今日、ここに来ると確かに忠告は受けていた。 何が来るって犬猫ではない、色魔である。そう頻繁に会話に出ることもなければ実際出没するものでもないので心にしっかり刻まれたし、それなりに警戒心も持っていた。そういった人物を見かけたらとにかく逃げるべし。 しかし、それは10メートル先からでも確認できるわかりやすい判断材料があった場合である。 あいにくこれまで関わったことがないので、どんな姿でいるのが色魔として正しいのかそのへんはわからないが、人に色魔と言わしめるくらいなのだから、とりあえず一目で「あ、これは危険」という認識が下せる程度に怪しさを振りまいてるもんだと思っていた。 まさか、日常に溶け込むような至って爽やかな御仁が現れると誰が思うだろう。 「だからお前は駄目なんだ」 跡部は心から呆れたような声を出した。 「世の中、見た目通りの奴なんてそうそういねえんだよ」 一見もっともらしく聞こえるが、啖呵を切った本人からして見た目通りなのであまり説得力がない。 背中に一斉に風が吹き、何事か振向くと前もって振り付けでもしていたかのように宍戸・向日・忍足のトリオが揃って溜息を吐いていた。 「なんで色魔もわざわざ一番厄介な奴を引っ掛けてくんのやろ」 「見事に引っかかって来るもどうよ?ほんとに期待裏切らねえな」 「なんですか、そのさも私が悪いような言い方は」 「まあ、いいか悪いかっつったら悪いな」 「宍戸先輩までダメ出しを!」 さほど自分に非があると思ってなかった分、批判が相次ぐと地味にショックを受ける。ただ少しばかり善行をしただけなのに、見る目がない、よりによって色魔を、いい加減空気読めと代わる代わる説教が飛んできた。 「え、ちょっと、あのさ」 しばらく他人事のように眺めていた千石も、と部員のやり取りを聞いている内に自分がどういう立場に置かれているか気付いたようで、取り乱しながら、つんのめるような足取りで輪に駆け寄った。 「まさかと思うけど、さっきから飛び交ってる色魔って俺のことじゃないよね?」 念を押すように"まさか"を強調する笑顔を跡部はバッサリと斬った。 「お前以外に誰がいる」 慈悲の欠片もない応答に千石は一瞬固まった後、えー!?と驚きと困惑が入り混じったような声を上げた。当人には全く自覚はなかったらしい。 というか、逆に相手に自覚があった場合を想像してみると、目の前で性犯罪者呼ばわりした挙句に噂で頷きあったりしていたわけだから、試し斬りをしたがってる武士に町人風情が喧嘩を売ってやるようなもので、これは結構怖いことである。 しかし実際は色魔とされる人間には色魔であるという意識はなく、そうなると色魔はひたすらに不名誉で受け入れがたい呼び名でしかない。生きている内に絶対につけられたくない二つ名であろう。 「それじゃ何、俺が来ると危ないから帰したってこと?」 詰め寄られた跡部は当たり前じゃねえかと軽く鼻であしらう。 「失礼だなあ!これじゃ俺が犯罪者みたいじゃん!」 「ほとんど同じようなもんじゃねえかよ。生物上メスであれば何でも手出して、常に複数とくっついたり離れたり繰り返しやがって」 「それ話大きくしすぎだって!だいぶ誤解と脚色入ってるって!」 「千石君て優しいけど絶対私の事好きになってくれない」 唐突な棒読みに千石は凍りついた。 「…とかなんとか言われたらしいな。お前は女の敵だ」 「ちょ、誰から聞いたのそれ…!」 部長に会長と、組織のトップとして君臨するその手腕は伊達ではなく、表からは見えない情報網を色々と持っているようだ。たじろぐ様子に満足した跡部は勝ち誇った笑みを浮かべたが、手負いの獣ほど警戒が必要なものはない。 「そんなこと言ったら跡部くんだって」 千石の目の奥が意地悪そうにきらりと光る。 女の子取っ替え引っ替えしてるじゃない、それこそちぎっては投げちぎっては投げしてさ。バッ…てめえと一緒にすんな!連れて歩く子が毎回違うって有名だよ、一ヶ月持てば長い方、最速は2日だっけ?もうそんな昔のことは覚えてねえんだよ、大体二股三股四股かける奴よりよっぽどマシだろうが。四股ってもうそれ股裂けるよ!誰のこと言ってるか知らないけど、オレそんなことしてないからね! 古今東西、男の足の引っ張り合いほど醜いものはない。 お互い相手を潰すことのみに専念し、ひとまわり歳の違う相手と付き合っていたとか携帯のアドレス帳は女の連絡先で常に上限いっぱいだとか一文の得にもならない罵りあいを繰り広げていたが、この場に居るのは自分たちだけではないことに唐突に気付いた。 今更顔色を変えて聴衆を振り返っても、100畳くらいのばかでかい部室ならいざ知らず、すぐそこというこの近距離では声が通らないはずはない。残念ながら会話の全てが丸聞こえである。 とはいっても跡部が恐れていたのはたった一人の反応のみで、他の三人については心からどうでも良かった。そもそも視界にすら入っていない。 「…今のは99%フィクションだ、全部忘れろ」 1%を残しておくところが微妙にせこいというか、逆に一層のリアルさを与えてしまいそうだが、にはこれといった動揺もなかった。 派手な人間には必ず派手な噂がついてまわるもので、それが一挙手一投足に注目が集まる跡部景吾となると巷で囁かれる噂もガセネタも半端な数ではない。当然その中には振った別れた揉めた泣かせたと女がらみの話題もふんだんに盛り込まれており、どこまでが真実かわからぬもののそのお盛んぶりは中・高含めて氷帝生ならば誰もが知るところである。よって、これまで何度も耳にしたことある伝説ベストテンを改めて発表されたところで、には驚きようがない。逆にリアクション取りにくい。 しかしそうと存ぜぬ跡部は動じる様子のないの態度を、揺らがない自分への深い信頼によるものであると実にポジティブかつ都合の良い方に受け止め、ひとり静かに胸を打たれていた。 この前向きな姿勢は見習うべきものがある。 「オレのもフィクションだから頭から消しちゃってね」 「、こいつの言うことは聞かなくていい」 消そうにも一度刷り込まれたのが色魔という印象では、インパクトが強すぎて完全に払拭できるものではない。 「信じてよーちゃん、俺至ってフツーに女の子好きなだけだから」 千石は手を合わせて拝むように懇願した。 跡部が一度だけ呼んだ名前を聞き逃さないあたり、女の子好きなのは間違いないようだ。しかしその抜け目なさと馴れ馴れしさがダブルで跡部の気に障ったらしく、再び必殺の手刀が繰り出されたものの、二回も食らってたまるかとばかりにすんでのところでかわされた。安堵の息を吐く千石に、外したかと跡部は小さく舌を打つ。 「勝手にちゃん付けしてんじゃねえよ、つうか呼ぶな。帰れ」 「いいじゃんねえー?」 例の丸め込まれそうな笑顔を向けられたが、今度ばかりはさすがに素直に頷く勇気はない。 「マネージャーは部のアイドルかも知れないけど束縛するのは良くないなあ」 「あ、私違います」 よく受けがちな誤解なので軽く否定すると、意外そうに目が丸くなった。 「え、マネージャーじゃないの?じゃあなんで部室……」 そこまで言ってから、あ、そうかと千石は手を打った。 「もしかして誰かの彼女?」 その類の誤解は初めてである。 全力で違うと言いかけたを別の声が押しのけた。 「そうだ」 跡部が言ったー!!! クララが立った!とほぼ同じ勢いで感動にも似たどよめきが部員の心を走った。 伝わりにくいこと山の如しであったこれまでのアプローチを思えば、これはかなり思い切った行動ではないだろうか。空振り三振に終っていた打者がついに初ヒットかと観客席は興奮、そして総立ちである。 しかし全てが熱狂に酔っているわけではなく、はひとり混乱の風吹くスタジアムの外にいた。 なぜここで虚偽の申告を? 口に出して伺いたかったが、その時の跡部は骨の髄まで強張ったような面構えをしており、この先決してNOと言うべからずという問答無用のオーラを四方に発していた。意見など出来そうもない空気に、ここは黙ってイエスマンに徹しようと人知れず誓う。 「やっぱりそうかあ」 跡部の一言が爆弾発言であるとは思いも寄らず、千石は少し残念そうに溜息をついた。が、すぐにその瞳を好奇心いっぱいに輝かせた。 「で、彼氏だれ?」 に答えられるわけもないので、当然この問いは発端となった男にゆだねられる。 待ってましたとばかりに一歩踏み出した跡部は自信に満ちた表情で周囲を見渡し、やおら腕を組んだ。 「このテニス部の頂点に立つ男だ」 え!と叫んだ千石の驚きは予想以上だった。自分が色魔とされてることを知ったその時より、余程うろたえているように見える。 余裕のない顔のまま「そうなの!?」と問い質されたので、イエスマンは己の職務を全うせんがため「は、はい!」とやたら元気な返事を返した。 「付き合ってるの?!」 「はい!」 「監督と!?」 「はい!」 「そういうことだ、もう二度とこいつに近……ああぁ!?」 バッターが放った渾身の打球はヒットどころかゲッツーとなった。 「いやーまさかあのロマンスグレーの彼女とはなあ…びっくりしたなあ……」 未だ困惑を拭えない様子で、千石は呆然とを見た。はぎくしゃくと音がしそうな笑顔をつくった後、ぎくしゃくとした顔のまま跡部を見た。 大丈夫ですか、これ。 笑ってない黒目が訴えている。 当たり前だがこれは跡部としても完全に計算外の展開で、本来なら今すぐにでもやり直しを要求したいところだ。 しかし勢いに任せた返事とはいえ本人の口から肯定の言葉が出た以上、外野がそれを取り消すのは不自然、下手するとでっち上げだと悟られかねない。千石という男は油断も隙もない。そういう相手には自分の女だと宣言するのが一番のけん制になると跡部は考えていた。まさかそれが、榊の女という更にヘビーな肩書きになるとは思わなかったが。しかし、これ以上の虫除け効果を発揮する物件はそうない。何しろ相手は顧問。 ただ、その分立ちはだかる問題も大きくなる。 「ねえ、ちょっと聞いてもいいかな」 その声からは、千石のためらいが感じ取れた。 「監督って、いくつ…?」 向日はごくりと音を立て、一拍間を置いてから答えた。 「……43」 人数分のごくり、が部室に響いた。 自由恋愛という言葉が死滅しつつある今の時代、誰が誰と恋に落ちようが愛を語ろうが当人達さえ良ければ許されることであるし、歳の差などもはや大した障害にはならない。ならないが、法律に触れてはいけない。中学生が中学生と付き合ってもせいぜい親が目くじら立てるくらいだが、中学生と43歳の交際は場合によっては警察が動く。 誰もが口にしないものの、誰もが意識しているであろう漢字二文字をは猛然と振り払った。 身に覚えのない罪で監督を犯罪者にするわけには! 「いいいい言っときますけど、監督と私は湧き水のように清らかな関係ですから!」 悲しい哉、人は渦中にある時こそ物事の肝を見失うものである。 監督とは付き合ってませんと白状すれば済むところを、淫行説抹殺に必死になるあまりそれがスッポ抜け、代わりに飛び出したのは、私達いかがわしいことしてませんというかなり方向的に間違った主張だった。 根本的な解決からは程遠いが、今更ここまできて話を合わせない訳にはいかない。 「た…確か手繋いだこともないって言ってたよなあ!?」 「そ、そうそう手振り合って喜ぶような仲なんだぜ!」 「監督はに初恋の人の面影を見とるんや、純愛なんや!」 すかさず援護に走る宍戸と向日、そして昨日観たロマンス映画の影響なのか、勝手にポエムな設定を付け加えた忍足。もうなんでも言ったもんが勝ちである。 千石も初めこそ呆気に取られていたが、彼にもポエムな心が眠っていたのか、初恋だとか純愛だかのくだりを聞くうちに段々と女学生のような顔になってきた。秘密の恋はつらいだろうとか会えない時間が愛を育てるとかラブソングみたいなことを言っては頷いたり溜息を吐いたりしている。 男は総じて皆ロマンチストであるという。 少女小説のような淡い恋愛に幻想を抱いているのは女だけではないのかも知れない。 「デートとか大変なんじゃない」 「ええ、まあその、それなりに」 そう親身になられては後ろめたさで目が猛烈に泳ぐ。人に優しくされると嘘というのはなかなか出てこないものだと思った。 「テニスの試合観たり」 部活である。 「音楽室で会ったり」 授業である。 まあそんな感じでささやかながら逢瀬を楽しんでます、と今のにとっては精一杯の明るい声を出した。 本当はしんどいくせに強がってみせる……恋愛として王道であるこの状況。一体誰に対する乙女行為のなのかわけがわからない、してもいない恋でなにを翻弄されてんだと言いたくなる。 と、その時、何か気付いたように千石が窓に近付いた。 「あ、ちゃんほら監督監督!」 一同ギョエエエー!と心の悲鳴を上げながら窓に張り付くと、千石の指差す方向でスカーフが揺れていた。離れていてもそれとわかるエレガントな所作で片手を腰に沿え、遠巻きにテニスコートを眺めている。鞄を提げているところを見るとどうやら指導ではなく、外出のついでに練習を見に立ち寄っただけのようだ。 「彼氏…来てるじゃん」 ものすごい頑張りましたという気持ちがひしひしと伝わる台詞を吐いてくれたのは向日であった。 それに続けとばかりに、どう頑張っても低テンションな表情を無理矢理笑顔にして、周りも形ばかりの冷やかしをに送った。ひゅうひゅう。の様子見に来たんじゃねえの。仲が宜しいことで。最後の冷やかしの言葉は跡部のもので、震える声で言いきった後、彼は心で泣いた。 この状況の下、健康な精神でいられるのはもはや千石だけで、無邪気にの肘をついてくる。 「こっち気付くかな」 恐ろしいことを言う。 本当に気付かれたらどうする気だと震えた矢先、聞こえたかのように監督の視線が動いた。 「あ、見た」 たちの負のオーラが伝わったのか、榊太郎はこちらを見ていた。それなりの距離があるので、こちらがどういう会話を繰り広げていたかなど知らぬだろうが、何もかも見通されているようで生きた心地がしなかった。しかし、千石は追い討ちをかけるように「ほら手振らなきゃ」と笑顔で試練を与えてくる。恐るべし恋の応援団。 榊は教師の中でもフレンドリーとは言いがたい存在で、会釈はすれども気軽に手を振る相手ではない。 しかし、彼氏と彼女ならば振るだろう。純愛を育む二人なら振るだろう。 無礼打ち覚悟で、彼女は彼氏にひらひらと手を振った。緊張のあまり地蔵のような顔になってしまったが、勇気に免じて許していただきたい。 万が一怒りに触れ、親指で喉を掻っ切るジェスチャーで返されたらどうしようかと恐れおののいたが、榊は一瞬首を傾げて思案する素振りを見せた後、控えめに、しかし優雅に手を振り返してくれた。 榊先生ー! 思わずが歓声を上げると、わっとみんなが笑顔で駆け寄った。 「やったな!」 「良かったな!」 「手ぇ振ってたやん!」 何に対してのなのかはわからないが、とにかく成し遂げたという達成感は一瞬現実を忘れさせる。たかが手を振った振らないのことで輪となり喜びはしゃぎ合う様は、全員がまるで恋に夢中な小娘にでもなったかのようで、とても人に見せられた姿ではなかった。 今はただ狂乱の中にあるがそれが覚めた時、深い後悔の底に落ちることは言うまでもない。 その内の一人として大いに盛り上がっていた宍戸は、のちに顔を覆いながら語った。 あの日俺たちはどうかしていた、と。 千石が去った後、彼らの中でこの日の出来事は氷帝テニスの黒歴史として永遠に封印されることとなる。 一方、何も知らずコートで走り込んでいた鳳は窓から垣間見える部室の様子をちらちら気にしながら、何してるんだろう楽しそうだなあ、俺も混ざりたいなあと実に平和なことを思っていた。実際混ざっていたならば、絶対に出てこない感想だったろう。 世の中関わらないでいられるならその方がずっと良いということもある。しかしまだそのことには気付かない鳳長太郎、中学二年の夏だった。 |
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