幕切れはいつも唐突にやって来る。
   
 病み上がりの彼女が登校してきて二日目。部活に向かう途中で、南に返す雑誌を置いてきたことを思い出し、一度戻りかけて、ま、いいかと歩き出し、やっぱそろそろ怒られそうと結局引き返した。鼻歌まじりで教室に入ると、そこには机に向かうの姿だけがあった。おや、と首をひねりたくなる違和感と、純粋に尻尾を振る喜色を半分ずつ混ぜて、まっしぐらに向かった。
「まだ帰ってなかったんだ」
「もうすぐ帰るところだよ、千石君は」
「ん、忘れ物」
 ああ、と頷いた顔がゆるやかに降りて横顔になる。結えられていない髪が肩の線をなぞりながら落ちた。その一筋を指に巻きつけて眠ってみたい。邪念が点滅して消える。
「体調もう平気?」
「熱がちょっと高かったくらいだし大丈夫。咳もしてたから一応休んだけど」
「そっか」
 胸の奥で安堵する。
さんいなくて寂しかったなー」
 軽薄な包み紙にくるんで渡せば、彼女はラッピングを解くことなく予想通りに丁寧に受け流した。
「また思ってもいないことを」
「ほんとだってー」
 包装紙はいくらあっても足りない。へらへらと笑いを顔に貼りつけて机に手をかけた。触れた先は紙の束で、クラス全員分には満たないと思われる量のアンケート用紙が綺麗に重なってクリップで止められていた。違和感を思い出した。
「ていうかさ、なんで一人? あいつは? 係は二人でしょ」
「ああ……今日から交代制になって。そうすれば二人毎日残らなくて済むって」
「え、」
 それじゃ意味ないじゃん! と口から出そうになったのをかろうじて押さえ込んだ時。
「もう帰ったと思うよ。彼女が迎えにきてたみたいだから」
 横顔が淡々と語った。
 千石が応じることができたのは、およそ三つほど呼吸をしてからだった。
「……彼女、いたっけ?」
「いたんだね。それともできた、のかな……私も、知らなかった」
 さっき初めて聞いたから。
 落ち着きを払った昼の月に綻びは見当たらず、その声からは、顔からは、何も読み取れない。
 今日もカーテンは神経質なくらいぴったりと窓を覆っている。電灯に手を伸ばすほど不自由はない。けれど細かい作業をするには心もとない。宙ぶらりんな薄暗さ。
「……千石君?」
「あ、うん、」
 これまで巧妙にくるんできた軽薄な包み紙が今は見つかりそうもなかった。訝しげな視線から逃れるようにして、胸ポケットから取り出したそれを差し出す。彼女は意外そうな顔をして、持ってきてくれたんだ、とアンケートを広げた。
「……ごめんね」  
 それだけしか言えなかった。雑誌も取らずに教室をあとにした。部室に向かう途中、くずかごにフリスクを投げ捨てた。

 誤解や間違いという僅かな可能性はすぐに否定された。その日以来、仲睦まじく登下校する二人の姿を、何度となく目にすることになったからだ。聞くところによれば相手の女の子から告白したのだという。彼女も消しゴムに彼の名前を刻んでいたことから、例のおまじないに対する信頼はますます高まった。一部を除いて。
 あれからをとりまく波は穏やかなまま。泣きはらした様子もやつれた様子もない。まるで何事もなかったと錯覚を覚えるほどに。だがやはりそれは錯覚だと、彼女のペンケースを見て思う。手癖の悪さを自覚しながら、が席を離れた隙に盗み見た。物言わぬ消しゴムは、まっさらの下ろしたてに変わっていた。そこには誰の名前もなく、雪原のように沈黙したゴム質の肌があるだけだった。
 彼女は秘した恋を秘したまま失ったのだ。
 携帯が震えて知らせる。「今度いつ遊べる??(はあと)」に「ごめんね」と低い温度で返信した。
 本当にごめんね。



「漫画だかゲームだか知らないけど、ほどほどにしとけよ」
 ガットを張り替えていた南が顔を曇らせながら言った。そこどけろとラケットにつつかれ、死体のようにベンチに横たわっていた千石はだらしなく立ち上がる。
「ナニソレ」
「目の下。クマひでえぞ」
「うっそまじで」
 常に持ち歩いてる手鏡をポケットから出して覗き込む。赤い目と青いクマの、不健康そうな男と目があった。
「イケメンが台無しじゃん」
「イケメン云々はどうでもいいけど寝ろよ。不吉だ顔が」
「南も寝ろよ。顔が地味だ」
「俺はこれが万全なんだよ!」
 肩をいからせて憤慨し、部長はコートに戻っていった。それを見送った千石はあべこべに校舎へと向かう。風が出てきた。手に抱えていたぺらぺらの上着を適当に羽織る。
 漫画だかゲームだか。南の言ったそのどちらも、ここ数日千石は手にとってすらいなかった。毎日訪れる夜の長い時間、映画を見てるわけでもネットに費やしているわけでも、ましてや机に向かっているわけでもない。目の下の鬱血した皮膚を指でなぞりながらひとりごちた。
 眠れないんだよ。
 夜毎、日付をまたぐ頃にはベッドに入って目を閉じているのに、暗闇が寄り添うばかりでうまく寝付けない。ようやく眠りに入れば寝覚めの悪い夢を見た。ぽつんと一人で椅子に座って女の子が泣く夢だ。肩をたたいて慰めてあげたいのに、夢の中で千石は体という形を持っていないから、触れることも声をかけることもままならない。その人はいつも顔を覆っている。でも誰なのかは考えるまでもなかった。一番泣いて欲しくない人。
「あ」
 ひらひらと手を振ると、ひらひらと返ってくる。飛び上がらんばかりに驚いた割には、冷静な反応に止められたと思う。自販機の影から顔をのぞかせた一番泣いて欲しくない人は、泣くことも笑うこともせずに佇んでいた。
「いちご牛乳ー」
 彼女の前に滑り込んで、いま最も荷が重そうなパッケージのランプを押す。暴力的なまでな甘さは運動前後の喉越しに決して優しくないが、あえて自らに鞭打つように選んだ。こういう崇高な精神を人はМと呼ぶ。
 視線を感じて振り向くと、じっと見つめる瞳が光っていた。横入りを咎めているのかと思いきや、そうではなかった。動きの豊かでない表情に気遣わしげな気色が灯る。
 小さな声で囁くように。 
「先生いないから、保健室で寝られるよ」
 一番優しくしてあげたい人に、かえって優しくされてしまった。誰の目にも明らかなこの顔色が恨めしい。
「添い寝してくれるなら」
 無言で肘を軽く殴られる。不意をつかれたのと思いのほか痛かったので「ぐうっ」とくぐもった息が出た。目の端が怒ってるように見えるのは、心配してくれているからだと分かっているから、肘じゃない部分が痛くなる。
「大丈夫、ちょっとゲームやりこんじゃって」
 安心させるように口角を持ち上げると、角張っていた雰囲気がそろりと緩んだ。
「ほどほどにね」
 南と同じことを言うのが、面白くもあり面白くなくもある。
 財布を持ったまま彼女が自販機に一歩近づいた。細い指がからんからんと投入口に入れてゆく。十円玉五十円玉十円玉十円玉。
「百円玉なかったの」
 君は大丈夫かい。
「いやあるんだけど」
「あるんだ」
 眠れてるかい。
「小銭減らそうと思って」
「なるほどね」
 泣いてないかい。
 口に出す言葉と、口に出したい言葉は一致しない。言う権利がない。
 小銭を入れ終えた指が烏龍茶のランプを迷わず押した。小銭よりもっと大きな、パックのジュースの落下した音が下から響く。ごとん。
「……よく眠れる方法って知ってる?」
「眠れる方法」
「不眠症で困ってる奴がいてさ」
 彼女は考える素振りで顔をわずか傾けたあと、自信なさそうに答えた。
「深呼吸、とか……?」
「深呼吸……」 
 千石の深呼吸は夜の三時まで続いた。

    

 体を走る細かな振動で目を覚ました。授業中に気絶したのか、石川啄木が蟹とたわむれているあたりから記憶がない。遠慮のないざわめきで、今が休み時間だとなんとなく知れた。重たい瞼と視界が痙攣するように震えている。
……地震? 
 千石を起こした揺れの震源地は隣の席だった。
「なにしてんのー……?」
「見てわかんない? 消しゴム消費中」
 脇目もふらず、席にかじりついて、その彼女は必死で消しゴムを動かしていた。ノートもなにもない更地の上を。
「早く使い切っちゃえばそれだけ早く効果が出るでしょ」
 それを聞いて、そういえばこの子もおまじないの信奉者の一人だったと千石は思い出した。
 それ、効果ないよ。
 叶わなかった女の子を思い描き、心の中でだけで水を差す。本来なら、こういう手合いは諸手を挙げて歓迎する千石だ。占いもおまじないも、幸運を呼び寄せる可能性が欠片でもあるなら喜んで飛びつこうものだが、今その件に関してだけは心が受け付けない。むしろ敵視さえしてしまう。しかし目の前の恋する乙女とこれは別問題だ。
「頑張って。叶うといいね」
「うん、タブー破る前に使い潰す」
「タブー?」
 千石は首をかしげて聞き返した。
「そんなのあるんだ?」
 女子生徒はカンナのように削り倒していた手を止め、呆れ返った声を出した。
「まじで知らないんだ? 千石君のことだからとっくに情報行ってるかと思ったけど所詮男子だねー」
「え、好きな人の名前書いて、使い切るんだよね?」
「そうだけど、それだけじゃなくて。つうかそんなゆるいわけないじゃん」
 彼女は消しゴムを再び痛めつけ始めた。振動が千石を襲う。
「誰にも見られないように、っていうのが肝心なんだよ」

 

 世界の蚊帳の外。
 携帯の着信音もスピーカーの呼び出しも、規則的な鐘の音も、イヤホンの壁が退ける。
 透明な高音が散ってしまった恋を幾度も囁く。幾度も幾度も。口ずさむ元気もなくてお経のように聞き流していたけど、頭はしっかり受け止めていた。誰もが切ない傷跡を歌う。軽やかであっても詞は寂しい。ランダムで流しているはずなのに、なぜだかプレイヤーは恋にやぶれる曲ばかり聴かせる。美しく切り取って飾り立てるように歌い上げられてもなんの慰めにもならない。
 ピンと張った長さが窮屈で軽くイヤホンのコードを引くと、どこかで引っかかっているのか突っ張って持ち上がらなかった。絡んだままだったと思い出し、鞄から出してみればあの時よりも更に複雑にもつれ合った蜘蛛の糸が玉になって光る。一度絡まったものを放っておくと、どんどんと結び目に巻き込んで簡単にはほどけない。
 うまくいかない。
 願った通りにの恋が最良のエンディングを迎えたとしたら、生きたまま海に沈められるような心地がしただろう。でも彼女がどこかで一人で耐えていたとしたら、千石にとってこれほどの痛手はない。
 どう転んでも茨の道なら、せめて彼女の足が傷つかずに済む進路を進みたかった。
 たかがおまじない。たかが気休め。
 唱えてみても安らぎは訪れない。

――俺のせいじゃん?
――手助けどころか疫病神じゃん?

 秘していたものを暴いたのは自分だ。忍んでるつもりが土足で踏み荒らして。
 イヤホンを乱暴に抜いて机を顔に伏せた。こんな時こそテニスの健全な力を借りたいのに、今日に限ってコート使用禁止は何かの罰か。なに老人会テニス交流会って。聞いてないそんなの。
 まっすぐ帰るには足が重い。できることなら人魚姫のように泡と消えてしまいたい。ただし王子は道連れだ。
 カラ、と。ごく大人しく開かれた扉の音が、侵入者の存在を教えた。耳だけで拾っているから、誰かまではわからない。担任かな、と陰る視界の中であたりをつける。
 足音はたんたんと厚みのない音を奏でて近づいてきた。早く帰りなさい、と教師然とした台詞を予想していたら、下りてきたのは五感が直立する声だった。
「……おきてる?」
 顔を上げて確かめるまでもなく。上げて合わせる顔もなく。寝たふりでやり過ごすこともできたが、結局その道を選ぶほど卑怯になりきれなかった。やはりこれは罰。千石は観念した。
「……寝ちゃったみたい」
 心して整えた顔は、いつもほど器用に笑えてるとは言い難い仕上がり。正面から見下ろす形で立っているは胸に筆記用具と印刷されたばかりとおぼしき保健だよりを抱えている。彼女は保健委員だった。
「委員会?」
「うん」
 頷いた彼女の指がその頬をなぞる。
「顔に跡ついてるよ」
 声に微笑みが混じって耳に甘く届いた。それを置き土産に離れていこうとするのを、引き止めたのは罪悪感なのかそれ以外なのか、とにかく気づいたら腕を掴んでいた。その性急さに彼女は驚いていたようだが、それ以上にびっくりしていたのは当の千石だ。
「せんご、」
「それ、」
「え?」
「保健だ、より、折るの、手伝うよ」
 息継ぎのタイミングが変にずれた。ださい。未だに手は腕を掴んだままで、縋っているような格好なのも余計にださい。しかし今更引っ込みはつかない。彼女は振り払うことも不審そうに見るでもなく、ただ二度ほど目を瞬かせて、千石の前の席の椅子を引いて座った。それから「ありがとう」と誠実に発音した。

 正直なところ、手伝うというほどの作業と量じゃない。それでもゆっくり丁寧に保健だよりを半分に折って時を稼いだ。【健やかな体づくりに欠かせない栄養素】の項をもう15回は読んでいる。何度読んでも、30品目を摂取するのは骨が折れるという同じ感想が巡った。日暮れは彼女の向こう側で徐々に始まりつつある。煌々と燃えて昼の月を炙るように。どうして太陽は座を辞する引き際に最も迫力を孕むのだろう。
 千石は握りこぶしを滑らせて、16枚目の保健だよりをじっくりとプレスした。
「深呼吸、効かなかった?」
 迂闊にも拳を止めてしまった。
 呼吸を慎重にやり直す。取り繕えるか。立て直せるか。重々しく顔をあげると、そらせないくらいにまっすぐ目がかち合って、もうだめだと諦めた。
 効かなかったよ。
 深呼吸も恋の味のフリスクもおまじないもぜんぶ。ぜんぶ効かなかった。
 からんからんからんと、底に溜まった小石がいっせいに鳴り出し、千石は吐露した。
「眠れないんだ」
 泣き笑いみたいな顔はもう包装紙ではくるめない。ジッパーが開いたまま横たわるモノトーンのペンケース。そこで眠る消しゴムはもう何も願わない。子供騙しの願掛けに託された思慕を叶えようとした意思に偽りはなかった。でも、底の底の底には、他の手に委ねるのを強く拒んで、獣のように吠え狂う自我があった。
「ごめんさん。ごめんね」
「え? な、なにが?」
 月の表面が動揺に揺れている。珍しい、とぐちゃぐちゃに攪拌された頭の片隅で、そこだけ聖域のように静かに思う。
「……泣いてる?」
 閉じた瞼の先、尻込みしたような声が遠くなって、近くなった。情けないとか思う暇もなかった。おずおずと目元に触れてくる感触と香りに甘やかされる。そっと開くと小花柄の世界だった。
「鼻、かんでもいいから」
 死んでも無理。遠慮がちに離れていく指の代わりに、自分の面白くもなんともない手でハンカチを押さえた。優しくされるのは嬉しくて根っこから溶かされる。同時に後ろめたさが倍の速度で這いずってくる。優しくされる資格なんてないのに。きれいにアイロンがかけられたハンカチをこんなどうしようもない奴なん、か、に?
 目を疑った。
「…………これ、さんの?」
「ん? うん」
 畳まれた薄いブルーの花柄に思考の全てを奪われる。詳しく言えば、模様の角。彼女のものではない名前が黒々とサインペンで。嫌な響きで心臓が動く。
「あ。あー……」
 書かれていたのは消しゴムと同じ、いまこの世で最も見たくないあの男の名前。首を伸ばして覗き込んだ彼女は、バツが悪そうに千石の手から取り上げた。二粒分ほどの水分を吸い込んだハンカチに目を落として、短く息をつく。
「用心してたのに、こんなとこまで……」
 弱り果てた口調とは裏腹に、微笑ましいとしか言いようのない表情が浮かんでいた。なにかおかしい、噛み合わない。じわりと感じた汗に違和感が混じる。混乱し始めていた千石に再びハンカチは引き渡され、はにかんだ口元が告げた。

「ごめん弟が、」
ゴメンオトウトガ
「字覚えてからずっとこうなの。人のものに名前書くのがブームみたいで」
 ヒトノモノニノマナエ 
「あ、でもちゃんと洗濯してあるから」 
 センタクシテアル


 誰か日本語で頼む。


 理解と分析の能力がついていかない。
 千石は、煙を上げて穴があくほど、ただただハンカチを凝視した。瞬きを忘れて目が乾いても、そこから視線が吸い付いて離れなかった。
 バランスの崩れた稚拙なひらがな。
 いつか見た消しゴムの、今ここにあるハンカチの、ふたつの文字が頭の中で並び重なり宙を舞い、最終的に手を取ってマイムマイムを踊る。
 彼女の筆跡はこれまで何度も目にしてきた。ノートでもプリントでも黒板の上でさえ、ひととなりを現すような背筋の伸びた綺麗な――ゴメンオトウトガ?
「オト、ウト」
 やっとの思いで吐き出した声には滑らかさがまるでなかった。
「うん」
「弟の名前、なんだ?」
「そう」
「どこにでも、書く、の?」
「どこにでも。テストとかノートとか教科書とか定規とか」
「消しゴムとか?」
「そう消しゴムとか」
 ソウケシゴムトカ
 言語関係の障害はなかなか復旧しない。
 消しゴムに書かれていたのは、弟の名前で、書いたのも弟で、全ては弟の犯行によるもので、そういえば苗字が書かれてなかった。冷や汗が額を起点にしてどっと噴き出す。
 あれ。だって。彼のこと、見てたよね? 目を細めて恋しいような顔をして。
 ハンカチの隅をいささか震える指でさし、最終確認。
「クラスに、同じ名前の奴がいる、よね」
 いますよね? ね?
「……そうだっけ?」
 申し訳なさそうに首をすくめた彼女は、興味の欠片もない回答を差し出した。
 その場に崩れ落ちずに済んだのは、ひとえに千石の残り僅かな根性によるものである。両肘を己が支えにする、いわゆる某碇ゲンドウを模した姿勢で衝撃に耐えた。空中で逆さになったがらくたが、間抜けな音を立てて次から次へ頭上にふり注ぐ。殴らなくて良かったとか。むしろ自分を殴りたいとか。おまじないにクレームつけてすいませんとか。フリスク無駄死にとか。じゃああの顔なんだったの? とか。痛くはないが五月雨のごとく膨大で身動きが取れない。じっと耐えるのみ。
 千石が大人しくなればも同様に黙る。
 会話が途切れた。
 どちらも声はない。
 無口な時間は粛々と船を漕ぎ空白を渡っていく。そっと波を立て、沈黙の封を切ったのは向こう岸。
「……昼間、太陽によく当たって」
 ちょうど対岸に届くほどの声で。
「飲み物はホットミルクやハーブティー」
 息遣いはなだめるように。
「寝る前にテレビやケータイを見ないのも、効果的です」
 正しく動く唇は、記憶をもらさず伝えんとする使命を帯びていた。
 ひとつひとつ語られたそれらが、安眠にまつわるノウハウだと、千石が気がついたのはハーブティーに触れたあたり。自販機の前で交わしたやりとりがふっと浮かんだ。あのとき、持ち合わせの知識をかき集めても深呼吸くらいしか出てこなかったのに。
 気にしてくれてたの? と口に出して確かめる余地さえも惜しかった。この子が泣かずに済んで良かった。傷つかずに済んで本当に良かった。それ以外はもうどうでもいい。
 降り注ぐ無数の雨が一滴に絞られて目の前に落ちる。
 君はかわいい。君はやさしい。君のことが好きです。
「ありがとう」
 誠実に響くようにと精一杯発音した。
「今夜は眠れるよ。きっと」
 いやぜったい。作り笑いじゃない顔で言うと、千石を案じていた目がほっとしたようにやわらいだ。すみずみまで金色に冴えた満月が見えた。
 さっきとは種類の違う泣き笑いに歪みそうになって、誤魔化そうと窓へと顔を向けたら、強烈な夕日の一刺しに貫かれた。反射で目を閉じた。
 あ。
 ゆっくりと閃きが襲う。
 あの日あの時、彼女の視線の方向は窓側ではなかったか。確か席もこのあたりの位置で。でも時間としては日暮れには遠かった、何より彼女の他には誰もそんな素振りは――
 千石の目線につられたか、同じ方向を辿っても窓辺を振り返り、
「まぶしい」
 あの日と同じ顔をした。普段大きく動かない眉目がぐっと崩れて、痛ましく目を細めて。そしてすぐに千石に向き直る。
「カーテン閉めていい?」
 ――私、人より光に弱くて。
 その両目が少し潤んでいた。

 今度こそ千石はその場に崩れ落ちた。
 両肘のストッパーも虚しく、踏まれた青蛙のように机の上にぐしゃりと倒れ伏す。ぎょっとして腰でも浮かせたか、正面から慌ただしい物音がした。
「ど、どうしたの?」
 それには答えず、否、答えられず、机に顔面を預けたまま、後頭部に両手をかぶせた。ああ、とため息が漏れ出すとともに、じわじわと力ない笑いがこみ上げてきた。降伏にも似た感慨が、千石の瞼に重石を乗せる。
「俺ねえ、目はいい方なんだよ」
「……? それは……自慢……?」
「だね、自慢だね。うん、自慢……だったんだけどなあー」
 返事とも独り言ともつかないトーンで朗らかに呟くと、戸惑っているのだろう、腑に落ちていない相槌がかろうじて聞こえた。わかんないよねえ、と喉の奥を震わせて笑う。本人でさえ、現状こうして頭を抱えている。
 何でも見えてるつもりだった。見えすぎて時に恨めしさを覚えるほどに、だ。滑稽にも程がある。レンズの威光が届かない例外にさえ、今の今まで思い至らなかったようなポンコツが。
 体の一部は自分の一部だ。心に立つ波風はそのまま映る。対象に抱く感情によってレンズが不安定に歪むのは道理だろう。一定距離を保てないほど思い入れがある対象なら、なおさら。
「……大丈夫?」
「だいじょーぶ。ちょっと自己を見つめ直してるだけだから……」
 くぐもった声でぼそぼそと応じる。情けないのと恥じ入るのとで、未だに顔をあげられない。身じろぎした拍子に肘がプレイヤーをつついて落としてしまった。薄くて軽い、コンパクトなそれは、さして物音も立てずに床へ着地した。千石の胸に落ちた小石の音によく似ていた。
「落ちたよ」
「うん」
「拾ったよ」
「うん」
「千石君、イヤホン」
「うん」
「ぐちゃぐちゃだよ」
「……さんのより?」
 少し間が空いて、笑うような気配。
「ううん」
 あんなにはひどくない、と声に懐かしさを添えて寄越した。
 壁にした腕の隙を縫って夕日の名残が差し込んでくる。いいかと尋ねてきたのに、彼女はまだカーテンをひいていないようだった。あともう少し経てば、景色に色をつけている残照も消え、空は月の舞台になるだろう。威勢を欠いた橙色の一筋を両手に囲い込んで息を吐く。
「こんがらがっちゃったんだ」
 一人でぐるぐるして、ただの一本の糸をわざわざ手間ひまかけて絡めてもつれさせて、息苦しくなるまでがんじがらめに。いつか彼女を困らせていたイヤホンのコードみたいに黒い魔法のごとく険しく複雑に。
 でも、いつか千石がこの手でほどいてあげたみたいに、それは永遠には続かない。やがて必ず魔法は、
「ほどこうか。私」
 魔法はとける。
「……ほどいてくれるの」
「器用じゃないから、時間かかっちゃうかも知れないけど」
「時間、かかってもいいよ。待つよ俺。いくらでも」
 待てる。ずっと待てる。それこそ月が百周しても。
 熱を帯びる胸の内と目頭を、机と顔を突き合わせたままの姿勢で宥めてこらえた。これ以上、彼女の前で泣くわけにはいかない。ハンカチだって勿体なくてとても使えない。制服の袖に顔をこすりつけて乱暴に拭えば、鼻の頭がひりひりとした。
 千石は人よりも目がいい。視覚に優れてる。でも特定の相手にはてんで不完全で、著しく性能が低下してしまう。見誤るし早合点もする。これまでのように見たものを丸ごと鵜呑みにするのは危険だ。特に目の前の人に関しては。
 だから、きっとこれは見間違いだろう。ミスかエラーが発生したか、レンズにヒビでも入っていたか。それとも都合よく補正がかかったのかも知れない。
 そうっと開いた薄目の向こう側、千石を射抜いていたのは彼女の視線。
 窓に背を向けていて、電灯はまだ沈黙し、光に弱い目を苛むものなんて何一つないのに、とても眩しそうな目をしていた。
 絡まったコードの先端が、するりと抜けた気がした。