「これから色魔が来ることになった」
「し、色魔?」
昼下がりの学び舎の一角という時と場所を考えれば、結構とんでもない単語だった。
「そういうことだから今日はすぐ帰れ」
防犯だと跡部は言った。
胸ポケットに携帯をねじこんだ表情はどうしようもなく真顔である。
「色魔が来るんですか」
「色魔が来る」
「先輩友達なんですか」
色魔と。
跡部はすごく嫌そうな顔をして「ただの知り合いだ」と吐き捨てたが、付き合いがある時点でどうかと思う。
どういう人なのかと尋ねると、嫌そうな顔にますます拍車がかかった。
「女と見れば年齢や容姿のいかんを問わず飛びつき、隙あらば押し倒して子孫繁栄に繋げようと四六時中企んでいる変態だ」
頼むからそいつを校内に一歩でも入れないでくれ、というのが正直な感想であったが、跡部の口から帰宅の許可が下りるなど滅多にあることではない。
ここしばらく体育会系と同じ学校生活を強いられていたものの、本来は帰宅部である。テニスコートを見ずに帰るなど一体いつ以来のことだろう。そう考えたら、再放送のドラマでも見ながらえびせんをかじるような、あのゆとりある時間が急に恋しくてたまらなくなった。
氷帝に迫り来る色魔の存在を気にしつつも、せっかく与えられたチャンスをみすみす逃す手もあるまいと思い、は大人しくご主人様の命に従った。


声をかけられたのは校門を出てすぐだった。
ねえねえキミ。振向くと、橙色の髪をした男子生徒がにこやかに手を振っていた。あんまりにも屈託なく笑いかけてくるものだから、一瞬やあ久し振りどうしてた最近なんて挨拶しそうになったが、その顔に全く見覚えはない。
あ、初対面か。
気付く頃には、その微笑みはのすぐそばにあった。
「氷帝のコだよね?」
顔を覗き込むような動きに合わせてオレンジ色が柔らかく揺れる。動作や顔つきひとつひとつが人懐っこく、なんだか爽やかに馴れ馴れしい人だなあとは思ったものの、嫌な感じは受けなかった。
「俺はブキ中……ってわかんないか、山吹中ってとこなんだけど」
学校名には今ひとつピンとこなかったものの、彼の着ている制服は何度か見た記憶があった。純白の学ランは汚れも目立ちそうだが多くの学生が集まる街中でも一際目立つ。
で、山吹中がどのような御用向きで?
心中がそのまま顔にも出ていたのだろう、口にする前に答えてくれた。
「お届け物しに来ました」
「お届け物?」
うんうんそうそう、と言いながら彼は小脇に抱えていた大きな茶封筒をジャーン!と胸元に掲げた。まるで厚みのないそれは封の端までしっかりと糊付けしてあり、いかにも重要そうに見えた。なにしろ表に「重要」と判が押してある。
「ってことで、テニス部まで案内してくれると嬉しいなー」
「テニス関係の人なんですか」
「こう見えてもね。テニス似合わない?」
彼の言う通り、放課後はいつもブクロにいますという感じの風貌と汗臭いイメージの運動部は合致しそうもなかったが、そこは肯定せずに首を振った。
見た目云々を言い出したら、氷帝なぞ体育会系を名乗ることすら許されない物件だらけである。汗の匂いより夜の匂いの方があの一団にはしっくりくる。
しかし困ったな、とは突き出された封筒の表面を見た。
いつにない緊迫感で早く帰宅せよと指令が下った直後、のこのこと部室に戻るのは流石に少し気が引ける。
「あ、もしかしかして時間ない?急ぐ用事とかあった?ゴメン俺引き止めちゃってたかも」
「いや用事というか……」
躊躇ったその様子がどうも迷惑してるように伝わってしまったらしく、は焦った。
わざわざ届けにきてくれるような好意の人に、氷帝生として悪い印象を与えたくはない。誤解は早く解くに限る。
あたりを見回し人影のないことを確認したは、逡巡しながらも「あのですね」と深刻そうに声をひそめ、
「実はこのあたりに、都内を震撼させた性犯罪者がうろついてるらしいんですよ」
と、余計氷帝の印象が悪くなりそうなことを言った。
えっ、と心底びっくりしたような声が山吹中から上がった。まあ普通は驚く。
「だから今日は早めに帰るようにと部活の先輩に言われまして」
適当なこといって貴方を撒こうとしたわけではありませんよと言い訳をしたつもりだったが、彼の関心はもうそこにはなく、このあたりって物騒なんだねとか暑くなってくると変な奴か増えるからとか近頃の治安の悪さをしきりに憂いているようなので、もそれに同調しほんと困りますよねえと相槌を打った。
その変な奴が、これから行くテニス部の部長と顔見知りであることはとても言えそうもない空気である。
しばらくそうしてうんうんと頷きあっていたが、ふと橙色の下で瞳が動いた。
「早く帰るのはいいけど、こんな時に女の子ひとりってのはかえって危ないよ」
「大丈夫です家近いんで」
「だーめ。いつ何があるかわからないでしょ?」
子供相手にたしなめるような調子でそう言ってから、そうだこうしようと彼はパンとひとつ手を叩いた。
「俺は君に案内してもらって、これをテニス部に届ける」
わからないままが頷くと、ひらひら揺らしていた茶封筒を引っ込める。
「それで届けた後、君は俺と一緒に家に帰る」
ね?と満足気な笑顔につられて、そうですねと一瞬頷きかけたが、直前で顎の動きを食い止めた。
一緒に帰る?
くっきりとの目に浮かんだ困惑の色は当然見て取れただろうが、彼はそれに構うことなくハイ決定と再び手を打った。
「これなら安心。帰る途中に不埒な奴に不埒な真似をされる危険もない」
「本当に走ればすぐの距離なんですよ」
「俺が送れば走らなくても済むよ」
やんわりかつすかさず諭され、なるほどそうだなとまたしても納得しそうになる。丸め込まれかけていることは薄々自覚しながらも、しかし拒絶の意志は湧かなかった。
人の警戒をみるみる溶かす友好的な笑みにほだされているのもあるが、実際のところ頭の中が白紙状態だった。
わからない。生まれてこの方初めて受けているであろう、徹底したこの女の子扱いに対してどう反応すればベストなのか、それがわからない。
せいぜいこれまで身に降りかかった女の子扱いといえば、いやあすっかり別嬪さんになっておじさんビックリしちゃったなあ等親戚のおやじのリップサービスくらいなもんである。それが同じくらいの年恰好の異性から、しかも数倍ナチュラルな気遣いとなれば勝手が違う。まさか同じように、もう飲みすぎだゾ!と背中叩きながらガッハッハと一緒に笑うわけにもいくまい。
しかし条件反射とは恐ろしい物で、いつ間にかの顔面は酔ったおっさんへの代表的な対処テクである「愛想笑い」を繰り出していた。
その表情を了承と捉えた彼は一層快活な笑顔を見せ、じゃあ行こう行こうとまるで自分が案内するのようにの手を引いて校門の方へと歩き出てしまった。


その時怠惰な気持ちで留まっていたでもなく、たまたま場に居合わせてしまっただけの部員がいたとしたら、まことに不憫としかいいようがない。
行われるはずのトレーニングはその瞬間中止となり、代わりに敢行されたのは、跡部・怒りの三段跳びだった。
一段、ドアの向こうからノックとともに響いてきたの声に眉を吊り上げ、
二段、ドアの隙間からひょっこり覗いたの姿に青筋が浮き、
三段、の背後から見え隠れするオレンジ色に激昂、という見事な大ジャンプである。
だから早く帰れっていっただろうが!
と言いたかったであろう跡部の第一声は、昂ぶった感情に口の動きが追いつかず日本語としてやや破綻していた。出戻り5秒でまさかの沸点越え。
多少のお叱りは覚悟していたものの、まさかここまで怒りを買うとは思っていなかったのでは怯えを通り越してあっけにとられた。
「すいません帰るつもりだったんですけど、テニス部に用があるって人と校門で会いまして……すいません」
何を言っても無駄な気はするが、とりあえず気休めのつもりですいませんを二回ほど繰り返してみる。
案の定全く効果はなかったようで、跡部が背負う憤怒の炎は鎮火するどころか燃え広がるばかりだった。これはもうゲンコツが飛んでこなければ吉、と己の行く末をやけくそに占い始めたの背後から、ヤッホーと今この場では軽薄過ぎるかけ声が飛んだ。
が振向くより先に、件の客人は部室に入り込んでいた。
「やっ久しぶりーいつ以来かな。元気してた?っていうかなに、帰らせた先輩って跡部くんだったの?だめじゃん一人で帰しちゃ、いま危ないんでしょ?」
「千石てめえ…」
「うわ、どうしたの般若みたいな顔して!」
千石と呼ばれたその客は、跡部の面構えに大袈裟にすくみ上がって見せた後、こわーいとぶりっこ口調で隣のにしがみついた。部員は揃って「あ」と思ったが、もう遅い。
ぶちん、としめ縄を引きちぎったような猛々しい重低音が部室に響き渡った時には、跡部の手刀は手首目掛けて一気に振り下ろされていた。
「さっさと離れろ!」
悲鳴を上げる千石に見向きもせず、跡部は腕を掴んでを自分の方へ引き寄せた。

なんとなく雲行きが怪しいとは思っていたが、怪しいどころではなく大荒れであることにはようやく気付いた。
周囲を伺えば、ジャージ姿の三年生3名が、あーあ…とでも言いたげな痛ましい目をしており、目が合った向日に至ってはだけに通じるように口だけで「バカ」と罵っていた。
これまでの経験からいくと、これは宜しくない展開であることは理解できる。が、どのあたりが宜しくなかったのか、最も重要であるその原因が不明。とりあえず現時点で言えるのは、がバカであることと跡部チョップは光速、ということである。あまり手がかりにならない。
光速チョップによってあわや切断かと思われた千石の両手は幸い無事に繋がっており、骨にも異常はなかったが、相当痛かったのだろう。両方の手首を交互にさすりながら「折れた、絶対これ折れたよ」と当たり屋のようなことを千石は繰り返しぼやいた。「そんなもんで折れるかよ」と跡部は冷ややかだが、千石が鍛えてなければおそらくは折れていた。
「ちょっとあんまりの仕打ちじゃない?せっかく人が届けに来たっていうのにさあ」
差し出された封筒に忍足がなんやそれと口を挟むと、協会からの郵便物だと言って跡部は乱暴に受け取った。うちに来る分が手違いで山吹に紛れ込んだんだとよ。
「大した中身じゃねえから後日郵送でいいっつっただろうが」
「いやーせっかくだから氷帝の女の子ウォッチングでもと思ってね、ってアレ?なんで知ってんの?」
「てめえのとこの部長からメールで連絡が来たんだよ」
うちのバカが書類持ってそっちに行ったらしい。迷惑かけたらすまん。
跡部が淡々と読み上げた文面に、千石は南ひどーい!と憤慨し、忍足は意外な部長の横の繋がりに感心していた。
コートではすでに二年生を中心に基礎練習が始まっている。屈伸に励む部員の上に広がる青い空を見上げながら、日が暮れる前に帰りたいなあと考えていると跡部がジロリとを睨んだ。
「お前もお前だ。何のために俺が忠告してやったと思ってやがる。人の話聞いてねえのか?それとも歩いて三秒で忘れたか?」
矛先が向いたことにギョッとしながらも、いやいやとんでもない覚えておりましたとも、とはまず従順な姿勢で否定した。毎度のことだが酷い言われようだ。
「でもその山吹の人、わざわざ来てくれたみたいだしここは親切にするのが礼儀かと」
最後まで聞く価値もないとばかりに跡部は鼻を鳴らした。
「親切だの礼儀だので色魔に遭遇してりゃ世話ねえだろ」
「そりゃそうですけど」
それは遭遇したらという仮定の話であって実際は。
「こうして会わずに済んでるわけですから」
いいんじゃないですかねと続けようとすると、「会わずに済んでる?」と跡部の片眉と語尾が吊り上がった。
「会ってんだろうが」
「え?会ってませんよ」
「会ってんだよお前は」
「はあ」
明らかに意味がわかっておりませんという顔で気の抜けた声を出すと、跡部の長い指が頬をつねり上げた。近付いてきた顔は苛立ちすぎてちょっと微笑んでいる。痛いより怖い。
「いいか」
ひきつった微笑みはこれまた引きつった低音を吐き出し、
「あ、い、つ、だ。今日来るって言ってたのがアレだ。お前はその色魔と仲良くここまで来たんだこの馬鹿野郎が!」
そのままびよんとの頬は横に引き伸ばされた。
結構痛かったはずだが、今突きつけられた真相を把握するのに忙しく、頬ごときに神経を割いてる余裕はない。色魔。あいつ。仲良くここまで。数々のキーワードが電光掲示板のように頭の中を流れてゆく。
え、は、あれ、と鳴き声のような声を発しつつ、跡部と首を傾げている千石の顔を二度三度と忙しなく見比べた末に、は呆然と言った。

「普通の人、じゃないですか」