薄桃色の弁当風呂敷を広げながら、は少しばかり反省していた。
無論、前日の乱心と呼んでも差し支えないような己の取り乱し方についてである。
久々のご馳走に過剰な期待を抱いてしまった反動か、昨日一日後悔やら憤りやらで脳がはちきれそうな程に熱くなっていたものの、一晩寝たら頭が冷えた。
滅多にお目にかかれない高級品とはいえ、もう二度と口に出来ないというわけでもない。あれだけ上物のタラバを食べ逃したのは確かに悔やまれるが、そこまで悲観に暮れるほどのことではなかったのではなかろうか。
無情とも思える両親の所業はそうそう許せるものではないけれど、全ては過ぎてしまった事。つらつらと恨み言を並べてもタラバ様は帰ってこないのである。
諦めたは今朝台所の隅でカニ缶をモソモソ食べてとりあえずカニ気分を味わったと自分をごまかし、今回の件を無理矢理水に流すことにした。
イライラしてばかりの生活は精神衛生上よろしくない。忘れてしまうのが一番である。

短いプラスチックの箸をくわえ、は片手で弁当箱の蓋をあけた。
中身はもちろん昨日のカニかま地獄ではない。二日連続でそんな仕打ちをされようものなら絶縁状をたたきつけている。
本日の弁当箱に並んでいるのは、だし巻きやブリの照り焼き等いつも通りのおかずだった。いや、いつもより豪華でさえあった。罪悪感を多少感じているであろう母によるご機嫌取りなのはみえみえであるが、清々しいほど単純な頭の構造をしているは手近な幸福にあっさりと目が眩み、昨日の落胆ぶりなど嘘のような晴れ晴れとした顔で箸を伸ばした。
そしてそれがやってきたのは、彼女が口いっぱいにささやかな幸せを噛み締めていたまさにその時だった。

教室の隅から、ガラリと扉が開く音がした。
それほど大きな音ではなかったからさして気にも留めなかったのだが、直後、生徒たちの遠慮ないお喋りで湧いていた教室の空気が、凍りつくように沈黙した。
窓際の席で脇目も振らずに弁当を貪り食っていたは何が起きたのかすぐ理解できず、呆然としたクラスメイトの視線の先をゆっくりと追った。

「わざわざ出向いてやったってのに、出迎えもなしかオラ」

口からウィンナーが吹っ飛んだ。
視界の中で、本来この場に居るべきでない存在がさも当然といわんばかりにこちらを見ている。

「なんつう顔してんだ」

相当なアホ面だったのだろう、教室の視線を独り占めした男・跡部は小馬鹿にするように鼻で笑った。
そりゃアホ面にもなるだろう。
広い敷地とはいえ同じ校舎という空間で学校生活を送っている以上、お互いいつどこで顔を合わせることになっても不思議ではない。しかし、それが跡部景吾となれば話は別である。
嫌味なくらい美形だとか、あのテニス部の部長であるとか、会長職をこなしながら常に成績はトップであるとか、家が国会議事堂みたいに馬鹿でかいだとか、よくわかんないけど偉そうだとか、とにかく彼は色々な理由から別格の扱いを受け、恐れ敬われている。
「跡部様F・C」という血迷ったとしか思えない組織も存在するらしい(主な活動・試合の際には声を張り上げて情熱を伝える)
あらゆる意味で頂点に君臨する、その「跡部様」がいきなり何の前置きもなく自らお出ましになったのだ。皆一様に凍りつきながらも、心中では上を下にの大騒ぎ。それは当然も同じ状態である。同じというか、むしろ今現在最もてんやわんやなのは彼女だろう。
油断という湯にどっぷり肩まで浸かって一息ついていた所へご主人様による思いがけない特攻。なかなかどうして心臓に負担がかかる。

箸を握り締めながら目を白黒させていると、跡部は実に悠然とした態度でこちらへ歩き出した。
前方を塞ぐ机だの突っ立ってる生徒だのの存在などこの男の目には入っていないのだろう、迷うことなく一直線である。敬意の表れなのか威圧に負けたのかは定かではないが、ある者は逃げるように身を引き、ある者は椅子を下げ、ある者は机ごとどけたりと、歩くたび跡部の前に新たな道が開けていくという物凄い光景が繰り広げられた。海を割るモーゼならぬ、教室を割る跡部。見あげた神っぷりである。

「しょぼい弁当食ってんな」
「…これでも普段よりは(1.5倍くらい)豪勢なんですが……て、そんなことより一体どうしたんですか」
「なにがだよ」
「なにがって、いきなり跡部先輩が来たら普通びっくりするでしょうよ」

この教室のなんともいえない空気を感じ取って欲しい。
だが跡部は気にする様子もなく、勝手に前の席の椅子に腰を下ろしの机の上に黒いトートバッグを放り出した。「あれエルメスじゃない?」という囁きがどこからでもなく聞こえてくる。エルメスってあのエルメスかよ、としげしげ見つめていると跡部はそのエルメスとやらから黒塗りのでかい重箱を取り出した。

「…な、なんすかそれ」
「弁当に決まってんだろーが、他に何に見えんだよ」

お昼に3段の重箱って、完全に運動会ですよそれ。
常に危険(おかずの汁漏れ等)がつきまとう弁当袋にエルメスはないんじゃないですか。
などなど、様々な思いがの胸の中を駆け巡ったわけだが、その中でも最も気に止めねばならない重要事項はこれだった。


跡部先輩、ここで弁当食う気ですか


頭を抱えたくなった。
何故だろう。何が彼をそうさせたのだろう。この行動の真の狙いはなんなのだろう。
本人は、どこで昼飯を食べようが跡部様は勝手なのであーるとか思っているのかもしれないけれど、他でもない跡部様だからこそふさわしい場所というものを考えていただく必要がある。
現に今、物凄く浮いているではないか。明らかに周囲に溶け込めていないではないか。
普段から何かと注目されている彼にとっては今更別にどうってことはないのだろうが、こちらは平民の中の平民としてそりゃもう平らな感じで生きてきた身である。とてもじゃないが刺さるような視線の雨に耐えられるはずがない。
見れば、このクラスのみならず他のクラスからも野次馬が集まり始めているではないか。とんだ晒し者となっているこの状況下で、どうしてのんきに弁当など食っていられよう。

「跡部先輩、あの」

開こうとした重箱の蓋を切羽詰った様子で押さえ込まれ、跡部はひどく怪訝な顔を浮かべていた。








原則的に生徒の立ち入りが許可されていない屋上は予想通り貸し切り状態だった。
当然施錠はされていたが、ぶらさがっていたのは申し訳程度の古びた鍵で、跡部が2、3回蹴り飛ばしたら観念するかのようにあっさり開いた。

「なんだってわざわざ屋上なんだよ。別に教室でいいだろうが」
「……い、いやあ、やっぱり天気のいい日は外で食べた方がおいしいってもんですよ」
「どう見ても曇り空じゃねーか」

だって好き好んで曇天の日に屋上など来たくはない。
人目がない所であれば外だろうが室内だろうがどこでも良かったのだが、そんな都合のいい場所はここしか浮かばなかったのである。
あまりの注目度の高さに恐れをなしたは、場所を変えましょうとだけ言って訝しむ跡部を強引に教室から連れ出した。
これ以上好奇の目に晒されたくなかった、と正直に白状してしまえば楽なのかもしれないが、余計なことを言って余計な怒りを買いたくない。俺と一緒のところを見られるのが嫌なのかと、半分正解半分不正解な見解で機嫌を損ねられても困る。

「こ、細かいことは気にせずに。さあさあ遠慮せず座って座って」
「お前の家かここは」

普段使われていない場所だけあってベンチなど気の利いたものは見当たらなかったが、都合よく腰掛けられそうなブロックが2、3個放置されていた。
は躊躇なく腰を下ろそうとしたが、こういう場面でこそ育ちの差が出るのか、跡部は薄汚れたブロックを椅子代わりにすることに対して明らかに抵抗を示した。その様子から、てっきり教室に戻るとでも言い出すかと思ったが、彼はポケットから取り出したハンカチでブロックの上の埃を振り払い、憮然とした顔で腰掛けた。それだけでも十分驚くに値する行動だが、跡部は更にそのハンカチを隣のブロックの上に広げ置いた。

「…なにボケーとしてんだ、とっとと座れバカ」
「えっ?い、いいんですかっ?」

思いがけない紳士っぷりに動揺しながら跡部を見ると、返事の代りにちょっとは汚れるとか考えろよという言葉が舌打ちとともに返って来たので、は何度もお辞儀をしながら慌てて腰を下ろした。

「跡部先輩って、意外にも気配り屋さんなんですね」
「お前が気ィ回らなすぎなんだ…って、待ておい、意外ってどういう意味だ」
「お腹すきませんか先輩、弁当食べましょうよ弁当」
「シカトしやがったなこの野郎」

ここへ来る時に振り回したせいか、膝の上で広げた弁当は寄りに寄っていた。しかも中途半端に口をつけていたおかげでおかずの間に微妙な隙間ができており、余計移動が激しいことになっている。
見かけが崩れても味にさしたる変化はないと分かってはいるが、ほんのり切ない。小さくトホホと息をつきながらも、は隣人の昼食に目線を向けた。いじ汚いとは思うが、高級料亭かのような黒塗り重箱の中身への興味は抑えがたいものがある。
それにしても跡部が弁当を持参してくることがあるとは意外だった。の中では常に食堂で一番高いランチを食べているイメージしかない。

「気になるか」

注がれる熱いまなざしに気付いた跡部は、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。自分ではこっそり盗み見ていたつもりだったがナチュラルさのカケラもなかったらしい。穴が開くほど凝視しておきながら今更「いえ全然」などと見えすいたウソを吐けるはずもなく、は無言で頷いた。
素直な反応に満足したのか跡部は実に得意気な表情で蓋を開け、重箱をの方へと傾けた。
そこにはが想像していた豪華絢爛な料理の姿はなく、ただ2つの色が四角形の中を支配していた。赤と白。それが何か理解できた瞬間、の口から思わず声が漏れた。

「……あッ!カニ!

つい先日無理矢理さようならを告げた例の存在が、行儀よく並んでいる。殻はすべて綺麗に剥かれており、ガブリといっちゃって下さい、といわんばかりの肉厚な姿には思わず唾を飲んだ。

「…しかも二段目は蟹ちらし…!うわーうわー先輩の弁当すっごいですね、一大カニ祭りじゃないですか」

普段はなかなか得られないからの尊敬の眼差しを受け(たとえそれが自分へではなく弁当の中身に向けられたものだと分かっていても)跡部は口元がゆるむのを止められなかった。

「たまたま昨日知り合いから大量に送られてきたらしくてな…まあ、さして珍しい食いもんじゃねぇけど」

彼の言葉には二つほど虚偽がある。
『送られてきた』ではなく『送らせた』、そした『たまたま』ではなく『無理矢理』。
昨日帰宅するなり「すぐに蟹を用意しろ、タラバだ」と景吾坊ちゃんから指令を下された執事は突然のことに大慌てだったという。そんなにもカニ好きだっただろうかと首をひねっていると運転手から「女ですよ、女」と囁かれたが、どう考えてもカニと女が上手く結びつかず、ますます彼は困惑した。
そんな(執事の)頑張りで手に出来た品なわけだが、プライドの総本山のような彼がそんなことを口に出すはずもない。わざとらしい台詞を並べ立てながら、跡部はの注意をひきつけるように蓋を閉めたり開けたりしていた。

「…食いたいか?」

その瞬間、の顔にパアッと花が咲いたような笑顔が広がった。

「あいにく俺はカニなんざ食べ飽きてんだよ。余すのも勿体ねぇしな……分けてやってもいいぜ?」
「ほんとですか!」
「好物なんだろ?」
「はい大好きです!」

元気よく頷いたとは対照的に、跡部は一瞬石像のように黙し、固まった。先ほどはが跡部(というより重箱)に熱い視線を送っていたが、今度は逆に跡部がを穴が開く勢いで見つめている。

「……もう一回言え」
「え?」
「…蟹が、どうしたって?」
「大好きです!」
「ゆっくり言え」
「だ い す き です!
「……よし、食え」

今のやりとりにさしたる疑問も感じることもなく、はやったーと声を上げて差し出された重箱に飛びついた。
口の中に広がるオホーツク海に思いをはせるのに夢中だったので、その時の跡部がどんな顔をしていたのかには見えていなかった。とりあえず蟹の美味さに感動した。
それから、跡部先輩は意外といい人だと思った。





「うわアイツ、無理矢理大好きとか言わせよった」
「怖!なに跡部のあの顔!どこの好々爺だよ!」
「つーか、まんま餌付けやないか。必死やなオイ」 

半壊した屋上の扉の奥には、笑い声を押し殺すのに苦労している大小二つの影があった。
珍しく学食に行かずフラリと消えた跡部の後を面白半分でつけてみたが、まさかこんな世にも愉快な光景が拝めるとは。
扉に身を隠しながら背を丸めた大きな影は、携帯電話をそっと耳に押し当てた。

「……あーもしもし、宍戸か?今どこにおんの?食堂…ああ、長太郎も?自分ら今すぐ屋上来いへん?ええから来いって、めっちゃおもろいもん見れるって…屋上に奥手なカニ将軍がいるんやって…」