「…あのさ…アンタ、気をつけたほうがいいよ」

深刻そうな顔でそう呟いたのは、昼休みを一緒にとっていた同僚である。

「気をつけるって何が」

ズルズルッと最後の一滴までコーヒー牛乳をストローで吸い上げたは怪訝な表情を浮かべた。
対して同僚であるその彼女は、非常に言いにくそうにモゴモゴと話を続ける。

「今は迷惑防止条例とかあるんだしさ…」
「は?迷惑防止条例?」

話が見えない。

「ホラ、あれ…何つったけ…ストーカーなんとか法っていうか」
「ああ、ストーカー規制法…
ストーカー!!?

は思わず、食べかけのチョココロネを握りつぶしてしまった。
飛び出し気味のチョコクリームを気にしながらも、予想外の言葉を吐いた同僚へどういうことかと、は詰めよる。

「ちょっと前、の家に遊びに行ったじゃん。私、場所わからないからってが駅まで迎えに来てくれて、」

ああーはいはい、とは思い出しつつ相槌を打った。

「2人で駅から家まで行く途中、なんか尾行けられてる感じがしてさ…」

彼女は至極真面目な顔でそう語るが、当の本人はそれほど真剣に聞き入ってはいない。
そんなのアンタの気のせいだろうと、は軽く流そうとしたのだが。
  
「それがその日だけなら別に問題ないんだけど。昨日もの家に一緒に寄ったじゃない?…その時も…同じでさ…感じたんだよね」

これには、も流石に黙った。
彼女が言うには、普段の外出はもちろん、自分1人での家を訪ねる時はそんな気配は全くないとのことでストーカーの標的は自分ではなく確実にだと言いたいらしい。
  
「いや、でも…そんなの一度も感じなかったんだけど」
「アンタは危機管理能力が低いんだって!私は1人暮らしだから、そういうのに敏感なの」

危機管理能力…。
なにやら国家規模で批判されているようなスケールのデカさを感じるが、最近確かに世間はなにかと物騒だ。
そういう世の中で過ごしている割には、は自己防衛の意識が薄いかもしれない。

「とにかく…三面記事に出る前に、何らかの対策を講じるべきだって」
  
心配してくれてるのか脅しているのか。
理解に苦しむような同僚の台詞に、はとりあえず頷いておいた。




その晩。
仕事を終えたは1人帰路に着いていた。
駅から家までのほんの十数分の道のり。
しかし、時間が時間だけに外灯の頼りない光に照らされた街並みは、ひどく薄暗い。
昨日までは何も考えずに通っていた道だというのに、昼にあんな話を聞かされたせいで何もかも不気味に見える。
  
はビンビンに警戒しながらも、そんな自分を気取られないよう無理して鼻歌を歌ってみたりした。
(ビビっている時によくやりがちである)
だが、歩調は明らかに早足である。
早く帰りたい、とが思ったそのとき背後からわずかにペタッと靴音が響いた。

驚きのあまり悲鳴を上げそうになっただったが、慌てて手で蓋したので何とか声を出さずに済んだ。
一旦足を止め、胸に広がる不安と恐怖を振り払うように、はブンブンと首を振る。  

それほど近い距離では、ない。  
帰る方向がたまたま一緒の人に違いない。
そう思い直して、再びは歩き出した。
  
しかし。   
  


カツカツカツ…カツ      


  
ペタペタペタ…ペタ




カツカツカツカツッ


ペタペタペタペタッ 





背筋が冷たくなった。




『つけられている』
  
  
  


は一度も振り返ることなく、もう死に物狂いで家まで走った。
これほどヒールというものをわずらわしく思った日はない。
決して高い踵ではないけれど、こんな時には数センチも命取りになる。
見てくればかりで、最悪の履物だ。
  
「…うっわー…もう、なんだよ…本当にストーカーいたよ…」
 
無事自宅に到着し、玄関のあらゆる鍵を締めたは、そのままへたり込んだ。
こんな時に限って、両親は揃って3泊4日の伊豆旅行である。

『2人でしっぽりしてきます☆お土産買って来ないからNE! パパとママより』

 「誰がいつパパとママと呼んだか!!語尾に☆を付けるのもカンに触るからやめろ!!」

苛立ったは、人を小馬鹿にしたようなその書置きを丸めて冷蔵庫にたたき付けた。
自分たちの娘が未曾有の危機にさらされてるとも知らず、いい気なものである。
一人っ子のには頼る兄弟など他にいない。
今すぐに、この状況を相談する相手が必要である。
出来ることなら、男手が欲しいところだ。

「…オトコ…」

あ。

は何かを思い出したように、手をポンと打った。


「うん、遠くの親戚より、近くの他人」




***********************************************



 
  
隣の忍足家とは、昔から家族ぐるみでの付き合いがある。
特に長男の侑士とは仲が良く、姉と弟のようにつるんでいたものだ。
しかし、が就職したこともあって、ここのところしばらく姿を見てもいない。
記憶が正しければ、奴はいま中3…14、15歳くらいだろう。
男と呼ぶにはあまりにまだ子供だが、何かと多忙なおじさんには頼るわけにはいかない。

この際、中坊だろうがなんだろうが、いないよりマシだ…!!

そう思って、チャイムを鳴らしたであるが、扉が開いた瞬間絶句した。

「ハイハイ、今出ますよって…あ…?なんや、やないか」


誰だこの男は。


こんな人、忍足家にいただろうか。
いや、いなかった。
少なくとも、は見たことがない。


  

  
「えーと…すいません、なんか間違えたようです」
  
とりあえず初めからやり直してみようと思ったは、開けられたドアを閉めようとした。  
  
「…え、ちょっ…何で締めんねや。久しぶりに来た思うたらそれかい」

見知らぬその男は、帰ろうとするの腕を掴んで中に引き入れる。  
    
「ギャア!!やめれ!!警察呼ぶぞ!!」
  
怪しい奴の家に連れ込まれたは、力一杯暴れた。
危険回避のためにストーカー対策をするはずが、まさか逆に新たなピンチを呼ぶことになるとは。
    
「おい、何言うて…!とにかく暴れるのやめぇや!」
「うるさいこの変態!離せチクショウ!」
「なんや!昔は侑ちゃん言うて可愛がってくれたのが、今は変態か!!」
「私はその侑ちゃんに会いに来たんだっつの!変態に拉致られに来たんじゃねー!」

男のネクタイをギュウギュウに締め上げることに夢中になっていたは、今のやり取りにフト疑問を感じた。  

「…あれ?」

見上げた彼の顔は、すでに酸欠により土気色である。

「…なにか声がするけど、誰かお客さんがいらっしゃってるの?」

水仕事をしていたのか、エプロンで手を拭きながら忍足のおばさんが玄関にやってきた。
相変わらず、上品な美人さんである。
ということは、やっぱりこの家は間違いなく忍足家で。
この死にかけているデカいメガネは…

「まあ、ちゃんじゃない!久しぶりだこと!…あら…何してるの侑士…?
「…ご無沙汰してまーす」

久々に訪ねた他人様の家の玄関で、他人様の息子を締め上げている自分。
どうしようもなく恥ずかしかった。