錯想逢夜

―さくそうおうや―




「あなたは……いつも微笑んでいるだけで、私に話しかけてくれないんですね」
 そう問いかける。決して答えが返ってくることはないと知りながら。
「ええ。あなたは、私に話しかけてくれることがないんです」
 目の前の椅子に座る少女は、やはり申し訳なさそうに微笑んでいるだけだった。気遣ってくれていることは判っているのだが、それが余計にこちらの顔を悲しみに歪めてしまう要因となり、彼女をつい責めてしまう要因ともなっている。
 実を言えば、彼女が口を開かない理由なら最初から知っていた。生前、こちらの話に相槌を打つだけで、自分からはあまり話しかけてくれることがなかったから。
 いや、言葉を奪ってしまったのは、自分自身にこそ原因があるのだろう。いつも楽しそうに話を聞いてくれるおかげで、ついつい得意になって話し込んでしまっていた。相対的に彼女は喋る機会を失ってしまい、己の心の中にその声を残すことがなかったのである。証拠に、一番印象に残っている彼女の微笑みだけは、今も鮮明に思い出すことができるのだから。こうして目の前に幻として投影させることができるのだから。
 悲しみに伏せていた顔を上げ、彼女を見つめる。あるのは、バツの悪そうな――微笑み。
「いえ。あなたはなにも悪くない。なにも悪くないんですよ」
 せっかくの月の満ちた数日に行われるお茶会、暗い気分のまま過ごしたくはなかった。だからこそ、そう言って微笑んで見せる。しかし、悪いのはむしろ自分であると認識している以上、自虐に歪んだ顔が表に現れてしまったのだろう。彼女は心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「気にしないでください。それよりも先週の話なんですが――」
 気丈に。いつものように取りとめのない話題を振ってみせる。そうすれば、彼女はふたたび楽しそうな顔を浮かべてくれると判っているから。
 案の定、彼女は口元に手を当て、穏やかに笑ってくれた。とうに見慣れた、しかし決して飽きることのない笑み。自分にとっては、一番のかけがえのないものだ。
 気持ちに余裕ができ、話をしながらも、ふと窓を見やる。
 丸い月が顔を覗かせていた。
 実はこの部屋、明かりがなにも点けられていない。月明かりだけでのお茶会だった。
 亡くなったはずの彼女が姿を現すには、様々な条件が付きまとう。その条件とは、月の満ちる数日の夜であり、月明かりだけに照らされた、自分しかいない部屋の中なのである。
 満月とは、昔から神秘の象徴とされてきた。もちろんそれは、過去の人間たちの妄想からきているものなのだろう。しかし、妄想の根拠となるものは、今を生きる人間たちにとっても理解できるのではないだろうか。淡い光で包まれた世界、その時間、その空間がなにか特別なもののように思え、同じく、特別ななにかを期待してしまう。
 月が満ちている数日の月明かりでのお茶会は、まさしく己にとっての特別なものだった。なにが起こっても不思議ではない。例えば、本来この世からいなくなってしまったはずの人間を、そこに見出すことであっても。
 
「――なんだか、ずいぶん喋りすぎてしまいましたね?」
 話し込んでいても、やがて話題は尽きていく。己は、口数の多いほうではないどころか、彼女以外の前ではほとんど自分から話を振ることがなかった。挙句、彼女はただ聞いているだけだからこそ、ものの十数分程度で語るべき言葉がなくなってしまう。
 場をつなぐために、あらかじめ淹れておいた紅茶へと口をつけてみる。当然ながら、それは冷めてしまっていた。そして味のほうはというと――実はよく判っていない。
 そういった病気らしいのだ。彼女が自分の瞳の中だけに像をとることを引き換えとして、味覚というものを奪っていってしまった。以前はあれほど好きな紅茶だったのだが。
 しかし、さほど未練を感じていないのもまた、事実ではあった。彼女と時間を共有することは、他のなによりも大切なこと。なにかを贄として差し出せと言われたのなら、喜んで差し出してしまうことだろう。いや、こうして現に差し出してもいるわけだが。
 ふたたび窓のほうへと目をやる。すると、いつの間にやら別れの時間がやってきていた。彼女が姿をとることができるのは、丸い月の出ている夜の間だけ。窓から差し込む月の光が、雲によって遮られて弱くなってしまった今では、そう長くは像をとれそうにない。
 名残惜しげな目を少女へと向けると、彼女も同様にして顔を曇らせていた。だが、それが今生の別れとなるわけではない。だからこそ、互いに無理をして笑ってみせる。
「では、また来月に」
 言い、目を優しくも閉じていく。
 それは、いつも行っている儀式のようなものだ。幻の中に生きる自分と、現実の中に生きる自分。その境界が、今こうして目を閉じている数秒間なのである。
 もう一度瞼を開けば、そこにいた少女はおそらく姿を消していることだろう。残っているのは、少しも中身を減らしていないティーカップだけ。気配の一つとして場に残さない。
 次に会うのは、再度月の満ちる一ヵ月後だった。そのためにこそ、己は現実へと舞い戻る必要がある。過去の幻を追うためにこそ、現実というものが存在しているのである。
 主観における、現実と錯覚の線引きとは。また、それを行うことの意味とは。
 自らへとその命題を問いかけ続ける。判りきっている答え、だがしかし曖昧にもしておきたい答え。
「でも……、いったいいつまで続ければ、私はあなたと同じ世界に行けるのでしょうか」
 ゆっくりと。しばしの幻との決別に、沸き上がる不安を押し殺しながらも、己はゆっくりと瞼を上げていった。