久留米市の市街地東部からほぼ東に続く山地耳納山脈に、兜山(316m,通称けしけし山)がある。 この山の筑後平野を見渡すところに、兜山山頂の歌碑久留米出身で明治浪漫主義を代表する画家、青木繁を記念する歌碑があり、 毎年青木の命日である3月25日に近い日曜日には、ゆかりの人たちが集まって「けしけし祭」が催される。

 今年(2012年)は3月18日、 あいにくの雨天にもかかわらず300人の関係者が集い行なわれた。地元の方が用意してくださった歌碑を覆うテントの中で、青木を偲び、 青木の好きだったかっぽ酒を歌碑にかけて、最後には地元の山本小学校児童が、担当の先生のバイオリンの伴奏で『母います国』を歌った。
 この「けしけし祭」が始まって今年は60年、そして「母います国」が歌われ始めて59年になる。
けしけし祭りの飾られた碑
「けしけし祭」の日 飾られた歌碑


 長い間山本小学校の児童によって歌われ 続けるこの曲と「けしけし祭」について、お話ししましょう。


 明治洋画壇の鬼才・青木繁は明治15(1882)年久留米市に生まれる。中学明善校(現・福岡県立明善高校)時代は、後に文化勲章を受ける坂本繁二郎と同級生。けしけし山でのスケッチを好んだという。画家を志し、中学明善校を中退し上京するが、明治44(1911)年3月25日28歳8ヶ月の若さで世を去る。この間わずか5年であるが、「海の幸」、「わだつみのいろこの宮」など日本近代洋画史上に大きな足跡を残す作品を描いている。青木繁

 青木が没する4ヶ月ほど前に、病床から姉妹に当てた遺書と思われる書簡に「・・・小生は死に逝く身故、跡の事は知らず候故よろしく頼み上げ候。火葬料位は必ず枕の下に入れて置き候に付、夫にて当地にて焼残りたる骨灰は序での節、高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静に永遠の平安なる眠りに就く可く候・・・」としたためられていたという。

 死後37年を経た昭和23年に、坂本繁二郎や地元の人々の協力もあって、青木の望郷の歌「わが国は 筑紫の国や白日別け 母います国 櫨多き国」の一首が、坂本繁二郎の筆で、「ひらがな」で自然石に刻まれ歌碑として建設された。                               
碑に書かれた坂本繁二郎のかな文字
坂本繁二郎の筆により碑に
掘られたのかな文字

「わがくには つくしのくにや しらひわけ ははいますくに はじおほきくに」

 白日別け(しらひわけ)は古事記の文中では「筑紫(つくし)」と同じ意味でどちらも今日の筑前・筑後地方のこと。
 櫨は「はじ」と読む。はじとは櫨の木の古語。古事記や万葉集などに登場。当地方では木蝋をとるために幕末の頃から栽培が盛んで、かつての筑後平野の晩秋から初冬にかけての紅葉は、さながら櫨の国の景観だった。
 また、この短歌中の「はじおおきくに」の「はじ」は櫨と恥をかけたことばであるという説もある。

 青木繁の霊を慰める「けしけし祭」が始められたのは、昭和29年(1944)3月25日。兜山山頂で行なわれ、丸山豊氏が「あの高貴な魂を呼び返せ」の献詩を自ら朗読した。(市政くるめ 昭和29年4月1日)

 2回目の祭が予定された昭和30年(1955)。その年の3月25日に青木繁の実子で尺八奏者・作曲家の福田蘭童(東京在住)が作曲した『母います国』の曲譜が久留米市役所に送り届けられた。
「母います国」楽譜
子供たちが練習の時に使っている楽譜。原譜の所在は不明。


「今年のけしけし祭にも行けないのでせめてもの気持に」と、父を慕いながら繁の短歌「わが国は 筑紫の国や 白日別け 母います国 櫨多き国」に作曲したものだった。(昭和30年3月26日・西日本新聞)
その年の「けしけし祭」は3月27日午前11時から三井郡山本村柳坂公民館(現久留米市山本町)で行なわれた。兜山山頂の歌碑前で挙行の予定が雨のため柳坂公民館に変更されたもの。
『母います国』は山本小学校の児童60名が合唱、参集者から拍手が送られた。  (市政くるめ 昭和30年4月1日)
これが『母います国』の初演であった。

 余談であるが
「市政くるめ」(昭和30年4月1日号)によると、「けしけし祭」の地元、山本小学校の児童が歌っている楽譜は、前々日の3月25日に久留米市役所に届いたとある。27日には「けしけし祭」の会場(山本村・柳坂公民館)で歌われているので、練習に要した時間はどれほどだったのか。それに、楽譜を見ると、音域の広さには驚く。尺八奏者の福田蘭童の作曲だからか、歌うには大人でも難しい。すごい事をやってのけた子供たちは賞賛に値する。(Y)

福田蘭童 年に一回この「けしけし祭」の日だけに歌われる『母います国』。

 作曲した福田蘭童(1905〜1976)は、青木と画友福田たねとの間に生まれた。誕生した男児は《海の幸》にちなんで幸彦と名づけられ、成人した幸彦は、『笛吹童子』で有名な尺八奏者・福田蘭童として活躍。
(因みに、蘭童の子・石橋エータローは、クレージーキャッツの一員として一世風靡した後、料理研究家として活躍)

 福田蘭童がNHKラジオ放送「笛吹童子」「紅孔雀」の音楽担当で活躍していた頃、團伊玖磨もNHK専属作曲家としての仕事をしていた。 (次に團伊玖磨と『母います国』の関係をご覧下さい)