4年112日 @朝 ぬるりと滑る泡の中、布越しに凸凹した板の感触を掌に感じる。 しっかりと掴んだ布を板に押し付けて上下させると、ごっしごっしと湿った音をさせてますます泡が立つ。 ある程度、揉んで泡立てたところで、若い騎士は一旦腕を休めて息を吐いた。 ポールラン・フィーは洗濯の真っ最中である。 空はからりと晴天。これなら洗い物もよく乾くだろう。 誰へと向ける訳でもなく満足の笑みを浮かべる。 「あァっ」 不意の隣からの大声で、彼は声の主の方を向いた。 横で、ひっくり返した桶に腰掛けた剣闘士が、泡立ったタライから洗い物を引き上げる。 触って確認するまでもなく、穴があいている。 「あぁあ」 騎士は苦笑した。 「怒られるよ、それ」 「誰のだァ、コレ」 「フェル先輩のシャツ」 「げェっ」 ガルゴスが手を引っ込め、穴の開いたシャツがべちゃりと落ちた。 笑いを堪えるのが難しいほど、情けない顔をして。 「謝るときに口添えしてあげるよ。穴の方は縫っておく。先輩、今日は帰れないかもって云ってたから」 再び泡まみれになった布を腕を伸ばして拾い上げ、ポールランは云う。 若い剣闘士が申し訳無さそうに、眉を八の字にした。 「すまねェ」 「いいよ。縫い物は慣れてるし」 「じゃなくって、謝る方」 もぞもぞとした発言に、穴の様子を確かめていた騎士は顔を上げて首を振る。 「謝るのは君。僕は口添えするだけ」 「う」 「まあ、これくらいならきれいに直せるから、次から加減して洗えば良いよ。肩の力、抜いて、手首のところもこう、ゆるい感じで」 「うう」 ガルゴスは唸ってうなだれ、残りの洗濯物を横目で見た。 テンションの急降下した剣闘士に、騎士は再び苦笑し。 「薄手の服は僕が洗うから、ガルゴスは厚手のを頼みます。そっちの方が破れにくいから」 「……」 「ほら、早く洗わないと日が落ちちゃう」 気を取り直して明るく云い、ポールランは洗濯板を腹に固定し直した。 ごっしごっしと洗濯の続きを始める音に、剣闘士も洗濯物の山から丈夫そうな生地の服を選んで引っ張り出す。 「先輩、許してくれッかなァ」 先程の失敗を踏まえて、恐る恐る布を揉みながらぼやく。 「どうだろう。でも、服が破れるのはよくあることだし」 「ならあんまし怒られねェかなァ」 「いや怒られるとは思うよ。うっかりとか不注意とか、フェル先輩は厳しいもん」 「うう。なるべく遅ォく帰って来ねェかなァ」 「先送りにしても変わらないってば。諦めなさい」 きっぱりと云われ、ガルゴスが長々と溜息を吐く。この世の終わりのような顔だ。 ポールランは苦笑しながら洗い物を続けた。 洗濯の音に混じり、鳥のさえずりが聞こえる。今は初夏。草木も鳥も虫たちも、喧しく生気に満ちている。 本当に良い気候だ。 (フェル先輩と、団長が、今夜帰らないのか) では今夜の夕食は十人分、と献立を考えかけて、はっとする。 (今日の当番は僕じゃなかったんだっけ) 酒場での下働き時代の癖だ。 入団して随分経つのに、未だに抜けていない。それだけ身に染み付いているということなのだろうが。 (今年でもう……五年か) 当時、成人したてだった自分は職を探して王都に来た。騎士団に入る予定どころかその存在すら知らなかったのだが、なんだかんだあって結果、ここにいることになった。 騎士、という職を知って選んだのもその時だ。 それから。 (……) 胸を過る面影に、硬く冷たいものが肚の中に落ちる。 思い出の中、永久に美しい人。 永久に、片想いの人。 騎士になることを選んだのは、彼女を守るためだった。 姿も声も、今も鮮やかに思い出せる。目を閉じるまでもない。 忘れることなど出来ない、消し去ることなど出来ない。もし他の誰かに恋をして、結婚して、子供が出来て、その子供が結婚して孫が出来てもきっと。 きっと死ぬまで片想いのまま。 「……先輩、手ェ止まってるッスよ」 ガルゴスの言葉で、ポールランは我に返った。 手元を見ると、濡れた腕からは泡がほとんど滑り落ちている。 「ぼけっとしてッと、日ィが暮れちまうぞォ」 若い剣闘士がにやにや笑いながら云った。 「そうだね」 ポールランは苦笑を返し、洗濯の泡に両手を突っ込む。 (駄目だなあ) 彼女を失ったのは三年前。 治まりかけていた痛みは去年からの一連の事件でぶり返し、ふとした瞬間にこうやって表出する。 (もう平気になった筈なのに) 泡だらけの服を揉む手に力がこもる。 後悔はし尽くし、時間も経った。前を向いて立ち直るとクルガに宣言した。騎士の栄誉である盾に懸けて、だ。 (それなのに) ガルゴスに気付かれないよう、小さく小さく溜息を吐く。 こんなことではいけない。 隣で服を破らないよう慎重に衣服を泡立てている若い剣闘士も、先日の戦いで師匠を喪っている。 似たような立場だが、自分の方が年上で先輩なのだ。 先輩というものは後輩の手本となり、道を示して良い方へ導くものだと、故郷で世話になっていた酒場の主人も云っていた。 だから、しっかりしていなければ。 思い出を振り払って目の前の洗濯物に集中する。 薄手の生地は強引にごりごり擦れば破れてしまう。注意して洗わないといけない相手だ。ただでさえ長旅で生地が傷んでいるのだから。 ほつれたり破れたりしたものは、干した後に縫ったり継ぎをあてる。なるべく目立たないよう継ぎをあててはいるが、やはり何度も直していると形が不格好になってしまう。だからといってほいほい新しいものを購入できないのが貧乏騎士団のつらいところだ。 なので、洗濯時の不注意なんぞで破いたりしないようにせねばならない。 柔らかく握った誰かのシャツを、板の凹凸に押し付けるようにして揉む。力を入れすぎないよう、肩の力は抜き気味にして。 (……後輩、か) ふと、昨夜の宴のことを思い出す。 引っ掛かっているのは、自分の気持ちが分からないと云っていたヴァルキリー。 片思いをしているらしい彼女は、昔の自分に似ている。 本人は否定していたが。 彼女は間違いなく、恋をしている。 (早く気付くと良い) 自分のように、手遅れにならないうちに。 勿論、彼女の相手であるだろう歴戦のアーチャーが、簡単に倒れるとは思わない。それに自分は騎士で、もう誰も、自分のような境遇にはさせるまいと誓った。 だがそれでも、それでも、戦の上での死はどこから飛び込んで来て誰に当たるか分からない。 その確率は新入りも手練も構いなく平等だ。 (そうだ) 泡まみれのシャツを引き上げてピンと張る。午前の陽が布を透かす。 (知るなら早い方が良い) といっても、何が出来る訳でもない。まだまだ未熟な若輩者だという点では、自分も彼女もそれほど違いがあるとも思えない。 ただ少し、重ねた経験だけが多いのだ。 そしてその僅かな経験の差で、相談に乗れる筈だ。 失ってから気付くなんて、誰もそんな羽目に陥らせたくない。見たくもない。 だから。 (できること。……何が出来るだろう) 桶の水をかけてすすいだシャツを絞る。ぱたぱたと雫が落ちる。 名案は浮かんで来ない。 まだ考える余地がありそうだ。 @白昼 ぼんやりした意識を、ノックの音が醒ました。 「どうぞ」 うつぶせのまま首だけを廻らせて云うと、扉が小さく軋みながら開く。 そして戸口に立った少女の姿を見、ヘルンは自分の顔めがけて血が上がって来るのを皮膚で感じた。 「あ」 「昼食、フェルは出掛けてるから」 ランタンの灯が彼女の顔を照らす。 ほどいた髪は耳の近くで一部結われ、淡い紫に光を弾く。黒に近い色のローブは逆に光を吸収している。 ぶかぶかで厚手の生地が体のラインを隠しているが、それでも肩の細さが見て取れた。むしろ服のサイズの緩さのために、袖や襟から出た首や腕の細さが際立つ。 照明の色に左右されない緑の目が、躊躇うように床の石畳をなぞっていた。 そこまで見て、ヘルンは枕に突っ伏す。 全身の血が頭に回ってるんじゃないかと思うくらい、火照っている。 (こ、これは) 何故よりによってこんな時によりによって彼女が。 軽い足音がまっすぐ、ゆっくりと寝台の傍らにやって来る。 心臓が早鐘を打つ。 (こんな) ぎゅうっと瞼を閉じる。 (こんな無様な格好を) 腰を痛めて寝台から降りられず、身動き一つ取れない安静状態。 これが戦闘においての負傷ならばまだしも、宴の席での不祥事だというのだから、不名誉極まりない。 それで呆れられる程度ならまだ良かった。 同じ団にいる以上、恥ずかしいことではあるが、耳に入るのは仕方が無い。けれどこんな格好でいるのを直接目にされてしまうのは、それを上回る屈辱だ。 逃げも隠れも出来ない。 このまま全身の血が沸騰して死んでしまいたいと切に思う。 足音が、薄い枕を両腕で潰しながらうつぶせた顔の横で、止まった。 動けない。 目を閉じられない。視線を少しずらせば、傍らに立つ彼女が見える筈だ。 けれど、かたまったまま、動けない。 枕元の小さな机に、ことりと食器が置かれる。 触れてもいないのに傍らの彼女の体温を感じる。ひどい錯覚だ。 (今すぐ煙になって消えたい) 心底願う。 が、なれる筈も無く、息詰まる沈黙が重くのしかかり。 「具合、悪いの?」 しばしして問われた声は小さいが、ヘルンの耳には嵐にたわむ木々の轟音に等しかった。 「それほどでは、ありません」 枕に突っ伏したまま、裏返らないようにそろそろと言葉を返す。 彼女はどんな顔でこんな自分を見ているのだろう。 もし、顔を上げて、その目に僅かでも軽蔑や哀れみの色を見てしまったなら、きっと立ち直れない。 「ご飯、青菜のスープとパンだけど、食べられる?」 献立を説明する声。 高くもなく低くもなく、赤椿の花弁の表面のような滑らかで艶やかな声。 「大丈夫です。頭と腕は動かせますから」 返す自身の声のなんと上擦っていることか。 「それなら良いけれど」 こんな状態で、こんな格好でなければ、至福のときである筈なのに。 「湿布は替えなくても大丈夫?」 があんと頭を殴られたような衝撃。 大声で叫びたくなるのを枕を噛んで堪える。 (それは、それは、それは) 体に触れられるのは嫌ではない。看病されるのだって悪くはない。何より彼女が自分のために側にいて何かしてくれるなんて、そんなの嬉しくない訳がない。 だがそれはしかし、こんな状態でなければの話なのだ。 「ええ」 昂った気持ちを必死に抑え込み、どうにか返事を絞り出した。 「まだ、平気です、アズリット」 「……そう」 衣擦れの音。踵を返す気配。 皮膚で感じていた幻覚の体温が、足音とともに遠ざかる。 (行ってしまう) 押し潰されそうな気分で、ヘルンは首を捻って戸口に向けた。 同時に、アズリットが戸に手をかけて振り向いた。 空間が凍結する。 視線が絡み、お互いに動作の途中のまま静止する。 ランタンの炎だけが揺らめき、時間の経過を告げている。 それは恐らく十秒にも満たない僅かな膠着状態だったのだろう。 しかしヘルンには、永劫とも思える至福であり、拷問の時間であった。 自分たちは今、二人きりで、邪魔者はおらず、彼女の目はしっかりと、自分だけを捉えている。 けれども自分は、腰を痛めて湿布を貼られ、寝台に俯せて枕を抱えた格好だ。 無様だ。滑稽だ。道化もいいところだ。 凍り付いた視界の中で、魔女がついと目を逸らす。 身動き一つままならない騎士を置いて、扉が軋みながら開き、彼の想い人を呑み込んだ。 言葉はなかった。 ヘルンは、ぼたりと、枕の上に頭を落とした。 先程までの緊張が嘘のように、手から足から力が抜ける。 枕元のスープから良い匂いが漂って来るが、嗅覚はそれを感じない。 体の中で熱が渦を巻く。 (折角……) 彼女はすぐ近く、枕元にいて、手を伸ばせば届く距離だった。 腰を痛めていても、肩や首は比較的自由に動かせる。 手を伸ばして彼女を捕まえて、引き止めることも出来た。 引き止めて、何か話して、もう一度告白だって、そう、引き寄せてキスをすることも、それから。 (!) 思考を止める。 (何を考えているんだ!) 声には出さず己を叱咤する。 (……馬鹿なことを) そんなことをしたら、結果は分かり切っている。 嫌われる。 それはもう、完膚無く。 「騎士たるもの、礼節を重んじ、名に恥じぬ行いをすべきだ」 いつか聞いた騎士の訓示の一節を口にする。 どれほど恋慕の情が募ろうとも、彼女の意志に反するような、そんなことをしてはならない。 浮き上がっていた気持ちがだんだんと落ち着いていく。 けれど体の奥に沈んだ熱は、止まることを知らずに泡立つ。 ヘルンは、ままならない感情に歯噛みしながら枕に顔を埋めた。 (駄目だ) 対象を確定しないまま、自分の奥深くに命じる。 (駄目だ) 枕を鷲掴む指が震える。 情けなさに、涙が出そうだった。 @昼下がり 駆ける。 顔に手足に空気の塊が分厚くぶつかる。 靴との接地面と道の石畳の間で硬い音が鳴る。 輪郭を無くした街並が両脇を川のように通り過ぎる。 飛ぶように。 ただ速く。 走るときはそれだけが頭にある、筈だった。 今は、駆ける足音と呼吸のリズムに雑音が混じっている。 走りを止めたり妨げたりする程のものではない。意識しなければ聞き流せるくらいの小さなものだ。 けれどずっと離れない。治まらない。 原因は分かり切っている。つい先だっての戦いの所為だ。 マルメットは走りながら唇を噛む。 もう、ちゃんと立ち直った。強がりでも逃避でもない。そもそも、いつまでもぐずぐずしているような性格ではない。 (そうだわさっ) たんっ、と石畳が鳴る。 (あたしは) 自分は、明るく楽しく迷いなく、太陽の下で突っ走って生きるのだ。 この雑音は彼を忘れていない証だから、忘れない。 その上でするべきことはただ一つ。前進だ。 先輩であり師であるフェルフェッタほど経験も知識もない。同期のアズリットほど頭の回転は早くない。男性陣のように腕っ節が強い訳でもなく、武器の扱いに長けている訳でもない。 自分にあるのは、フェルフェッタ曰く、伝承にある俊足の『月睨み』に匹敵すると云われたこの速さと、師の師に洪水の如しと評された魔力。 それだけあれば充分だ。 ノイズごときで揺らぐほど、自分の魔法はやわくない。 人通りの少ない道を駆けながら、頭に浮かんだ言葉を詠う。 詠い始めてから、それが頭に叩き込まれた呪文の一節だと気付いた。 「……」 しかし、止めない。冒険者の歌と似て非なる言葉と韻を唇に乗せ続ける。 呪文は最後まで唱え切らなければその効果を発現しない。 そして唱え切っても、必要な魔力をしっかりと流し込まなければ魔法は発動しない。それだけではなく、現われる筈のものと違う効果が現われたり、場合によっては暴発したりもする、らしい。 魔法使いたちが使う魔法は律を捻る力であり、容易く扱えては世界の法が崩れる、のだそうだ。 だからこの魔法を開発した人は発動に制限を加えた。 とかいう説明を以前にされたような気がしたがマルメットはそんな頭をぐるぐる動かさねばならないようなことには興味が無い。 難しいことは嫌いだ。 今はこの力を行使出来れば良い。 ありったけの魔法を使って、皆の役に立てれば充分。 口ずさむ呪文が終節に差し掛かった。 その先に続く言葉も、流れのままに思い浮かぶ。 しかし、マルメットはそこでぴたりと口をつぐむ。 体の中を奔流のように廻っていた魔力が、急速に緩んだ。同時に走る速度を落とし、やがて立ち止まる。 止まったのは、本部に程近い坂道だった。 左手に森、右手に手摺と、その隙間から見下ろせる広大な街並がある。 屋根の上を吹いて来た風が、うっすらとかいた汗をさらっていった。 太陽は高い。夕飯の準備などは、まだまだだろう。 深呼吸をして街並を眺めながら歩き出す。 魔力の流れは既に治まっていた。 人通りはない。この辺りは元から人通りが少ないが、ここまでぱったりと途絶えているのは三回に一度くらいだ。 未だ陽は高いというのに、鳥の声以外は静かなものである。 その声がふと止む。 立ち止まった視線の先の森から、がさがさと下生えを掻き分ける音が聞こえる。 間もなく背の高い姿が二つ、木々の間から現われた。 「リコルド先輩、とヴァーサ」 呟いて、マルメットは目をぱちぱちさせる。 随分と意外な組み合わせだ。 いや、この二人は師弟な訳だから意外というのもおかしいのだが、この弓使いたちのお互いに対するぎこちなさはあからさまだ。野次馬筆頭である自分は勿論、人間関係に目端の利かない団長ですら勘付いているくらいだ。 「やぁ」 草むらから石畳に降り立って、年長の方の弓使いがへろりと笑う。 若い方の弓使いはその斜め後ろから、普段見たことのない大人しさでぺこりと一つ礼をした。 「……山菜でも採ってたんだわさ?」 マルメットが訊ねるとリコルドはへろへろ笑いながら、これ、と両手に持った山菜のかたまりを見せる。 「マツバウド?」 「ん、群生地めっけたから。夕飯に使ってもらおっかなって」 「へえ。今夜のメニューは何なんだわさ?」 云いながら季節の山菜を使った料理を幾つか思い浮かべ、先程から俯いたままのヴァルキリーの顔を覗き込む。 「……茹でてサラダにするか、煮るか、しようかと。献立はキャナル先輩の方が詳しいので」 ぼそぼそと、干涸びたパンのような話し方をする。 「あそっか、今日の当番はキャナルもだっけ。楽しみだわさ」 「だね。ご飯当番がキャナルとポールの日はハズレがなくって」 リコルドが笑う。 マルメットも笑みながらそうそうと頷く。 立ち止まっているのもなんだからと、てくてくと三人で歩き出した。足の長さの違いで必然的に、弓使い二人がやや歩調を緩め、魔女が少し早足になる。 「レシピいっぱいメモって皆に広めて欲しいわさ」 「教本が同じでも、誰もが同じように作れる訳じゃないよ」 「ないよりマシになるわさ。団長とか、ヘルン先輩とか、あとアズも」 「今でも食べられるものは作ってるじゃない」 「食べれても美味しくなかったらモチベーション下がるばっかりだわさ」 「そりゃあそうだけど」 困ったような笑み。 よく笑う人だと、マルメットはいつも思う。 「ヴァーサもそう思わない? マズいメシは意欲減退のモトだわさ」 リコルドを挟んだ反対側のヴァルキリーに話題を振ると、黙って俯いていた少女はぎょっと肩を竦めて、そうですね、と小さく云った。 その頬が、ほんの少しだけ紅潮しているような気がする。 (……これは……いや、今はリコ先輩いるし) ここで追求するのはやめておいた方が良いだろう。 (あとでフェルに話してみよっと) フェルフェッタは、ヴァーサはリコルドに反目している、という解釈をしていたが、この状況は彼女の論を覆すかもしれない。 少女はそれっきり黙ったままである。 マルメットはそのままリコルドと話を続けた。 ヴァーサは変わらず口を閉じたままだったが、それがなるべく不自然にならないよう、二人でぽんぽんと言葉を交わす。 そうやって話しながら、野次馬仲間のクルガにも話そうかと考える。 今のところ恋愛とは程遠い立ち位置にいるマルメットにとっては、人の色恋沙汰はちょいとスパイスの利いたハプニングに過ぎない。 (これはイロイロ野次馬し甲斐がありそうだもんさ) わくわくと踊る心の奥で、ノイズがちりりと意識に触れた。 (嬢ちゃん、また見物に行くんかい) 云われたのは随分前、ポールランの一人目のエクレスへの告白を、クルガと共にけしかけてデバガメしようとしていた頃だったと思う。 「あんま、そういうことは良くないぞ。恋路ってやつは、周りが遊びでいじくっちゃなんねえもんだ」 柔らかな日差し。空気も石畳もあたたかく、新緑が眩しい。 マルメットは、自分は手助けをしてやってるんだから結果を見せてもらうのは当然、と反論した。 彼は、困ったように頭を掻いて云った。 「嬢ちゃんも、恋したら、分かると思うんだがなあ」 ほんの少し足を緩め、若い魔女はすぐに元の歩調に戻る。 彼は恋をしたことがあったのだろうか。 そういう話は聞いたことない。 「マリー?」 リコルドが疑問符を加えて名前を呼んだ。顔を見ると不審げに眉をひそめている。 回想に浸っているうちに、齟齬のある問答をしてしまったようだ。 「あ、ごめん。ちょっと考え事してたわさ」 頭を振って慌てて返す。考え事なんて、アズリットが聞いたら皮肉満々で揶揄してくるに違いない。 年長の弓使いは、そう、と僅かに目を細めて話しの続きに戻った。 マルメットは気を取り直して頭を振り上げる。 遠い前方に、騎士団本部の門構えが見え始めて来ていた。 @夕 小カブの皮を剥く手を休めずに、キャナルは顔を上げた。 厨房の煙出し窓から見上げる空は黄味がかった薄い青色をしている。日が傾いて来た時刻の空の色だ。 騎士団本部は静かであった。今夜の夕食当番である彼女ともう一人を除いて団員たちは皆出払っているらしく、普段では考えられないほどの静けさだ。お陰で窓の外の木々のざわめきや鳥の声がよく耳に届く。 (まだお戻りにならないのかしら) 小カブを切る手元に目を戻してそっと思う。 キャナルとそう歳の違わない団長が、大先輩の魔女とともに彼女の実家へ向かったのは朝のことだ。本部からは随分と遠いところにあるらしく、帰りは遅くなると云っていた。 ごく小さく溜息を吐く。 太陽が高く昇りこうして傾いてくるまでの間、キャナルは妙に不安だった。 変化の予感がする。 それが悪いことなのか良いことなのか分からないけれど。 (……どうか早く帰って来て下さい) またもどかしく溜息を吐こうとして、別の溜息にそれを遮られる。 肩越しに見ると、もう一人の食事当番である若いヴァルキリーが背中を向けている。こころなしか、いつもよりその背中に覇気が無いように思えた。 「どうかなさったんですか」 皮を向いた小カブを櫛形に切りながら訊ねる。 マツバウドを刻むヴァーサの手が止まった。キャナルはその背にちらちらと視線を投げる。 確か、昼食のときは普段と変わりなかったと思う。それからしばらく姿を見ておらず、夕食の準備を始める少し前に彼女の師である弓使いの青年、それから走り込みに行っていた若い魔女と共に帰って来た。行き先は裏手の森だったとかで、夕食の材料となっているマツバウドは、本部への道すがら弓使い師匠の方が採取してきたものだ。 そういえば、その時点で既に彼女は妙にしおらしかった気がする。 「……私……」 囁くような声が、弓使いの少女の背中から聞こえた。 「……」 しばらく手を動かしながら待っていたが、その言葉の続きは出て来ない。 かまどの火だけが呟くように爆ぜている。 切った小カブの面取りをして、その火にかけてあった鍋に放り込む。それから屑を小皿にまとめてヴァーサの横に置く。 横目で見上げると若いヴァルキリーは苦い顔で口を真一文字に結んでいた。 「何かお悩みがあるのでしたら、私で宜しければ相談に乗りますけれど」 首を傾げて訊ねる。 ヴァーサはちらっとこちらを見、またまな板に目を落とした。 頬を膨らませ、眉間にきつく皺を寄せて唇を尖らせて。 拗ねた子供のような表情。 「わからない」 「わからない?」 「わからないというか、……やっぱりわからないです」 ますます顔が不機嫌になる。 背後が鍋がくつくつと鳴っている。 「何がですか?」 「……自分のこと、とか」 ぼそぼそと呟く声は小カブの煮える音にも負けそうだ。 包丁を持った手は既に止まっている。 ああ、とキャナルはようやく思い当たった。 ヴァーサと彼女の師である弓使いのぎくしゃくした関係は、その方面に鈍いごく一部を除けば騎士団内で有名だ。 彼女が悩んでいるのは恐らくそのことだろう。 「なんかこう、むしゃくしゃするんです」 発言を伴って包丁の音が再開する。 本人の言の通り苛立った乱暴な音だ。 むしゃくしゃの対象はやはり、彼女の師匠だろうか。 アーチャー、リコルド・ランド。 あまり自分は懇意にしていないが、人当たりも面倒見も良く博識で、魔物相手の戦いでもその弓の腕を振るって活躍している。大先輩であるフェルフェッタは彼のことを、大人の男として信が置けない、と辛口に評するが、キャナルから見れば非の打ちどころのない立派で尊敬できる先輩だ。 一つ上の先輩であるアズリットが恋焦がれるのも無理はない。 (……そうなんですよね) ヴァーサの師であり彼女のもやもやの原因であるアーチャーは、先輩魔女の片想いの相手でもあるのだ。 アズリットがリコルドへの思慕を他の女性陣に明らかにしたのは一昨年の山越えのとき。同時に彼女以外が彼にアタックを仕掛けないよう牽制もかけた。 そして当時、ヴァーサはまだ入団していなかった。 キャナルは恋愛に疎いが、現状のややこしさは分かる。 現状を打破する方法は三つ。アズリットがリコルドに告白するか、ヴァーサが自分の気持ちに気付いてリコルドに告白するか、リコルドがどちらか片方、あるいは両方の気持ちに気付くことだ。 だが、一つ目は有り得ない。アズリット自身が、告白は相手からさせると決めて宣言したからだ。彼女には彼女なりの矜持があるとのことだが、キャナルにはいまいちピンとこない。 故に解決は、他の二者の心情と行動次第ということになる。 この膠着状態が続いて一年弱。 焦れったい、という表現が浮かぶ。 「先輩、お鍋吹いてますっ」 不意にヴァーサが叫んだ。 キャナルははっと体を竦めて振り向く。 「あっ」 小カブを放り込んでおいた鉄鍋が、ぼこぼこと煮えて白い泡を吹いている。 慌てて鍋掴みをはめ、かまどから離す。 「……ああ、茹で過ぎてしまいました」 中を覗いて溜息一つ。 ぐつぐつ呟く湯の底で、煮崩れた小カブが泥のように溜まっていた。 これでは予定のスープが作れない。 とりあえずお玉で小カブの名残を掬いあげて椀に盛りつけていると、いつの間にかヴァーサが背後から手元を覗き込んでいた。 「どうするんですか?」 「ううん……崩れてしまってますけど、みぞれみたいに使えば何とかなると思います。そのマツバウド、卵焼きでなくてこちらに入れても宜しいでしょうか?」 「え、はい。カブの切りくずも入れますか?」 「そうですね。あとは……お芋の粉がそこの棚の上にあるので取って下さいますか。私は干し肉を出して来ますので」 ヴァーサが頷いて天井近い棚に手を伸ばす傍ら、キャナルは床に嵌った扉をうんと力をこめて持ち上げる。 扉の下、開いた暗い穴から冷たい空気が溢れて床を這う。 ここは貯蔵庫だ。 そろそろと梯子を下りて、入口からの光と記憶を頼りに油紙に包んだ干し肉の塊を見つけ出す。 (カビなど生えてなければ良いのですけど) 「……先輩」 戻ろうとしたとき、梯子の上から声が降って来た。 「はい?」 見上げると幼さを残した弓使いの顔が覗く。 子供の頭ほどの壷を抱きかかえて、真剣な面持ちでこちらを見下ろしている。 「先輩は、ひとめぼれ、ってしたことありますか?」 キャナルはしばし黙って首を横に振る。 「私には経験ありませんわ」 「……そうですか」 壷の蓋に顎をのせ、ヴァルキリーは落胆の表情を浮かべた。 「一目惚れが、どうかなさったんですか?」 梯子を上ってから訊ねると、丸い頬を更に丸く膨らませ。 「そうだって」 「はあ……?」 「私が、そうだって。私が先生に、一目惚れしたんじゃないかって」 誰かが彼女に告げたらしい。 ヴァーサのリコルドへの態度が、心底彼を嫌っているからなのか、それとも好意の裏返しなのかは、騎士団の中でも意見が分かれている。が、どちらの意見を持つ者にしろ、女性陣でないということだけは確かだ。 若いヴァルキリーは拗ねた子供のような顔をする。 「私、全然そんなつもりないし、そんなこと考えたことなかったから。一目惚れだって、……恋だってしたことないのに」 「恋、ですか」 「木登りとかする遊び友達ならいっぱいいましたけど、男の子も。でも」 恋なんて、一目惚れなんて、と壷を枕のように抱いて俯く。 その隣にキャナルも干し肉の塊を抱えてしゃがんだ。目線を合わせるためだ。 恋。 一瞬、細く、どこか頼りない面影が浮かんだが、すぐに掻き消す。 (違う……) そんなの、自分だってしたことない。 神話や物語や伝承歌の中でなら知っているし、憧れもする。だが自分では経験したことがない。 冒険者たちが甘く奏でる恋の歌はどれも美しく激しく悲しい。それは伝承として美化され誇張されたものだからかも知れない。 彼らが謳うには、恋というものは至極幸せであり、同時に途轍もなく苦しいものなのだという。 それを聞いても結局のところ、キャナルにはよく分からなかった。 「私も恋をしたことはありませんわ」 正直に述べると、ヴァーサは一度こちらを見てまた俯いた。 「変な気分なんです」 「そうですか」 「……今日、さっき、手を握ったんです」 「……」 「変な気分です。とても」 壷を膝の上に置いたまま両手で頬を包む。 キャナルはそれを見ながら、困惑気味に思案する。 まず状況が分からない。しかし、手を握ったということは二人の距離が僅かであろうと縮まったということだろう。遠征中は体に触れることはおろか、手の届く範囲に並ぶことすら避けていたのだから。 そして、目を伏せ頬を上気させた姿は、恋する少女の仕草にしか見えなかった。 彼女が自分の気持ちに気付くのは、そう遠いことではない筈だ。 もし気付いたなら、どうするのだろうか。 ヴァーサだけではなく、リコルドやアズリット、アズリットに想いを寄せているという騎士のヘルンにも影響があるだろう。 (穏やかに済めば良いのですけれど) 思いながら干し肉を抱えて立ち上がる。今はまず、夕食を作らなければならない。 キャナルの動きにヴァーサも慌てて壷を抱え上げた。 窓の外はもう、やわらかな藍色に変わっている。 @黄昏 行儀が悪い、と眉間に皺を寄せてぴしゃりとイワセは云った。 童顔のサムライは、口いっぱいに頬張った小麦団子を飲み下し。 「良いではないか。美味いのだし」 幼馴染みの眉間の皺を更に深くさせる。 「夕餉が入らなくなっても知らぬぞ」 刺々しく云われ、クルガは器である塩パンを齧りながら肩を竦めた。 空の日は傾き、人々が忙しそうに行き交っている。夕食の匂いが家々から漂い出て二人の空腹を刺激する。 「そんなに食っておらぬ。飯何杯だろうとバッチリ入るぞ」 一番近くから漂ってきた炒めたての腸詰めらしき香りにきゅうきゅう鳴る腹を示して、童顔のサムライは胸を張る。 「威張るな」 「良いだろうが。問題なかろう」 云いながらパンの残りを食べ切り、粉を払ってから外していた手袋を着ける。 その間、イワセはずっと渋い顔で彼の行動の一部始終を睨み続けた。 「そう怒るな」 「怒ってなどいない」 「顔が怒っておるぞ」 「元々だ。知っていよう」 「からかったのだ」 けろりと云う。 イワセは険を増した視線で睨む。 そのまま無言で、並んで歩く。 赤い色の濃くなった石塀の上を、野良猫がするすると渡る。それを見付けた子供がはしゃいだ声をあげ、母親と思しき女性が一緒に見上げ、すぐに帰りを急かしてその手を引く。仕事帰りの青年が恋人らしい娘に出迎えられ、親しげに言葉を交わす。学生たちが鳥のように群れをなし、さえずりながら道を行く。 その中を、帯刀したサムライが二人。 気付いた周りの視線がちらちらと、腰の刀に向かうのを感じる。 仕方ない。 この辺りは住宅街に近いのだから自分たちの方が異端だ。 それでもここが巡回ルートに入っているのは、所謂ご近所の噂というものの情報網はバカに出来ないからである。 分かっている。 わかっているが。 (こういう見られ方は、好かぬ) イワセは苛々と口を結んだ。 囁かれる噂を聞き逃さぬよう耳をそばだてる。 魔女たちならば彼らの輪に入り、持ち前の人なつこさや口の巧さで世間話にかこつけ、いろいろと噂を引き出すことだろう。 しかし自分たちはサムライだ。 周りの警戒を解くためということだけでは、刀を手放すことは出来ない。 帯刀の二人に向けられる評価はほぼ一様である。 曰く、物騒だの怖いだの良からぬことをやってるんじゃないかだの、市井の声はいつも同じだ。たまに容姿に関して褒め言葉らしいものも聞こえるが、それはどうでもいい。 それは、美女に褒められるのはまんざらでもないが。 (いや、この際どうでもいいのだ) 半歩先を歩く相方は、そういう発言をした対象を振り向いてはにまりと笑む。 そういう対応は軽薄で好きになれない。だが今まで何度注意をしても止める気配はない。イワセとしてはこっちの方が気になる。 「団長は何を聞いて来るのであろうな」 いつの間にか愛想を振りまくのを止めたクルガが不意に云った。 唐突な話題に、目を瞬いて返す。 「今日、フェルの実家に行くと云っていた」 そういえば、そんな話題が昨夜の宴で出ていた気がする。 「聞きたいことがあるようだったが」 「うむ」 ガラス玉のような眼が空を仰いだ。 「昔のことだろうか」 「……」 沈黙。 入団してから今までのことが、断片的にひらひらと脳裏を過る。 出会った人、去った人、悲劇に喜劇。 クルガもイワセとほぼ同じことを思い返しているのだろう。何しろ自分たちは、経験のほとんどを共有してきたのだ。 「先達の話を聞いてみたいと、そう云っていた」 捲っていた頭の中の頁が昨日の宴に辿り着いて、イワセはクルガに告げる。 「拙者は知らなんだ」 「お主は酔って寝ていたゆえ」 「確かにそれでは無理だ。……フェルの御両親には」 「一度二度、会ったことがある。ただ御母堂は亡くなったと聞いた」 「では御尊父に話を伺っている頃だろうな」 再び、互いに押し黙る。 (何を問いに行ったのだろう) クルガのことならまあ解るが、団長であるナガイとはまだ付き合いが浅い。 自分は童顔の幼馴染みのような、馬鹿みたいに働く勘は持ち合わせていない。これまでの出来事や経験をちまちまと積み重ねて推測するのが基本だ。 (とうに記録の絶えた魔物の出現。統計では数も増えたと聞く。……否、まだ四年ゆえ、統計と云っても材料としては不足) 魔物の出現についてはフェルフェッタが調査すると云っていた。今日はナガイを連れて実家へ出向いているから、帰ってからのことだろう。地下倉庫には古い記録がある。調査資料としてはそれを参考にする筈だ。 そしてそれは、フェルフェッタの親の世代より昔の記録である。だから、そのことを訊きに行ったのではない。 親の世代。 かつて騎士団に在籍し、大陸を疾駆して魔物と戦った先達。 自分たちは彼らの武勇伝を聞いて故郷を出た。正確には、風の噂を耳聡く聞きつけて憧れを膨らませたクルガに、自分が引っ張って来られたのだが。 彼らの話を聞くということは、その経験を聞くということだろう。 過去の魔物のことを聞くのでなければ、単純に、戦い方を聞きに行ったというのが正しいのだろうか。 (歴戦の先達に比べれば、拙者らは経験が足りぬ。先達ならばもっと効率の良い、有効な戦い方を心得ている筈。これ以上の犠牲者が出ぬよう) 先日の戦いでは二人も戦死者が出た。片方とは共に戦ったことも多い、信頼に足る戦友であった。 (そうだ。そのためか) ナガイの師、ヴィレイスも二年前に戦死した。 彼は成人して間もなく騎士団に入り、その時点で傭兵業をこなし戦闘の経験も多かったと聞く。入団するまで樹木や薮以外はクルガしか相手がいなかったイワセとは、天と地ほどの差がある経験者だった。その彼も死んだ。 先達に戦い方を乞うならば、時間が掛かっても犠牲を出さぬように勝つか、犠牲を出しても迅速に魔物を倒すか、いずれかだろう。 そしてナガイが彼の師を、そして先日の戦いを引きずっているならば、乞う方法は前者に違いない。元より周りに気を遣う性分のようだったから、犠牲を無視など出来ない筈。 騎士団は魔物を倒すための、国家認定の戦闘集団。 その一点だけを考えれば、如何なる犠牲を払ってでも魔物を倒すのが正答だ。集団の頭たるもの、ときには非情であることも必要である。 自身も剣に身を捧げ戦場に立つ身ゆえ、死は恐れるものでは無い。 だが、団長であるナガイが師の死を引きずり、犠牲を出さない戦いという一種の奇麗ごとを目指しても、イワセは否定できない。 己にも、忌避する犠牲があるゆえに。 団長がその道を望むなら、これからの戦いは、より慎重なものとなろう。 自分たちサムライの戦いとは異なるスタイルの戦いに。 (そうなったら) 「イワセ」 声が、イワセを現実に引き戻す。 「考え事ばかりしていると転けるぞ」 半歩前の隣を歩く幼馴染みは、前を見ていた。 街並は先程とはいくらか様相を変えている。樹木が多く、まばらな住居は門柱も高い豪邸ばかりだ。人通りはなく、一部の入口には門番が立ち、二人の不審なサムライに目を光らせている。 これを過ぎると家屋敷も姿を消し、しばらく森が続いて道も傾斜する。坂を上り切れば騎士団本部はすぐだ。 「なあイワセ」 また、クルガが名を呼んだ。 「拙者らはサムライだ。サムライの戦いしか知らぬ」 「……」 「違うか」 何気ない口調で。 イワセは肯定の意味で、ただ無言を返した。 どうやら同じことを考えていたようだ。 「ゆえに死ぬまでサムライでござろう」 「お主の場合は、そうありたいのだろう」 今度はきちんと言葉にして返す。 クルガが、そうだな、と上向いた。 「如何様な道が示されようとも、ついてゆくのがサムライの道か」 右手の建物が切れ、眺望が広がる。 夕空が赤い。 青紫を基調としたサムライの服が、照らされて染まった。 「あの団長のことだ、そうそう面妖な道は選ぶまい」 童顔のサムライは云って振り向き、片頬を持ち上げる。 「そう思わぬか?」 「思うな」 つられてイワセも口元を緩めた。 夕日の上り坂。 今、道を歩いているのは二人のサムライだけだ。道の左手に木立、右手には下方に広大な街並を見渡せる。 「なんにせよ、知りたいことを知れると良いな、団長は」 クルガが笑う。 夕日が顔を半分だけ照らす。 イワセは頷いた。 右目だけに陽光が差し込んで、眩しい。 @@@ フェルと団長のいない一日、団員それぞれの過ごし方。 思いっきり日常風景です。割とのんびりだらだらしてます。 仕切り役のフェルがいない所為もありますが、いてもだらだらしてるでしょう。 >文字の記録 |