2008.03.03
 仙台一高(じかい)の演劇部OBは、心臓が弱い。舞台などに関わったせいか、娑婆では叩かれ強そうで、殺しても死なない心臓の持ち主のように見えるようである。しかし実際の心臓は、そうでもなく、鹿野が12年前に心筋梗塞で倒れ、小川君が5年前にステントを入れ、大立目君が4年前にバイパス手術を受けることになり、バタバタと心臓病もちになってしまった。ところが平野君だけは、何故か丈夫で皆んなで不思議がっていたところ、この正月に至って見事に心臓病の洗礼を受けることになった。その闘病記を掲載します。

 平野 茂樹君 からのメール(私信ではありますが)
           今年の正月から2月3日までを、 臨場感をもって転載します。
 (2008.01.06)
  
じっかいのみなさまへ
あけまして おめでとうございます。平野茂樹です。ご無沙汰しております。2008年という新しい年を迎えました。今日は6日。今年はじめての日曜日。新しい年の松の内が過 ぎて日常生活が始まろうとしています。ことしは、われわれ「じっかい生」にとって茶畑を 卒業し半世紀経た年です。わたしは、いつもとちょっと違った気分になっています。
滑り出した2008年という年の景色は、ちょっと例年と違って見えます。連日、テレビ新で「温暖化で危惧される地球環境問題」や「古代エジプト時代から文明を見直してみよう」などと連呼しています。言い替えれば、いま地球という星は、お手本を過去の歴史に見出せない羽詰った時代を迎えてしまった。と言えるのかも知れません。こんな 新年を迎えると、黙っていられない悪い癖が出てしまいました。「わたしの2008年への メッセージ」を聴いていただきたいのです。ご迷惑でなければ、添付文書に目を通してい ただければと思っています。
また、平野からの勝手なメッセージが来たか! とお思いの方は、ここですべてを削除してくださっても一向に構いません。聴いていただいて、感想や批評をくだされば、賛否は問わず、嬉しく、感謝でいっぱいです。よろしく。

 (2008.01.15)
 
大立目弘さん、鹿野敏秀さんへ
快調な新年を迎えたと思い、有頂天になっていたら、好事魔多しの喩えの通り、長年の不摂生のつけが突然やってきてしまいました。正月初打ちで、息子とゴルフをやっていたら、突然二度ほど胸が苦しくなり調子を狂わせてしまい、握り負けました。
帰宅後、念のため近所の病院でしらべてもらったら、狭心症の症状が心電図に現れており、紹介状を書いてもらい、専門病院の湘南鎌倉総合病院で診察してもらったら、即、検査入院させられ、カテーテルを入れ、造影剤を注入し調べたら、冠状動脈三本のうち2本が根元で75%詰まっており、「正真正銘の狭心症」と診断されました。
それ以後、ワーファリン剤など9種類の投薬で様子を見ながら、今後の処置を検討する処置が続いています。最低、カテーテルで2ヶ所にステント入れなければならないようです。というわけで、養生に専念しなければならなくなりました。5月の50周年には是非出 席したいので、数ヶ月で通常の生活OKのレベルまで持ってゆきたいと思っています。
3,4月の鎌倉計画に取り掛かろうとしていた矢先ですが、そういうことで、しばらく様子見になってしまいました。あしからず。今後、すべてが好転し、通常の活動ができるようになったら、すぐ着手しますので、よろしく。まずは、お知らせまで。新年早々、悪い知らせで申し訳ありません。同病の大先輩たちに、今後教えを乞うことが多くなると思いますが、よろしく。


 (2008.01.22)
 1月、2月上旬に行動を共にする予定だった方へのお詫び
年も考えず、元気と健康だけが私の取り柄だと自負し、好き放題をしていた長年の悪い生活習慣の付けが回ってきてしまった。心臓に酸素と栄養を供給している冠状主動脈3本のうち、2本が根元で75%ほど狭くなってしまったようだ。
医学用語では、虚血性心疾患と言うらしい。そのうち代表的な病名で、程度の軽い狭心症と程度の重い心筋梗塞とがあるらしいが、医者曰く。限りなく心筋梗塞に近い狭心症であると思ってくださいと。心電図、CTスキャン、カテーテルで冠状動脈への造影剤投入による動画映像での検査、投薬と血液検査でのメタポリックシンドロームの影響度合いの検査などを経て1月下旬に手術することが決まった。
どうやらカテーテルでステント(金属の網管)を送り込み、狭くなった箇所を広げて固定する手術らしい。この手術は、風船治療(POBA)ともに冠状動脈形成術として安全性が確認された基本的な治療法らしい。ステントとはアメリカの歯科医であったステント博士にちなんで名づけられたそうである。博士は、歯並びの矯正を行うため金属での支え術を考案した医者である。私の行うステント植え込み手術は、10年前にブラジル・サンパウロ初めて行われた薬剤 溶出性ステント(DES)と言うものらしい。これは、従来のステント治療の欠点である再狭 窄を防ぐために開発された一歩進んだ技術らしい。
いまの私は、入院日と手術日をひたすらこころ静かに待つ、しおらしい一患者である。と同時に、1月と2月上旬のすべての計画をキャンセルし、遊び仲間や趣味仲間に多大な迷惑を掛けてしまった一悪者でもある。毎日、テレビ画面で社長さん、政治家や大臣が 深々と頭を下げている場面を見慣れているが、いまの私も多くの遊び仲間に対して同じような心境である。深くお詫び申し上げます。いまのわたしは、間違いも無く、罪を犯した罪人であると思う。本来、健康であるべき肉体を病に冒させてしまったことは罪であろう。いまの心境は、罪を犯し、弁護士(医者)に駆け込み、罪状を告白し、できるだけ軽い罪で済むよう願っているが、検事(メタポリックシンドローム)は、なかなか追求の手が厳しい。あとは、裁判官(生命を司る力)の判決を待つしか方法なさそうである。今私は、にわか「死刑廃止論者」になっている。

 (2008.02.03)
 大立目弘さん、鹿野敏秀さんへ
2月3日、無事退院してきました。ご心配おかけして申し訳ありませんでした 報告にかえて「心臓手術体験記」をまとめてみましたので、良ければ一読ください。添付いたします。
様子を見て春の企画を考えて見ますので、今しばらく時間をください。
    心臓手術体験記
 2008年1月31日午前9時手術開始という予定で、早朝から身を清め、病室で待機していたら、8時ちょっと過ぎに呼び出しが掛かってしまった。病床への「ご家族と一緒に手術準備室の前に‥‥」という呼び出し案内だが、家内や息子夫婦は、昨日午前8時30分までにと言われていたのでまだ来ていない。「もう直ぐ来るでしょうから、わたし一人でも構いませんから始めてください」と言って1階下の準備室に向かった。8時5分、準備室に入った。
 まず、手術台のようなベッドに仰向けに寝かされた。右手首の脈を測るあたりの周辺を消毒し、カテーテルを挿入するガイド口を作り、局部麻酔を施したようだ。口を切り開けた時は痛みが走ったが、麻酔が効き、直ぐ痛みは消えた。手術室は、準備室の右隣にあった。ほとんどのスタッフは手術室にいた。みな忙しそうに動き回っている。数分経ったところで「右手をサポートしますので、自分で起き上がって、ベッドを降りて、歩いて手術室まで行って下さい」と若い医師が言った。もっと若い医師と二人で右手を支えてくれた。麻酔が効いているので支えてもらっている実感は無い。右手の存在すらぼやっとした感じである。ベッドを降り「こちらですか?」と聞きながら右隣の手術室まで歩いていった。映画やテレビ等で見慣れている移動用の担架に乗って運ばれるというイメージを描いていたので妙な気がした。でも精神的にはこの方が気楽だった。
 手術室は、準備室に比べて、照明がとても明るいのが印象的だった。しかも眩しくない明るさだった。「先ほどと同じように、ベッドに仰向けに寝てください」と、先ほどの若い医師が言って、右手を支えながらベッドまで誘導してくれた。部屋には、5、6人の医者がみな薄青色の手術着を着て動き回っていた。手術着の下は、そろって白衣であった。そのうちひとりがテレビの中継カメラマンのようにカメラを担いでテスト撮りしていた。その他、薄いピンク色の手術着を付けている女性の看護師2,3人が、後方やドアの出入り口に立っており、医師が指示する作業に何時でも対応できるように待機している様子だった。
 事前の説明で、本日の手術はライブ手術(Live Operation)=生中継手術=と言われ、同意し協力していた。いま、神戸で学会が開かれているらしく、その会場に本日のオペが実況放送されるようだ。同時に海外の某所にも送信されているようで、多方面に放送されるようだ。そのためカメラマン役の医師や斎藤滋執刀医師の補助説明役(斎藤医師が集中してオペをやっている時間帯、斎藤医師に代わって説明役を務める役)が付いていた。私が学会時期に合わせ、ライブの対象患者に選ばれたのは、私の心臓の患部の状況からの偶然である。私の患部は、冠状主動脈3本(心臓というポンプがしっかり稼働するため、心臓そのものに酸素と栄養分を供給する血管)のうち、左心房(肺から送られてきた新しい酸素たっぷりの血液を貯めるところ)、左心室(全身に新しい血液を送り出すところ)を覆っている2本の冠状動脈の根元のところが75%狭窄(きょうさく)している患者であった。 今の心臓手術の常識では、そこは大変重要な基幹箇所なので、リスクを考え、患者の腕や足の血管を切り取り、開腹手術を施し、バイパス経路を新たに作り、処置することになっている箇所である。もし、私が他の病院に担ぎ込まれ、手術していたとすれば、いまごろは、こんな風にパソコン相手に体験記を打ち込んでいることはなかったであろう。開腹した胸や、血管を切り取った箇所の回復を待ち、何処かの病院で寝ていたであろう。私を手術した斎藤滋医師は、日本では、カテーテル手術において執刀実践経験の非常に多い医師の一人である。斉藤先生とこの病院は、このカテーテルによるステント(金属の網管)手術が、まだ厚生労働省の保険対象治療として認められていない時期から、日本で、日本人患者を相手に、この手術を行っていた人である。アメリカから高価なステントを輸入し、手術を行っていた。そして、患者からは、もし厚生労働省が保険対象にしたならば、負担するであろう計算上の額だけを貰い、残りは病院が負担し、経験を積み重ねていた医師たちと病院である。いまは、独立してこの病院には居られないが、先輩格の医師は、God Handsと呼ばれ、斎藤医師は、Gold Handsとよばれているとの噂が患者たちのなかで流れているほど医師たちだ。興味のある方は、斎藤医師のホームページをご覧になるといろいろなことがわかる。いまや世界中から請われて出向き、カテーテルによるステント植え込み技術のノウハウを伝授しているようだ。2003年6月5日から2008年1月12日までに157回海外を訪問している。年間平均約35回である。月平均3回である。
 話を体験記に戻そう。ライブ手術の準備が整ったところで斎藤医師が8時15分ごろ手術室に入ってきた。斎藤医師だけが薄青色の手術着の下に赤黒い色の衣装を付けていた。一見して中心人物であることが分かるようになっていた。スタッフたちの中に一瞬、緊張が走ったようだ。みなが、主役のことばに細心の注意を払い、聞き耳を立てている雰囲気が感じ取れた。斎藤医師の風貌は、亡くなった社会派作家の開高健を短髪の坊主頭にし、医者風に整形したような風貌である。それまでに、私は、腕だけを剥きだしにし、その右腕が台に固定されていた。常時、心電図が右手奥で映し出されるようにセットされていた。そのうえ身体全体、何か布のようなもので覆われていたようだが、執刀医と私の身体部分は衝立で隠されており、視線から離れていたので、患者には見えないようになっていた。左手方向に大型のスクリーンがあり、私の心臓部分が映し出されていた。まだ、造影剤が注入されていないので、何かが動いているが、ぼやーっとした映像が映っていただけだ。部屋には私の心拍音が増幅されてメトロノームのように正確な音を出し続けていた。
 斎藤医師が私に挨拶を兼ねて笑顔で話しかけてきた。「平野さん、よろしく。前の二人の患者が早く終わってしまったので、早めですが始めたいと思います。ご説明したように本日は、これからライブ手術に入ります。手術しながら複数箇所と質疑応答を行いながらやりますのでよろしく。すべて、英語で行いますので‥‥ 下手な英語ですが笑わないでください」「遠慮なく、思うようにやってください。手術日は何時までやるのですか?」「午後6時終了が目標ですが、数時間のズレは始終です」「大変ですね 体力が必要ですな」と言ったら笑っていた。「先生は、まだ若いから‥‥」と言ったとき、先生は、自分のマイクテストに入っていった。「8時20分になったら始めましょう」スタッフに向けて合図した。スタッフたちは、一斉に持ち場に着いた。各会場に向けてスタートを宣言して手術は始まった。
 先生が手首から何かやっているのは、腕の付け根の所の感覚で感じられるが、痛みはほとんどないので妙な感じだ。目を閉じて進行をやり取りで想像するようにしていたが、気分が落ち着いていたので、目を開けて周りを目だけ動かして見渡していた。先生は、手術をしながら質疑応答を行っていた。集中するところにくると、助手の医師が英語で実況を行い始めるので、大まかなことは,想像できた。斎藤医師も助手も手元のモニターを見ながら進めているようだ。大画面は、他のスタッフ用だろう。造影剤を入れているので画面には良く映し出されているが、患者からは、ちょっと見にくい。気の弱い患者のためにそうしているのかも知れない。会話は、紋切り調の分かりやすい英語なので理解しやすかった。先生と助手の会話は聞こえるが、質問者の声は、レシーバーで聞いているので二人以外には分からなかった。
 する方も見る方も、みなライブ手術は、慣れているらしく、患者が不安がるような質疑はほとんどなかった。カテーテル操作の技術ノウハウの会話が中心であった。ところどころで、シビアとかタイトとかデフィカルトなどの会話が出てきたが、斎藤医師は、バットで答え、ノーシビア、ノータイト、ノープロブレムとできることを主張していたようだ。会話から判断すると、やっている手術環境は、次のようになっていると推測できた。手首のガイド板から管を心臓の患部の入り口まで通し、その管を使ってキャリアで風船やステントを運び入れ、患部を拡げたり、拡げた箇所にステントを固定したりしているようだ。手の拳ほどの大きさの心臓は、浮いたような状態で、始終動いているので、空中戦をやっているような大変不安定な動作を必要とするものらしい。手作業が不器用な人は、絶対にこの道には向いていないであろう。
 先生は、金魚掬い、剣玉、お手玉、ヨーヨー、ビー玉、メンコなどをやらせたら、すぐ名人になる素質を持っておられる方であろうなどと、つまらぬことを考えていた。風船やステントなど必要な部品は、すべて密封した透明な袋に入っており、先生の指示でスタッフがそのつど手際よく開封し、渡していた。ステントは太さと長さが指示されており、スタッフは渡すときに規格を反芻し、渡していた。私の心拍音が増幅された機械音として手術室に大きく響いていたが、ステントを固定するときであろう。一瞬、音が止まり、そのすぐ後に倍ぐらいの速度になって数秒続いた。最初は、ちょっと不安になったが、スタッフたちの表情で何時でも起こっている現象らしかった。合計3回あったので、私は3箇所にステントを入れたと思っていた。
 約1時間15分ぐらいで手術は終わった。8時20分から始めて終わったのが9時35分であった。所要時間は40分から1時間と聞いていたので、予定より随分長かった。終わって斎藤医師は私に向かって「ごくろうさま、終わりました。すっかりきれいにしましたからね」といった。たしは「サンキュウ べリー マッチ ドクター サイトウ」 と言って答えた。先生は笑っていた。回りのスタッフたちは、無言で後片付けに入っていた。斉藤先生の顔は赤く上気していた。やはり、凄い緊張感の中での仕事であることが感じ取れた。
 手術室を出るとき、車椅子に乗り、看護師が病室まで運んでくれた。手術室の外に家内と息子夫婦と幼稚園の孫が休園して迎えてくれていた。私の右手首は、手のひらが紫色になるほど強く、切った入り口を空気圧で押さえ付けられていた。息苦しいほどである。3時間経ったら少し緩め、5時間経ったら完全に解放された。左腕には、昨晩から用意された点滴用の針がセットされており、終了と共に点滴が開始された。病室に戻ると直ぐ、心電図用の装置が取り付けられ、情報がオンラインでナース室に伝送されていた。術後3時間は、絶対安静でベッドに寝かされていた。
 1昨日、昨日と心臓手術を受けた患者が同室にいたので、手術後の症状は傍で見て分かっていたが、私には異常症状は全くでなかった。症状とは、吐き気、手足のしびれ、手足の寒気、胸の圧迫感などである。事前説明で術後の症状についての可能性を受けていたので、注意していたが何も出なかった。手足の異常については、同時に両方は出ないので片方に極端に出たときは申し出てくださいと言われていた。固定した姿勢で手術を受けていたし、術後は安静にと言って寝ているので、いろいろな症状らしきものを手足に感じるが、ほとんどが問題ないらしい。ただし、両手、両足に同時に感じたものはである。
 2日後に退院となったが、映像をみながらの医師からの結果説明を見聞きして驚いた。3箇所にステントを入れたと思っていたが、結果は1箇所だった。それも根元でY字型になった1箇所である。3本のステントを送り込み、入り口で3本を加工してY字ステントにしたのであった。術前、術後の状況を比較したが、ソーセージに節をつけて3本つないだような冠状動脈2本が、太いY字のステント血管に変えられているではないか。医師曰く。3ヶ月おきに経過をみてみましょう。5月と9月です。それまでは、血栓が生じて悪さしないように注意しながら、しっかり薬を飲み続けて、今まで通り普通に生活を続けましょうと。
 いまの心境は、1週間の旅を終えた心境である。ただし、メタポリックシンドロームから脱出する覚悟を決意した旅であった。食い意地からの脱出である。また、医学の進歩とその進歩に挑戦している医師に偶然めぐり合った幸運を無駄にしないようにしたいと決意した。それが、斎藤医師への感謝の気持であろう。

(このメールを読んで、経験者である大立目君と鹿野とのやりとりでは、「平野君は、うまくいって本当に良かったね」「それにしても、えらく簡単に終わったようですが、これも医療技術の進歩のおかげでしょうか」ということになりました。メデタシ、目出度しです。)

  2007.10.27

柏木 信君からのお便りを、私信ではありますが、皆様への音信として掲載します。
                      (句読点や旧態漢字の変換などの文責は鹿野)

てろかみまをす。 ひさしくおとづれたてまつらずとしつきすぐし侍りぬ。 ちかごろ草しぬるもの二首たてまつる。 此より先へ読み給へ。 批評たばらむとなむまかりおもひぬる。 なにがし痔を病みひとかたにあしくのみし侍りければひとにあふことものろく侍りて、思想停頓のうれひにそへて、こもりがちにこそもてなし侍りけれ。それも前の前の同窓會のみは押して出侍れど、こぞの同窓會にはかほさらしつるのみにてのがれりて侍りき。君、山崎君など東京まで出でおはしけるものを、すこしもものがたらでかへしつる事いまさらにくやしくなむ侍る。またこぞのすゑもしはことしのはじめ、寓(やど)になにかしをとひ来しく有りとおほやの告げしは、もし君にやは侍らぬ。そのをり寓賃とどこほらせ、おほやのなにがしにくみうらみることふかく、いらへもさもなめかりけむとこそ思ひやられはべれ。
高橋柏君は一年下の人なれど年賀状に食道癌と侍りしかど、なほつとめにかよふとも侍りしかばさばかりにも侍らじと見過ごしつるを、近頃人の言うをうちききてにわかに思い直り、さきの日曜日堕病もはばからずおしまゐり、二時間こえて頭に輪はめぬる人にものかたりしひたてまつり侍りぬ。めをと二人していかにか御覧じたまひけむ、心もとなくこそ侍りぬ。
かくていままたはてからず成り侍りぬれば、東京におはし給はむをりさしつかへ侍らずはおとなひ給はなむかし。このこと山崎君などにもよしなにほのめかせ給へ。
大昔になりにて侍れど、わが送りてける漢詩に一字足らずげに見え侍りけむ。それは「今體(きむたい)」ならぬ「古詩」に侍れば、一句を七字をおもとすれど「君不聞十七字」や「三十三」などにわざとすることも侍る。そのこと蕪文作りはてし後は思ひかへすもなくてわすれて侍りにしを、君にふたみたび問はれて意味だに聞き分け侍らずうち過ぎ侍りつるなり。今思ひいづるままにねむごろなりけるおおもてなし、かたじけなくと申す。かろきかたばかり書きつらね侍れど、今はかくてとぢめ侍るらむ。あらあらかしこ。
平成十九年九月二十六日 まことまろ  としひでさま まゐる
(柏木君の二首 「週間現代」と「朝日新聞」よりの「安部晋三脱税問題」および「会計検査院」考については、後ほど改めて添付文章として掲載します)
  2007.09.19

  藤村の詩碑里帰り

2007.09.02島崎藤村の「草枕」
詩碑が名掛丁藤村広場に里帰りしました。その詩碑の、説明文を
高橋武雄君が起筆しました。
その案内板の内容および編集
委員長として「経過のドラマ」を
記した文章をご紹介します。
(諸般の事情によりリンク先を
 作れませんので次回の更新で
 お許し下さい)
  2006.12.29
  「技術士倫理要綱に学ぶ」(社)日本技術士会東北支部倫理研究会
  「技術士会東北」(平成18年10月1日発行の支部機関誌)小野寺文昭君の執筆した
   研究会報告が掲載されておりましたので、転載してご紹介します。
  2006.04.26
  詩歌の里心の宿 宮城野
  昨年末、高橋武雄君が起筆、編纂した
   文集が発刊されたのでご紹介します。
  2005.09 
   ミネソタ便りG、H、臨時増刊をお送りします。
   (なお、この便りは三原氏が楽しいレイアウトをしたので、再掲しました)

     

文・写真 平 野 茂 樹
     ひらの・しげき

 仙台一高じっかい 演劇部OB 66    朝日新聞社退社後 朝日カルチャーセンター 横浜支社長を経て049月からアメリカ合衆 国北東部ミネソタ州の田園都市クルックスト ーンに滞在。単身 059月まで小・中学校 でセンセイとして鋭意奮闘中

北米初感 (041204)

 我が性格にぴったり 

 賀 詞 (050101

ミネソタの微笑み

センセイになった理由(わけ

 現地報告編1ミネソタWinterとインディア

 学校報告編1なにを教えるか

 現地報告編2ミネソタWinterとインディア

 学校報告編2なにを教えるか

10 緊急報告編 1

11 
緊急報告編 2

12 緊急報告編 3

13 最新号

ミネソタの空

UpDate 1998/09/20
鹿野 敏秀
     
また新しいワープロを買い込んでしまった。ほとんど病気に近い、これで5台目になる。最初は500枚ほどの年賀状つくりが目的ではがきの印刷機能のスムーズさを狙いに一台。次は通信機能が欲しくなって一台。職場が変わり、フロッピーの互換性が必要になっての日常作業用にもう一台。その間に持ち運びをしたくなってノート型を一台。そして今回は電子手帳が思うように機能を発揮しないので、ポケットタイプに切り替えてみたという始末である。計画性のない、しかも全く衝動買いの安物狙いがなさしめたことで、われながらあきれ返ってしまう。
それにしても最近のビジネス文書は、ワープロのおかげで大分読みやすくて助かるが、一方ではそれを書いている個人の顔が見えない、味気ないものになってしまったという一抹の侘しさも感じる。手書きの時代には、字の上手下手とは別に筆圧のようなものがあって、文書に込められた筆者の愛着とか思い入れのようなものが読み取れる場面があった。転勤で離れた場所にいながら、ふと目にとまった社内文書に懐かしい字を見かけて、それを発信した旧知の健在をひそかに悦ぶなどという楽しみも、味わうことができなくなってしまった。
それはそれとして一方では、この数年のオフィスへのOA機器の普及の速さには、ひそかに心弾ませているところである。ほんの20年前には、考えられない速さでの流れになった。そのころたまたま、電算機処理を職場内に取り入れることや、オフィスの中の諸々のシステムを経営情報として結びつけることについて、皆さんから受け入れてもらえるようにと腐心していたことが懐かしく思い出される。
コンピューターのような技術の進歩が、いわゆる専門家の世界から広く一般の普通の人々に受け入れられる過程は、世代の交代無しには本物にはならないのではないかと思うことがあった。技術の発展は、ほとんど幾何級数的な速さで進むが、習慣や経験によって事を処理する能力を蓄積していく人間のサイクルは、そのスピードに乗り切れない。人は生まれて物心つき何年かの学校生活で学び、何年かの職場生活の中で対応する力を蓄える。平均寿命が10年延びるとか、小学校で九九を教える学年が一年早くなったと言った程度の進歩では追いつかない。
オフィスにあって、キーボードを何の抵抗もなくいじれるのは、テレビゲームで育った若者世代であり、今の40代から50代はどうしても構えて取り組むことになってしまう。しかし最近の人工頭脳をはじめとする技術進歩の流れは、そのような世代間のギャップさえも超える可能性を、期待させてくれている。
世代を超える話といえば、読んで字のごとしそのものズバリで昔話がある。土曜の夕方に晩酌をしながら、テレビの「日本むかし話」を見ていると、つい十数年前には夢中になっていたはずの子供やかみさん達から大いにからかわれる。それでも好きで、チャンネルをそこに合わせてしまう。
そんなひと時に出合った、信州の昔話が心に残った。深い谷を挟んだ二つの村の若者と娘が、その谷に橋を架けることを誓い合う。20年の苦労に苦労を重ねる歳月を経てその橋は完成し、すっかり歳を取ってしまってはいたが、二人は美しくも結ばれるという物語であった。
地域の問題を考えるとき、20年や30年のスパンでものを見ながら取り組む必要があることは、理性では分かっている。しかし自分も含めて、いまこの時代に暮らし生活している現実との折り合いをつけて行くことは、そんなにたやすいことではない。
百年の計は100年後にその真価を表すが、それはひとっ飛びに行くのではなく、支え続ける世代を超えた人々の英知の積み上げを必要としている。チャレンジすべき目標が、チャレンジするにふさわしい目標であるにとどまらず、過程に於いて関係主体はもとより社会的な広がりの中に、参画する悦びを育てることが求められている。世代の関係で見れば、いまの世代が未来に向かって語りかけている姿が、次の世代をして未来に目を向ける勇気を育むことになるのだと思う。
20年前に、事務の機械化の経営的総合化として目指された課題が、急速な技術の進歩を背景にして、戦略的経営情報システムとして改めてチャレンジされている。世代間の壁を超えて、技術はそして科学はまた新たな対話の手段を膨らませ続けている。
地球社会や地域社会にとって、科学する営みが、世代と世代を結ぶ掛け橋であることに思いを込めながら、日々の活動を組み立てていきたい。

メールはこちらへ、JHP事務局・鹿野宛