
 のんきに言うが、周りの状況は刻一刻と変化していく。目の前にある戦闘機の落下地点は、およそ手前十数メートル。爆散することを考えれば、とても安全とはいえない距離だった。シンジは、一応形だけは身を守っておこうと、隣に立つ綾波レイを背に庇いつつ、顔の前に手をかざし、ふたたび目を瞑る。
 直後だった。
「うぐっ……!」
 激しい爆音が耳を苛む。脳の容量を超えたか、音として認識してくれないそれは、直接頭を揺さぶられているような不快感を伴った。
 が、不思議と衝撃は来ない。痛みも、鼓膜を中心に広がるだけで体に異常はなさそうだ。
 彼は頃合を見計らって目を開いた。すると、そこにあったのは一台の青のスポーツカー。自身と戦闘機の間に割りこむように――つまり、守ってくれるようにして止まっている。
(ああ、そうか。確かこんなこともあったっけ)
「碇、シンジくんね? 乗って!」
 助手席の扉が開き、見ることができたのは、一人の女性だった。運転席に座り、こちらに向けて焦燥を感じさせる声をかけてくる。
 返事をするでもなく、シンジは彼女を観察していった。
 それなりに整った顔立ち。光の加減では紫にも見えなくない、ロングの黒髪。赤いジャケットを着込み、険しい顔をしていることを除けば、先の写真通りの人物、葛城ミサトだ。
「早く!」
 焦れたか、畳みかけてくる。
 シンジとしても、逆らう意味はどこにもなかった。そのためにここへと来たのだから。言われるがままに車に近づいていく。そして、後一歩で車に触れるというところまで来ると、わずかに方向を転換し、後部座席の扉を開いた。
「ちょ、ちょっと! わざわざ後ろを開けなくたって、ここから乗ればいいでしょう? じ、時間がないんだから!」
 しかしシンジはそれに答えず、己の背後へと視線を送る。ついで、一言。
「ほら、綾波? 早く乗って」
 別に彼は、葛城ミサトに含むものがあり、それでわざと意に反する行動を取ったわけではなかった。理由は、助手席に座れる人数がたった一人という事実。都合二人いるものと思いこんでいる彼からすれば、どうしてもそういう選択を取るしかない。
 もっとも、ミサトにとってはレイの姿を見ることができない以上、馬鹿にされているのだと思うほかなかったが。
「じゃあ行くわよ? しっかり掴まってて!」
 なぜか扉を開けてから数秒ほど待った後にようやく乗りこんだシンジ。それを見て、苛立ちをぶつけるようにミサトが叫ぶ。そして生への意思をこめ、彼女は思い切りアクセルを踏み抜いた。
 
        ◆  ◆  ◆
 
 人は闇を削りながら生きている――とは、いったい誰の言葉であっただろうか。恐れるからこそ火を使い、闇を削りつつも自分の領域を広げていく。恐れをなくしていくことで、他を圧し、世界を支配する力を手に入れた。
 しかし。それはあくまで物事の一面にしかすぎない。
 人の持つエゴは、恐れの対象ですらも利用してしまう。後ろ暗いこと、罪悪感に苛まれることから身を守るため、闇をまとい、己の盾とする。闇にいることによって、積み上げてきた罪を自身に見えないものと錯覚させ、正当化させるのだ。
 闇をすべて駆逐する力を持つ人間がそれを行わないのは、そういうことである。闇を恐れると同時に、必要ともしているのだから。闇こそが、人の作り出すことのできる無双の盾。突き破れる矛など、この世には一切存在しない。
 今この場所はほの暗くされていた。手元の文字をかろうじて読み上げることができる程度、効率よく仕事を為すには及ばない程度。仕事場であるはずのここが照明を抑えられているのは、やはりそれなりの理由がある。彼らの無意識の中に、罪の念があったから。
「くそっ!」
「いったいどうなってるんだ、やつは!」
 通称、戦自。正式名称、戦略自衛隊とも呼ばれるその組織は、十五年前の地球規模の天変地異であるセカンドインパクト後によって設立されていた。以前あった自衛隊から形を変えたそれの活動目的は主に、混乱した国民を沈静化し、力によって治安を守ることにある。外からの攻撃より身を守るためではなく、名前のとおり、より攻撃的になった国の自衛の組織。
 装備も、国民の税金を惜しみなく使っているために、前組織と比べ物にならないほど充実していた。ただ、その装備の向けられる先である国民にとっては、邪魔者以外の何者でもなく。世間の評判は、常に底へと落ちこんでいるのが現状ではあったのだが。
「厚木と入間の戦闘機も全部上げさせろ! なんとしてもやつの侵入を許すな!」
 しかし今、結成されてから初めて国民の意に添うような行動に彼らは出ていた。
 侵略してくるものに対しての自衛がそれ。第二次世界大戦以降、他国の脅威に晒されることもなかった日本だが、そのときから初めて自国の危機に陥っていたのだ。
 ただし攻めてくるのは、アメリカでも中国でもなく、ましてやどこの国でもない。たった一匹の生物が本土へと侵攻してくるだけ。いや、侵攻の意志があるのかすら疑問であった。兆候もなく現れたその生物は、ある一点を目指して緩慢と歩を進めているだけで、周囲に被害を及ぼすわけでもなく、あえて言うならば巨体ゆえに踏み潰された家々くらいか。
 もっとも、当事者からすればそれだけでも迎撃するには充分な理由であり、だからこそこうして戦略自衛隊が出動しているわけでもある。彼らは本来、国民を抑えつけるためではなく、護るためにこそ存在しているのだから、否が応でも対応せざるをえなかった。
「我々の力を『やつら』に見せてやれ!」
「出し惜しみはするな! 目標を叩き潰すんだ!」
 逆を言えば、汚名を返上する好機でもあるのだろう。場にいる高官たちが必要以上に気負っているのは、そういった理由も含まれていた。ここで面子を回復させておけば、来期における予算にも強い発言力を持つことができ、戦闘で失った人材や予算は、充分以上に補填することができる。それどころか、世間の評価が一変するのは必然であり、失った末端の命を引き換えとして、自分たちの陽の当たる将来を約束されるものでもあるのだから。
 高官たちの言葉を受け、末端の者たちが操る戦闘機は、次々に未知の巨大な生物へとミサイルを浴びせかけていった。編隊もなにもなく、ただ闇雲に撃ちまくっているだけではあるが、目標の大きさゆえに狙いをつける意味はない。人間の姿に似ているというだけで弱点も定かではない中、物量に任せて死へと追いやるというのが、ここを指揮する者たちが出した結論だ。
 国連軍からの応援もあり、戦闘機の数は時間とともに比例して増えていった。命中したミサイルが作る弾幕はやがて生物の全身を覆い尽くし、輪郭を不鮮明にさせていく。
 が、一向にその生物の怯む気配がなかった。弾幕も、血煙へと色を変色させていくわけではない。それどころか、垣間見える生物の体表は元の深い緑色をしているのみで、傷一つついた様子はなく。逆に、うるさげに戦闘機を叩き落してすらいた。ひょっとすれば敵とすらも思われていないのではないかというくらい、簡単に。あっけなく。
「やはりATフィールドか」
「ああ。使徒に対して通常兵器では役に立たんよ」
 戦自の高官たちのいる部屋、重く響くように異色の声が鳴り渡った。次第に焦りを見せ始めた戦自の者とは異なり、落ち着いた――というよりも、まるで他人事のような声。
 それを聞き、高官たちは振り返る。
 暗い部屋にも関わらず赤い色眼鏡をかけ、あごひげをたくわえ、おかげでかなり胡散臭げにも見える厳つい顔の中年は、うっすらと嘲笑を浮かべて様子を傍観していた。短くそろえられた髪の色に合わせてあるのか、服は上下とも黒で統一され、それが威圧感を増させる要因にもなっている。その男の名は確か、特務機関ネルフ総司令の碇ゲンドウ。
 もう一人は、ゲンドウよりも一回り歳を取っている老人だった。年齢の割に不自然なほどボリュームのある頭髪は灰色に染まり、顔には幾つもの深いしわが刻まれ、しかし生気だけは漲っているようで、姿勢正しくゲンドウの隣に立っている。ただ、一歩後ろに下がっているその様子は、でしゃばることなく補佐に徹する気概というものが感じられ、実際、彼――冬月コウゾウは副司令を務めてもいた。
 そして彼ら二人は、この部屋の主でもある。戦自は、ここ管制室を間借りしているだけ。国連軍を通じてこそ、その下部組織であるネルフの協力を得ているのが実情であり、おかげでここにある作戦指揮のための機器も、形だけの協調を見せるネルフのものではなく、すべてがネルフのそれよりも性能の劣る持ちこみによるものだった。
 つまり戦自にしてみれば、国民のみならず、彼らネルフに対する面子やプライドというものもある。自分たちがあの巨大生物を倒せなければ、それの殲滅のために組織されたネルフにすべてを委ねなければならない。ネルフのトップ二人は、自分たちの不甲斐ない戦績を嘲るためにこそこの場に居座らせているだけであり、せせら笑う立場を逆転させるには、なんとしてでも忌々しい生物を屠る必要があるのだ。
 そのとき、祈りが通じたのだろうか、戦自の高官に対して呼び出しのベルが鳴り響いた。一人がそれに出る。とはいえその内容、聞かずとも判っていたのであるが。
 N2地雷。国連軍が誇る最高の爆弾であるそれは、核にも匹敵する爆発力、熱量を持ち、しかも放射能を振りまくことがない。極めて実用的ではあるが、やはりその威力から使用をためらわれていた代物だった。どちらにしても結局焼け野原になるわけであり、すぐさま再興できるか、その後しばらく不毛の地となるか程度の差。
 そんな爆弾の使用を促すために最高幹部から連絡してきたのだろう。
 つまるところ最後の手段というわけだ。戦自の人間たちに緊張が走る。
「ええ、判りました。予定通りに発動します」
 内容を聞き取って受話器を置き、同時に高官は部下たちへと指示を送った。
 命令の内容は退避だ。推定される爆発力は、優に街一つ吹き飛ばす程度はある。例えるなら、郊外をひた走る一台の青のスポーツカーでも余裕で爆風の影響内に収めてしまうほど。そんな威力を持つのでは、いくら自分たちの命は安全と言えども迂闊には使えまい。
 戦闘機が散り散りになったころを見計らい、高官はさらなる合図を発した。
 直後、モニターが白く染まり、次には、電波の受信が正しく行われていないことを示す白と黒の砂嵐が映し出される。
「やった!」
「この爆発だ。けりはついたようだな」
 膨大な熱量による電波障害が起こっている証拠だ。ネルフの機器さえ使うことができたならば対象の映像をしかと捉えることが可能であったろうが、それでも戦自とて性能の悪いものを使っているわけではない。砂嵐の先は、地球上の生物にとっておよそ生存不可能な領域へと姿を変えていることだろう。いや、すべてが塵へと帰されていることだろう。そこになにかあるとすれば、人の営みを感じさせることのない一切の荒野のみ。
「どうやらあなたたちの出る幕はなさそうですな」
 高官の一人が、お返しとばかりにゲンドウたちへ嘲笑をまじえた揶揄を贈る。自分たちへと向けられたものを思えば、小匙ほどのほんの軽い意趣返しだ。しかし、余裕は常に勝者とともに存在するものであり、あえてその程度に抑えて寛容なふところを見せたのだった。周囲へと向けた傲慢な態度は、いずれその者が持つ価値を失ったとき、負債を抱えて舞い戻ってくる。今彼らを貶めなくとも、いずれ相応の報いを受けることになるのだから、自らが手を汚す必要はない。
 だが、その刹那。
「爆心地にエネルギー反応!」
「なんだと!」
 相手の顔色を窺う暇もなく、オペレータからの報告が心臓へと突き刺さる。逆にゲンドウたちに失態を見せつける羽目となり、高官は慌ててモニターへと向き直った。それが余計に彼らから失笑を買うことは判っているのだが、この際構ってなどいられない。
「映像回復します」
 一瞬後、揺らぐ大気の先の光景があらわになった。そして、それをじっと見つめる戦自の者たち。一人としてモニターから目を離さず、映るものに対して絶句と畏怖を送る。
「な、なんということだ」
「化け物め!」
 確かに計算通りに街はすべて吹き飛んでしまっていた。辺りには、焼けた土の色が一様に広がっていて、所々で煙が上がっていたりするのだから、よほどの威力だったのだろう。
 だがそれだけだ。肝心の生物は、光の中へ姿を消す前とろくに様子を変えていなかった。
 動物にしては毒々しく思える深緑の皮膚は、いくらかに火傷らしき跡があるだけ。顔と思われる白く浮き上がった面は、ヒビが一本入っているだけ。それが街一つを代価として与えた損傷のすべてであって、他に得られたものはなにひとつとして存在しない。
 むしろ相手の生物に与えてしまったものの意味のほうが大きいだろう。巨大に映し出された生物の顔、最初は線でしかなかったヒビだが、段々と複雑な文様を全体へと走らせ、やがてぽとりと割れ落ちたまではよかった。しかし、それは深手を与えたからこそではなく、実際には奥にあるもう一つの面を表に出すために邪魔になっただけでしかない。
 そして、こちらへ向けられた新たな面の双眸から、不意に光が漏れたかと思いきや、モノクロで構成された砂嵐以外のものをモニターが映さなくなった。
 先の状態と同じではあるが、今度は電波障害などという理由ではない。生物がかすかに発した光と、その直後の映像の途絶。それが意味するものは、つまるところ――
「ほう。自己修復、それに自己進化か」
「ああ。生物として単体で活動するには、当然の帰結だよ。予想ならできたことだ」
 またも日和見がてらなゲンドウたちの会話が、沈黙によって支配される管制室に響いた。
 映像が途切れたということは、生物が不可視のなにかを放って攻撃してきたということ。漏れ出でた光は、そのときに生じる余波かなにかなのだろう。次いで、先刻まではそんな能力を欠片も見せなかったことから、N2地雷によって新たな力を身につけてしまったというのが彼らの出した結論だ。
 戦自の高官たちとて、言われるまでもなく判っていた。が、認められない。ゆえに二人を無視し、なにも映すことのないモニターへと怨嗟の念を送りつづける。
 と、そのとき。ふたたび唐突にベルが鳴った。
 いやに大きく鳴り渡るそれに顔をしかめつつ、先刻と同じ高官が受け取る。しかしてその先から聞こえる意志は、やはり聞くまでもなく判っていたのだが。
 つまり、指揮権を放棄してネルフに譲れ、と。
 これ以上の攻撃は、少なくとも戦自にとっては無意味なのだ。確かにN2地雷は巨大生物にわずかな傷を負わすことができたが、それに対するリスクがあまりにも大きすぎる。この戦闘の意味は自分たちの地位の向上が主であるが、ダメージを与えるごとに国民の反感を買っていたのでは、本末転倒でしかないだろう。
 自分たちが動いた分だけ立場が危うくなるしかないのならば、そんな厄介物はよそへと押し付けてしまえというのが最高幹部の下した決断であった。
 連絡を受けた高官が、時間をかけてゆっくりと振り返り、ゲンドウたちを見据える。
 この瞬間を待っていた者たちから窺えたのは、刹那には自分たちが持っていたはずの勝者の余裕だ。それがたまらなく癪に障るが、言うべきことは言わねばなるまい。
「これより、指揮権は君たちに移った。だが、君ならやつに勝てるのかね?」
「ご安心を。そのためのネルフです」
 眼鏡をくいとずり上げつつも答えるゲンドウ。そしてその言葉を最後、彼は冬月を従え、もう用はないとばかりに悠然と管制室から立ち去っていった。場に沸き上がる憎悪の視線を、その広い背中に惜しみなく受けながら。
 
        ◆  ◆  ◆
 
「あのぉ、ミサトさん? 少し聞きたいことがあるんですけど」
「え!? えぇ、と。ちょっ、ちょっと待ってね。言いたいことは判っているから」
 気まずかった。限りなく気まずかった。それはもう、これ以上もないほどに。
 ミサトは、気づかれないように細心の注意を払って背後へと視線を送り、自らの後ろを着いてくるシンジの表情を覗き見る。
(彼、なんて目を向けてくるのよ。これじゃあ、まるきり私が悪者みたいじゃない)
 視界の端にぼんやりと映る彼は、なにかを言いたそうではあるが、しかし遠慮からか口をつぐんでいる様子だった。すがるようにも見える上目遣いの目と、軽く開いては閉じての繰り返しをしている唇。決して彼は自分を責めてきているわけではないのだが、むしろその態度こそが己の良心を苛んでくれている。
 先ほどから、喋りかけられるたびに自らの言葉を被せて発言権を奪っているのが、気まずい空気を作り出している主な要因だ。いつ彼の口から自分に対する汚名の言葉が発せられるのかと思うと気が気ではなく、しかもその言葉を聞くのを先延ばしにしてしまうほどに気まずさは増して、聞く勇気を削り取っていってしまう。
 なにかきっかけでもあれば話は別だろうが、生憎とそういったものも周囲には存在していなかった。いや、周囲になにも存在していないからこそ、こうして気まずいひと時を過ごさざるを得なくなったと言えなくもないのだが。
 ミサトは逃げるようにシンジから視線を外し、改めて周りの状況へと意識を巡らせた。
(なんで本部って、こんな複雑な造りをしてんのよぉ。配属されてからけっこう時間が経ってるのに、いまだに全部を把握しきれないなんてぇ)
 いま歩いている場所は、はるか地中深くの巨大な空洞に構えられた、国連非公開組織であるネルフの本部。判っているのはそれだけだ。ここがどこなのか、どこに向かったらいいのか、どこからやってきたのか、そういったものは一切己の理解の中にない。
 辺りは、見渡すかぎりに一様に無骨な壁で囲まれている。見栄えよりも実用とコスト削減を追及したゆえか、金属質が剥き出しなままの味気ないそれ。たまにアクセントとして標識らしいものも見えるのだが、その標識の意味がさっぱり見当もついてくれなかった。
 国連所属のお役所とはいえ、仮にも武力を持った組織なのだ。外部からの侵略を想定し、情報を秘匿しようという考えは判る。攻められにくいように、あえて複雑な造りを構成させるのも判る。が、こうも外部に対して不親切にしたのでは、新しく配属された人間にとって、まるで迷路のごとくとなってしまうのではないだろうか。さしずめ己のように。
(私が悪いわけじゃないわよねぇ、これって。だいたい、ここが異常すぎんのよ!)
 つまるところ。職場であるはずのここで、自らは迷子になるという失態を冒しているのだった。そして、それがシンジにばれてしまうことを恐れ、彼から言葉を奪い去っている。
 いや。本当は彼も、薄々気づいているのだろう。だからこそ、先ほどから散々に声を掛けられつづけているのだから。都度、頭を押さえつけているわけではあるが、いくら鈍い人間だろうと、同じ場所を四回、五回と通りすぎていれば、嫌でも感づくに違いない。
 だがこうして彼の口を閉ざしつづけていれば、迷子になっている事実はないのだと錯覚することができるし、彼も気づいていないのだと錯覚することもできる。現実から目を背けつづければ、いつかは拓かれた道にたどり着くのではと信じ、現状があるのであった。
「あのぉ、ミサトさん? 少し聞きたいことがあるんですけど」
(もー……いつになったらこっから逃げられるの?)
 決して逃げられない。こうして現実から目を背けているかぎりは。
 本当は判っているのだ。もう己が限界に達しそうだということも併せ、判っている。
(そう! いいかげんに限界なのよー!)
 基本的に人とは、保守の中にこそ安寧を感じると同時に、変革への憧れも絶えず持っている。このまま自分を騙しつづければ、居所の悪さは相変わらずだが、想像の範疇を越えてしまうほど悪くなることはない。しかし逆に、思い切って彼と正面から向かい合えば、悪化するかもしれないが、むしろ良くなる可能性だってある。
 いっそのこと、賭けてみたかった。時間が経つごとに声を掛けづらくなっていることからは矛盾するが、それこそが正直な気持ち。生来の博打好きゆえからも、体が疼いて仕方がない。それに、希望がそこに残されているのなら、たとえ罠が待ち受けていようとも飛びこんでしまうのが己の流儀というものである。
 問題は、どのくらいの勝算があり、現実に賭けてみるほどの価値があるかどうか。
(いいえ。ならばその勝算とやらを試算すればいいだけのことじゃない)
 少年の表情を観察すれば、自ずと答えが見えてくるに相違ない。今一度ミサトは、顔をわずかだけ捻り、眼球に痛みが走ってしまうほどの限界まで目線を後ろへと持っていく。
「げ」
 目が合った。
 疑いようもなく。ばっちりと。
 無慈悲にも彼の瞳には、まるで睨みつけているかにも見える己の眼がしっかりと映っている。痛みによる充血によってか、普段よりも迫力が増してしまったそれだが、彼を萎縮させるための一助となっているのは気のせいではあるまい。
 それでも彼が目を逸らさずに見返してきているということは、相応の理由を裡に秘めているからなのだろう。数々の武勇伝を誇るこの睨眼をも跳ね返してしまうほど理由。例えば、理不尽にも同じ箇所をぐるぐる回りつづけた挙句、反論すらも封殺されていることに対して憤りを感じている、といったような。
(くっ! もうこれで言い逃れることができないじゃない! どうしてくれんのよ!)
 誰に向けたわけでもない呪詛。しいて言うならば、悲運の中に放りこんでくれた世界中のすべてに向けて。ミサトは、シンジへと見えないように握りしめた拳を震わせる。
 その際、瞳にも余計な力が行ってしまったような気もするが、しょせんは今更だ。十が二十になったところで、その二十を繕ったところで、睨みつけている事実が消えてくれることはない。彼のこちらに対する評価は、そう大きな変わりがあるわけでもないだろう。
 そんなことよりも。
 ミサトは背後へと向けていた瞳を一度正面に戻し、シンジからの視線を外す。
(いま大事なのは、この絶体絶命のピンチをなんとかして乗り越えること。お腹の中に入った水は、もうお盆には戻ってくれないんだからね)
 やるべきことなら判っていた。ふたたびに彼の口を封じさせることだ。今までの苦労を報いさせるためにも、彼の中にあるはずの蔑視から自分の目を背けさせるためにも、決して彼に主導権を握らせてはいけない。
 ただし今度は、今までと同じ手法を使うわけにはいかなかった。あれは、彼の意志を理解していなかったという前提によって初めて成り立つもの。目が合ってしまった以上、その意志はしかと汲み取ってしまっているし、たとえ判っていないふりをしたところで、向こうが伝わったと認識してしまえば、こちらの思惑など関係なくなってしまうだろう。
(ふっ。でもね、私も伊達にネルフの作戦部長をしているわけじゃないのよ? その気になれば、こんな子供を煙に巻くくらい楽勝って寸法なんだから!)
 すべてを統括する作戦部長たるもの、職場の施設を把握しきれていない時点で失格なのだが。しかし、都合の悪いことはきっちり頭から追い出しておく。当面の問題は彼なのだ。一刻も早く行動を起こさないと、彼の口が開いてしまい、手遅れになる可能性がある。
 ミサトは数回深呼吸を繰り返し、一拍の間を置いた後、勢いよく背後へと振り返った。
「ごっめーん、シンジ君。察しのとおり、実は迷っちゃったみたいなのよー。私もここに来て、まだ二週間くらいしか経ってなくてね? ほら、ここってむやみやたらに広いじゃない。挙句に、案内板もないどころか、あえて迷わすような造りになってるし。いくら才色兼備な私だとしても、これじゃあ仕方がないってものよね。だからシンジ君? これは過失じゃなくて、必然だったのよ。こんなところ、たとえ私以外の人間だって――」
 己の考えた作戦とはすなわち、なにもかもを洗いざらい話して、言葉の弾幕を張ることだ。頭を下げ、拝むように胸の前で手の平を合わせ、言葉が途切れたときこそが己の命日とでも言わんばかりに、必死になって言い訳の弁を紡ぐ。そのときに目は閉じていた。侮蔑に歪んだ彼の顔など、とてもではないが正視できない。ひたすらにこのまま時間を費やし、彼が呆れてしまうか、それともこちらの意図を悟ってくれるかを待つのみである。
 しかして。ミサトの思惑とは裏腹に、シンジはあっさりと弾幕の間隙を縫って話しかけてきた。しかも、予想だにしなかった内容を含めながら。
「いえ、そういうわけじゃなくて」
「へ?」
「ですから、僕が聞きたいことはそんなことではないんですけど」
 恐る恐るミサトが片目だけを開いて見上げてみると、そこにあったのは困惑した様子のシンジの顔。侮蔑や怒りの色などどこにもなく、悪意のこもった言葉をかけてくる兆しすら見られなかった。額面通り受け取るのなら、わけもなく突然謝りだしたこちらに、誤解を解くか自分の用件を優先しようか、対応を選びあぐねているといったところなのだろう。
(そ、それじゃあ私は、いったい今までなにに怯えてたっていうのよ。おまけに、その怯えていた原因が現実になるかもしれないことまで、シンジ君に教えちゃったし)
 墓穴を掘ったということか。ミサトは頭の中で愕然と膝をつく。
 だがそんな中でも――そんな中だからこそ、時間とは無情に流れすぎていくものである。心中をまるで察することがなかったのか、シンジは構わず自分の用件を優先させてきた。
「あの。さっきから綾波の姿が見えないんですけど」
「へ?」
「だから綾波ですって。いつの間にか姿が見えなくなってしまったんですけど、ミサトさんはどこに行ったのか知りませんか?」
 ふたたびに同じようなやり取りとなってしまったが、それでも彼に焦れた様子はなく。いや、焦れてはいるようだが、ゆえに辛抱強く繰り返し、こちらに内容を咀嚼させようと試みてくる。しかし、今度ばかりはミサトにとって理解しきれるものではなかったのだが。理解したくないのではなく、真の意味で理解することができない。
(またその名前。いったい彼は、誰のことを言っているの?)
 綾波レイ。確かにその名前は、己の記憶の中にしかと太字で書きこまれていた。世界に三人しか存在が確認されていない、乗り手を選ぶエヴァンゲリオンと呼ばれているロボットのパイロット。総じて十四歳程度の年齢ゆえか、通称としてチルドレンと呼ばれる彼らだが、その中でもレイは、最初にエヴァに適格することが認められたため、特にファーストチルドレンと呼称されていた。そして、エヴァの存在理由でもある使徒の殲滅を行う際には、作戦部長である自らの手駒となって操られるというわけである。
 身体的な特徴としては、鮮血を思わせるような朱の瞳と、なぜだか淡く冷たい月の光を連想させる蒼銀の髪。精神的には、希薄な自我しか持たず、周りに対しては常に受動的に行動するのが強く印象としてある。こちらの言うことには一切逆らわない。なぜと問いかけてくることもない。周囲にある空気に自らを溶けこませ、存在すらも虚ろに思わせてくれるような少女。兵士としては申し分ないが、人間としてはなにもかもが欠けているというのが、己を筆頭としてネルフの職員すべてに通じる共通の認識である。
 だがシンジの言葉を聞いていると、その綾波レイという像は、自分たちの知っているそれと、かすかに差異があるのだった。近似はできても、決してイコールにはならず。明らかに同一人物ではないと断定できそうなことも、いくらかではあるが含んでいたのだから。
 例えば、喜怒哀楽といった感情表現。彼曰く、綾波レイとは感性豊かな人間らしい。見た目は能面のような彼女でも、わずかながらに顔へと感情が出ていて、見分けがつくのは世界でも自分だけだろうと、誇らしげに語ってくれたものだった。
 例えば、意外にも家庭的な雰囲気があるところ。柔らかに包んでくれる彼女の気配は、見ていると、妙に母親というものを連想してしまう自分がいるのだと、少し恥ずかしがりながらも語ってくれた。
 つまり身体的な特徴はすべて一致するが、精神的な面での違いが著しいのである。だから最初は、彼の主観による思いこみなのだと理解した。好きになった相手のことならば、どんなことでも美化してしまうという、思春期にありがちな心の暴走から来ているのだと。より正確に言えば、恋愛感情ではなく、むしろ崇敬じみたものを抱いているように見えるのだが、どちらにしたところで結果にそれほどの差があるわけでもないだろう。
 しかしそれらを加味しても、理解できないことが一つだけあった。彼がなぜ綾波レイを知っているか、なぜそこまで入れこんでいるのか、そういった疑問すらついぞ思い浮かばなくなるほどの、極めて理解不能なことがたった一つだけ。
(そう。彼はあのとき、誰と話をしていたのよ)
 辛くも戦場からの遁走を果たしたあと、自己紹介を兼ねて車の中でいくらかの会話を交わしたのであるが、彼はまるで、そこにもう一人存在するかのような振る舞いを見せていたのだ。誰もいないはずの空間に向けて語りかけ、返事を返し、あまつさえこちらへとその人物についての話を振ってくる。己とシンジしかいないはずの密室、誰かが隠れるようなスペースもないのに、極々当たり前のように。そんな人はどこにいるのかと聞いても、彼は不思議そうな顔を浮かべるのみで、こちらには見えていないのだとすら気がつかない。
 実のところ、それが気まずい雰囲気を作り出しているもう一つの要因であったのだが。理解できない彼の一人芝居めいた行動に薄ら寒いものを感じ、ついつい距離を取ってしまおうと体が反応する。すると、もともと話が得意ではない様子の彼のほうも、あまり語りかけてくることはせず、互いに静寂の中に身を置く羽目となってしまうのである。
 ともかくも、綾波レイならすぐそこに存在すると彼が言っていた以上、いまごろ病室で絶対安静の身になっているはずの重傷の少女を指しているわけではないのは明らかだ。最初は一致していたはずの人物、しかし総じてみると、姿形だけ似ているまったくの別人となってしまう。つまり、彼の言う綾波レイとは、自分の知る綾波レイではない。いや、それどころか、本当にそんな人物が実在しているのかすらも判らない。彼以外には決して見ることが叶わないし、声を聞くことだとて叶わないのだから。
「ねぇシンジ君? その……レイって子、ホントに赤い眼で青い髪のレイのことよね?」
「ええ、車の中でも言いましたよね。それに、ミサトさんだって知ってるはずなのに。いったい何度言わせるつもりなんですか」
 それでも彼にだけは明瞭に判っている事柄らしい。苦しげに問いかけても、返ってくるのは不機嫌さを窺わせる言葉のみ。まともに取り合うことすらしてくれなかった。
(はぁ。なんだか今日は、踏んだり蹴ったりって一日よね。厄日ってやつ?)
 しかも、まだこれで半日しか経っていないというのだから気が滅入る。挙句この先には、さらなる心労の元である使徒撃退の任務が控えているのだ。本来であれば待ち望んでいたその時ではあったのだが、肝心のパイロットが重傷の身では、己の士気以前の問題になりかねなかった。使徒を倒すことができるのはエヴァしかないというのが大前提としてある以上、自分がいくら足掻いたところでなにかが変わるわけでもないのだから。
 ため息がこぼれ、鬱な心に比例して自然と視線も下がっていく。と、そこで目に留まったものは己の衣服だった。ただ、それが余計に自らの心を奈落の底へ沈めてくれる要素ではあったのだが。
 家から出た時点では、上司の息子であるシンジへと好感触を与えるために、埃の一つとして気を使って払い落としていたような気がする一張羅。しかし今は、所々がすすけてしまい、ほつれている箇所すら見受けられた。泥にまみれた部分もあり、それはこそぎ落としていたが、染みになって残っていて、おそらくクリーニングすらも受けつけそうにない。
 わざわざ持てる服の中で一番見栄えがいいと思われる――つまり一番高価なものを選び着てきたというのに、その結末が着た早々ごみ箱行きとなったわけなのだから、心が沈むには充分すぎる理由であろう。
(いえ、服だけならいいのよ。ホントは全然良くないけど、まだ少しは許せる。でも、あれだけは……あれだけはあんまりってもんよぉ……)
 せっかくの一張羅が台無しになった原因。それは、戦略自衛隊が使徒殲滅のために使ったN2地雷にこそある。彼らは街の人間がすべて退避しているものと認識していたようだが、実はまだ自分たちが残っていて、郊外に向けて車を走らせていた最中だったのだ。地雷を発動させる動きに気づいて、急ぎ影響内から逃れようとするも、そのときにはすでに遅かった。爆風に巻きこまれてしまい、愛車が何回転となく横転してしまう羽目となる。
 そんな中で車が無傷なはずもなく。せっかくローンを組みつつも奮発して買った新車だが、早くも廃車寸前にまで追いこまれているのが現状だった。走らせるたびに不吉にがたがたと音を立て。オープンカーでもないのに風を体に感じ。さらにはバッテリーまでやられてしまったらしく、同じく爆風に巻きこまれた他の車から、代用の品を掠め取ってくるという始末である。それも、シンジの無感動な視線を受けつづけながら。
(はぁ……もう大散財よぉ。まだローンが半分以上も残ってるのに)
 これから数ヶ月は続くであろう極貧生活に想いを馳せ、肺にたまった空気すべてを吐息として吐き出すミサト。一日一度のささやかな楽しみでもある夕食時のビールもお預けとなってしまうのならば、これから先、なにを希望に生きていけばいいのか。
 せめて話の判る上司がいてくれたのならば経費で落とせるのかもしれないが、生憎とネルフにそんな人物など存在していないのも、なおのこと辛かった。まさかあの無愛想な司令に話を持ちかける勇気はなく、たとえ持ちかけたところで、そうか、の一言で終わりかねないし、副司令とて、なにかと経費削減を口にして費用の捻出を渋るに違いない。
(それもこれも、全部全部全部! あの使徒のせいなのよぉぉぉぉぉ……)
「ミサトさん、どうしたんですか?」
 思いのほか沈みこんでいたようで、シンジがこちらの顔を覗きこんできた。それほど落胆の度合いが強かったことの証明とも言えるのだが、しかしそんなものを再認識しても嬉しいはずはなく。ミサトは限界まで振り絞ったはずの肺にさらなる圧力を加え、魂までをも吐き出さんばかりにシンジの顔へ暗黒色の息を吹きつける。
 キリキリと痛む胸。なぜだかその痛みが、体全体に心地よく染み入りもするのだが。
 ともあれシンジは、こちらがかすかに反応したことを察してか、吐きかけられる息に顔をしかめつつ、続けざまに問いかけの言葉を発してきた。
「それより、さっきから言ってるように綾波なんですが」
「ふぅ。そうそう、レイね。あの子なら――」
 自虐の陶酔という錯覚から舞い戻り、シンジを見据えるミサト。
 実際のところ、聞かれたところでまったく判らないというのが本音だった。しかし素直にそう答えてしまったのなら、きっと彼はレイを求めてそこらをさ迷い歩こうとしてしまうだろう。それだけはなんとしてでも避けておきたい。シンジには見えるが自分には見えない綾波レイということは、己の主観から考えれば、在りもしないものを求めて捜し歩くということだ。現状はすでにそれと同じものになっているのかもしれないが、目的地があるのとないのとでは意味合いは大きく違うのである。それに迷子となっているのが知れてしまった以上、情けなくも助けを呼ぶことに、さほどのためらいもなくなってしまった。さ迷う必要がなければ、貴重な時間を無意味なことに費やす道理などないであろう。
「あの子なら病室で寝ていると思うわ。あとでちゃーんと会わせてあげるから、今は我慢して、私に着いてきてくれないかしら」
 ゆえに己の都合のいいように情報をまとめ、シンジへと伝えることにした。
 彼が見知っているはずの綾波レイとは、自分もよく知っている綾波レイであると、あえて誤認し、見えないなにかに向かって話しかけていたことも忘れやる。そうすればこちらの言葉に嘘はなくなるのであり、不必要に罪悪感に駆られることもないのだから。物事を潤滑に推し進めるために、嘘という要素も必要悪として受け入れなければいけないということは、ネルフに所属してからというもの、散々に思い知らされた事柄だ。
 だが伝えた内容がまずかったようで、シンジはとたんに取り乱し、あろうことかこちらの薄汚れた服の端を掴んで、体を揺さぶりかけてきた。
「びょ、病室って。どこか怪我でも、具合でも悪くしたんですか!?」
 それだけ彼がレイのことを大事に想っているということなのだろう。ならば、服を掴まれていることも、気になるほどのものではない。だいぶ生地が痛んでいたせいで、彼の力が加わるたびに服からプチプチとなにかがちぎれているような振動が伝わり来るのだが、それでも充分に許容範囲だった。おそらくは。いや、きっと。ともすれば多分。
 ミサトは努めて冷静を装い、取り繕いの言葉を投げ入れる。
「大丈夫、大丈夫。どうしてもシンジ君だけに来てもらいたいところがあるから、別の場所で待っててもらってるだけなのよ。安心なさい。用事が済めば、ちゃんと……ね?」
 彼の驚きようを見れば、とても絶対安静の身であるなどと告げられるはずもない。是が非でもシンジは彼女のもとへ行こうとし、挙句、人違いだったということでこちらに非難の目を向けてくるだろう。場をしのぐために嘘をついたのだが、そのおかげでさらなる嘘をつかざるをえなくなったのは失敗だった。嘘を嘘で塗り固めていく行為は、そのたびに歪みが大きくなってしまい、後々に修正することが困難となっていく。
「じゃ、じゃあシンジ君? ちょっと電話してくるから、少し待っててくれるかしら」
 先に訪れるであろう心労に気を重くしつつ、ミサトはこの迷路の隅々まで熟知しているであろう者を呼ぶために、逃げるようにして一時シンジから離れていった。
 
 単調なベルの音が、狭い個室の中で一度だけ鳴り渡る。焦燥に溢れた自らを鎮めさせてくれる、不思議な音色。この先に訪れるであろうなにかに期待を抱かせてもくれる、不思議な音色。それは、本日で幾度目となったか判らないエレベータの到着音だった。
 思い出そうとすれば、寸分の狂いもなく頭の中で再生できるほど耳に張りついてしまった響きは、はたして愛着が湧いたかといえばそうでもなく。ベルの音色が鮮明に記憶へと刻みこまれていけばいくほど、案内係が失態を重ねているという証拠であり、安息の存在から身を引き離されている時間を実感させられている証でもあるのだから、むしろ忌々しささえ感じてしまうのが本当のところである。
 足場の下降の速度が緩やかになっていくおかげにより徐々に増す自重だが、精神的な重みであるとの錯覚を心のどこかで感じてしまうのも、半身に等しい少女がそばにいないことから来る不安によるものなのかもしれない。鎧を剥がされ、裸のまま見知らぬ土地へと放り出される感覚は、まるで世界のすべてから拒絶されている気がしてならなかった。
 なにせこの世界には、赤に彩られた死の世界とは異なり、とかく様々な恐怖が周囲に溢れかえっているのだ。サードインパクト後では、自分と蒼銀の髪の少女だけしか存在を許されていなかったおかげか、己の動きに応じた反応しか返ってくることがなかったが、ここでは決してそうではない。意志を持つものが無数にあるわけであり、こちらの意に沿わぬまま、関係なく縦横無尽に動き回ってくれる。目まぐるしく変わる周囲の環境とて、己という存在を排斥しようと常にうごめきを見せている。
 特に人の心などは、絶望にも似た脅威を感じさせてくれた。過去への帰還を果たしてから直接に接した人間はミサトしかいないのだが、そのたった一人の彼女の心中すら、まったく把握することができないでいるのだから。
 目の前にいたはずの綾波をなぜか無視してくれたり。判っているはずの事柄を何度も質問してきたり。そうかと思えば、今度は逆にこちらの言葉に耳を傾けようとしなかったり。挙句最後には、親のかたきとでも言わんばかりにきつく睨まれたりもした。
 どれもこれもが理解の範疇を超える行動ばかりだ。この調子では、己の精神を不安定にさせる要因に事欠くことなど、絶対にありえそうもないだろう。ましてや世に生きる人の総数を考えれば、ミサトの取った行動など、自身を苛む事柄のほんの片鱗にしかすぎない。
 そして隣にいるべきはずの少女がいないことも、より大きく己の心に揺さぶりをかけてくれた。彼女こそが人の心から目を逸らさせてくれる衝立なのであり、激動する世界から身を守ってくれるオブラートなのである。自身から離れていってしまったのなら、これから先、なにを希望に生きていけばいいのか。少なくとも、この世界に還ってきた意味などは、根本から瓦解してしまうことだろう。
(なんで綾波は、僕になにも言わずによそへ行っちゃったんだろう)
 シンジは軽くため息をつき、不出来な案内係の後ろ姿へと何とはなしに目を向けてみた。
 エレベータ内の密室の隅、操作パネルの目の前に立ち、それと睨み合っているミサト。なぜだか似合わずエレベーターガールというものを連想させてくれるのは、彼女が周囲へと放つ雰囲気によるものかもしれない。つまり、極力に我を消し、同乗している人間の注意を引かないように努めているといったような。
 こちらの存在をことさら拒絶し、自分が逃げているようで、その実は無言の圧力をかけてくるのだ。理由までは判らないのだが。
 しかし、どれほど気配を消したところで、いるという事実までなくなってくれることはなかろう。今も、彼女の存在それ自体がこちらの心にざわめきをもたらしている。
 それを回避しようと、少しでも和らげようと、半身たる少女の名残を求めるも、現在では頭の中でその姿を思い浮かべることすらできないのが、なおのこと辛かった。焦燥によるものなのだろう、はっきりとした輪郭を形作る前に霧散してしまい、後に残るのは、より存在を際立たせた不安のみ。必死になって彼女を作るパーツを掻き集めても、むしろその行為によってさらに拡散してしまい、どこまでも悪循環が続いてしまうのである。
(いつまでもそばにいてくれるって、僕に約束してくれたはずなのに。なにか僕に言えないような理由でもあったのかな)
 本当は心のどこかで判っているのかもしれない。彼女が、自分の作り出した幻にしかすぎないことを。この世のどこにも存在していないことを。だからこそ、今の安定していない己の心では、彼女を瞳に投影することができないのだ。頭の中で思い描くことと投影することは、実はまったく同じ行為にすぎず、思い描けなければ瞳に映せる道理はない。
 シンジは沈む心を無理やりに引き上げ、目の前の扉へと意識を送った。
 深く考え事をしていたようで、段々と増していたはずの己の体重が、いつの間にか止んでいたのだ。おそらく、一秒と経たないうちにその扉は開くのだろう。ミサトも承知しているようで、こちらへと振り返り、再出発の合図を雰囲気で伝えてきている。
「さあシンジ君、行きましょうか。もうじき迎えも来てくれるはずだしね」
 口に出したのと同時だった。まるで彼女の言葉が意志を持って現実へと干渉したかのように、扉が機械仕掛け特有の重苦しい音を発しつつ開いていき、新たな世界も拓けていく。
 わずかに目を細め、シンジは先に広がる光景を見透かそうとした。
(この世の中って、本当はこんなに明るいものだったんだ。たとえそれが、人の手によって作られた、まがい物でしかない光だったとしても)
 そこは光にあふれていて、闇へと焦点の合った己の瞳では、すぐさまに直視することが適わない。ここが地下であるゆえに射すような眩しい光が飛びこんでくることはないのだが、それでも申し訳程度につけられたエレベータ内の照明とは比較にもならなかった。
 すべての形を顕わにする、煌き輝く世界。自分にはあまりにも似合わないであろう、煌き輝く世界。その圧倒的なまでの光量が、己の心に何らかの期待を植えつけてくる。
 そう、例えば――
「綾波なの?」
 くらんだ瞳ではおおよその輪郭しか掴めないのだが、確かにそこには誰か女性がいた。き然とした直立姿勢で、静かに、しかし強い存在感を放ちつつ場に佇みながら。こちらの存在を確実に意識し、歩み寄ってくるのをじっと待っている。
 自身にとっての主観だけなのかもしれないが、希望をもたらす光とは、綾波こそが良く似合うのではないだろうか。月を思わせる淡い光。色彩豊かな温かい光。この向こうの光にさらされた世界にいるのは、病室で待機しているはずの少女こそが相応しい。
 そう納得した刹那、白でしかなかった光彩は徐々に光度を落とし、様々な色彩を持ちはじめた。脇から膝まで垂直に垂れ下がるようなシルエットを持つ奇妙な服は、くすんだ青に染まり。裾にやや広がりを持つ短い髪は、淡い水色に。見るものすべてを見透かそうとしてくる冷ややかな――いや、冷徹とも言える瞳は、鮮やかな朱色へと。
 ほとんど同じ背丈であったはずなのに、なぜか今は見上げる格好となっているのが、妙と言えば妙ではあったのだが。しかし都合の悪いことは、きっちり頭から追い出しておく。
「酷いじゃないか、綾波。確かに綾波らしいって言えばそうかもしれないけど、どこかに行くなら、せめて僕に一言くらい声をかけてくれたって」
 せいぜい軽口程度、本当に彼女を責める気など更々ない。初対面でもない彼女ゆえ、この世界で唯一自身の心を理解してくれる彼女ゆえに、含まれた別の意味を確実に悟ってくれるとの期待をこめた言葉だった。不器用なまでの己の挨拶。つまりはじゃれ合い。
「あなた、なにを言ってるの?」
「えっ!? なにって」
 しかしあろうことか、明白な拒絶の言葉を突きつけられる。いつもであれば、怜悧には見えても先端は丸く加工されている綾波の言葉であるのに、鋭い刃物のごとく自身を切り刻んでくれるような気がしてならない。知らない誰かに向けたその瞳も、こちらとの距離の開きを確認し、一歩二歩と遠のこうとしているように見えた。
(ち、違う、違うんだ! こいつは絶対に綾波なんかじゃない! こいつは……)
 色彩を持ちはじめた己の視界は、再度白に染まり、もう一度別の色を映し出す。瞳と眉の色は、典型的な日本人色の黒に。髪は脱色しているようだが、しかしある意味典型的とも言える金に。そして奇怪なシルエットを持っていた服とは、どうやら白衣だったらしく、それだけは白のままで、下に着込んだワンピースの水着が薄い紫へと色を染めていった。
(なんでこの人を綾波だなんて思ったんだろう。全然似ても似つかないのに)
 自身の身勝手なまでの期待だったが、それを裏切られたショックはあまりにも大きい。己へと向けた呆れのために、シンジは軽く首を左右に振る。
 目の前にいる女性は確認するまでもなく、ミサトの友人であり、ネルフの技術部長を務めてもいる、赤木リツコ博士だ。上から見下ろすような視線と、冷気を纏わせているような声を持つ彼女は、決して己の追い求める者と間違えていい存在ではなかろう。実質の綾波レイの保護者なためか、確かに表層こそは共通する部分も見受けられるのだが、それはあくまで一見した場合にすぎないのだから。
 綾波レイとは、拒絶という言葉の意味も知らず、近寄ればその分だけ自分の場所を明け渡し、こちらの意図に気づかないまま、結果として距離を置いてしまうような人間だ。だがリツコは、近寄ってきた相手を、明確な意志を持って突き放す。相手の意識に己の思惑を鋭く彫刻し、自らの意志で遠のこうとさせるのである。その刻みこまれた刻印によって、相手の心に痛みが走ろうとも。二度と修復できないような傷になろうとも。
「まあ、あなたのことは後にするとして」
 珍しく推察どおりだ。綾波レイを基準にすると、たまにではあるが周りの人間の心を読み取れるときがある。やはりリツコはこちらを一瞥して言葉を封じさせ、むやみに近寄ろうとした自分に、互いの距離を教えこもうとしてきた。ついで、わけの判らないこちらの行動を探るために、緩衝材としてなのだろう、まずはミサトへと話の矛先を向けていく。
「まったく。なにをやってるの、葛城一尉。いまは時間も人手も足りないのよ?」
「判ってるって、リツコ。だからこうしてあんたを呼んだんでしょう?」
「全然判ってないじゃない。私こそが、時間もなければ、人手をもらいたいんだから」
 実際、言われるまでもなく、ここにいる全員がそのことを理解していたのだが。まさかリツコに、水着のままで歩き回る趣味などあるはずもない。極力他に弱みを見せようとしない彼女ならば、普段の立ち居振舞いからして気を遣っていそうなものである。そしてそれに逆らうような行動をとった今回の服装は、彼女の担当しているエヴァ初号機の整備が、よほど切羽詰っているということを意味しているのだろう。
 ミサトも、その余裕のなさから初号機の状態を察したらしい。事も無げに皮肉を受け流し、LCLと呼ばれる液体独特の血臭を漂わせているリツコへと問いかけていった。
「そういえば初号機の調子はどう? なにか進展はあったの?」
「B型装備のまま、現在も冷却中。誰かさんのおかげでだいぶ遅延も生じたんだけど、私たちがケージに着くころには完了しているんじゃないかしら」
「そ、それは結構。でも、ホントに動くの?」
 ここネルフ本部にもう一機存在する零号機は、起動させることに成功したのだが、原因不明の暴走により凍結状態。それに乗っていたパイロットの綾波レイも、脱出装置の誤作動により、絶対安静の重傷の身。ゆえに、可能性を初号機とそのパイロットに委ねるしかなく、しかもそこには楽観視できる材料などなにもない。
 一瞬こそ怯むミサトではあるが、すぐさま眉をひそめ、暗礁の只中にある使徒撃退の任に懐疑する。そしてリツコへと回答を求めるのだが。
「まだ一度も起動したことないんでしょ?」
「起動確率は、およそ千億分の一。パーセンテージにして、零コンマ零々々……まあともかく、オーナインシステムとはよく言ったものだわ」
「それって、動かないってこと?」
「あら失礼ね。ゼロではなくってよ」
 通常であればミサトの言は正しい。一千億のうちのたった一しか可能性がないのならば、それは皆無と近似しても差し支えがないだろう。いかさまでもしていないかぎり、サイの目を数十回も連続で同じ数字にさせつづけられるはずもないのだから。
 なのに、リツコが動じた風もなくミサトの要約に訂正を入れているのには、少なからぬ違和感があった。常に現実を見据えようとする彼女の主義からすれば、悲観的とまでは行かないだろうが、否定的な答えが出てくるはずではなかろうか。二人の立場を入れ替えたほうが、よほど納得がいきそうである。
(でも要は確率なんて、基準の取り方によってがらりと変わっちゃうものなんだよね)
 だが、シンジはすでにそのからくりを解き明かしていた。
 まず大前提として、自分が初号機を起動させられるという事実があるのであり、確率という概念は後から適当に付け足したものにすぎない。千億とは、あまりにも大雑把ではあるが、有史以来の人類の総数のこと。そして、自分だけが初号機を起動させられるのならば、ある側面から見ると、確かに確率は千億分の一ということになってしまうだろう。
 結局、サイの目はあらかじめ細工を施されてしまっていただけなのだ。確実に同じ数字のみを吐き出しつづけるいかさま賭博でしかなく、できの悪すぎる言葉遊びでしかなく。答えを知っている人間の優越感情が生んだ、意味のない学芸会もどき程度のものだった。
(それなりに壮大な茶番劇ってことなのかな。……でもそうなると、わざわざ使徒が来ている今日に僕が呼び出された根拠って)
 最初からシナリオというものが出来上がっていたとでもいうのか。そしてそこからはじき出された答えに、シンジの心が次第に冷たくなっていく。
(周到に用意された鎖――いや、網という表現のほうが適切なのかもしれないね。完全な束縛じゃあなく、足掻くことならできるんだから。絶対に抜け出せはしないけど)
 最初から判ってはいたのだ。誰もが、自分をエヴァに乗せるために動くということは。
 しかしそれは、皆の個人の思惑から、それぞれが勝手に動いているのだと思っていた。死を恐れる者、復讐を唱える者、真実を探索する者、人類の繁栄を憂う者。彼らは身勝手なまでの数多の思惑をこちらに押し付けようとしているだけであり、己の中では正当なはずの大義名分を掲げているにすぎない。なのに、そんな感情をすべて統括して己の意のままに扱おうという存在が、裏に透けて見えるのである。
 垣間見える繰り糸、それを操る黒子は、おそらく碇ゲンドウではなかろうか。父こそが己を道化に仕立て上げる脚本を描いているということは、まず間違いない。
(父さんは、母さんを求めてサードインパクトを目指した。僕は、綾波を求めてサードインパクトを目指す。だから前よりは身近に感じるようにも思えたのに)
 父は、明らかに他人の人格を疎んじている。人の心を恐れるあまりに物として扱おうとする癖は、ある意味では親子なのだろう、すべてを拒絶している自分と通じるものがある気がしてならなかった。手法の違いでしかなく、父は外側に向け、己は内側に向けて錯覚を反映させているだけ。違うところと言えば、父には他人の頭の中を探る嗅覚が備わっているが、自分は絶望的なまでに欠如しているということか。
 ともかくも、過去に誰もが自分の心を知ろうとしてくれない中、唯一父だけは理解していてくれたのかもしれなかった。が、しかしそれは、決して好まれた感情から来ているのではない。操るためにこそ解する必要があっただけであって、自分の求めていたものとはあまりにもかけ離れている。むしろ他の者たちと比べると、なおさらに性質が悪かろう。
 やはり父も同じだったのだ。綾波レイ以外は、皆同じ。こうして事実を突きつけられてしまうと、諦めていたことではあっても納得いきがたい想いがこみ上げる。
 次いで、理解してくれなくとも理解してくれても得られる結果が同じでしかないというのが、余計に身を苛んでくれた。今まで己が思い描いていた絶望とは、いかに底の浅いものでしかなかったか。実物はあまりにも深く、目測ではとてもその深度を測ることができない。いや、暗色を基とするそれは、底があるのかすらも判らない。
(別に、繰り糸を引きちぎる気はないんだ。どうせ僕にはそんな力があるわけじゃあないし、したところで欲しいものが手に入るわけでもないんだから。それに……糸を括りつけられているのは、なにも僕だけじゃあないんだろうしね)
 意識を外に向ける。と、考えこんでいるわずかな時間の間に、ミサトとリツコはいつの間にやら歩き始めていたらしく、幾分距離を引き離されてしまっていたようだった。
 離されるわけにもいかず、シンジはその距離を保ったまま後をついていき、二人の会話に耳を寄せてみる。
「ゼロじゃあないって……。数字の上では、でしょう?」
「でも、個人の主観のすべてを排したものが科学である以上、その数字は厳然たる事実として存在しているし、あなたも認めざるをえない事柄なんじゃないかしら」
「科学ねぇ。あんた好みかもしんないけど、私はどちらかといえば個人の直感のほうを尊重したい気もするわね。まっ、どのみち動きませんでしたでは済まされないわ」
 知る者からすれば、的の外れたミサトの言葉ではある。それは、彼女もまた、知らず操り人形とされている人間の一人であることを意味していた。形式上では要職であるはずのその地位は、真のネルフの中枢からすれば閑職程度の扱いでしかなく、事実、戦力を把握する意味でもネルフを知り尽くしておかなければいけない立場にあるにも関わらず、彼女には知らないことがあまりにも多すぎるのだ。
 いや、この組織の中で人形を操作できる立場にいるのは、父と副司令、そしてミサトの隣に並び歩くリツコくらいゆえに、実は彼女の地位がそれほど低いわけでもないのかもしれない。パイロットのそれなど、まるで消耗品のごとくな扱いでしかないのだから。
 シンジは、そんな無体を強いている人間の一人であるリツコへと目を向けてみる。
 彼女はミサトとやり取りを続けながらも、どうやらこちらへと正面から向き合う機会を窺っていたらしい。さり気なくも、ちらちらと視線を送ってくる様子が見て取れた。
「動かなかったら私たちが生きていられるはずもないんだから、ある意味どうでもいい問題なのかもしれないけれどね――と、その話題は置いておくとして……この子ね?」
 ついに足を止め、体ごと向き直るリツコ。短い間にこちらの性情をある程度掴んだのだろうか、無理に近づこうとはしてこない。かと言って、追いついてくるのを待っているというわけでもなさそうだった。こちらも同時に足を止めたために奇妙なお見合い状態が生まれてしまっているが、それに対して不審げな顔を浮かべもしないのだから。
 案の定彼女は、ミサトのほうへと言葉を求めていた。
「ええ。司令のご子息、サードチルドレンの碇シンジ君よ」
 緩衝材の役割を押し付けられたミサトは、意図せずにその役割をまっとうし、リツコに合いの手を入れる。ただ、少々投げやり口調となっていたのが気にならなくもない。その声には多分の安堵の感情がこめられていたことから、重要任務を無事果たせた開放感を感じているのではないかと思われる。が、それにしては気の抜けた彼女の様子というものから、明らかな矛盾を含んでいるように見えてしまうのだった。
 察するに、今まで自分と一緒にいたのが、たまらなく苦痛だったのではなかろうか。あまり人のことを言えた義理ではないのだが、そんな考えも浮かんでくる。
 こういったときに必ず悪い方向へと考えを巡らせてしまうのは、決して好まれた癖ではないのだと判ってはいるのだ。過去、パイロット仲間であるはずの少女からも、散々に馬鹿にされたことがある。だが、常に最悪の状態を思い描いておけば、いらぬ落胆の感が生じることはないし、得られるのか判らない希望に振り回されることもない。罠が待ち受けていそうなときには迷わず背を見せて逃げ出すというのが己の流儀であり、幼いころからの慣習は、そうそう変えられるものではなかった。
 とはいえ、現実というものは往々にして自身の想像以上へと事態の悪化が進んでしまうものではあったのだが。ミサトは、まるで厄介物を押しつけるかのようにリツコの背中を強く押し出し、自らは蚊帳の外で傍観を決めこもうという姿勢を見せていた。
(普通に振舞っているだけのはずなのに、誰もが僕を疎んじるんだ。こっちではまだろくに面識がないミサトさんだって、それは変わらない。僕というだけで遠ざけようとする)
 いったい自分になんの非があるというのか。問いかけるも答えは出てこない。いや、答えが出てこないからこそ遠ざけようとするというのが真の答えなのかもしれないが、もしそうであったとしても、結果としてはそれほどに変わるものでもないだろう。
 鬱な思案に暮れるシンジ。しかしリツコは、気にした風でもなく挨拶をしてきた。
「よろしく、碇シンジ君。私はここの技術部長を務める赤木リツコ。なにを勘違いしているのか、誰と勘違いしているのかは判らないけど、私は綾波なんて名前ではなくてよ?」
 後半の言葉には微妙に険が含まれていたが、むしろ顔を険しくさせたいのはシンジのほうである。この世に存在する唯一価値あるものを、よりによってこの女性と見紛ってしまったのだから。だからというわけでもなかった。そんなわけでもないのだが、形程度に差し出された手にはなにも反応せず――もともと距離が離れていたために握手を交わせるはずもないが――、言葉のみでリツコへと了解の意を伝える。
「ええ。もちろんですよ、リツコさん」
 それは、挨拶に挨拶で答えるという当たり前の認識が欠如しているだけだった。自分のことを相手の教える意味はないし、相手のことを知る意味もない。良好な関係を築く意義もないゆえに、自分からも手を差し出すという選択肢が意識に上がることもないのである。
 だがリツコはそこになにかおかしな点を見つけたらしく、意外そうな顔を向けてきた。そして、同じくなにかを察した様子のミサトが彼女へと耳打ちをする。
 ただ、その声がこちらにも筒抜けなのが、ずぼらな性格のミサトらしいと言えなくもない。いや、それを言うならば、リツコとて同じなのだろう。彼女も声の調子を落とさなかったのは、ある意味ずぼらなところと通ずるものがあり、こちらに気を遣う必要を感じなかっただけなのだから。相手の心に映る自身の像に虚を求めない姿勢を示す彼女だからこそ、冷淡で淡白な印象を人に植え付ける。今の自分と多少なりとも似通う部分があり、そして以前の自分とは対極に位置するものだ。もっとも、どちらが好ましいというわけでもなく、さらにはどちらも好まれたことではないのかもしれないが。
「あの子、私のこともいきなり名前で呼んできたのよ、ミサトさんって。見かけによらず、女性馴れしてるってことなのかしら。まったくためらいってものも感じなかったしね」
「いいえ、絶対にそれはないわ。むしろ私たちをまったく意識していないからこそ、唐突に名前で呼ぼうとするんじゃないかしら。それがもたらす距離に興味がないというか」
 ミサトの言葉を真に受けると、シンジの行動には矛盾が出てしまう。なぜ握手を交わそうとしなかったか、なぜ自分たちから離れて佇んでいるのか、なぜ自己の主張をしなかったのか。逆に壁を作ろうとするさまは、ミサトの言うような馴れ馴れしい態度とは程遠い。
 そしてもちろん、意識して壁を作っているわけでもないだろう。それならばやはり矛盾が生じてしまい、わざわざ苗字ではなく名前で呼んだ理由に説明がつかなくなる。
 結果、矛盾の原因はなにかということになるのだが、リツコの出した答えはそれだった。
「正反対ってことね。女性馴れしているどころか、そういったものの機微すら判らない子供だと。まあ言われてみれば、私みたいな綺麗なお姉さんに対する態度も素っ気ないし」
 納得したようなミサトであるが、同時にシンジとしてもうなづけるところではある。
 実際には元々に彼女たちを知っていて、以前からそう呼んでいたためにそのままの調子で話しかけただけなのだが、たとえそれが初対面の人間だとしても二人の言うとおりの行動をしていたに違いない。こうして言われるまで呼称による機微というものが判らなかったし、知った今であっても留意する気にはなれないでいるのだから。
 結局、根ざす部分は同じなのだ。女性としてや初対面の人間としてを意識しなかったのか、それとも過去からの帰還という事実を繕う意識がなかったか、ということは。先ほど現れたものは形の違いでしかなく、共に己にとって気にかけるほどの価値はない。
「あなたが綺麗なお姉さんかは置いておくとして……そういえば、ミサト?」
 ミサトとリツコ、二人のやり取りはまだ続く。ただし、今度はあまり聞かれたくないことなのか、明らかに囁くような声音だった。ふたたびケージへと歩き出したために足音だけは響いているが、それ以外は静寂に満ちた広い通路ゆえ、余計に耳に入りやすい声の質になってしまい、よりはっきりとシンジには聞こえてしまうのだが。
「あの子、綾波なんて言ってたけど、ひょっとしてレイのことを喋ったの?」
 詰問するように。顔をしかめ、それはあまり好まれたことではないと主張するリツコ。
 いずれ引き合わせることになるだろうが、これからエヴァに乗せようとしている以上、綾波レイについてを語るのは得策ではないのだ。自らも搭乗することになるエヴァによってこそ重傷の身になったと聞けば、彼はなりふり構わず逃げ出してしまうのかもしれない。最後には無理やり乗せるだけだとはいえ、できるなら自発的な協力をさせたいのだから。
 しかしミサトとしては、批難を受けるようなことなど喋っていない。話を振ってきたのは彼のほうであり、語る前にはすでにレイの存在を知っていた。いや、それどころか――
「喋ってはいないんだけど、どうもしっくりこないのよねぇ」
「どういうこと?」
「いえね? なにもない宙に向かって、ここにレイがいますって彼が言ってくるのよ。見えないし声も聞こえないし……でも彼が言うには、そのレイってのが私たちの知ってるあのレイと一緒の姿をしているらしくてね? わけが判んないわよ」
「……わけが判らないのはこっち。あなた、なにを言ってるの?」
 リツコが本来聞きたかったものは、レイが怪我していることをシンジに話したかどうかである。意図を理解できているはずのミサトであるにも関わらず、的を外れた挙句に要領を得ないその内容は、整然を美徳とするリツコには苛立ちしか生み出してくれなかった。
 レイの存在をシンジに明かした事実の有無。なければ、どういった経緯で少女の存在を知ったのか。いや、彼の隣にいると言った以上、病室にて所在が確認されているレイ本人ではないのかもしれないが、別人ならば、その相関関係は。見えない上に声も聞こえないとは、なにかの謎掛けのつもりなのか。また、その出題者はミサトなのかシンジなのか。
 疑問の解消を願っていたはずなのに、応じたミサトの言葉から得られたものは、さらなる疑問だけ。ミサト自身の混乱が垣間見えもするのだが、傲慢という性質を拭いきれないのが質問者というものであるゆえ、リツコは瞳に冷気をまとわせつつ親友へと回答を促した。まるで、その視線を浴びせることにより、同時に頭の中まで冷やそうとせんばかりに。
「いつから知ってたの? 同一人物? 見えないとは? あと、レイの状態は話したの?」
 余分の一切を排した質問だ。そのためか、ミサトも構えなおし、的確に反応を返した。
「私に会う前から。多分……いえ、絶対に本人じゃあない。まるで自分の作り出した幻に話しかけているような。そして怪我……っと、それは話してないわ」
 聞き、リツコは満足そうにうなづく。シンジに対しての不審な点はいくらも見受けられるのだが、とりあえず自分たちに不利になるようなことは語られていない。これからの展開を考えるのなら、ひとまずは楽観視しても良さそうな雰囲気ではあるだろう。
 それに、ミサトの語ったようなシンジの振る舞いについては、心当たりがなかったわけでもないのだ。等しく人が持つ逃避への願望、その具現を自在に操る者。幻を作り出し、そこに己の住処を見出すことが、様々なものを代償として得た彼らの能力である。夢の中に心を置き忘れ、現実へと虚ろを反映させ、変化の象徴たる時間という概念を嫌い、自らの惨醜すべてを映し出す光の存在に怯えつづける。
 懐疑を感じたところをあえて挙げるならば、その齢だった。ミサトの言葉どおりとすれば、彼の症状は末期のものに限りなくほど近い。好発年齢の最若層がシンジ程度の歳ゆえに、階段を転げ落ちる時間を考えると、やや年若いのだ。確かに例がないわけでもないし、むしろ精神の成熟が進んでない年齢だからこそ、容易に崩れゆくものなのかもしれないが。
 それよりも問題は、彼がなぜ自壊の道を進むに至ったか。父であるゲンドウがシンジを遠ざけようとしていたため、生憎とその詳細を知るすべはない。大まかな生い立ちこそ事前に調べられてもいたのだが、それだけのことで人の心の形成を覗けるわけもなく、判ったとすれば、彼の現状の土台が確かに存在することくらいだけだった。
 ただ、失われたパズルの形の推察ならできる。幻の中心にあるものが人間であることから、過去の中に強い恐怖、執着、怨恨のたぐいが存在しているのだろう。そして、当然それが向けられる先は、映し出された幻の基となる人間だ。
 レイと同じ名前を持っているらしいのだが、レイ本人の身辺には常に監視の目が存在しているゆえに、シンジの知る者と自分たちの知る者が同一人物ではないのは確実なことだった。接触なくして人の人格を瓦解させるような力が働くことは、絶無に近い。レイも学校に通っている――つまり人の目に触れる場所に毎日顔を出しているのだから、横のつながりからシンジがその存在を知っている可能性はあるのだが、面識がないのにも関わらず同一人物だとの結論になってしまうと、彼の今の状態には矛盾が出てしまうのである。
 もっとも、ミサトの言葉からの推論である以上、それが真実であるという保証はどこにもなく、付け加えるのなら、さまざまな分岐のひとつを無作為に選び出しただけでしかない。現状を見るかぎりでは正答に一番近そうな雰囲気もあるのだが、これから彼の担うべき役割のことを考えるのなら、うかつに結論を出すのには早すぎるだろう。
(とかくどんな解であれ、すでに彼が不確定要素としての性質を備えていることは確かね)
 自らがこなすべき仕事は、なにもエヴァの整備だけではない。リツコは、今にも崩れそうなほどに山積みされた数多の問題に、隣に立つ親友や後ろをついてくる少年と同様、足音の調子が次第に遅延になっていくのを感じていた。
 そして辺りには、計ったように揃っている三つの足音だけが際限なく鳴り響きつづける。
 
        ◆  ◆  ◆
 
 闇は恐怖を作り出す。しかし、恐怖から身を守ってくれることもある。自身の瞳になにも映すことのない闇、他人の瞳に自身の姿を映すことのない闇、それは少なくとも己にとって至上の揺り籠と言えるものだった。
(多分初号機のあるケージなんだろうけど、暗くてなにも見えないや)
 シンジは左右を見渡し、錯覚によって作り出された永遠不変の世界に身を浸らせる。
 ここへと連れてきたミサトとリツコは、すぐそばにいるはずであるのに、気配すらも闇へと掻き消えてしまっていた。まるで、過去の綾波レイが望んでいた無の世界のごとく、周囲に意識を伸ばしても、現実に手を伸ばしても、なにも触れることがない。自身こそが世界のすべてであり、その他の存在は、己の視点からすれば一切が排斥されている。
 触れられなければ、干渉することができなければ、それは無と同義でしかないのではなかろうか。なにもかもを望む気がない自分なのだから、真実へと姿を変えることのできるものなど、周囲になにひとつとして存在を許されない。世界の意志は常に自分と共にあり、別の意志を持つ二人の人間は、像をとることなく闇に埋もれることとなる。
 己だけが住まう世界とは、己だけがいない世界とも捉えられるだろう。実際、最後の使徒であり、綾波レイ以外ではただひとりだけ心を通わすことのできた親友でもある渚カヲルも、似たようなことを語ってくれた。
 生と死は等価値である。
 つまり、生きようとすれば、その先にあるサードインパクトへの道を歩まねばならなくなり、自分ひとりだけの世界が残ることとなるが、死ねばそのまま自分のいない世界が続くということ。言い換えるのなら、周りにはなにもなく、鏡すらも置かれていなければ、自身を捉える術はすべて消失してしまうが、逆に写すべき像を持たない鏡には存在する意味などなく、一面的に見ると世界がすべて消失してしまうということか。どちらにしたところで行きつく先は、己の視点からすれば一切の存在が許されない無の世界でしかない。
(むかしの綾波が望んでいた世界って、こんな感じのものなんだろうな)
 彼女の欲した世界は、実は己の欲する世界でもある。綾波は自分が消える道を選ぼうとしたのに対し、己は自分以外を消す道を選んだだけ。本質的には変わりがあるものでもなく、その一致が、自身の心に安らぎをもたらしてくれるのだった。すなわち闇とは、他を排すと同時に、綾波レイを感じることができる、至上の揺り籠なのだから。
 だが。そこはしょせん、擬似的に作られた空間でしかない。己と同じ大きさの広がりを持つ世界が多数存在しているのであり、その世界たちは、他の世界へ干渉しようと絶えず蠢きを見せていた。
「くっ……また目が」
 突如、闇のすべてが消え失せる。温かな綾波レイの抱擁も、闇と共にどこかへ連れ去られてしまい、いま感じることができるのは、無防備にされた魂からもたらされる震えのみ。先刻には期待を感じさせてくれた光ではあったのだが、しかし今度の硬質な光は、期待を軒並み抹消させてくれるものでしかなかった。
 なにが違うというわけでもない。しょせん自身が勝手に創りあげたまやかしだ。だが、いまこみ上げている想いがくつがえらない以上、それは本物となってしまうのだろう。
 眩しさゆえと、世界への拒絶の意味をこめ、シンジは顔の前に手を持っていった。
 指の隙間から覗く光景は、想像どおりのものだ。己の立っている桟橋のようなところ、その下に広がる広大なLCLのプールと、水面から文字通りに顔だけが出ているエヴァ初号機。真正面の、先に見た使徒と同サイズ程度の体躯であろうと推察できるほどの巨大な初号機の顔が、視界のほとんどを覆い尽くしている。
 人造人間とのことらしいのだが、頭や顔全体が紫に染められた兜によって覆われているおかげで、人というよりロボットという印象が強かった。他人の命ずるままに動く人形でしかなく、己の意志では決して動くことを許されない人形でしかなく。唯一露出するはずの瞳が今は閉じられていたために、無機的な像を際立たせているだけなのかもしれないが。
(初号機って、ひょっとすれば僕と似たような存在、境遇なのかもしれないね。だって、父さん――ううん、ネルフのみんなにとって、僕との扱いに差はないんだから)
 この場所の名前でもあるケージとは、エヴァ射出のためのリフトを指すと同時に、鳥かごという意味も併せ持つ。二重に語られた言葉から浮かび上がるのは、人の持つ傲慢だ。
 思うところこそあったが、しかしそれがなにかの感慨を生むわけでもなく。しばらく無感動に初号機を見上げていると、そこへリツコが芝居がかった口調で話しかけてきた。
「人の造り出した究極の汎用人型決戦兵器――人造人間エヴァンゲリオン、その初号機。極秘裏に建造が行われた、我々人類の最後の切り札よ」
 一言で表現するのなら、陶酔だった。彼女は自分の力の一端が世界へ具現化されていることに対して酔いしれている。人は古来より自らの大きさを示す代弁として、巨大なものを、高価なものを、より高みを目指そうとする傾向にあるが、自身をも冷たい瞳で観察する彼女とて例外ではないのだろう。本来それは、彼女が一から組み上げたものではないのにも関わらず。ただ完成されていたものの整備を任されているだけなのにも関わらず。
 リツコの気持ちは判らないでもないのだ。あれは、良かれ悪しかれ否応にでも人を惹きつける。ネルフのトップである父にして然り、副司令やミサトにしても然り、初号機とは、あらゆる人たちの情念を凝り固めたような存在なのだから。そして己にとっても、だ。
 シンジは、続くリツコの説明を受け流し、これからの目的、そのための手段の具現へと想いをこめていく。が、無粋な人間とはどこにでもいるらしい。不意に横合い頭上から声をかけられた。低く、体の芯にまで響くような、圧倒的な質量を感じさせる声。
「久しぶりだな、シンジ」
 顔を向けるまでもない。父だ。ただ、肉感を感じさせない響きには違和感を覚えるが、おそらくは遠く壁面に見えた出窓のような部屋――管制室から話しかけてきているのだろう。強化ガラス越しにも関わらず、はっきりとこちらへ声が届いていることも考えれば、その部屋にあるマイクからの呼びかけであるというのが妥当な判断である。そも、『前回』がそうだったのだから、わざわざ推理する意味もないのかもしれないが。
 とりあえず父の声を意識野から追い出すシンジ。しかしゲンドウは、さして構う様子もなく後に続く言葉を紡いできた。その内容がもたらす周囲の反応すらも構うことなく。
「出撃」
「出撃!? 零号機は凍結中でしょう?」
 真っ先にゲンドウの言葉に食いついたのはミサトだった。あらゆる情報から排斥されている彼女では、言葉短な司令の命令の裏に隠された真意を悟ることなど、到底無理なのだ。己の中の常識から解釈し、妥当と判断した疑問をぶつける。
 が、それに対するゲンドウの答えは得られなかった。あるとすれば、返ってくる冷ややかな視線だけ。その嘲りを含んだ瞳から逃げるようにして周囲の人間へ救いを求めるも、結果は同じだ。皆が皆、白々しい目つきを見せてくる。まるで、できて当然のはずの回答に見当違いの答えを返した生徒へと向ける、失望をはらんだ教師の眼差しのように。
(そう、間違いなのよ。零号機はどう足掻いても動かない。可能性があるとすれば……)
 答えは一つしかないだろう。ここネルフ本部にあるエヴァは、零号機の他にたった一つ。
「まさか、初号機を使うつもりなの!?」
「他に道はないわ」
 どうやら同じ話し合いの立場に立つ資格を得たらしい。ようやくにリツコから声をかけられる。だがミサトとしては、それでも納得がいかなかった。現時点での正式なパイロットは、ある意味零号機と同じような状態なのである。絶対安静という言葉が示すとおり、何気ない日常の動作すら支障をきたす怪我を負っていて、戦闘に駆り立てようものなら即座にその命を絶たれかねない。この際人道的問題を度外視しても、エヴァの特殊性から、替えの利くような消耗品として扱うわけにはいかないのだ。
「ちょ、ちょっと、レイはまだ動かせないでしょう。第一、パイロットがいないわよ」
 正確には、パイロット候補なら存在している。それを理解しつつのミサトの発言であったことは、ちらりと半瞬だけシンジを見やったことから自ずと知れた。
 ゆえにリツコは、必要最小限の言葉のみで、自分の――ゲンドウの意向を伝える。
「さっき届いたわ」
「マジなの?」
 先からじっと初号機を見上げつづけるシンジへと視線を送るリツコに合わせ、ミサトも改めて彼へと向き直った。場に居合わせたすべての人間も、同時に。
 注目を一身に集める彼は、やはり変わらず初号機のみを視界に収めつづけていた。そのさまは、一見すると巨大な質量を持つ兵器に心奪われるあどけない中学生に見えなくもなく、彼の年頃にありがちな子供じみた英雄願望というものを連想させてくれる。ともすれば、ロボットに乗るためなら命の危険さえ意識の外に追い出してしまいかねないような。いや、彼を騙して危険がないと言いくるめれば、喜んで安易に乗ってくれるような。
(でも、それにしてはあまり嬉しそうな顔をしていないわね)
 特にシンジの顔に注目を寄せるミサトだが、そこに生じた違和感から、かすかに意識に上りかけていた期待の感情がゆっくりとふたたび沈み行くのを自覚しはじめる。
 そう、違うのだ。彼はこのケージでのやり取りを、初号機に魅入られていたために無視していたのではない。はっきりとその言葉を捉え、確実に内容を咀嚼し、自分なりの答えを明快にも出し終えたあとだった。
 つまり、蒼白になった顔は、自分に込められた期待の重さに耐えかねたゆえのものであり、震わせつづける唇は、否定の言葉を吐き出すことに対するためらいから来るものであり、同じく震わせている肩は、使徒と対峙することへの恐怖から来ているものなのだろう。
 彼はこちらを無視しているのではない。無視せざるをえなかったのだ。このケージに存在するものの中で、唯一なにも含む視線を送ってこないのが初号機なのだから、皆の思惑から意識をそらすためには、どうしても初号機にしか視線を向けられない。聞いていたはずの会話を、自分と関係ないものだと振舞うことによってしか自己主張を行えない。
(中学生に戦わせようなんて無茶な話なのよ。最初から判ってた。でも……)
 ミサトとしては、シンジらに重要な役割を担ってもらう必要がある。が、なまじネルフの本質を知らないがゆえ、倫理の観念に苛まれてしまい、彼へとかけるべき言葉が浮かんでこなかった。なにを言ったところで、その言葉が互いを隔てる壁として姿を変えてしまうことは明白であり、壁の厚みを無視できるほどの薄い情は持ち合わせていないのだから。
 しかし、その躊躇をたやすく乗り越えたものがいた。
「シンジ君、あなたが乗るのよ」
 リツコだ。シンジがしかと話の流れを掴んでいる上でこちらを拒絶している姿勢を見せていることは、目ざとい彼女なら間違いなく気づいているはずなのだが、まるで気にした様子もなく、平素の口調のまま話しかける。温かくもなく、冷たくもなく、だからこそ余計な殺傷力が付加されてしまったかのような声。
 彼女にとっての大事なこととは、シンジが初号機に乗るという事実であって、その過程に生ずる波紋や自らへと迫り来る波の影響など、些細なことでしかないのだろう。ミサトも、大学時代からの付き合いゆえに、彼女のそんな性格などは身をもって知っていた。だからつい、とっさにいつもの癖でリツコの緩衝材としての役を買って出てしまう。
「でも、レイでさえもエヴァとシンクロするのに七ヶ月もかかったんでしょう? いま来たばかりのこの子には無理よ」
「座っているだけで構わないわ。それ以上は望みません」
「しかし!」
「今は使徒撃退が最優先事項です。そのためには、誰であれエヴァとわずかでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしか方法がないわ。判っているはずよ、葛城一尉」
 いつものような配役と、いつものようなやり取り。だがリツコは、あえて親友に堅い口調で語りかけることにより、それはあなたの役割ではないのだとミサトに含ませる。
 ミサトがシンジに側につく気がないのは、あえて探らなくとも、誰もが容易に知ることができたのだ。彼女が欲しているものは、きっかけであり一面的な正論。シンジをエヴァに乗せるための口実を望んでいるのであり、先に彼女自身がしたような弁護する立場を甘受したいわけではないだろう。シンジとリツコ、ミサトの立ち位置がどちらに近いかというものが、それを雄弁に語ってもいる。
 やはりミサトは、リツコの言葉を受け、あっさりとシンジを裏切ってみせた。
「……そうね」
 返事に間があったのは、葛藤を表しているのではない。罪を覆い隠してくれる暗幕を心の隅々まで行き渡らせるためである。最初から決めていたはずの答え、誤って違う解答を書いてしまったものを直すのに、なんの逡巡があるというのか。
 必要なのは、消しゴムによって誤答を白紙に戻す時間だけだった。それも、染みすら残っていないほど念入りに消すための。あるいは、破り捨て、新しい用紙を頂戴するための。
 残るは、改めて答えを記入するための意思のみだ。しかしこれは、普段ならいざ知らず、他人の目が光っている中ともなれば気持ちの鈍りが生じやすい。過去に犯した過ちをさらけ出され、心の動きを見透かされ、せせら笑われることを想像してしまえば、なおさらに。
 結果としてミサトは、リツコの言葉にうなずいただけで、それ以上の言葉を吐き出さぬままに沈黙してしまう。
 が、彼女が望んでいる最後のきっかけは、思わぬところから与えられることとなった。
 上から伝わりくる激しい振動と、それに伴う強烈な爆砕音。地下ゆえに高周波が大地の中へと吸収されてくぐもった響きとなっているが、実際に体を震わせる低周のそれがすべて素通りとなってしまっているため、逆に魂そのものがじかに揺さぶられている錯覚に陥ってしまい。揺れる足元と合さり、一抹の恐怖の感情がケージを支配する。
「ちっ。やつめ、ここに気づいたか」
 大気すらも混乱している中、動じた風もなく悪態をついたのはゲンドウだった。天井を見上げ、見えぬ使徒へと怨嗟をこめる。が、現実に使徒が呪殺されるわけもなく、収まることのない振動によって、使徒はその健在ぶりを主張しつづけていた。
 それでも、彼の足元に居並ぶ人間に対してならば効果はあったらしい。リツコがシンジの元へと歩み寄り、その心に波紋を投げかける。ただし、自らの言葉にどれほどの効果も期待していないのは、下位のものへと向けるような突き放す口調から明瞭にも知れた。
「シンジ君、時間がないわ」
「乗りなさい、シンジ君!」
 その代わりになのだろうか、続いたのはミサトの怒声である。
 錯雑する場に合わせ、先の己の立場すらも彼女はうやむやへと放りこんでいた。激しい感情でもってシンジに揺さぶりをかけようとするさまが、どこか必死に自分への言い訳を叫んでいるように見えてしまうのは、決して思い違いなどではないだろう。
 ミサトは、いつの間にかうつむいてしまったシンジのことなどまるで気に留めることもなく、頭上からさらなる己の傲慢を叩きつけていった。
「駄目よ、逃げちゃあ! お父さんから、なにより自分から!」
 正面に回りこみ、シンジの肩を掴んで前後へと揺るがしにかかる。体への揺さぶりが、すなわち精神への揺さぶりになれとばかりに。自らの放った言葉へと込められた意思が、すなわち彼自身の意思になれとばかりに。
 しかし思惑とは裏腹に、彼は虚ろな瞳をいずこかへと向けたままだった。ミサトが力を込めれば込めるほど、逆に彼の体からは力が抜けていき、やがて生気も失われゆく。肩の動きに半拍遅れて頭が無機的に前後するそのさまは、まるで亡骸のごとくにすら見えた。
 ただ、唯一自らの意志で動きつづけている箇所もなくはない。それは、口元だ。
「……そう。誰もが僕から逃げ場を奪うんだ。僕はただ、自分だけの世界が欲しいだけなのに。誰からも見咎められることのない、ほんの小さな世界が欲しいだけなのに」
 声はあまりにも小さく、その内容は誰の耳にも――間近にいたミサトの耳にすらも届くことがなかった。呪句を奏でるような抑揚のない響きは、聞くものの背筋をひと撫でするにとどまり、場に充満する使徒の気配の中へと、薄く広がり消えていく。いや、いつまでも途切れることのない呟きゆえ、わずかずつながらも確実に侵食を始めていく。
「みんなが僕の世界を侵そうとしてくる。僕の創り出した世界に見ないふりをする。どうして? どうしてみんなは自分だけの世界で満足しようとしないの!?」
 不意に風が凪いだ。シンジを中心として円を描くように。柔らかな、しかし冷気を伴うなにかが、大気の対流を生み出すことがないはずの地下からゆっくりと舞い上がり始めた。
「ひっ……!?」
 慌ててミサトが後ずさる。シンジの肩を掴んでいた腕に、不快な感触を含んだ空気が、質量を持って絡みついてきたのだ。まるで、人の手に掴まれでもしたかのように。彼を束縛するものを、無造作に払いのけようとせんばかりに。
 興奮からか熱を持っていたはずのその手首は、五つの冷たい空気の束によって、たおやかにも包みこまれた。優しげな指使いにもかかわらず生理的な怯えが出てしまうのは、冷やされた手首の血液が、浮き出た血管を通して全身へと行き届いていることから来る錯覚なのかもしれない。が、ミサトは本能に身を任せて、絡みつくなにかを力強く振り払った。ついでシンジから距離をとり、リツコのそばへと身を退避させる。
「ね、ねえ、リツコ? いま、いまあそこに……人が……」
 その刹那のことだった。注視していなければ、あっさりと見落としてしまうくらい。
 水色をした薄いもやが、シンジの周りに一瞬だけ現れたのである。ミサトが振り払った瞬間に霧散してしまったのだが、確かにそこに。
 比較的に濃密な色彩を持つもやの塊と、そこから伸びる四本の白い枝。塊の最上部に置かれていたのは、真球に程近い、同じく水色の塊。そしてその真球をアクセントとして彩っていたのが、鋭くも光を発する、怨嗟の赤だった。
「え、ええ。私も見たわ。幻覚、ではないでしょうね。あなたも見ているってことは」
 特徴ある純粋な赤い色素を持つ人間など、たった一人しか心当たりがない。あれは――
「あれは……レイ、だった?」
 晒された冷気から身を守るようにして手首を握り締めながら、呆然とミサトが呟く。
 確証を得られるほどはっきりと見たわけでもないのだが。挙句、強烈な輝きを有する瞳は、どこか似つかわしくないものも感じたのだが。それでも、ざわめく周りのすべてからシンジを護るように、水色のなにかが優しく彼を背後から抱きとめていたのは確かだった。
 ミサト、そしてリツコの中で、彼に近づこうという意思が不思議と削がれていく。なにをしたのか、なにがあったのかと問い詰めたい気持ちはあるのだが、彼の周りを漂う気配がそれを許してくれない。逆に、願わぬ退歩すら強いられてしまっていた。
 畏怖ではないのだ。怯えを抱いているわけでもない。同じ磁極から生まれる斥力のごとく互いの心が拒絶しあっているような感覚は、むしろ彼にこそ畏怖や怯えを与えている気すらした。近寄ろうとすればするほどに。彼を知るべく、同じ符号になればなるほどに。
 そして。
「……ねぇ、シンジ君? あの、さっきのことなんだけど――」
 舞い降りる静寂の中、意を決したミサトが問いかける。与えられた時間は、いまも断続的に続いている使徒の攻撃によって、徐々にだが削り取られているのだ。シンジに対して逃避を認めなかった以上、彼女自身も逃げるという選択肢を取るわけにはいかなかった。
 しかしその言葉は、シンジの意識にまで届くことはなく、彼を取り巻く風の中にかすれ、消えていってしまう。暗鬱な響きを持つ呟きは、ミサトが後ろへ身を引かせたときを境にがらりと調子を変えてはいたが、いまだ途切れることなく続いていたのだから。
「あ、綾波。病室で待ってたんじゃなかったの? でも良かった。心配したよ。ミサトさんが不安にさせるようなことを言うから、気が気じゃあなかったんだ」
 ミサトの言いつけよりも、自分のそばにいることを望んでくれた。そう思いこんでの彼の発言ではあったのだが、やはりその声もケージにいる者たちの耳へと届くまえに風化してしまい、本人にしか内容を聞き取ることが叶わない。皆が理解できたとすれば、彼の無形の特異な性質がはっきり現れたということだけ。隔絶された空間がいっそう堅固になったということだけ。
「冬月。レイを起こしてくれ」
 その得体の知れないものから逃げるように。ゲンドウは手元にある通信端末を操作し、モニターに映し出された初老の男へと指示を与えた。
 猜疑を常とする――常としなければならない司令とすれば、磐石を期するためにも不安定な要素を排除するのは当然だろう。しかし相手が実の息子であることを考えると、ゲンドウの拒絶の仕方はどこか尋常なものではなく。補佐の立場にありながらもネルフでただ一人だけ司令と対等に向き合える冬月は、わずかに感情が浮き上がっているゲンドウの声音に訝しげな顔を浮かべる。
 が、それも数瞬のこと。ケージでの始終を見ていたわけではないゆえ、そこに満ちる異質な空気を知るすべなどなにもないゆえ、あっさりと引き下がり、ついで、人を人と思わぬ暴虐ぶりを見せているゲンドウの流儀に合わせ、返事を絞り出した。
「ああ、いいが……使えるのかね?」
「死んでいるわけではない」
「……判った」
 重苦しさを含ませ、冬月が承諾する。
 心情的にはいただけないのだ。どれだけ表面上をゲンドウに合わせていたとしても。
 綾波レイとはつまり、過去に教育者として生きてきた自分をすべて否定してくれる裏切りの象徴であり、ネルフが世界に対して犯している罪の象徴である。彼女に求められている将来の像は、彼女自身も含んだ、あまねく滅びの母。すべてが彼女の瞳の色のように血色に染められた世界へと姿を変えられてしまうことこそ、ゲンドウが、ひいては自らが画策していることだった。それも、その先にいるかもしれない一人の女性に一目逢うためという、不確かで自分勝手な願望の成就を願って。
 言わば、世界に住まうあらゆるものとの心中を謀っているようなものなのだ。相対する人間の未来を奪うことなど、導くべきはずの職業にあってはならず、ましてやそれが欲望によるものであれば、いまを生きる人としての倫理から完全に道を外してしまっている。そんな後ろ暗いものを具現化させた女性がレイなのであり、自らが甘んじて作りあげた傷をさらにえぐろうなど、なけなしに残っている罪の感情が許してくれはしなかった。
 いや、それだけならばまだ自らを説き伏せることもできただろう。真に顔をゆがませてくれるものとは、彼女の人格そのものに破滅へのプログラムを組みこんだことに由来する。
 自身の手を闇に染めるのはひどく簡単だが、他人を闇の中へと引きずりこむのは、存外にストレスが溜まりやすい。書類に書かれているだけの見知らぬ人間を引きこむのではなく、特に思い入れのあるものを背景に持つ少女ならば、なおさらに。求めるものを得るためにその面影を汚す矛盾は、どれほど繰り返し行おうが慣れることなどなかった。
 しかし。すでにそんな心すらも捨て去ったはず。言い聞かせ、冬月は今一度だけためらいの沈黙によって身を包むと、ため息とともにレイの病室へと通信を繋ぎ変えた。そして自らは、ねぎらいの言葉すら受け取らぬまま舞台から退場する。
 もっとも、ゲンドウからの感謝など、欠片も期待していなかったという面もあるのだが。
「レイ」
「はい」
 ゲンドウとレイ、寡黙な二人の対峙は、モニター越しですらも独特の雰囲気を醸し出していた。互いに向けられたほのかな歓喜の視線は、絡み合うことなく相手を素通りし、逆に、綻びることのない口元は、その視線の真意を気づかれまいと、意に反して力が入る。
 切迫した時間の中での停滞は、皮肉にも冬月のものとは正反対の性質に位置するものだ。
「予備が使えなくなった。もう一度だ」
「はい」
 やがて時計の針を進めるべく、画面の少女ではない誰かへとゲンドウが毒を吐き出した。
 相手を卑下することとは、自分の存在を保つことにも繋がってくれる。より優位に立つという理由もあるが、実際には違い、拒絶されることを願っての言葉であるという意味合いのほうが強いだろう。目に見えぬ心の中を探るのは容易ではないが、自らが波紋を投げかけて任意のベクトルへと向かわせるようにすれば、確実に相手の心理を悟ることができる。さらには、あえて嫌われることにより、素の自分が他人に忌まれる人間ではないと思いこむこととてできるのだ。これはわざとであって、本当の自分は違うのだと。その気になれば、周りに好感触を与えることもできるのだと。
 そしてその対象は、なにもシンジ一人だけに向ける必要はない。いや、一人だけに向けていては意味がない。ゲンドウはいったんモニターから目をそらし、階下にいる者たち全員へと目配せをする。
「搭乗しないパイロットに価値などない。帰れ!」
 明にシンジへ向けられているはずだが、彼以外へと睨貌が行っている理由はひとつだけ。
「初号機のシステムをレイに書き直して再起動! 急いでちょうだい!」
 いち早く意図に気づいたのはリツコだ。ゲンドウの身近へと居場所を置く彼女は、受けて声高に周囲へと命令の言葉を代弁し、続けざま、矢継ぎ早に様々な指示を下していった。
 結果。時間と空間、人の意識、それらすべてから取り残されてしまったのは――
 
(嫌いなわけじゃないんだ。孤独はそんなに嫌いじゃない。どちらかと言えば好きなんだと思う。ただそれが、悪意から来る故意によるものかどうかが怖いだけであって)
 名前も知らない整備士たちが、すぐ隣を掠めるようにして忙しげに走り過ぎていく。鼻につくLCLの血の匂いにまぎれ、彼らの軌跡にかすかにだけ残る油の匂い。一瞬後には別の整備士が起こした風によってかき消されるが、それもわずかな間だけだった。その整備士も新たに粘つく匂いを残していき、ケージの中には常に人の気配が充満している。
 彼らは、当然のようにこちらへ目をくれることがなかった。すれ違う瞬間に腕が触れ合っても、振り返りすらしてくれない。周囲に響く雑踏とて、どこか自分を避けているようにむなしく木霊し、距離以上に彼方の存在であることを主張しつづけている。
(ならば歩み寄ればいいんだ。それが距離を埋めるための唯一の道なんだから、みんなはそう言うだろう。でもその行為にすら恐怖を感じていては、いったいどうすればいいの?)
 遠くでたたずむことの恐怖と、近寄ることの恐怖。自身の起こす行動に逐一怯えが生じるならば、やがて見えないなにかに絡めとられ、深い闇の中へと身を沈めるしかない。
 しかしその気になれば、人間一人がいなくなったとしても世界は回りつづけることができるのだ。いや、世界に己が欠かせない人間だと思うことこそおこがましい。ほんのわずかなパーツが欠けたところで、埋め合わせるための材料は周りにいくらでも転がっている。さしずめ現状の自分のように、換えのきかない重要な部品のはずであっても、無理にでも代用の品をあてがって騙し騙し使いつづければ、次第にそれが平常のものとなるだろう。
 なのに、なぜ皆は自分のような人間を無理やりに拾い上げ、使おうとするか。その心意気というものが判らなかった。結局は投げ捨てるだけなのにもかかわらず、中途半端に干渉を試み、流れる時間の中に唐突に放り込もうとする。それどころか、投げ捨てることを目的として拾い上げる者すらいる始末だ。
 このケージにいる者たちの意思はともかくとして、確かに大方の人間には善意が含まれているのかもしれない。しかしそれは、偽善と表現できるにすぎないものがほとんどで、蔑みを浴びせるような輩と本質的に差があるわけでもないだろう。どちらにしても自身の傲慢を押し付けているだけなのであり、干渉される本人には苦痛しか残らないのだから。
(必要なのは理解。たったそれだけなんだ。ほかには、なにもいらなかったのに)
 そう思う心とて傲慢だが、想いは決して捨てきれるものではない。諦めてはいても、こちらから拒絶をしていても、恨みがましい未練は心のどこかで常に燻りつづけていた。
 シンジは二、三度ほど左右に軽く頭を振ると、ゆっくり周囲を巡らせてみる。
(僕じゃない誰かのための搭乗準備が進められているみたいだけど……。いつの間にか返事をする機会を逸しただけで、べつに乗る気はあるっていうのにね)
 乗るのかともう一度問われれば、あっさりうなづいた。が、彼らの誰一人としてふたたび打診をしてこないのは、やはりその心に傲慢が巣食っているからではなかろうか。自分はあっさりと切り捨てられたわけであり、こちらの都合などまるで考えていないのだ。
(エヴァには乗らないとまずいけど、さすがにこっちからの譲歩はしたくないような)
 これからどうしたらいいのだろう。そう、浅くため息をついてみる。と――
(突然ざわめきが大きくなった? ううん。大きくなったというよりも、これは……)
 雑多な喧騒が、次第に方向性を持っていくのを感じた。最初は自分に向かっているようにも思えたが、そうではない。実際に向かっていた先は、己のさらに背後に存在するケージの入り口。先ほど、ミサトたちと一緒に通ってきた場所だ。
「レイ! 大丈夫なの!?」
「えっ!?」
 ミサトが叫び、その言葉、その内容につられたシンジは、勢いよく振り返った。
 当然だろう。綾波レイは、今もなお、すぐ隣でたゆたうようにして揺らめき存在しつづけているのだから。ひと時は離れ離れになってしまったが、定位置にしかと立っている。
 相変わらずな透明色の感触を中空へと溶けこませ、その空間を周囲から隔絶させ。
 違うところといえば、いつもより頬の緩みがはっきりしていることだ。沈んでいた心を労わってくれるかのように、下唇をわずかに持ち上げ、儚げな笑みの形を作り出している。
 彼女がそばにいてくれるからこそ、再度こうして冷静に周りの状況を観察できるのであって、もし一人のままならば、見えぬ絶望に押しつぶされてしまっていただろう。
 ともかくも、綾波レイなら最初からそこに存在している。ミサトが見ている先――医師らしき人物が押していた移動ベッドに横たわっている少女は、関係ないはずであった。
 シンジはその少女の素性を掴むべく、近寄りこそはしないが、身を前傾させて窺い見る。
「あ、あれは……」
 どういう意図なのかは定かではないが、彼女の乗るベッドは、こちらとミサトたちのちょうど真ん中に位置する場所に停められていた。
 すでに医師たちが去ってしまい、ぽつりと残されるそれ。しかし、妙なことに寂寥感は浮かんでこない。孤高とも違う、排他的ななにかがその少女からは感じられ、その気配に不思議と親近感を覚えるからだ。もちろんそのとおりに近づこうなどとは思わないが、それでも自分に近しい性質を持つ人間がそばにいることに、悪い気がするはずもないだろう。
 ふっと唇だけで笑みをこぼしたシンジは、さらに彼女の容姿を確認しようとするのだが。
「なに笑ってんのよ! あんたがさっさと乗んないから、この子が身代わりになったんでしょうが! 初めて会ったときからそうだったけど、ほんとになに考えてんだか……!」
 些細な変化でしかないはずなのにもかかわらず、見咎めたミサトががなり立ててくる。
 それが意味するものとは、彼女は少女を生餌に見立てているということだ。目の前で盛大にちらつかせ、そこから哀れみの心に訴えかけ、負い目を感じて自発的に乗ろうとしてくれるのを待っている。自身の負い目をこちらに転嫁させるためだけに、少女はこの場に呼ばれてきたのではないだろうか。
 自然とそこからはひとつの解が導き出せる。いや、ひとつしか導き出せない。あれほどこちらを無視していたのは擬態なのであって、茶番じみた駆け引きはいまだ続いていたのだ。一方的にではあるのだが。ここにいる中で、おそらくミサトだけは本気だったろうが。
「こんなけが人を乗せようとして、よく平気でいられるわね! 本当にそれでいいの!?」
 鋭い釣り針、しかも返しまで付いていると判っていながら、どうして急ぎ飛び込めよう。シンジはミサトの糾弾に気づかないふりをし、改めて少女へと意識を送ってみた。
 白いシーツの上で上体だけを起こしている彼女は、後ろに片手を置くことによって身体を支えているが、いまにも崩れそうなほど震えているせいで、それ以上の動作が取れない様子だった。
 力が入らない主な原因は、折れているらしい右腕をギブスで固定していることと、腹部に巻かれた包帯からにじみ出ている血によるものだろう。ゴム素材でできている、顔を除いた全身を覆う型のエヴァパイロット専用スーツ――プラグスーツは、本来なら体に密着し、プロポーションをすべて浮き彫りにさせているはずだが、幾重にも重ねられたガーゼと包帯、ギブスにより、あいまいな輪郭にゆがめられ。色素の抜けた水色のショートの髪は、やはり包帯によって半分以上が隠されてしまい。右と同色の赤を持っているはずの左目は、当て布によって覆われ、外界との接触を絶たれている。
 確かにミサトがこちらを非難したくなるほどの重傷で、わずかに身をよじらせただけでも激痛を感じていることは間違いない。
(でも、なんだか気になるな。漠然とした不安というか、なにか大事だったことを忘れているというか。焦燥ばっかりが前に出てきて、形は掴めないけど)
 そこまで思案し、シンジはのそりと足を踏み出した。
 別に、少女の傷を案じているわけではない。確かめたいことがひとつだけあったのだ。
 まだ離れた位置にいるおかげで詳しい判別はつかないが、自身のよく知っている綾波レイと、あまりにも似すぎている気がする。先刻の親近感がそれを助長させてくれ、まるで、こちらが望んでいたものがそこに投影されでもしたように、違う点が見受けられなかった。
 だが完全な同一であるとは思えない。いや、同一であると認めたくないのか。認めてしまうと、自身の中で大切に暖めていた何かが無造作に汚されてしまう予感がするのである。
(懐かしい? ううん、そんなことは絶対にないはず。ないはずなんだ。『前』にこんな場面を経験をした覚えはないんだから。確か前は……、前は……?)
 シンジの足取りが目に見えて遅くなっていく。深い傷を負っているその少女の記憶をたぐり寄せようとするのだが、すべてが空白に埋め尽くされていて、さっぱりと思い出せないのだ。必死に着色しようにも、その都度激しい頭痛に襲われ、色がとどまってくれない。判っていたはずの過去すら、引きずられるようにして部分部分が抜け落ちてしまっていた。
 しかし。短い間に様々なものがこぼれ出していくが、それに対しての失意の念は、皆無といってもいいだろう。むしろ頭の中が澄みわたっていく気がし、都合が悪いことを編纂しなおしているような、心地よい背徳感を連想させてくれるのだ。
 もう、既視感を植えつけてくる少女に対して怯える必要はなくなった。どうしてなのかは判らないが、絶対に。
 気を取り直したシンジは、毅然と彼女を睨みつける。と――
「きゃあ……!」
 軽い質量を持つ金属が床をはじける音とともに、相反する鈍く湿った音が耳に届いた。少女がバランスを崩したためにベッドが横転し、彼女自身も床へと叩きつけられたのだ。
 身の丈半分程度しかない高さからの落下ではあったが、それでも死の瀬戸際で揺らいでいる人間にとっては、最後の一押しともなりかねない衝撃だったのだろう。少女は起き上がることすらままならず、苦痛から耐えるために、限界まで身をのけぞらせる。
 おかげでシンジからは覗きこむような形となり、まだいくらかの距離が離れていても彼女の顔をつぶさに観察することができた。漏呻の声を背景としながらも、冷静に。
(なんだ……、やっぱりぜんぜん違うじゃないか。綾波はあんな顔をしてない。一種類の色彩しか作れないような薄弱な人間じゃあないんだ)
 ちらりと横に視線をずらし、こちらの動きに合わせて一緒に歩み寄ってきた綾波レイの表情を窺ってみる。すると気づいた彼女は、不思議そうに頭をかしげたあと、判らないなりにも笑顔を浮かべて、気遣いというものを見せてくれた。そしてこちらがその意味を読み取ると、サッと表情をなくし、ほかの人間には判断つかないようにするのである。
(僕があの子の心を読み取れないんじゃない。もともとそれが希薄だから読み取れないだけなんだ。綾波と比べてみると、その違いってものがよくわかる気がする)
 隣に立つ同じ姿形をした少女はこれほどにも表情豊かだというのに、目の前で床に横たわっている少女は苦悶の色彩だけだった。
 いや、痛みにこらえて表情を歪めているが、反射のようなもので、彼女の心が現れているとはとても言えないのではないだろうか。実際、それほどの痛みがあるのならば、起き上がることを拒むほうが普通だ。心があるのであれば、より苦痛を味わわされることを確約されている初号機搭乗から逃げるほうが普通だ。
 彼女の中に強い信念が根付いていればそのかぎりではないが、おそらくそうではないだろう。片方しか見えないその赤の瞳は、深紅のルビーを連想させてくれるが、宝石とは無機物でしかない。意志を持つこともなく、自分自身で光を放つこともなく、ただ周りからの光を反射させているだけ。
 だからこそ彼女には心がない。
(そういえば、この子って……)
 不意にシンジは過去の出来事を思い出した。
 第十六使徒戦、使徒に同化され、もがき苦しむ綾波レイ。父の許しを得て助けに入ろうとするが、使徒は彼女の心の中を反映して、彼女自身が望むもの――すなわち自分へと新たに手を伸ばしてくる。だがそれは同時に、彼女にとって望まないことでもあった。ひとつになれはするが、その先にあるものは、無でしかない。だからこそ彼女は、自分を助けるために自爆の道を選んだ。以前あれほど望んでいた無、しかし最後には決して望まなかった無。生きることへの執着を涙にこめながらも選んだ無への道。
 本来彼女は、唯一の光明だったのだ。同居人兼同僚のセカンドチルドレンは己の殻に閉じこもり、保護者兼上司の作戦部長も外に出たきり帰ってこない。誰も彼もが我が身のことで頭が一杯で、自分に対して目を向けてくれない。優しくしてくれない。そんな中で綾波レイとは、目の前に横たわる暗雲から意識をそらさせてくれる、唯一の逃げ場だった。なのに、最後の最後で判りあえたかと思った瞬間、彼女もどこかに消えてしまった。
 しかし、そんな絶望にまみれていたとき、逃げ場はひょっこりと帰ってきた。何食わぬ顔で。自爆したことなど微塵にも感じさせない、傷一つない体で。
 それはもう喜んだ。彼女だけは自分を見てくれるはずだから。決して冷たくあしらうようなことなどないから。傷ついている心を、優しく労わってくれるに違いない。いや、それはなくとも、えぐるようなまねだけはすまい。
 だが。実際には、その少女も他の皆と同じ反応を返してきたのだった。温かみの一切ない視線。まるで、知らない誰かに向けているような。少なくとも、使徒を道連れに自爆したときに自分へと向けてきた顔とは、あまりにもかけ離れていた。
 だから必死に縋りついた。もう彼女しかいないから。優しくしてくれるのは彼女しかいないはずだから、いつもの綾波に戻ってくれと。冗談なんだと言ってくれと。
 なのに彼女は何も返さなかった。出会ったばかりのころのように冷めた目を向けるだけ。
 そして困惑していると、彼女は冷たい顔のままで言ってきた。自分は《三人目》なのだと。あなたが知っている綾波レイではないと。
(そう。同じ気がするんだ。三人目って言ってたあいつと、この子は)
 あのとき感じた絶望、恐怖、喪失感は、いまだ鮮明に覚えている。彼女の空虚な心も。
 床でもがいている少女の空虚さは、その三人目とどこか同じくするものを感じた。
(じゃあ、綾波に似たこのコは、また本物をどこかへ……)
 自らを三人目と呼称した少女は、決して綾波ではなかった。だから目の前で包帯に巻かれている少女も、綾波ではない。
 三人目が現れたから、本物の綾波を隠された。だから目の前の少女は、自身の隣に陽炎のようにして立つ綾波レイを連れ去って隠してしまうかもしれない。
「させない、させない、絶対にさせない。させるもんか……!」
 右手を強く握りしめ、開く。もう一度握りしめ、開く。何度となく繰り返し続ける。
 それは以前のこと、現実から逃げ出しそうになったときに出てしまう悪癖だった。決断を迫られたとき、そうすることによって気を紛らわし、裁断の刻を遅らせる。意識しているわけではないが、相手が焦れて己の選択肢を奪ってしまうのを待っていたのである。
 だが今やっているこの行動は、逃避ではなく、決意するための心構えを作るためのものだ。手のひらを握りしめるたびに、己の意思を少しずつ少しずつこめていく。これから起こす行為自体が逃避の意味を含んでいる以上、決して以前の癖が直っているわけでもなかったのだが、それについてはあえて無視して。
「もう他にはいないんだ、綾波だけしか。残っているのは綾波だけ。だからどこにもやるもんか。おまえなんかに綾波をどこかに連れ去られてたまるもんか……!」
 低く、呪詛のように呟くと、シンジは必死に起き上がろうとしている少女へと足早に近づいていった。よほど傷が痛むのであろうか、彼女は気づく様子もない。出血から来る寒さゆえか、体を震わせつづけている。
 足元までたどり着くと、片膝をついて顔を覗きこんでみた。
 白磁といえば聞こえはいいが、血が通っているとも思えない病的な白の顔。いや、出血がひどいのであるから当たり前なのだろう。ただ、彼女を人形だと思っている自分の心がそう思わせているだけだ。
 スッと彼女を抱き寄せてみる。
 予想以上に軽いその体は、ひんやりと冷たい感触を伝えてきた。これも出血によるものなのだろうが、やはり人形めいた印象を植えつけてくるような気がしてならない。
「あ……あな、たは……?」
 やがて少女は気づいたのであろう、ワラをもすがる思いからか、こちらの肩へと手を伸ばしてきた。弱々しい力が肩に掛かってくる。本人は掴んでいるつもりだろうが、およそ触れているだけで、とても自力で起き上がれる様子はない。これではエヴァに搭乗することなど、夢のまた夢ではないだろうか。
 だが、それこそ好都合だった。シンジの唇の端が、薄く吊り上がる。にぃ、と。
 彼はゆっくりと彼女の首へ両手を持っていった。抱き寄せたときに彼女の血で染まってしまったその手で、首を覆うようにして包帯越しに軽く触れる。接点からは、じんわりと鮮やかな朱の色素が染みこんでいき。
「綾波は一人だけでいいんだ。偽者のキミは邪魔なんだよ! だからっ!」
 血とは、死を司る。シンジは彼女の首へ深く刻みこむため、おもむろに手に力をこめた。
「……う、ぐ……」
 うめき声を上げるレイ。いや、うめき声しか上げられないのか。彼女の腕は力なく垂れ下がるのみで、シンジの手を跳ねのけるどころか、触れることすらままならない。焦点の合わない瞳では、なぜと問いつめることもできない。
 彼女の顔が次第に染められていく。白から赤、赤から青、そして紫へ。死に瀕しているときになってようやく人間めいた色相を取り戻したのは、あまりにも皮肉なことだ。しかしシンジは気にしない。彼女をより人間に近づけさせるため、さらに力をこめていった。
「シ、シンジ君!? ちょっ、レイになにすんのよ! そんなことしたらレイが死んじゃうじゃない! 離しなさいってば!」
 バキリと一音。
 もう限界かと思われたそのとき、際どいタイミングでミサトが割入ってきた。張り飛ばすようにシンジを横へと投げ捨て、レイの身を自由とさせる。
 自然、支えを失ったレイも床へ叩きつけられるが、この際仕方がないだろう。どれほど体に痛みが走ろうが、どれほど傷口が広がろうが、死ぬよりはよほどましだ。ましてや世界に三人しかいないはずの適格者、死は絶対的に許されない。
「あんたってば、レイがかわいそうだと思わないの!? なのにあまつさえ首を絞めるだなんて! どういう神経してんのよ!」
 シンジがレイに近づいていったのは、怪我をおして出撃しようとする彼女を哀れに思ってのことだと理解していた。可憐な少女を助けようとして、代わりに贄となることを良しとするものだと思っていた。だからミサトは静観していたのだ。なのにどうであろう。彼はレイを救うどころか実際にはまったくの逆で、確実にとどめを差そうとまで企てていた。
 彼はおかしい。どこがどうおかしいのかは判らないが、明らかにおかしい。ここに来るまでのやり取りでも充分すぎるほど感じていたことだが、改めてそれを思い知らされた。
 ミサトは、激しくあえいでいるレイを背に庇いつつ、シンジを睨みつける。が。
「なんで止めるんですか、ミサトさん! そいつは……そいつは綾波にすり替わろうとしているんですよ!? 今ここで逃したら、綾波は……」
 彼はなおもレイの首を狙っていた。さすがに膂力の差は思い知っているのか、投げ飛ばされた先で叫んでいるだけだが、その目は匿っている少女を差し出せと明確に語っている。
「な、なに言ってるのよ、シンジ君。彼女は綾波レイ本人でしょう? っていうか、今初めて会ったんでしょうに。す、すり替わるなんて……ねぇ、リツコ?」
 理解できなかった。彼の言うことはなにひとつ。ここにいるのは、ほぼ間違いなく綾波レイ本人だ。それに、彼の言う本物の綾波レイとは誰のことを指しているのか。いや、そも、初めて会った人間を偽者呼ばわりすること自体どうかしている気もするのだが。
 だからこそ大学からの親友に尋ねてみる。レイの実質の保護者のようなものだから、自分で考えるより彼女に聞くのが一番早いのだ。
 それに、エヴァのパイロットという立場からすると、確かにスパイという線は捨てきれるものでもなかった。エヴァ自体の特殊性ゆえ、絶対に偽者では操縦できないと判っていても、シンジがこうはっきり断定してしまうと妙に気になって仕方がない。せめて自分以外の人間からも、本人であると太鼓判を捺してもらえれば――。
「シンジ君? 確かに彼女は偽者。あなたの言うことは正しいわ。でも――」
「リ、リツコ! あんたも、なにいいかげんなデタラメ言ってんのよ!」
 だが、頼みの綱までもが意味不明なことを口にしてくれた。ミサトはレイを庇うことすら忘れ、リツコの元へ駆け寄ると、両手で白衣の襟を掴んで自分の顔へと引き寄せる。
「あんた、今は冗談言ってる場合じゃないでしょう!? 使徒が来てんのよ、使徒が! それがなにを意味するか、あんたのほうがよく知っているでしょうに!」
「黙って!」
 顔にかかった唾が気にくわないのか、思い切り顔をしかめながら怒鳴りかえすリツコ。掴まれた手を無造作に払いのけると、顔を白衣の袖で拭いながら、ミサトにだけ聞こえるよう、しかし己の表現できる不機嫌さというものを目一杯押し出しつつ囁いた。
「だからよ。使徒が来ているからこそ、ああ言ったの。今は彼を落ち着けさせることが先決。説き伏せたり、理由を問いただすのは後回しよ」
「そ、そうね」
 ミサト自身も口にしたとおり、今はそれどころではない。使徒はこの本部を目指し、侵攻を重ねている最中。早く迎え撃つ用意をしなければ、この数年間の準備がすべてご破算になってしまうだろう。平和なときにはごく潰しと呼ばれ、周囲からも散々に冷たい視線を浴びせかけられたのだ。確かに余計な時間の浪費は避けねばならなかった。
「それに彼は――」
 誤解したままのほうが都合よく操れるかもしれない。
 続けざまに口にしそうになるリツコだが、すんでのところで言葉を飲みこんだ。少なくとも前に立つ作戦部長は、役職に似合わず相手を陥れるようなまねを好まない。無意味に口に出してしまうことは、極力避けるべきだろう。
「ん? リツコ、どうしたのよ?」
「……いえ。それより今はシンジ君よ。彼のおかげでレイも駄目になったことだしね」
 二人は改めてシンジへと向き直る。
 彼は、目を逸らす前と立ち位置を変えていなかった。どうやら、レイの命を奪いには行かず、律儀に待っていてくれたらしい。むろん、そのことに感謝するわけもないのだが。
「シンジ君、もう一度言うわ。彼女はレイ本人ではない。でもあなたの知っている綾波レイをどこかに連れ去ることはない。約束するわ?」
「本当に……ですか?」
 そうはいうが――と、あからさまに不信気な視線をリツコへとぶつけてくるシンジ。
 彼には、どこかその言葉を信じきることができなかったのだ。リツコに対する彼の印象は、レイにことさら冷たく当たる人、というもの。未来でのレイに対するリツコの所業は、忘れたくとも忘れられるものではなかったのだから。
 それは、自らを三人目と語った少女から逃げ出した後のこと。理解の檻から逃れるため、目を瞑り、耳を塞いで、己の周りの時間すべてを凍らせる道を選ぼうとしたときのことだ。
 突然にリツコが自分の前に現れた。彼女は有無も言わさずこちらの目を見開かせ、耳に当てていた手を振りほどかせようとする。その存在を、自分の心の中に刻みこもうとする。
 そのときの説得に用いられた方法が、『綾波』だった。綾波の秘密を知りたくないかと、誘惑するように囁いてくれ、自分を時の流れの中に連れ出そうとしたのである。
 もちろん知りたかった。言わば彼女が引き金となって、こうして閉じこもろうとしているのだから。唯一すがりつける存在であるはずの彼女が、自爆した後にどうなってしまったのか、真実が知りたかった。
 そしてまんまと乗せられてしまう自分。結局、もう少しで時計の針を止められるかもしれないというところで、リツコがぜんまいのネジを巻いてくれたのだ。むろん善意など欠片もなかったことであろう。彼女の顔は、一面すべてが瘴気によって厚化粧されていた上、常に体からはうごめく闇がただれ落ちていたのだから。
 そのままリツコは、怯える自分を地下へと連れこんでくれた。深い、彼女から漏れ出でる闇が紛れてしまうほどの深い奈落の底。今の彼女にこそ相応しい、エヴァになり損ねたものの眠る墓場の奥。常夏の第三新東京市では決して味わうことのできない、心までをも凍りつかせてくれるような寒気をもよおす場所だった。
 最下層のフロアはそれなりに広かったらしい。地下には降りたが、目的の部屋まで距離もあることから、彼女は歩きながら物語を聞かせてくれた。
 南極で発見した生物らしきもの。創世以来、二度目の天変地異。日本、つまりここで発見した生物らしきもの。一人の理想高き研究者と、それに集う者たち。神の模倣と、その失敗の連続。たどり着いた先、だがエヴァの中へと消えてしまった理想。壊れゆく一人の夫。広がる余波に巻きこまれ、憎念の中にも魅了されていった一組の親子。やがて侵攻してきた数多の使徒と、それを殲滅する、なにも知らない少年たち。
 ノンフィクションの、長い長い物語。
 しかし理解はできなかった。こちらに語っているように見え、その実回顧しているにすぎないような語り口だったせいで、内容のほとんどが耳に届く前に闇へと消えてしまう。
 ただ、それでも判ったことが一つだけあった。向かう先に、自分にとっての希望などどこにも存在しないことが。決して不可避の、絶望に陥れるための罠が潜んでいることが。
 一室に入ったとたん、よりいっそう歪んだリツコの顔。彼女は、その顔のままに明かりを点ける。あらわになる醜い顔は、しかし大したものではなかった。良好になった視界は、部屋一面にある水槽へと向けざるをえなかったのだから。理解不能な光景が、目の前に広がっていたのだから。
 妖艶な笑みを浮かべつつ、LCLで満たされた水槽の中で揺らいでいる綾波レイ。いや、それだけなら気にすることはなにもないのだ。問題は、まったく同じ姿、まったく同じ笑いを浮かべた綾波が、無数と言っていいほどにいたことである。まるで量産工場のように、まるで完全なるイデアの型を使ったかのように、寸分違わぬ彼女たち。しかも、気づいたのであろうか、皆が皆こちらへ目を向けてくる。
 言葉も出なかった。彼女たちの紅の瞳は曇ったガラス球。意思もなく、動くものをただ追っていくだけの機械仕掛けの人形だったゆえ。
 リツコはこちらの反応を見、恍惚の表情を浮かべていた。そして、そのまま少女たちの出生を語りだす。リリス、使徒、エヴァ、碇ユイ、サルベージ、プラント――意味不明の単語たち。しかしそれらを総じると、どんな答えが導き出せるかは判った。彼女の言いたいことはすなわち、自分たち親子が執着している綾波レイは人間ではない。
 いや、違うのだ。リツコの語ったものは綾波本人のことではない。あのときはそうだと思いこんでいたのだが、あれは綾波ではなかったのだろう。過去の記録がなにも判らないというのが、彼女の公式資料だ。だからこそ。だからこそそれを『信じる』かぎり、過去を持っている水槽の中のモルモットたちは、決して綾波ではないのである。まったく関係ない赤の他人、あまりにも似ている赤の他人。
 結局リツコは、一時的に自分を陥れることには成功したが、もの言わぬ人形たちと共に寂しく自滅の道を歩んだだけだった。だが、妬心から、自分の築き上げた『綾波レイ』という偶像を奪い去ろうとした行為は、忘れられるものではない。
(つまりリツコさんも、別の角度からという違いはあったけど、三人目と言っていたやつと同じく、僕から綾波を奪おうとしていたんだよね)
 シンジはスッと目を細め、今を生きるリツコへと疑念の感を主張する。
 察したか、彼女はいつもより若干トーンの和らいだ声で語りかけてきた。
「じゃあ、こう言えばどう? あなたがエヴァに乗りつづけるかぎり、決してあなたの言う綾波レイに手を出さない。だって、私たちとしてはエヴァに乗ってもらいたいんだから、それを拒否されてしまうようなことなど、できるはずもないでしょう?」
 リツコ、ひいてはネルフにしてみれば、詐欺同然とも言える約束事だった。そこに存在していない者の身を保証したところで、いったいどんな意味があるのだろう。いないものに干渉することなどできない。害することなどできない。口約束をするだけで、必然的に現実にいるはずのない少女の身は保証されたも同じことだ。
 いや、それどころか交換条件にすらなっていないのではないか。本来シンジには、エヴァに乗る義務などない。そして綾波レイに手を出すことは、真っ当な組織であれば許されることではないだろう。ネルフがどんな組織かはさて置き、常識的にその条件はおかしい。
 ただこれは、暗に――いや、明に綾波レイを人質として扱っているとも捉えることができる。つまり、彼女に手を出されたくなければ、エヴァに乗れ、と。
 他人から見れば、あまりにも傲慢で馬鹿げた交渉だ。しかしシンジとしては、異があるわけでもなかった。もともとエヴァには乗るつもりだったのだから、そこになにかを追加してくれるのならばありがたいこと。そして綾波レイの安全が保障されれば、このままエヴァに乗りつづけることで、最後には自動的に願いがかなってくれる。
 ならばリツコの提案に否という選択はできるはずもなかった。答えはもう決まっている。
「乗るのか。それとも乗らないのか」
 促したのはゲンドウだった。頭上から見おろすそのさまは、まるでこうなることを予想していたかのように泰然としたもの。口元を微かにつり上げ、己の意志が世界に反映されていることに対して優越感に浸っている。手のひらで踊らされる愚息を嘲ってもいる。
(あれ? それにしては、父さん……)
 いや、ひょっとしたらそうではないのかもしれない。違和感に気づいたシンジは、どこか等身大に見えてしまうゲンドウのサングラスの向こう側、父の心の中を覗きこんでみる。
 常に他人に対して取る傲慢な態度、その裏に隠された感情のヒントは、やはり父のかけている色眼鏡の向こうにこそあった。父の視線は、自分に向けられているようで、そうではない。わずかに軌道をそらし、己の背後二、三メートル辺りへと送られていることが判る。確かそこにあったものとは――
(さっきのコなの?)
 綾波レイの姿をした何者か。今まさに自分が冥府へと落とそうとした、憎き誘拐未遂者。父の視線は、十中八九、意識を失ったまま床に横たわっている彼女へと向けられていた。
 そういえば、吊り上った父の口元は、わずかに引きつっているように見えなくもない。腕が震えていることから察するに、ポケットの中に入れられた手は、持てる力のすべてをこめて握りしめられているのかもしれない。
 報告書の記載からは想像もできない凶行に及んだ息子に対しての怒りなのか。母の匂い、そして気配が、少しずつ薄れていくことに恐怖しているのか。はたまた、こちらからは想像もつかないような複雑な感情を、無理やりに押し殺しているだけなのか。
(やっぱり、父さんの考えてることなんて判らないや)
 しかしシンジは、あっさり考えることを放棄する。
 過去、幾度となく人と判り合おうと試みてはみたのだ。ただ、そのどれもが失敗に終わり、むしろ拒絶の壁が厚くなってしまったのでは、努力するだけ無駄なような気がしてならなかった。足掻いても、いや、足掻けば足掻くだけ人は自分から距離を取り、心の中を容易には覗かせてくれなくなってしまう。必要以上に構えられてしまう。
 歩み寄っても遠のかれるのであれば、いっそ近づかなければ――。
 理解を放棄するのが、大して悩みもしない末に出した結論だった。
(それに、いまは父さんのことよりもエヴァだしね)
 父から意識を切り離し、改めて周囲に視線を送ってみる。と、映るすべての人間がこちらに顔を向けていた。皆、一様に瞳に力をこめ、血走らせ。
 あるのは、当然のことながら期待だ。それもあまりに一方的な。
 ともあれ。誰もが搭乗の発言を待っている以上、答えないわけにもいくまい。シンジは、最初から決めていた答えを、ことさら焦らすかのようにゆっくりと口にした。
 
        ◆  ◆  ◆
 
「エントリープラグ、か」
 いわゆる操縦席と呼ばれるもの。抜き取ったエヴァの神経束の替わりとして脊椎にはめこまれる、細長い、しかしエヴァのサイズだけに巨大ではある筒状のソケット。その中の中央に設置された座席に一人座りつつ、シンジがポツリと呟きを発した。
 あれからというもの、エヴァの操縦に対する講習はなにもされていない。このエントリープラグに入ってくれと言われただけで、状況の説明らしきものもなく、長い間ずっと放って置かれたままになっている。確か父は説明を受けろと言っていたような気もするのだが、しかしそのことを皆がきっぱりと忘れているのだろうか。前面に広角に広がるモニターには、忙しなく飛び回っている整備士の姿が幾人も映っているが、初めての使徒襲来でおそらく皆が焦っているのか、誰もこちらへと意識を向けてくれない。自分のこなすべき仕事にだけ集中して、恐怖心から逃れようとしている。
 説明を受けたいわけではないのだ。本来、説明を受ける必要性などまったくない。エヴァの操縦に関しては、今の時点において、同じ操縦者――チルドレンと呼ばれている綾波の姿を模した少女や緋の髪の少女以上に知っている。理論めいたことは判らないが、動かすことだけは誰よりも詳しい。
 しかし、干渉することを望んでおきながら、こうまでもこちらの存在をないがしろにされては、気分がいいはずもなかった。
 やはり彼らは、絶対的に自分とは相容れない存在なのだろうか。このさき常に平行線の道を歩むに違いない。そう思ったところで仕方がないことではないか。
 もっとも。癪に障る部分はあれど、それがひどく不満というわけでも実はないのだが。むしろ、ありがたい気持ちのほうがよほど強いだろう。
 なぜならここは、サードインパクト後にあった無人の世界の、局所的な模倣ともいえる場所だから。誰にも干渉されず、傲慢に振舞うことのできる自分だけの閉じた世界では、人の心に映る己の姿に怯えることなど、まるで考えなくてもいい。雑多なものから解放される、数少ない安息の場所でもある。周りからの干渉を受け付けにくいか、それとも本当に誰もそこにいないかという、たったそれだけの違いでしかなかった。
(だから心地がいいのかな、ここは)
 腰を深くうずめ、目を瞑り、あごを少しだけ持ち上げてみる。それによって得られたのは、音もなく、色もなく、刺激のまったくない世界。自身にとって、その浮遊感にも似た感覚は、なにより替えがたい安息でもあり。
 ただ気持ちとは裏腹に、思い出すのはろくでもない出来事ばかりであったが。
 無理やりに見たこともないエヴァの乗せられる。クラスメイトに殴られる。同居することになった保護者からは家事を押し付けられる。暴虐無尽の同僚には散々虐め抜かれる。父の策略によって友人の命に手をかけさせられる。エヴァに取りこまれる。さらには、命を失いそうになったことなど何度あっただろうか。
(そういえば、あのときに言ってたっけ、カヲル君……)
 ある言葉を思い出す。歴史とは、常に悲しみに彩られているものだそうだ。未来、自らが握殺してしまった無二の親友が、彼の宿舎に泊まったときに寝物語として語ってくれた。
 人とは怠惰な習性があるため、すべからく楽な方向へ向かおうとし、ゆえに自分の良かれと思っているものは無意識に受け入れてしまう癖がある。しかし逆に、苦痛を与えてくれるものには反発心が募り、どうしようもなくそれが浮き上がってしまって人の記憶の中に強く残るのだと。相対的には幸福なものもたくさんあるはずなのに、人は自らの意思でそれらを消してしまうらしい。いわゆる基準比率の無視、その狭義とのことだが。
 あのときは半信半疑であったが、今ではその意味がよく判った。エヴァに乗りつづけていた一年あまり、決して心地よい瞬間がなかったはずはないのに、それを思い出すことがほとんどできない。すべてが悲しみの中に塗り潰されてしまい、色彩の失った世界こそが自分の中の真実となってしまっている。誰も彼もが冷たい世界、まるで自分こそが他の誰よりも救われていないのではと思わせるような。
(……やめよう。せっかくいい気分に浸れるってのに、わざわざあんな嫌なことを思い浮かべる必要なんてないしね)
 しかし、そんな絶望渦巻く半生の中、己の裡で強く光を放つものも一つだけあった。シンジはそれを求めるため、瞼を開き、モニターへと意識を向ける。
 先ほどミサトやリツコなどと問答した場所にポツリと立っている一人の少女。彼女は場違いにも中学校の制服であるブレザーを着込み、辺りで走り回る整備士たちの喧騒に囲まれながらも臆することなくその場に佇んでいる。傍目には判別がつきにくいほどかすかに感情のこめられた瞳は、モニターを介してこちらに向けられていて、それが自身の不規則な胸の鼓動を和らげてくれるように思えるのは気のせいではないはずだ。
 彼女を視界に収めているかぎり、決して過去の悪夢を思い返してしまうことはない。自虐の念に捕らわれてしまうこともない。
 蒼銀の少女に向けて、シンジはフッと柔らかな息を吐く。と――
「どう、シンジ君。初めてエヴァの操縦席に座った感想のほうは」
 出し抜けにリツコから声がかかった。モニターではウィンドウが開いており、様々なコンソールが配置された発令所を背景として、彼女の姿が映し出されている。白衣の下が水着ではなく普段着になっているところから察するに、説明に回す時間を着替えのそれに回してしまったということなのだろうか。
「あまり……気分は良くありませんね」
 自分だけの時間を邪魔された。それだけでも気分を害するには充分な理由だ。自身にとっての唯一の神聖な儀式である綾波レイとの時間の共有は、決して他人に邪魔されていいものではない。無粋な闖入者には、恨み言の一つでも言ってやりたいというものだろう。
 それに、ひょっとすると、綾波に触れられなくても元の世界にいたままのほうが良かったのかもしれないという思いもある。他者の横やりなど、サードインパクトによって浄化された世界の中では決して起こりえない事柄だ。
 初めて味わう鬱陶しいという感覚に、シンジの眉が否応なくひそめられていった。
 だが、生憎とリツコはそういった嫌味を気にする性格ではない。むしろ毒を毒で返すような人間でもある。彼女は臆することなく追い討ちをかける言葉を口にした。
「そう。でも、これからもっと悪くなるかもしれないけど、我慢してね?」
 リツコらしいと言えなくもない、やや不自然な微笑みを向けられた直後、壁面横に穿たれた幾つもの穴からオレンジがかった液体が勢いよく噴出してくる。いつもよりもその速度が速い気がするのは、おそらく彼女の顔から来る錯覚なのだろう。
「大丈夫よ。それはLCLといって、中にいてもしっかりと呼吸はできるわ」
 付け加えるリツコ。だがその取ってつけたような内容は、普通であればまず理解しきれないものであった。呼吸ができるからと言われて、素直に液体を肺に入れるような人間などいまい。どうあったところで、人の持つ本能ゆえに、溺れてしまうという恐怖から逃れることは不可能なのだ。幸いシンジは、すでに幾度となく体験していたおかげで、その手の恐怖に怯えることはないのだが。
(でも、この服のままじゃ、すごく気持ちが悪いんだよね)
 じわじわと水量は増し、次第に足元から腰、胸へと迫ってくる。水よりも粘性のあるそれは、特に靴の中においてたまらなく気分が悪かった。土地柄、よく夕立に降られることがあるが、あのときのずぶ濡れの靴の比ではなく、居心地悪そうに足を動かすたび、LCLが靴の中から出たり入ったりしている。
 ズボンとワイシャツも、靴ほどではないがやはり気になった。衣服は、浮力によって地へと縫いつけられる束縛を失い、対流するLCLにあおられて常に揺らめいている。全身を刷毛で撫でまわされているような感覚は、その手の趣味のない彼からすれば、こそばゆい思いだけしか感じられない。
 やがて体をすべて飲みこんでいくLCL。シンジは頭まですっぽり覆われるのを待って、一息に肺にたまった二酸化炭素を吐き出し、代わりに血を思わせる液体を取り入れた。
「気持ち悪いな」
 それは、まるでサードインパクト後の皆が溶けたLCL――人間そのものを体の中に取り入れているような錯覚に陥ったためと、先ほどから不快を感じさせてくれる衣服や靴に対しての言葉であったのだが。
「そのくらい我慢しなさい。男の子でしょう」
 いつの間にかリツコの隣に立っていたミサトが、鼻をくすぐるような鉄の味に不満を抱いたのだと思い、たしなめる。とはいえ、その行為に大した意味があるわけでもなかったのだが。どんな声をかけようが、彼の感じる嫌悪感が薄れるわけもないのだから。とりあえず程度に声をかけてみただけ。なけなしのコミュニケーションを図ってみただけ。
 それよりも、と。シンジに声をかけた早々、ミサトはエントリープラグの中が映し出されているモニターから目を離し、リツコの耳へと顔を寄せる。
「シンジ君、LCLに対して全然驚かなかったわね」
「そうね。でも、別に不思議じゃあないわ。彼はおそらく、現実のすべてを在るがままに受け入れているだけなのよ。呼吸ができると言われたから、そのまま信じているだけ」
 明らかな誤認であるが、少なくともリツコの目にはそう映っていた。
 今までの彼の行動を総合した答えがそれなのだ。彼は、すべての事柄を諦めに似た境地で眺めている。積極的には身の回りのものに関心を抱かず、自身に触れてくるものだけを選択して、それなりの対応をしているのではないだろうか。次いで、それなりの対応とはいっても、自分に害や益がないと判断すれば、やはり興味を抱かずに放っておいてしまう。
 害や益とは、もちろん彼の言う綾波レイという人物についてのことだ。ここのネルフの人間たちが知っている自我の希薄な少女ではなく、彼の瞳にしか像を取らない幻の少女。
 きっと彼女以外のことであったなら、また、人間の本能である反射さえ差し引いてしまったのなら、たとえ死に直面したとしても、あっさりと受け入れてしまうに違いない。
 ただし、幻像の綾波レイのこととなると、それは一変するようだが。偏執なまでに虚像を追い求める彼の姿は、先刻に充分思い知らされたばかりだった。
 ともかくも。直情型のミサトには、そこまで深いロジックを組み立てることなどできようはずがなく。胡散臭げな顔を隠しもせずに、友人へと異を唱える。
「受け入れるって……とてもそんな素直な性格には見えないんだけど……」
「もちろんよ。受け入れてはいても、その実すべてを拒絶しているんだから。そこら辺の講釈はまた今度、無事生きていた後にでもさせてもらおうかしらね」
 無駄話はここでお終いと言わんばかりに話を一方的に打ち切り、そばでコンソールに向かってまじめに仕事をしているオペレータたちへと焦点を移す。つられ、ミサトも。
 最初に目に映ったのは、技術部所属――つまりリツコの部下である、伊吹マヤ二尉だ。特徴はといえば、大学生、いや高校生でも通用する幼い顔立ちと声か。さすがに初めての出撃準備となるゆえ、有り余る緊張がそれらに出てしまってはいるが、しかしさほどもその魅力を失ってはいない。髪はショートだが、尊敬する上司を真似て染めないところをみると、かなりの堅物なのだろう。実際、十二分に整った顔立ちと愛嬌を備えているにも関わらず、浮いた話のひとつとして聞いたためしがなかった。
 次はミサトの部下でもある、作戦部所属の日向マコト二尉。髪は短めに揃えられた上に無造作に後ろへと流し、ややフレームの厚い眼鏡をかけている。彼もまた、上司であるミサトに憧憬にも似た好意を持っており、持ち前の真面目さも手伝ってか、彼女に仕事を押し付けられてしまうことがしばしばあった。おかげで、雑務などといったこまごまとした仕事を手早く確実にこなせるようになり、周囲の評価は、ミサトのそれよりはるかに高い。
 最後は、青葉シゲル二尉。社会人らしからぬ、肩までかかるほどの長い髪を持っているが、それについてを上司である頭の固い副指令から咎められることもないため、軽そうな見た目とは裏腹に、仕事は前者二人と比べても遜色なくこなせるのだろう。
「もうそろそろね」
「ええ」
 見ている間にも三人は手慣れた様子で次々に機器を操作していき、やがて最後の段階へと入っていった。後は、シンジと初号機がシンクロするための作業を残すのみ。彼らは今まで以上に声を張り上げ、周囲へと報告を響かせる。
「主電源接続。全回路動力伝達」
「第二次コンタクトに入ります」
「A10神経接続異常なし」
「思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス。初期コンタクト、すべて問題なし」
「双方向回線開きます」
 グッとミサトの握った手に力が入る。
 問題はこの先だった。ここまでなら、誰が乗っていたとしても、それがたとえ自身だとしても、滞りなく作業を進められるだろう。エヴァの特殊性とは、ある特別な因子を持つ子供しか操縦できないことにあり、あの少年は今のところ、その候補でしかない。実態のよく判っていないマルドゥック機関なるチルドレンの選抜組織、その存在の是非がこの次の瞬間に決まる。同時に自分たちの命運も、ではあるのだが。
「これが駄目だと後がないんだから、うまくいってちょうだいよ」
 ミサトは祈るように胸の前へ手を持ってきて、モニターに映る些細な変化を見逃すまいと、まばたきすらせずに凝視する。分厚い脂肪越しであるにも関わらず、緊張を表す鼓動の音が手のひらへと伝わり、乾ききった瞳も熱を持ち、ひどく痛い。
 瞬間、目を瞑っているシンジの眉がかすかに引きつりを見せた。
 それは接続に負荷がかかっている証でもあり、吉兆の予感でもある。シンクロが試みられている最中である現在、眉をひそめているだけで特に変化が見られないということは、順調に事が進んでいるということ。そして、何度も行われたレイの接続試験も、彼と同じ経過をたどり、一部の特異な例外を除いて成功している。
 ここまでくれば、もう間違いようもない。答えは――
「シンクロ率、二十一パーセント。初号機、起動しました!」
 マヤの声によって、沸き返る発令所。誰もが喜色を見せ、手を取り合って成功を祝い始める。地下ゆえか、それともネルフのトップの性格ゆえか、どこか陰気の流れていたこの場所が初めて陽に包まれた時でもあった。
 しかし。これで何もかもが解決したというわけではないのだ。今ようやく使徒と対等の立場に立っただけであり、同じ土俵へと上がる挑戦権を得られただけ。
 いや、対等ですらもない。エヴァに乗るのは、多少変わった歩みを送ってはいるが、ある意味平凡な人生の中学生である。数多の戦場を生き抜いた歴戦のつわもののはずもなく、古来より秘密裏に伝わる武術の達人のはずもなく。年下相手に喧嘩をしたとしてもまず全敗するだろう、それほどの脆弱な新兵だった。
 武器もない。現在確認されているかぎり、使徒は不可視光のビームと伸縮自在のポールという二つの攻撃方法を持っている。対してエヴァは肉弾戦のみ。もう数週間の歳月があればナイフの一つくらいは完成させられるだろうが、使徒が待ってくれるわけもなく、素手でやり合うしか道は残されていなかった。
 さらに言えば。戦闘経験がないこと、武器がないこと、どちらか片方ならまだ良かったのだ。素手で相手を殺すには、中学生ではまず持ちえないほどの覚悟が要るが、武器があれば緩和される。逆に戦闘経験があれば、武器がなくてもそれなりの戦いかたを為せる。
 初号機が起動できたところで、可能性がゼロでなくなったという程度でしかなく、絶望的な現状はなにも変わっていないのである。下手をすれば初号機の起動確率並みの勝算だ。
 だからこそミサトは、自らを戒める意味、皆に釘をさす意味をこめて合図を送った。
「発進準備!」
 硬質な声音。端的な命令の言葉。
 オペレータたちは、弾かれたように自分の席へと向かい合う。それでも興奮は抑えられないのか、上気させた面を隠そうともせず。弾んだ声のままで報告を入れていった。
「第一ロックボルト外せ」
「解除確認。アンビリカルブリッジ移動開始――」
 エヴァが地上に向かう射出口へと運ばれていく。それは、なにも知らない少年を死地へと運ぶという倫理にもとる行為であるが、もはや気にする人間は誰一人としていなかった。
 彼はエヴァに乗ることを運命づけられた人間なのだ。世界でたった三人の選ばれた人間。言わば英雄なのであり、その英雄に世間の規格を当てはめるのは愚というものである。
 今も彼は、これからの戦いに心静かに闘志を燃やしているのか、瞑想したまま微動だにしない。孤高を保ち、周囲へと緊迫した空気を押し流している。威光を放ってもいる。
 もちろん、そんなものは錯覚でしかなかった。彼はなんの訓練も受けていない急ごしらえの偽りの英雄なのだ。だが、自身が錯覚と認めなければ、それは現実のものとなる。思いこむことで束の間の喜びを謳歌することができる。まるで彼、碇シンジのように。
 彼が、綾波レイの姿を実在するものだと思いこんでいるのと同じく、知らず同じ道をたどってしまっているのだった。それこそが人間の本質であるとでもいうがごとく。
 渦巻く思惑。しかし作業は、そんな中にも着々と進んでいく。
「進路クリア。オールグリーン」
「発進準備完了」
 そこまで聞き、ミサトは背後へと振り返った。
 見えるのは、一段高くなっている司令席。むやみに威圧的な机と、それに相応しくもあるふてぶてしい態度で座する司令が、必要以上の重圧を生み出している。おかげで部下たちが萎縮しているのだが、彼はそのことに気がついているのだろうか。そばに立っている、司令とその部下たちとの緩衝材でもある冬月も、このときばかりは司令の側へと歩み寄っていて、すがることもできそうになかった。
 近寄りがたい。しかし声をかけないわけにもいかないが現状だ。これから為す仕事は、中間管理職でしかない自分の責任能力に余るもの。人類すべての明暗がこの先の一言にかかっているのであり、責任逃れではないが、司令のお墨付きを得てから事を成したかった。
 本音を言えば違うのかもしれない。かねてからの命題でもある復讐は、決して人類の存亡と等価に扱っていいものではなかろう。自らのエゴを戦場に持ちこめば、それはすなわち、付け入られる隙にしかならないのだから。
 だからこそ免罪符を得ておきたかった。復讐に駆られる己が指揮を取ることは、司令からも認められた既定の事実であることを。気兼ねなく、父の仇へ憎悪をぶつけてよいと。
 意を決し、ミサトはためらいがちにも口を開けた。
「……司令、構いませんね?」
「ああ、使徒を倒さぬかぎり我々に未来はない」
 揺るぎもしない声。垣間見える信念、覚悟。聞き、ミサトは目を瞑って上へと仰ぐ。
 すべてはここからなのだ。父へと向けられるはずだった憎念は、あるとき突然に行き場を失い、一時は自閉の檻へと閉じこもっていた。心の牢獄の中で、どれだけ光に消えていく父の姿を回顧したことだろうか。どれだけ使徒の姿を自分に置き換えたことだろうか。
 これからの生きるための目的を奪われ、過去のある一点へと縛り付けられていた自分。しかし自問自答を繰り返していくうち、いつしか回顧の映像は少しずつ摩り替わっていったのだった。最後に娘の命を救ってくれたモノは、次第に使徒の形を取り、深淵を思わせる瞳をこちらへと向けてくる。やがて父と使徒は同一の存在へと移ろわせていき、二つが一致した瞬間、憎悪の行き場は現実の存在へと向けられることとなった。自らが施した魂の牢獄の鍵は、復讐という生きがいを持ったとき、ようやく開けることができたのである。
 使徒への、父への復讐は、今このときより自らの合図によって始まる。
 ミサトはゆっくりと過去の映像から舞い戻り、今という刻に存在する初号機を見据え、己の意志を発令所の隅々まで具現化させるべく大仰に腕を振りかざした。
「初号機、発進!!」
 
 重力とはなんだろうか。意識しているしていないに関わらず、常に自分たちへと圧し掛かっているそれは、意外と中身を知られていない。質量に比例して距離に反比例すると義務教育では習うのだが、実際にはそんな単純なものではなく、いまだすべてが解明されていないというのが現状である。あくまで、現実に作用しているものを近似しているだけ。精度は上がれど、必ずどこかで矛盾を内包してしまう。
 そんなレベルでは、重力を自在に操るまねなどできようはずもなかった。できるとするならば、任意の方向に加速度をかけ、擬似的に増減させるだけだ。そして操る加速度が大きければ大きいほど、装置もそれなりの大きさになってしまうという道理もある。
(くっ……! 毎回思うけど、この射出口って無意味に加速をつけすぎなんじゃ……)
 逆を言えば、装置が大掛かりであればあるほど相応の加速度を生み出せるとも捉えることができ、エヴァのサイズに合わせられている射出口は、人の身としては尋常でないほどの負荷を生み出しているのだった。
 慣性制御のためのLCLもここでだけは逆効果となっている。液体の中でなら、その性質ゆえ、瞬間にかかる慣性力は時間的に分散され、結果として体にかかる負荷は小さく長く続くことになる。しかし、常に加速度がかかり続けているのならば、時間的な分散が行われるはずもなく、むしろ水の重量分まで重く体に圧し掛かってきてしまうのだ。
(ミサトさんも、せめて僕に一言くらい声をかけてくれたっていいだろうに)
 体にかかる負荷のおかげで意識を遠のかせていくシンジ。
 先ほどまでは、胃の辺りをちくちく刺激する周りの喧騒から逃れるために、あえて綾波レイからも目をそらして無理やりに殻に閉じこもっていたのだが、突如収まったと思いきやこの物理的な圧迫だ。久しぶりのエヴァとのシンクロも不思議とあまり気分のいいものではなく、むしろ吐き気まで催してくれる中では、平常を保つことなど至難の業であった。
 文句を言おうにも肺を圧迫され呼吸ができず、気分の悪さから腹に力が入らない。今度は別の理由で外界からの刺激を少なくしようと目を閉じたままにしているのだが、エントリープラグに備え付けられたスピーカーからは、その姿に対しての期待のこもった声が聞こえてくるのだから、余計に始末に終えるものではなかった。
 とはいえ、その重圧がいつまでも続くわけもない。終わりはいつか必ず訪れる。
 何時間とも感じられたが、実際にはさほどの時間もかかっていなかったのであろう。今度は、上へと持ち上げられる感覚に襲われた。まるで周囲のLCLが上へと抜けていく感覚。相対的に重力がなくなり、一切の束縛から解放されたような錯覚を感じさせてくれる。
 恍惚にも似たそれに、シンジはいまだ燻るシンクロへの不快感すら忘れ、体を震わせた。
「シンジ君、聞こえる? 聞こえたら返事をして?」
 いや、聞こえない。快楽からか麻痺寸前になっている心の中でミサトへと返事を返し、次はエヴァの体を通して伝わってくる感触へと意識を寄せてみる。
 それもやはり心地いい。いつの間にやら照りつける陽は沈んでしまったらしく、気温は若干下がり、濡れた空気が柔らかく体に絡みつく。辺りは透明な気配が覆い尽くし、中にいる自分の心まで浄化されている感覚は、それだけで先ほどまで感じていた苦痛を綺麗に忘れさせてくれるものだった。
 無粋な呼びかけこそなければ、もう少し感慨に耽ることができようものなのだが。
「聞こえてるんでしょ!? 返事をなさい!」
 今一度無視し、シンジは名残惜しげにゆっくりと瞼を上げた。
 夜にも関わらず、照らし出されて明るく浮き上がる街並みは、モニター越しでは実感がなく、ジオラマめいた不自然さを浮き立たせ。遠くの山々や海も、かく乱した光によって輪郭が浮かび上がり、おぼろにそこにいることを主張し。空では、星の瞬きこそ見られないものの、唯一月が淡く顔を覗かせている。
 そして使徒。
 正面真っ直ぐに見える使徒は、視界に映るすべてのものの中で圧倒的な存在感を誇っていた。唐突に地中から現れた初号機に面食らっているのか、出方を窺っているのか、自分の体の感覚からすれば十メートルほども先でじっとこちらを見据えている。双眸の奥にある深い闇は、この街全体を照らす光をもってしても透かすことができないため、確かなわけではないのだが。
 ただ、何らかの強い意志がそこにはあった。例えば、こちらが使徒へと向けている嫉妬の感情と同じような、強いなにかが。
 目が離せなかった。群れる蛾のごとく、自分にだけ見える強い光を発している使徒へといざなわれている気がする。姿を映し出しつづけていれば同じ存在になれるとでもいうように。そちら側へと行けば、使徒への変貌を手助けしてくれるとでもいうように。
「はぁ……もういいわ。エヴァは頭の中でイメージを思い浮かべれば、そのとおりに動いてくれるから。とりあえずは、歩くことだけ考えてみて」
 その声に触発されたというわけではない。そんなわけではないのだが、使徒の瞳に吸いこまれそうな錯覚に陥ったからこそ、シンジは一歩足を踏み出した。
 ゆっくりと。確実に踏みしめていく大地。
 その感触が自身を現実へと引き戻してくれる。使徒の発する光も、今はもう見えていない。ただ今度は逆に、沸き上がる歓声が耳にうるさく纏わりついてくるのであるが。
「ミサトさん……、行きます」
「あっ! 待ちなさい、こら!」
 言うが早いか、全力で走り出す。制止の声は当然に無視した。使徒の攻撃方法は、うろ覚えながら聞き知っている。遠距離攻撃を持っている相手に様子見をするのは得策ではなく、使徒がその場にとどまっているだけの今が好機なのだ。
 なんにおいても先手を取るということは大事である。ましてや、勝てるかどうか判らないものを相手にするときには。独力で使徒を倒したという経験はほとんどなく、自らの明確な意志で殺すことができたのは、皮肉にも渚カヲルだけしかいない。
 過信ができるほど己は傲慢でもなく、命知らずでもなかった。今の時点で唯一使徒より優れているのは、相手の能力をある程度知っていることのみ。
 しかし、お互いの実力に極めて差があるのでもなければ、情報は一つの武器となるだろう。だからこそ、こうして使徒を間合いに収めようと、急ぎ飛びこんでいるのだから。
 無警戒の使徒の懐へと入りこんだシンジは、真っ直ぐに拳を突き出した。
 力のすべてを相手に叩きこむには、余計な動作など不要だ。引いた拳を一直線に目標へと腕を伸ばせば、最速、最大威力となる。打撃における技とは、相手の虚をつくためのものにすぎず、威力だけを突き詰めていけば、自然と余計な動作は省かれてしまう。本来であれば加えるはずの腕のひねりとて、貫通力を増させて防御を貫くためのものなのだ。使徒が隙を見せている以上、もとよりつたない技巧を使う意味などない。
 狙う先は、弱点であるはずの紅の光球ではなく、白の面。力不足は重々に承知していた。一撃で屠れるわけもなく、だからこそまずは相手の戦力を奪っておこうとそこを選んだ。
「くらえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 使徒の顔へと吸いこまれていく拳。しかし――
(手が前に出てくれない!? 全然思うとおりに動いてくれないって)
 最速のはずだった。自分が持てる最速の攻撃を放ったつもりが、なぜか緩慢に思えてならない。戦闘への高揚によって感覚がシャープになっているのともまた違う、物理的な遅さがそこにはある。
 いや、原因なら察しがついていたのだ。過去に例がないまでのシンクロ率の低さが、こうして影響を及ぼしているのだろう。己のピントが合わさっている先は、今ではなく未来。
 だが、原因が判っていたところで後に引けるものではない。修正ができるわけでもない。
 やはり使徒は、見越して対応してきた。攻撃を避けるのではなく、反撃するのでもなく、もう一つの選択肢を。
 刹那。突如として、宙に六角のオレンジの薄い板状の波紋が現れた。硬質を感じさせるそれは、やはり外見同様の性質を持っていたらしい。打ち付ける羽目となった自らの拳は、激しい鈍痛に苛まれる。
「あれは……! あれがもしかしてATフィールド!? 確かに存在は知っていたけど」
 リツコの呟きが聞こえてくるが、シンジとしても、その存在は彼女以上に知っていた。
 あれこそが自らが望む唯一のもの。綾波レイに実体を与える、ただ一つの可能性。完全なる使徒だけが持ちうる、具現化された心の鎧というものである。
(まずい! 攻撃を仕掛けた以上、絶対向こうも反撃してくる! 逃げないと!)
 先の攻撃では、もとより使徒が張っていなかったせいで中和する意味もなかったのであるが、こうして作り出された以上、自分を敵として認識したのだということに他ならない。
 案の定、使徒はこちらに対して挙動し始めた。そして、それを受けて叫んでくるミサト。
「よけて!」
 言われるまでもない。相手が仕掛けてきた瞬間、すでに体は動いていた。
 こちらに向けて真っ直ぐに向けられた左腕からは、淡い黄色に包まれた光の槍が飛び出してくるのだろう。シンジはさっと軸上から外れ、攻撃を回避しようとする。しかし。
「か、体が重い!?」
 またもシンクロ率だった。過去、いや未来でのそれは、今の倍かそれ以上。先と同じく、その感覚のままエヴァを動かそうとしてしまったのだから、シンクロ率の低いこの現状では、思考に体がついてこないのは当然のことだ。
 しかし一瞬の判断に己の命がかかる戦闘では、わずかな遅延は命取りとなる。
(駄目なの!?)
 いや、本当であれば、それでも余裕をもって避けられはした。たとえ攻撃を喰らったとしても平然と痛みを無視できる自信はある。ただ、予想外のことに錯誤してしまったのだ。体が硬直してしまい、避けようとした動作まで取り消し、その場に棒立ちになってしまう。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 もう論理的思考もできない。悲鳴のみが木霊する頭の中。
 目を閉じ、己の殻に閉じこもる。人間が一番に頼っている感覚器官である視覚を閉ざしてしまえば、それこそ目の前の出来事もなかったかのようにできるのでは、と。猛烈な拒絶の意思をこめ、あらんかぎりに目に力をこめた。
 現実は甘くない。願望だけで、世界が覆るわけもない。
「どうしたのっ!? 早く避け――」
 ミサトがふたたび意味のなさない、判りきっている命令を発してきた。彼女の声がたまらなく癪に障るが、むしろ気になるのは、その声が途中で途切れてしまったことだ。それが意味するものは、つまるところ――
(今のでやられちゃったのかな。だからミサトさんの声が途中で聞こえなくなっちゃったのか……)
 痛みはまったくない。あまりの激痛に痛覚が麻痺してしまったのだろうか。
 初めての経験ゆえ、よくは判らないのだが、おそらく己の死期もそう遠くないのかもしれない。冷静にもそんな考えが浮かんでくる。
 ならばもう怖いものなどあるまいと、シンジは体の力を抜き、シートに深く腰を沈めた。
「……ふぅ」
 相変わらず静かだった。先まであれほど耳についた発令所の喧騒は、ミサトの声を最後に途切れ、まったく聞こえてこない。同時に、不思議と安らぎに満ちた気持ちも感じるのだが、むやみに干渉してくる発令所の皆がそれをしなくなったことから来ているのだろう。
(自分の体は、いやエヴァはどうなったんだろう)
 シンジは薄く目を開ける。と、そこに見えたのは、予想した己の血の色でもなく、ましてや、攻撃してきた使徒の皮膚の色である深い緑でもなかった。
 水色。
 淡いオレンジの燐光を放つ、巨大な、エヴァや使徒と同じくらい巨大な水色の塊だ。
「あ、あ……や……」
 声が引きつって、喉の先まで出てこない。
 水色とは、よく知る少女の髪の色。第壱中学校指定のブレザー。それが目の前一杯に広がり、本来そこにいるはずの使徒の姿を隠していた。
「助けてくれたのか」
 よく見ると、彼女の手の中には、使徒が繰り出してきた光の槍が納まっている。よほどしっかりと握りしめているのか、使徒があがいても小揺るぎすらしていない。
 シンジはそれを好機に立ち上がり、音もなくスッと身を下がらせた。
「え、えぇと……、ふたたびATフィールドを確認。今度は初号機からです」
 いまだ続く無音の中、発したのは発令所の伊吹マヤだ。己の手前に表示されるデータを読み取り、先に使徒が作り出した波形とそっくりなものを初号機からも確認したからこそ、わけも判らずに声を上げたのだが。
 しかし本来の彼女の幼い声も相まって、この戦場の中ではあまりにも不釣合いで、滑稽なものに聞こえる。いや、滑稽なのはモニターに広がる光景ゆえに、か。発令所からの声が途切れたのは己の感覚の異常によるものだと判断したシンジであるが、実際にはそうでなく、誰もが言葉を発することができなかっただけだった。
「そんなことはどうでもいいわ! あれはなに? なんでレイがあんなとこにいるのよ!」
「わっ、私に言われても……そんなこと……」
 先のマヤに触発され、錯乱したようにミサトが叫ぶ。
 当然だ。夢でも見ているかのように現実離れした光景が目前に広がっているのだから。怪獣映画のひとコマのように、エヴァと同サイズ程度の少女が使徒と対峙している。
 あれほど痛ましかった怪我もなく、プラグスーツも着ておらず、ましてや病室で意識を失ったままとなっていたはずの彼女。体中から淡いオレンジの燐光を放つ以外は、まさしく綾波レイその人に見えた。
 不思議と違和感を覚えないのも、彼女が普段から放っている雰囲気のせいだろうか。ただそこにある。決して周囲へと自己主張せず、超然とその場に佇むのみ。儚げな印象を人の意識の裏に植え付け、幻想の世界へ導くのだった。
「司令!?」
 リツコはとっさに後ろを振り向き、指定席に座っているゲンドウに目配せをする。が、彼はなにも返さない。モニターに目を向けたまま。いつものように机の上で組んだ両手で口元を隠しつつ、悠然としたままだ。
 いや、そうではない。リツコは考えを改める。あまりに予想外のことが起こり、彼も周りの者と同様に混乱しているのだと。組まれていた手は、凝らして見るとわずかに震えていたのだから。
(あれは、レイじゃない! 司令も関知していないということは、あれは決して私たちの知っているレイじゃない!)
 では誰なのか。
 あれほどの非常識な光景は、使徒でもなければ作り出すことはできないはずだ。例えば地下深くに隠されている第二使徒リリスのように。レイの姿を模していることからも、その答えが一番妥当なように思えた。だが、リリスの存在は、ネルフの中でも特に秘匿とされている。これ以上もないほど厳重な監視下に置かれているのだから、あれは間違ってもリリスなんかではない。ましてや、レイなどでもない。
(待って! マヤは確かさっき……)
 カッとパンプスの音を周囲に響かせ、リツコはマヤの元へと駆け寄る。そのまま怯えが滲み出ている部下の肩を力の限りに掴んで揺さぶった。
「マヤ! さっきATフィールドって言わなかった!? ねぇ!」
「え、ええ……。確かに言いました。しょ、初号機から」
 掴まれた肩が痛むのか、顔をしかめて返事を返すマヤ。しかしリツコは気にする様子もない。悲鳴を上げる童顔のオペレータを無視し、さらに力をこめつつ思案にふけった。
(じゃあ、あのレイの姿をしたものがATフィールドだっていうの? ATフィールドってなに? さっき使徒が作り出したものは板状のものだったんでしょう? それにシンジくんはどうやってあんな形のフィールドを張れたの? あれこそが彼の言う、綾波レイってコ? 本当にレイそっくりじゃない!)
 錯綜する思考。疑問が後から後から溢れ出し、答えがまったく纏まってくれない。
 そしてそれは、この現場を指揮するはずのミサトも同様だった。
「リツコ、あれはなんなの!? あれってレイじゃない!? なんだってあんなとこにいるのよ! そもそもどうやってあんな大きくなってんの!?」
 己の理解の範疇を超え、頼みの綱である親友に回答を求める。が、その彼女とて似たような思いを抱いているのだから、話を振られたところでどうしようもない。
 リツコも、ミサト以上の怒声を張り上げ、己の仕事を放棄した。
「そんなの私に聞いたってわかるわけないじゃない! 私に聞く暇があったら、さっさと使徒でも倒しちゃいなさい!」
「でも、あれがなんなのかわからないと、指示のしようもないでしょう!? こんなときのためにあんたがいるんでしょうに!」
「っ! ……はぁ。あれを作っているのはシンジ君よ。彼に聞きなさい」
 わからないものはわからない。そもそも、ミサトに怒鳴られつづけているのでは、考えも纏まるものではなかった。ヒートアップするミサトとは逆に、リツコは言葉を吐き出しながら自らを落ち着けさせる。そして、体よく厄介払いをするため、答えの片鱗を持っているはずのシンジへとミサトの意識を向けさせた。同時に自分も。
「シンジ君、彼女はなんなの?」
 目に映る戦場は、あれから幾ばくかの時間が経っているというのに、ほとんど移ろいを見せていなかった。
 使徒の繰り出した光のパイルを片手で掴んだまま、小首を傾げながら初号機に――シンジに目を向けているレイ。もがき、その余波で周りの建物を壊しつづけている使徒。そして、レイに向けて手を差し伸べている初号機。
「シンジ君!」
 彼は応えない。ずっと前を見たまま。虚ろにレイへと意識を向けているだけだ。
 やがて初号機の手が少女の髪に触れようとしたとき、世界はふたたび慌しく動き出した。
「ありが……ぐぁっ!!」
 不意にシンジを襲った、脳髄を揺さぶる衝撃。初号機の体が宙に浮き、地中へと身を隠せなかった哀れなビルをなぎ倒しながら吹き飛ばされていく。一つ一つが億の単価で計算できるそれらのビルは、まるで安物の飴細工かクラフト紙でできているかのように、簡単に崩れゆき。
 シンジは地面を転げながらも、跳ね飛ばされた原因へと目を向けた。
 よほど激しく頭を揺らされたのか、すぐにはピントが合ってくれない。徐々に鮮明になっていく世界の中、最初に目に映ったのは黄に輝く光柱だった。つまりは使徒の繰り出したパイル。ただ、綾波レイが掴んでいたはずの左腕ではなく、右腕からそれは伸びている。
 予想ならできたことだった。通常、人の体は、外見のみならば左右対称にできている。左の肘関節から光柱を出したというのならば、逆の腕からも出てしかるべきはず。
 失態だ。綾波レイに心を奪われていたことではなく、予想できた攻撃を失念していたということに対してのものだが、確かに失態だ。
「そうだ! 綾波は!?」
 使徒からわずかに視線を横にずらし、そこにいたはずの少女の安否を気遣う。しかして、シンジの望み通りの姿がそこにあったわけではなかった。
 綾波レイは、先程よりも強いオレンジの燐光を宙へと解き放ちながら、その存在を大気の中へと消滅させていく。まるで、体から放たれる光球に生気を吸い取られるかのように、急速に色を透けさせていった。
「ま、まさか使徒の攻撃を受けて……」
 実際には、頭に受けた衝撃によって集中力が途切れたことが原因だろう。人間一人を創造することは、多大な労力を要する。所詮は限界のある人間の脳、どれほど彼女の姿を望んでいたところで、周りから強く干渉されれば維持することは難しい。
 だが、彼にはそんな理屈はわからない。幻と現実の狭間をさまよう彼は、その二つのギャップを埋めるためにも新たな幻を作り出した。つまり、使徒こそが綾波レイをふたたび冥府へ落とそうとしているのだと。
「よくも……よくも綾波を……!!」
「シンジ君! とりあえず下がって! 距離を取って仕切り直しよ!」
 ミサトの指示であるが、その声はまったく届かなった。届くわけもなかった。一番望んでいたものを奪われる辛さは、彼は充分すぎるほどに経験している。ふたたび同じ目に遭わされるなど、断じて認められるわけがない。逃げ場を奪われたのなら、今度こそその身にはなにも残らないのだから。なにひとつ。
「よくもぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 素早く身を起こし、防御もかなぐり捨てて使徒の胸元へと飛びこんでいく。
 刹那、使徒の白い顔、その双眸から光が放たれた。収束された不可視光。いわば、レーザービームと呼ばれるものだ。数刻前、それにより、国連軍の戦闘機は紙屑のように撃ち落されていたし、ネルフ本部への道を作るために地面へと大きな穴があけられた。先の攻防でこそ放ってこなかったが、おそらく至近距離ゆえに爆発に巻きこまれることを恐れてのものだろう。威力は折り紙つきだ。
「うるさい!」
 が、激昂したシンジが一喝すると、彼の前にオレンジで染められた六角の拒絶の壁が現れ、初号機の体に吸いこまれる前に爆発が起こる。
 膨れ上がる大気、熱気、白く染まった炎。それらが収まる前に初号機は飛び出し、使徒へと体ごとぶつかっていった。そのまま、轟音を立てて仰向けに倒れこむ使徒の上に跨り、緑の巨体を地面に固定させる。
「許さない許さない許さない許さない許さない――」
 一撃一撃、ありったけの憎念を乗せ、使徒の体に浮き上がる白い仮面に拳をめりこませる。やがてそれはバキリと音を立てて割れ落ち、見て取ったシンジは、まだ殴り足りたいと、次は体の中心に埋めこまれている赤い光球を殴りはじめていった。
「そうよ、その調子! なんだか知んないけど、そのまま一気にやっちゃいなさい!」
 ミサトは、シンジの心の異常に気づけない。彼女もシンジ同様に憎悪にまみれてしまっているから。過去に目前で光とされてしまった父親、そのかたき。南極での使徒の咆哮は、父と同じ声音と姿に変えてこそいたが、いまだ脳裏へと鮮明に焼き付いている。
 シンジの繰り出す拳に、ミサトは自分のそれを重ねつつ、先刻まであった不可思議な光景も忘れ、ただただ使徒を屠ることのみに気がいっていた。
 ゆえに彼女は気づけなかった。シンジ本人も。最初に気がついたのは、オペレータの一人――ミサトの参謀でもある日向マコトだ。
 思い切った斬新な作戦の裏には、緻密な計画が必要不可欠である。それなりに優秀ではあるが、大雑把で突拍子もないミサト。それをフォローする副官としては細かいところまで目を行き届かせておかねばならず、だからこそ彼は使徒の動向をいち早く察知した。
 使徒は己の心臓を殴られつつも、腕を無理やりに捻じ曲げ、肘を初号機に向けようとしている。体勢に無理があるらしく、びきびきと腕の筋を千切れさせる音をさせつつ。
 己の腕を一本くれてやる代わりにその命を絶ってやろうという意思は明白だ。圧しているつもりが、いつの間にか窮地へと立たされていた。
「シンジ君! 右を見てみろ!」
 マコトはマイクを手繰り寄せ、手短に指示する。が、その指示は半瞬ほど遅かった。
 声を受けたからというわけではなく、右手の方でだんだんと視界を埋め尽くす物体に気づいたからこそ、シンジはそちらへ目を向けると、そこには白一色に染まった光景がある。
 反射から体を硬直させ、目を瞑って衝撃に備えた。
「って、あれ?」
 一秒、二秒。いつまで経っても体を貫こうとする衝撃はこなかった。白々しく時間が過ぎ、やがて段々と体の力も抜けていく。
(ひょっとして……)
 つい先ほども似たような場面があったはず。ある種の予感めいたものを感じ、シンジは期待をこめ、目をゆっくりと開く。明るい色彩に包まれた世界、その先に見たものは――
「よかった。無事だったんだ」
 綾波レイ。彼女がふたたび攻撃を受け止めていた。やはり無造作に使徒の腕を掴み、人間同様の関節を持つ使徒からすれば、ありえない方向へと捻じ曲げてしまっている。
 おそらく折れていた。関節部から紫がかった体液が漏れ出していることからも、折れた骨が筋肉、そして皮膚を傷つけてしまったのだろう。使徒の左腕は、その肩からぶら下がるだけのお飾りの存在へと成り下がってしまっている。
 シンジは少女にねぎらいの声をかけると、立ち上がり、使徒を真上から見下ろした。
 その瞳に、すでに憎悪の色はない。綾波レイが無事であった以上、使徒に敵意を向ける意味などどこにもなかった。むしろ、誤解から激昂してしまったのが恥ずかしくもある。
 が、これは戦闘だ。互いに命を奪い合わねばならない事情があり、それの前では、自身の感情などまるで意味をなさない。求められるのは結果で、殺すか、それとも殺されるか。少なくともシンジには殺される気などなかった。
 彼は使徒を屠るため、最後の意思をこめる。
 対する使徒も、残る右腕を天に伸ばしつつ、生への望みを繋ぐため、一撃に賭ける。
 一瞬早く行動を起こしたのは、使徒のほうだ。反動で右肩を地面にめりこませ、今まで以上の速度でパイルを打ち出した。片端を固定させれば、ベクトルはもう片方へとすべて向けられるのだから、理に適っている。速く、そして強い。
 だが、それを遮るようにしてシンジの言葉が漏れ出でた。
「さよなら」
 欠けていた。その言葉には、人間誰しもが持つなにかというものが、確かに欠けていた。シンジは、レイを髣ふつとさせる無感動な別れの挨拶を使徒へと贈る。
 直後、その言葉を受けたかのように、実像を結んでいる綾波レイは腕を振り下ろした。
 そう、振り下ろしただけだ。挙げた手を、なんでもないように下ろしただけ。それだけであったのだが、その先にある光景はシンジ以外の誰もが――いや、正気でさえあったのならシンジですらも驚愕するほどのものだった。
 なんの兆候もなく、使徒の体が袈裟懸けに二つに切り離される。右肩から、赤い光球の真ん中を通り、最後は左足の付け根まで。綺麗な断面を見せつつ、使徒が両断された。
 音もしない。肉の切り裂かれる湿った音も。使徒の断末魔の叫び声も。まるで、よくできた合成映像を見ているかのような光景が、そこにはあった。
 使徒のパイルは初号機の喉元の装甲をわずかに抉っていたが、やがてそれも力尽き、崩れ去る。
「使徒殲滅、か……」
 感慨深げなシンジの呟き。
 彼の命題は、その身を使徒へと昇華させることだ。そのためには、次々に襲いかかる使徒を打ち倒していかねばならず、まるで使徒らの血肉を自分が喰らっているという印象を抱いてしまったのである。弱肉強食といえば聞こえはいい。しかし、生きるためではなく、己の願望を充足させるために彼らを屠るのだ。それは、この地球上にいる数多の生き物の中で、人間だけしか持ちえないもの。
 醜い。生き物本来の姿からすれば、あまりにも醜悪な人間の心だ。わずかな嫌悪を感じ、シンジはもの言わなくなった死体から目を背けた。
 が、それが決定的な隙となる。
 二つに割れたはずの光球が明滅。
「使徒に高エネルギー反応!」
 即座に発令所のマヤが叫んだ。誰一人として言葉がない発令所で彼女が声を出すことができたのは、その潔癖さから職務を放棄できなかったというわけではない。目の前の理解不能な現実を拒否し、ひたすらデータにだけ意識を注いでいたからこそ、言葉を発することができたのだった。それもある種の潔癖さのなせるわざなのかもしれないが。
 ともかくも、マヤの言葉によって皆が意識を取り戻す。
「なに!? なにが起こるの!? もう使徒は動けないはずでしょ!?」
「まさか……自爆!?」
 リツコの言葉が現実の世界に作用したかのように、一瞬にして発令所のモニターが白一色に塗り潰された。光量を自動調節する機能はあったはずだが、それすら追いつかない。
 そこからは、いかに爆発のエネルギーがすさまじかったのか想像できる。
 エヴァを指揮するこの発令所は、地下深くにあった。ゆえに、モニターを通さないかぎり地上の様子はなにひとつ判らなくあるのだから、その性能は必要以上に上げられている。当然光量に対する調整も、想定以上に上げられていたわけで。
 それなのに、こうも簡単にホワイトアウトするなど、尋常なことではなかった。誰しもがこの後の惨状に悲観的な想像を抱き、身を震わせる。
「初号機は!? 初号機は大丈夫なの!?」
 ミサトが真っ先に心配したのは、それだ。唯一稼動できる初号機が動かないかぎり、使徒を倒すことはできない。復讐を成すことはできない。だからこそ初号機を心配する。
 そして他の者たちも、彼女とそう変わりがあるわけでもなかった。人間、まず一番に気がいってしまうのは己の命だ。ここで初号機が大破してしまえば次の使徒に備えることもできず、結果、使徒の目指す先であるネルフ本部は、サードインパクトを起こされるまでもなく壊滅させられてしまうだろう。すなわち、初号機こそが自分たちの生命線。だからこそ、まず初号機の無事を心配し、次にその付属物であるパイロットの安否を気遣う。生きるか死ぬかの瀬戸際では、人道的問題など二の次でしかなかった。
 だが、それは真実を知らされていない末端の者たちだけで。
「勝ったな」
「ああ」
 発令所の中でも一番高いところに位置する場所。座するゲンドウに、その補佐である冬月がモニターに視線を送ったまま声をかける。
 彼らは真実を知っていた。あの程度の爆発でエヴァが――否、初号機がどうにかなるものでもないと。危機的状況が訪れれば、初号機の中に潜む者が舞台に踊り出てくれると。
 それは彼らの中だけの幻想なのかもしれない。初号機こそに執着している彼らの過信なのかもしれなかった。しかしそれでも他の何より特別な存在である初号機の魂は、神聖不可侵でなければならず、他人の手によって滅されることなど『絶対』にありはしないのだ。
 ただ――
「ただ……、アレは俺たちのシナリオにはないことだぞ? 碇……」
 冬月のいうアレとは、ATフィールドで作られた綾波レイのこと。暴走なくして使徒を倒してしまったこと。シンジの、どこか歪んでしまっていた心のこと。
 言葉に出さずとも、互いにそれについては承知している。
「なに。外れたのなら修正してやればいい。いや、むしろシナリオに沿わせる手間すら省けたか。どちらにせよ、我々の計画は狂わんよ」
 意味深にゲンドウが言葉を吐き出すも、その深さゆえ、冬月には理解することができなかった。だが、ゲンドウがこういった発言をするときは、必ずなにか裏があるのだと知っている。確信を持っているのだと知っている。今までどおり、今回のイレギュラーもきっと己の利するものへと変えてしまうのだろう。
「映像、出ます」
 三たび、マヤから状況の報告が入る。それにより、策謀の渦に身を潜らせていたネルフのトップたちも、再度モニターへと意識を巡らせた。
 徐々に光度を落としていく画像、次第にその先に映る人影の輪郭がはっきりとしてくる。
「……なぁ、本当に大丈夫なんだろうな?」
 モニターが正常な状態に戻ってから幾十秒。どうしても聞かずにはいられなかった。冬月は、ゲンドウを信頼しながらも、今一度確認せずにはいられなかった。
 画面には、予想通り無傷の初号機の姿がはっきりと映っている。しかし、映っているのはそれだけではなかったのだ。
 綾波レイ。
 燃え上がる炎、それにより揺らいでいる空気を背景に、綾波レイが初号機の周りで躍るように宙を舞っている。光の加減によって淡い緑に染まって見える髪をはためかせ、同じく同色に染まったスカートの裾をはためかせ。街を埋め尽くす朱色の焔をスポットライトとし、熱気によって対流する大気が奏でる悲鳴をバックコーラスとし、オレンジの軌跡を残しながら、初号機と戯れるようにして空に揺られていた。
 彼女の顔には、ゲンドウ以外――いや、ゲンドウですらも知らないかすかな微笑み。明らかにシンジへとそれを贈り、劫火の赤の中での円舞へといざなっている。それを周りで見る者たちにも、夢幻の世界へといざなっている。
 対比する、生の躍動と死の胎動。血色に染まった舞踏会。
「……ああ」
 見惚れていた、というわけでもないのだが。思い出したかのようにゲンドウが口を開いた。それは冬月に対する彼の答えであったのだが、心の裡を表すかのように、今までの中でひときわ間の開いた返事でもあり。
 そして発令所の下段。そこでも、ゲンドウたちと似たようなやり取りがなされていた。
 ミサトはモニターへと視線を釘付けられたまま、震えた声で旧知の友人に確認する。
「ね、ねぇ、リツコ。あれが……アレがエヴァなの?」
 エヴァを開発したリツコなら知っているかもしれない。いや、知らなくとも、冷静に状況を分析してくれるかもしれない。自身に燻る不安を取り除いてくれるかもしれない。
 だがその問いに応えはなかった。あえて言うならば、喉を鳴らす音だけ。
 リツコもまた、得体の知れないものへの恐怖を胸に抱いていたのだから。


―― 了 ――

注)この小説とおまけ小説は、禁則処理ありの十六行×四十文字によって最適化されます。
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