一寸先は闇、とはよく言ったもんだ。











  
シ         デ          ラ           さ           し   
       ン         レ           を            が         て











中間テスト最終日の科目は「英語」「地理」というの苦手教科ダブルパンチだった。
不得意科目は日程がズレていないと、非常に都合が悪い。
前日の試験勉強の際、どっちに全力を傾ければ良いか迷うではないか。
もちろん日頃からコツコツと努めていれば何の問題もないのだろうがはそれほど勉強熱心な方ではなかった。
かといって不真面目なわけでもなく、得意科目の現国あたりならば結構イイとこまで行く。
まぁ所謂、そこそこの成績のフツーの生徒である。

「あ〜…とにかく、終った終った」

出来はどうあれ、テスト期間中の独特な緊迫感から解き放たれた
玄関で上履きを脱ぎ始めた。
試験終了後、提出が遅れている課題の件(思いっきり忘れていた)で職員室に呼ばれ、叱られこそしなかったが、色々と確認している内にすっかり遅くなってしまった。
他の生徒は皆帰ってしまったらしく、いつも下校時間には賑やかな玄関は今は寂しいほどに静かである。
もさっさと帰ろうと思い、靴箱から出したローファーに足を入れたが、履いた直後右の靴の中に大量の砂を感じ思わず顔をしかめてしまった。

「またか…」

は寝起きが悪い。ほぼ毎日寝坊だ。
だが遅刻があまり続くと親を呼び出されてしまうのでは毎朝学校まで全力疾走する日々を送っている。
そんなやんちゃな通学方法の為、の靴に大量の砂や石が入ることは珍しくない。
仕方なく、は片足で立ちながらジャリジャリと音の鳴るローファーを脱いで、軽く振る。
ゴロゴロゴロ、と思った以上に出てきた小石の数に彼女は驚いた。
  
「うっわ、まだ入ってるよ」

今日の混入は、いつもに比べてかなり多い。
無駄に大入りである。
やはりテストなだけに、普段の日よりも気合が入っていたのだろう(走りに)

は再び振った。
小さな粒状の石が出てきた。
更に振った。
パラパラと細かな砂がまだ落ちてくる。
苛立ったは、更に振って振って振って。

振りすぎた。

「あ」

手が滑り、強力にシェイクされたローファーは見事な弧を描き後方へと飛んでいった。


バシィッッッ


静寂が漂う生徒玄関に、その音は響きに響いた。
そう、静かだったのだ、さっきまで。
なにしろ誰1人、いなかったのだから。
当然、今もそのはずである。
「そうであってくれ!」と願いながら、はおそるおそる振り返った。 
だが次の瞬間、彼女の祈りも空しく消える。

振り向いた先は残念ながら無人ではなかった。
そこには、ひとつの神々しい後姿が。

氷帝の「神」だとか「王」だとか崇め奉られる、テニス界の大魔神・跡部景吾。
後姿だけでも判別できてしまう、気品溢れる(偉そうな)存在感。
その麗しの跡部様の頭部に、黒のローファーが置物のように鎮座している。
計算されたように絶妙な角度で乗っかっているそれは、ものすごい安定感だ。
最早、元からそういう髪型なんじゃないかと納得してしまうほどぴったりサイズである。
  
しばしの間、そんな風に感心してしまってただったが、すぐに我に返った。
なにしろ、そんな滑稽な状態に彼を彩っているのは、他でもない自分の靴である。
彼は無言で後姿のまま固まっていたが、よく見ると小刻みに震えていた。
人が思わず震えてしまう感情といえば
  
・喜
・哀
・怒

簡単な三択である。
この状況で、喜びを感じる人間は少ないだろう(いるにはいるだろうが)
かといって、いきなり「哀」が発生する可能性も極めて低い。
ヘコみやすいタイプならばいざ知らず、あの俺様王と呼び声高い跡部景吾が到底悲しみにくれるとは思えない。

消去法でいくと、自動的に残るのは最後の…
「怒り」
これが最有力である。
というか普通に考えると、それしかない。

すんげーヤバい。

今更だが、大変なことをしでかしてしまった。
キラキラと輝いたゴージャスライフを当然のように歩いてきたミスター上流階級の頭を貧しい農民が土足で踏んづけたようなものである(考えすぎ)
跡部的・侮辱罪適用、だろう。
多分、きっと、おそらく、十中八九、ボッコボコにされる。
五体満足では済むまい。
それはあまりに可哀想だ、私が。

の本能が「お嬢さん、お逃げなさい」と告げている。
誰だって自分の身は可愛い。
自身の忠告に従い、彼女は靴をお乗せになったままの跡部様(おかしな尊敬語)がこちらを振り返る前に、素晴らしい瞬発力で玄関から飛び出した。
早い話が逃げたわけである。

「・・・ッッテメェ待てコラァ!!!」

直後、当て逃げされたヤクザのような怒号がの背後に響いた。
叫び過ぎて、ヒビ割れたような声である。王様の割りに品がない。
その雄たけびと共に、聞こえてくるのは慌しく地を駆ける音。
明らかに追いかけられている。

「ヒエエエエ!!」

殺られる…!
あげく、権力によってもみ消される…!

追われてしまうと余計に逃げたくなるのが人間である。
背後に「生命の危険」が控えているの足は、止まることなくフル回転。
必死。
超必死である。
流石に毎朝、全速力登校しているだけあってはいい脚力を持っていた。
運動部でもないくせに、短距離走では男子に劣らぬいいタイムを叩き出し、なかなかの俊足を誇っている。
そんなの逃亡ダッシュは、当然並みの女子の速さではない。

そう、は異常に速かった。

有り得ないほど。気持ち悪いほど。

その走法が、
ケンケン状態であるにも関わらず。  
  
右靴を失ったは、左足だけで跡部の追撃から逃げ続けていた。
こんな緊急下にあるのだから、靴の有る無しに関わらず、両足を使って走るべきなのだが。
何故か、靴下のみ履いた右足をくの字に曲げ、地面につけないままである。
片足の裏が汚れるくらい問題ではないだろうに、の頭は今現在、焦りで完全クラッシュしていた。 

「なんなんだオメェは――――――
  
彼のその気持ちもよく分かる。
目の前の女、(しかもケンケンに!)離されこそしてないものの
全然追いつけないこの状況の不可解さに叫びたくもなるだろう。
跡部は目を血走らせながら、限界ギリギリまでスピードを上げた。
果たしてテニスの試合でもここまで必死になったことがあるか?と己に問うてしまうほど真剣そのものである。

跡部早い!跡部早い!
跡部様すごい追い上げ!  
おそらく今のタイムを正確に記録していたら、テニスプレイヤーとしてではなくスプリンターとして全国への切符を手にすることが出来るだろう。
「俺様の美技に酔いな!」ならぬ「俺様の美脚に酔いな!」といったところか(そんなことはどうでもいい)
 
しかし残念ながら、命懸けの人間が搾り出すパワーというのは、時に人知を超えるもので。
死の恐怖にかられたのスピードは上がる一方である。
さきほどからみればやや2人の差は縮んだものの、まだまだ捕えるまではいかない。
相変わらず後ろを振り返らずに左足だけで前へ進んでいるは背後から発せられるとめどない殺気を、嫌というほど背中で受け止めていた。
禍々しいオーラが、背骨の奥まで刺さっている気がする。
一体、怒り狂った跡部景吾はどんな恐ろしい表情なのか。
どれくらいそばまで近づかれているのか。
逃げる側の心理として、当然気になる。かなり確認しておきたい。
だが、決して振り向いてはいけない、とは自分に言い聞かせた。
見たが最後、身の破滅である。
走るスピードが多少なりとも緩んでしまうし、想像以上に距離を詰められていたら怖い。
それに何より、ここで振り返ろうもんなら、面が割れてしまうではないか。

は二年、跡部は三年。
帰宅部の、テニス部の跡部。
委員会で顔を合わせたこともなければ、会長まで務める跡部とは違い、は生徒会活動とは一切無縁だ。
華々しい日々を送るスター跡部と平凡ライフをエンジョイしているの二人には、全くといっていいほど接点はない。
何かと目立つ跡部の存在をが一方的に把握しているだけで(氷帝の生徒として当然の基礎知識)完全なる他人である。
いくら同じ学校内といえど、このマンモス校・氷帝学園で名も知らぬ人間を捜し当てるのは容易いことではない。
名前どころか、手がかりとなるのが後ろ姿のみならば、なおのこと困難を極める。ほぼ不可能に近い。
  
このまま顔さえ見せなければ
「跡部景吾に挑戦状を叩きつける(実際に叩きつけたのは靴)という大胆な犯行に及んだ容疑者」
は、永遠に謎のまま。
事件は未解決。
確実に迷宮入り。
そしてそのまま素知らぬ顔で過ごしていれば、いつか時効(三年卒業)を迎えるというわけだ。
の平穏な学校生活は、無事守られる。
めでたしめでたし。

その描いた未来予想図を実現するためには、とにかく逃げの一手しかない。
相変わらず左足オンリーで広い氷帝の敷地内を突っ走り続けるの目の前に、ようやく校門が見えてきた。
持久力に多少自信があるだが、追っているのは運動部の中で一番練習がキツいというテニス部在籍、跡部。
どうあがいても体力勝負で勝てる相手ではない。 
長期戦に持ち込まれるのは何とか避けたいものだ。
よしんば追いつかれずに済んだとしても、家までついてこられてはたまらない。
自宅の場所が知れるということは、身元が割れるのとほぼ同じ意味を持つ。大ピンチである。
校内を出る前に振り切っておきたい。

どうしたものかとが考えていたところ、坊主頭の集団の姿が視界の右端に飛び込んできた。
どうもロードワーク中の野球部らしい。
テスト直後はどの部活も休みだというのにご苦労なことである。
体育会系特有の揃ったかけ声をあげ、2列に並んで走る球児たち。
テニス部ほどではないが結構な大所帯な野球部の塊はかなりの長い列をなしている。
  
どうも、こちら側で繰り広げられている「命懸け追いかけっこ」には微塵も気づいていないようだ。
距離と速度から考えて、非常に危険である。
このまま行けば、先頭を走っている主将らしき坊主と思いっきり激突しそうだ。

【校門前の交差点で野球部と暴走中の女子生徒が接触事故〜深まる片足裸足の謎〜】

相当に格好悪い学校新聞(小規模)の見出しを思い浮かべながらも、は速度を緩めようとはしなかった。
こんな貨物列車が通る踏切並みに長い野球部の行列を先に通していたら、確実に追いつかれてしまう。
青春坊主頭との事故なんてカンベンして欲しいが、跡部の手で捕獲されるのはもっとカンベンである。
決死の覚悟を抱えたは、ギュウッと目を閉じた。
交差点へと突っ込んでいった彼女の背中スレスレを、野太いかけ声が通り過ぎてゆく。
その声に思わず振り返ってしまっただったが、もう背後には爽やかに走り続ける野球部員の姿しか見えなかった。
どうやら接触せずに済んだ上に、上手く追っ手を遮断できたらしい。
織り姫と彦星を隔てる天の川のごとく、と跡部を引き裂いたイガグリ達の長蛇の列。
彼らが発する声とともに跡部のものであろう奇声が混じって聞こえてくる。


ファイッオー・・マだ!どけよ坊主ども!・・ファィッオーファィッオー


ファィッオーファィッオーけってこの!・・俺様を誰だと思って・・・!・・ファィッオー


ファィッオークショウ!・・・おい女!これ過ぎるの待ってろよ!絶対逃げんじゃねぇファィッオーファィッオー


かき消えそうな跡部の叫びなどに(聞こえてはいたが)耳を貸すわけもなく、安堵の息を吐きながらは校門を後にした。
「ありがとう野球小僧達…!今年こそ行けよ、甲子園!」
と、中学野球に甲子園は関係ないことなど気にも留めず、救いの手を差し伸べてくれた(ただ外周してただけ)野球部員達への感謝の気持ちで胸を詰まらせる
思わずぬぐった額の汗は太陽の日差しでキラリと光り、夏の始まりを予感させた(いい気なもんだ)

ピンチを切り抜けた喜びに包まれつつ、鼻歌なんぞを歌ってしまった昼下がり。
 
逃げ切れたと。
魔の手からどうにか逃げおおせたと。
彼女はそう思っていた。
本当に、そのときは。