@序文
雨の音が耳を聾する。 防水してあるマントを、前はきっちり閉めて、フードも出来る限り目深にかぶっているのに、それでも水滴は降り込んできて衣服を濡らす。 よって、足取りは重い。 つい数時間前までぴかぴかに晴れていた空は、分厚い雲に覆われて、あたると痛いほどの大粒の雨がごうごうと降ってきている。 歩くのに精一杯なのか単に気分が乗らないのか、誰もが黙りこくって歩を進めている。 @1年 121日 「遠征日和だよ!」 扉を開けて第一声、爽やかにリコルドが云った。今日は昼寝にちょうど良い、と云うのと全く変わらない調子で。 「団長、起きてる? 元気?」 「起きている」 団長、と呼ばれるのにどうも慣れず、緊張した顔でナガイは答えた。 リコルドはくすくす笑う。 「寝過ごしたら大変だからね。呼びに来た。みんなもう集まってるよ」 「……寝過ごしなどせぬよ」 笑い声を残してドアが閉まる。 寝坊などしてない。いつもの通り夜明け前に、いや寧ろもっと早くに目が覚めてしまい、先程まで裏庭で素振りをしていたくらいだ。 ともあれ上着を羽織ってベルトを留めて、ナガイは部屋を出た。 出たところの廊下の壁に寄りかかってリコルドが待っている。 「ヴィレイスは?」 師である彼はナガイと同室だ。朝の修練から帰ってきたときにはもういなかった。 「だから、もうみんな集まってる」 年嵩のアーチャーは繰り返す。 ナガイは頷いて食堂へと向かった。 食堂、といってもさほど広くはない。騎士団総員十四名が入るともう、充分に狭苦しい程度だ。 がやがやとした部屋に入るなり、視線がわっとこちらに集中する。 しんとして衆目に曝され、緊張で身体が強張ってしまった。 「……お、おはよう」 どうにかそれだけを云う。 情けない。 「お早う」 手近に座ったクルガが真面目くさった顔で答えた。いつもふざけているくせに、一体何の趣向か。 彼の言葉を皮切りに、他の団員が口々に挨拶を投げかける。 「だんちょ、早く食べないとなくなるわさ!」 魔女のマルメットが口にトマトソースを塗った態で叫ぶ。隣のエクレスがくすくすと笑いながら指摘する。彼女の方はもう身支度も化粧もして、愛用のイヤリングも装着済みである。 ナガイは苦笑して空いている席についた。 いつも通りの、粗食だ。 小さなスズメムギのパンに卵焼きに山羊のミルク。それに裏庭に生える半ば野生化したトマトをつぶしたソース。 テーブル中央には大皿に青々とサラダが鎮座している。こればかりはいつでも大盛りだ。誰の皿にもこんもり青菜が乗っているのに、本体は減った様子がない。裏の菜園の葉物をまとめて収穫してきたのだろう。 ナガイも周りに習って青菜を盛り、拳の大きさほどの卵焼きにトマトソースをかけた。 「今日のソースは濃いな」 色も粘度も、普段のあからさまに薄めてあるものとは違う。 向かいの席でフェルフェッタが頷く。 「今日から遠征だもの。勿体ないから使い切らないと」 納得した。 魔物を倒すための遠征は、短くても数十日かかる。 皆に習って濃いソースをふんだんに卵焼きにかけてから、ふと思い至って訊ねた。 「そういえば、遠征の間、菜園はどうするのだ?」 「『お隣さん』に頼んであるわよ。他のことも同じ」 「そうか」 云われてみれば、遠征中でも本部には大人がいた。『お隣さん』も知った仲だ。 大量のソースごと卵焼きを片付けて、喉を詰まらせながら見た目の割に重いパンをミルクで流し込む。物足りないので更にサラダを盛りトマトソースをかける。なんだか不味そうな色になった。 ナガイが食べ終わるころには他の全員も大方食べ終わっていて、ガルゴスやマルメットがサラダの残りを詰め込んでいた。その皿が空になるかならないかのうちに、がたがたと食卓を片付ける。 机がきれいになると何も云わぬうちから、視線が集まってきた。 少し顔を赤くしてナガイは立ち上がり進み出る。 「今日は、遠征、である」 サムライのイワセが少し笑った。 「硬くならんで良いぞ、団長。落ち着けよ」 「そうだぞ」 クルガが眉間に皺を寄せたまま云う。初遠征の日ゆえ、厳粛な空気の演出のつもりかも知れない。 年長のサムライたちに云われても緊張は解けず、ナガイは硬い顔でとりあえず頷く。 「魔物は鳥獣族バジリコック、強さのレベルは二。目的地はライカンウッドだ」 ぎこちなく壁の地図を示す。昨日の内に隣の団長室から移してきたものだ。 大陸の西の端、王都から百日ほどかかるライカンウッドと、もう一ヶ所、逆方向にある幻の村アゼルに、大きなピンで紙が留めてある。手のひら大の紙には几帳面な字でびっしりとメモが書き込まれていた。 「アゼルにもレベル一の巨人族、ジャイアントが出ているが、あちらの方が近くライカンウッドから戻ってからでも遅くない。方角も逆ゆえ、ライカンウッドの魔物を倒してから一度帰還し、それからアゼルに向かうことにする」 立て板に水の如くすらすらと述べる。 アクラル大陸に現れる魔物は、その外見や能力によって種別され、強さでレベル付けをされている。いま現れる魔物の多くはレベル一から三のものだが、ずっと昔、多くの魔物が跋扈していた時代には、レベル九という恐ろしい強さのものが出現していたという。 今使っている種別やレベル付けも、当時魔物と戦っていた騎士団の団員たちの犠牲と攻略と研究の賜物だ。 それから数百年、そして大陸に殆ど魔物が現れなくなって百年近く、今の時代になって再び彼らの遺したものが日の目を見、役に立っている。 それが良いことか悪いことかはさて置いて、先達に感謝すべきだろう。 無駄にしてはならない。 説明を終わりナガイは一つ息を吐く。 遠征の本筋は前日までに話し合いを重ねて決めてあるから、これは確認に過ぎない。 のんびりとリコルドが頬杖をついた。 「じゃあパッパと行ってパッパとやって来なきゃあね」 「相変わらず軽く云うなあ、お前さんは」 隣席のヴァルガがその頭をつつく。 いつものことでしょ、と弓使いが返している。 「何も質問はないか?」 ナガイが訊くと全員が静かになった。一同の顔を見渡す。 「何もないなら、以上だ。半時間後に準備して正門に集合。ではそれぞれ、解散してくれ」 云い切って、緊張が解ける。てきぱきと散っていく団員たちを見送ってから大きく溜息を吐き、壁の地図に寄り掛かった。 『団長』として、皆の前でこんなふうに長く話したことなど今までにない。これが初めてだ。 話し合ったことを確認しただけなのに、ひどく疲れた。 (いかんいかん) まだこんなことは序の口の筈だ。 これしきでめげていてはいけない。 魔物が出たのは数日前のこと。 その出現を知るのは、人伝ではない。 彼らの放つ瘴気は土や風、水に影響を与え、それを介して多くの生物が察知することができる。だが人は長い歴史の中でその感覚を鈍らせてしまったため、余程近くまで寄らなければ気配すら感じられない。 けれど騎士団は代々魔物を相手取り、血を浴び、戦ってきた。 そのためか、騎士団に長くいる血筋の者や在籍期間の長い者には、草木や獣のように、遠く離れた魔物の出現を感じられる者が多いという。 創設からの団長家系に連なるナガイもその一人である。 物心ついた頃から時折感じていた、あの胸が、肌がざわつく不気味な感覚。 あれが魔物の出現を知らせるものだと知ったのはいつだったろうか。 とは云ってもその詳細が解る訳では無く、出現した、ということと大まかな距離と方角くらいで、詳細はやはり人伝に情報を集め、貯め込んだ資料から判断するしか無い。 そこから遠征計画を立て、準備をし、いよいよ出立となるのだ。 部屋に戻るともうヴィレイスは支度を終えていた。 鎧兜をしっかりと着込んで、遠征用のマントを羽織っている。 足下には大きめの袋が置いてある。数日かかってまとめたナガイの荷物と、半日もかからずまとまっていたヴィレイスのそれだ。 「忘れ物は無いか?」 兜の下でくぐもった声が訊く。 ナガイは頷いた。 「大丈夫」 「そうか。またしばらく、戻って来れないからな。戸締まりも、きちんとしておかねばならない」 「そう、だな」 いつもの癖で、そうですね、と云いそうになる。 長年に渡り染み付いた口調を変えるのは難しい。 狭い部屋の窓の鎧戸を閉めて、小さな閂を掛ける。窓から少し見えた空は磨いたように晴れていた。 早朝は霧がかっていたが、確かに良い日和である。 閂は普段使わないので固い。しかし錆びてはいないようだ。 荷物を背負い、ヴィレイスから遠征用のマントを手渡されて羽織る。 マントは藍で染めた黒鹿の皮製のもので、肩に意匠化されたトロントの刺繍がある。見た目よりも軽く水もはじくそうだ。 羽織った布の胸元のベルトを留め、刀を携える。 身の丈に合わせて作られたこの刀を実戦に使ったことはない。いや、ナガイ自身が実戦を経験したことがない、と云うのが正しいか。 それでも肌身離さず持ち歩いて来た愛刀は、重さも握りもしっくりと手に馴染む。 「良いか?」 ヴィレイスが訊く。 ぎゅっと黙って、ナガイは首を縦に振った。 **** そうだ、あの時点であんなに空は晴れていた。 出発してからも昼前までは雲一つなかったのだ。 **** 王都を背にして道を行く。 町を襲う魔物を倒しに、という目的の割には足取りはゆったりのんびりとしていて、雰囲気も同様だ。談笑を交わす余裕すらある。ガルゴスやマルメットやアズリットら新人は、初めての遠征ということでわいわいと盛り上がっている。 しかし同年のナガイに余裕は全く無い。 後ろの方で魔女たちと若いのとテンションの高い一同が沸いているのを、がちがちになりながらその声だけ聞いている。 「随分と硬いですね」 隣を歩いている騎士のヘルンが云った。 話し掛けられてちらと見、ナガイはぎこちなく頷く。 「まだ、緊張している」 「硬くなるな、と云っても無理でしょうね」 ヘルンがくすりと笑って、ナガイは困惑気味に眉を顰めた。 それでも、うむ、と頷く。 「どうも、緊張していけない」 「……洒落ではありませんが、道のりは長い。ゆっくり行けば良いと思います」 若い騎士はのんびりと天を仰ぐ。つられて見上げた空は広くて晴れていた。鳥が飛んでいる。 「そうだな……」 溜息をつく。 もう何度も、皆からそう云われて、なのにどうして毎度硬くなってしまうのか。 「済まない、ヘルン」 「いえいえ」 「……遠征というのは、いつもこんなにゆったりしておるのか?」 「いつもという訳ではないですよ。急くときもあります」 「そうなのか」 「でも基本はのんびりです。早く着くことは大切ですが、現地に着いても旅の疲れでへばっていては戦えません」 「……」 「よく云うでしょう。急いてはことを仕損じます」 だからってだらけるのは論外ですけどね、と笑う。 「むつかしいな。のんびりと、急ぐ?」 「いずれペースが分かります。そうすれば余裕もできる」 そしてちらっと振り返り。 「まあ、あれは騒ぎ過ぎですが」 ナガイは少し笑った。 断片から察するに、どうやらポールランとエクレスの恋話らしい。 主賓の二人は囲まれて、主に年少の魔女二人が騒いでいる。少し遅れてしょんぼり気味のガルゴスを、イワセとヴァルガが慰めているようだ。 その間のあたりにヴィレイスとフェルフェッタがいて、関係ない話をしている。 「どうやら告白したらしいです、ポールランは」 「そうなのか」 「ええ。エクレスのことは、ガルゴスも気になっていたようですから」 失恋です、とヘルンは小さく苦笑する。 そしてナガイを見て。 「団長はそういう話に疎いのでは?」 「え」 「そう見えます。違うのならすみません」 「いや……」 図星である。 エクレス含めた三角関係状態は、魔女たちが声高に話していたので知っていた。 しかし告白のことは初耳だ。それどころでなかったと云うのもあるが、確かにそういうことに興味はない。 「ヘルンは詳しいのか?」 「いえ、自分もどちらかと云えば疎い方です」 それでも告白のことは知っていたらしい。 「でもいずれ、所帯は持ちたいと思っています。騎士として守りたい人と出逢い、縁を結んで、父母の墓前に報告できれば良いですね」 「縁か……」 「団長もそのうち、誰かから告白を受けるかも知れません」 「拙者が?」 「そうです」 「しかし、ヘルンの方が年も上だろうに」 「関係ありません、これについては。巡り合わせの問題です」 「そうなのか」 そんな他愛もない話をして時間が過ぎた。 気が付けば後ろの騒ぎは行軍歌の大合唱になっていた。 魔女たちの高音がよく響く。 元気なものである。 いつしか王都は随分遠くなっていた。 前を見ればずっと彼方に、狩りの森が蹲った獣のように小さく見える。 森の上空に小さく雲が涌いているのを見つけたのは、その頃だ。 **** 昼食をとって間もなく、空の端に涌いた雲は空を覆った。 そしてすぐに、叩き付けるような大粒の雨が降り出したのだ。 まるで滝のような豪雨。 誰が云い出したわけでもなく、いつしか全員が固まって歩いていた。 昼だと云うのに、暗い。雨のカーテンのせいで視界が悪く、ひと一人分の間をあければそれだけで、相手の姿が霞んで見える。 誰も何も発しない。 音だけがただ煩い。 降り始めてからこっち、どうも時間の感覚が曖昧である。既に泥沼化した道を歩いてはいるが、それもただ道に沿っているだけだ。 どこまでちゃんと続いている道なのか、ナガイは知らない。最終的にライカンウッドに着くということだけは先輩たちに教わったが。 豪雨は降り続いたまま夜になり、野営の間も降り止むことはなかった。 @1年 122日 夜が明けたらしい。 雨はまだ降っている。 「夜中に、一度治まったんだがのう」 ヴァルガが曇天を仰ぐ。 「また降り出しおった」 「仕方があるまいよ。天気だけはどうにもならぬゆえ」 深くかぶったフードの下でイワセが云った。 わかっちゃいるんだがのう、とヴァルガが溜息をつく。雨の音がそれをほとんど掻き消す。 野営のために少し道を離れたので、街道を探し出すのは一苦労だった。 道のくせに石畳は敷かれておらず、ただ草が生えてないというだけの土の道だ。この雨でとっくに泥沼である。 あまりの泥沼っぷりに、フェルフェッタが少しだけ道を離れることを提案した。 「あんなにどろどろじゃ、道を歩いてるんだか泳いでるんだかわかりゃしないもの。草の上の方が歩き良いし、道なら、ちょっと離れて歩けばリコが見ててくれるでしょ?」 「そういうことで僕をあてにするの」 「目がいいんだから良いじゃない」 リコルドのぼやきをあっさり伏せてフェルフェッタが笑う。 アズリットが、頼りにしてるわよ先輩、と茶化した。 大きく溜息をついてリコルドはナガイを見た。 「どうする、団長。僕は構わないけど」 「絶対離れた方がいいわよ。あの道どろどろすぎ。ほら、道が見えればいいでしょ? ちょこっとなら離れても見えるから」 「うむ……」 ちらっとナガイはヴィレイスに視線を走らせる。 魔騎士は雨の中、黒い塊にしか見えない。そして何も云わない。 「……」 少し黙って考える。 道を見失うのは大問題だが、二、三歩離れたくらいで分からなくなりはしないだろう。あの泥沼は確かに、小さな魔女たちにはきつそうだ。 「では少し離れよう。あくまでも道を見失わぬ程度にだが」 「さっすが団長。話が分かる!」 フェルフェッタがぱんっとナガイの背中を叩く。 ナガイが咳き込んで、ヴァルガがげらげらと笑った。 団長も嬢ちゃんたちにゃあかなわねえよなあ、と妙に嬉しそうだった。 **** のろのろと行軍は続く。 道のすぐ脇の草の丈は膝下で、靴とそのあたりの服はぐっしょり濡れている。 雨は恵みだが、降り続くと厭になる。 視界が悪いので、目と耳の利くリコルドが先頭に立つ。 続いてヘルンとナガイ、剣闘士たち。中央に魔女たちとエクレス、ポールランを挟んで、サムライたちとヴィレイス、クララクルルが背後を固めている。 草を分けて進む足音と鎧の音、激しく降り続く雨の音。 もう耳が慣れてしまった。 不意に弓使いが立ち止まる。 行軍が止まった。 「リコルド」 「伏せて」 云いながら自分も、前に出て来たナガイを押し倒す。 声が届いた後ろの一行も、半瞬遅れて地に伏せた。 その上を、びゅんと音を立てて何かが飛んだ。 遅れて聞こえる、ざわざわと草の中、複数が近付く音。 伏せた草の中でリコルドが弓に矢をつがえる。 「何」 「誘惑者」 「ゆうわくしゃ」 「魔物に操られてる。敵だから、迷わないで」 ひゅん、とまた矢が飛ぶ。鍔鳴りの音。雨を透かし、草越しに見える人影。 「ヘルン、団長を」 「了解」 身を屈めて立て膝になり、リコルドが弓を引き絞った。 ヘルンが隣にいる。剣を抜いている。 「あまり離れないで下さい」 ナガイは頷いた。愛刀に手を添える。いつでも抜ける。 弦がしなる。矢が放たれた。 同時に草の中、身を低くして、両側をクルガとイワセが駆け抜ける。 熊のように吼えながら、ヴァルガが突っ込んで行く。 背後から光が前方へ飛んで行った。魔女の誰かが放ったらしい。 雨の向こうで悲鳴があがった。 「団長!」 呆けて見ていたナガイをヘルンが突き飛ばす。金属音がガンと高く鳴る。見ると大柄な男の剣をヘルンが盾で受け止めていた。 戦士だ、あれは。 人だ。 巨大な剣の重さで、若い騎士が膝をつく。 「ヘルンっ」 叫んで泥の中から起きあがる。 (斬らねば) ざっと草を踏んで一気に間合いを詰める。 兜の下で戦士の目がぎろりと睨む。魚のような目。 (魔物に操られてる) ついさっきの言葉が蘇る。 (迷わないで) 一気に刀を抜く。 (敵だから) みしり、と嫌な手応え。 頬にかかった返り血は激しい雨に流される。 戦士は呻いて剣を振りかぶる。ナガイは慌てて構え直す。 (!) 金属の塊が目の前に迫り。 無気味な音とともに逸れる。 ナガイのすぐ横の地面に、ずしりと大剣がめり込んだ。 呆然と見上げると、戦士の腕には深々と手裏剣が刺さっている。 剣の軌道が逸れたのはこのためか。 振り返ると、向いた先でエクレスが手を振っていた。表情は雨で良く見えない。黒翡翠のイヤリングがきらっと光った。 戦士がわあと吼えて、更に剣に手を伸ばし。 その動きが止まる。 ヘルンが、彼の背に剣を突き立てていた。 どうと地響きを立てて、戦士が前のめりに倒れる。 ナガイは長く息を吐いた。緊張して止めていたらしい。 「団長、助かりました」 荒く息を吐きながら、ヘルンが頭を下げる。ナガイは慌ててかぶりを振った。 「先に助けられたのは拙者だ。礼を云うのは、こちらだ」 「ではお互いと云うことで」 草で剣を拭い、ヘルンは雨の中を透かす。 剣の音、魔法の音。 まだ終わっていない。 「相手は……人か」 倒れた戦士を見て、ナガイがぼそりと云う。 ヘルンは目を伏せて頷いた。 「『誘惑者』です。頭を叩けば終わります。割り切って下さい」 「……」 「まだいけますか、団長」 ナガイは頷く。 「大丈夫。行こう」 刀を振って更に草で拭き、鞘に納める。 今は戦わなければならない。 **** ポールランは豪雨の中でぴりぴりしていた。 はぐれてしまった。 足音や剣の音、ヴァルガがうおおと吼える声などは聞こえてくるが、いかんせん雨が凄い。何も見えない。 それほど実戦経験があるわけでもないが、右も左も分からないほど新人でもない。 相手は誘惑者率いる盗賊団。誘惑者を倒せば戦闘は終わる。 そして、目の前にそれがいた。 子供の落書きのような、黄色い服を着たそれが、誘惑者だった。 魔女たちの誰かの魔法により片腕が焼け焦げて、肩と思われるあたりに矢が刺さっている。 それなのに、とぼけたぬいぐるみのような顔は痛くも痒くもなさそうで、人形のような目で黙りこくってポールランを見ている。 無気味だ。 ポールランは盾をしっかりと構え直す。 見た目は戯けているが強い。 実感はないが、死ぬかも知れないのだ。 誘惑者が三叉の槍を振って、動く。 ポールランは体に盾を引き寄せて、一気に突撃する。 するといきなり視界を塞いで、地面から黒い影がわいた。 手だ。 大きな手だ。 それが地面を割るでもなく、にゅうっと生える。 急に止まれずポールランはそれに突っ込む。痛みを覚悟して騎士は思わず目を閉じた。 しかし、何ごともなく体はその手を突き破った。 「え」 理解できずにそれでも足は止まらず、目の前の誘惑者に突っ込んで行く。 手応えは見た目通り、綿の詰まったぬいぐるみのようだった。 落書きみたいな顔が自らを貫いた剣を見、そしてポールランを見た。そうして目を見開いたまま、雨に溶けるが如く消えていく。 あとにはただ呆然と、誘惑者のいたあたりを見下ろす若い騎士が残った。 「やったじゃないのさ」 いつの間にか近くに来ていた魔女が云う。はすにかぶった帽子にヒメヒイラギを飾っている。 「マルメット……」 「あたしに感謝なさい」 にっと笑う。 「それだけで済んだのはあたしのお陰だわさ」 指差されて見ると、盾を持った方の腕が服ごと変色している。今更じわじわと痛みを感じてきた。 「なんとかなさいな。自分で出来るでしょ」 「うん……ありがとう」 礼を云うと魔女は照れ笑いを浮かべた。 剣を一振りし、鞘に納める。腕がだんだん焼けるように痛み出したため、盾は逆の手に持つことにした。処置は歩きながらしよう。早く合流したい。 あたしじゃ治す魔法は使えないのよさ、とマルメットが気の毒そうに云う。 彼女たちが使うモルサガルサ式の魔法では男性しか治癒を使えないというのは、入団してすぐに教わったことの一つだ。 ポールランはぎゅうと口を結んだ。 「だ、大丈夫だから」 「やせがまん?」 「ち、違う」 「我慢しなくてもいいと思うわさ」 「だから違うって」 「あ、そーか。カノジョがいるから平気なのか」 「な」 「だって」 茶化そうとしたマルメットが唐突に言を切った。 きょとんとしたポールランに気付く様子もなくその場で青くなる。 「どうしたの」 首を傾げて同じ方に視線を向け。 ポールランは凍り付いた。 **** ぼんやりと見えてきたものは、悲劇だと思った。 ナガイは草の海で立ちすくむ。 隣でヘルンが顔を歪めて兜を脱ぐ。いや全員が兜を、帽子を脱いでいた。 ポールランだけが兜も脱がずに、泣いていた。 きっと名前を呼んでいる。 声は聞こえない。雨の音で消されている。激しく降る雨に。 そんな雨の中なのに、彼が泣いているのだけは分かった。 泥の中に横たわった相手の体を抱き締めて泣いていた。 踏みしだかれた草の上に、濡れた金髪が散っていて。雨に洗われた白い手足を投げ出して。 うちの一本は明らかに変な方に折れ曲がり。 視界の端、ガルゴスが呆然と座り込んだのが見えた。 ポールランは泣き続けている。 「エクレス」 ようやく、呼んでいる名前が聞こえた。 そうだ。死んだのは。 さっき手を振っていた姿を思い出す。 こんなにあっけなく死んでしまった。こんなに何の前触れもなく逝ってしまった。 「エクレス」 空を見上げた。 突き刺さるような雨が無為に降り注いでいた。 @終文 午後になって嘘のように雨はあがった。 それなのに、一行の足取りは雨中と同じく重い。 空は、雨を忘れたように晴れている。あっけないくらいに晴れている。 「今日は早めに、休もう」 リコルドが隣に来て、こちらを見ずに低く云う。 「彼を、休ませてあげたい」 ナガイはのろのろと頷いた。 「それから彼女も……早く休ませてあげよう」 「……そうだな」 すこしだけ、ちらりと振り返ると、赤い目をしたポールランがエクレスの体を背負っていた。 泥の中に埋めるのはあまりに忍びなくて、だからといって雨ざらしはもっと嫌で。 せめて乾いた地面のところまで、と、自ら云い出して運んでいる。 遠巻きにした魔女たちが、声をかけることも出来ず、悔しいような顔をして俯いている。他の皆も、何も云わず俯き加減でただ歩を進めている。 ナガイは街道ばかりを見下ろしていた。 地面は生乾きだ。 乾いたところに着いたら、彼女を埋めてあげて、墓を作る。墓石はどうしようかと、よく分からない考えが浮かんで消えた。 ぼんやりと道に沿って顔をあげる。 最前列を歩く魔騎士の背中が見える。後ろ姿であるので表情は伺えない。 ただ微かに、聞こえてきたのは行軍歌。 低い声で悼むように、彼は一人で歌っていた。 ナガイは重い足を進めながらそれを聞いていた。 何故彼は歌うのだろう。 まだ遠征は始まったばかりなのに、地平線は昨日より遠く見えた。 @1年122日 盗賊団レベル3戦にて、ニンジャ、エクレス・カーペン戦死。享年21歳。 @@@ 騎士団初遠征、よりにもよって王都出たばかりの話。 歩数にして一歩、リアル時間で一瞬、アクラル的には二日目の出来事。 >文字の記録 |