「なんだこの陰気臭えのは」

足を踏み入れるなり口から滑り出したその言葉は、なかなか非情ではあったけれどもそれ以上に的確で、この場にはとてもふさわしいものだった。
思い切り眉をひそめた跡部の視界の中には見慣れた景色
―――部員がそれぞれ練習の準備にいそしんでいたり、雑誌を適当にめくっていたり、退屈そうに携帯をいじっていたりといつもと変わらぬ部室の風景が広がっていたが、一つだけ周囲に溶け込まない存在があった。
部屋の真ん中で、もたれかかるように長机の上に突っ伏している制服の女子生徒。
この部室に無許可で出入り出来る女子など、教師をのぞけば1人しかいない。
言わずと知れた、跡部様のパシリとして日々大活躍のである。
横暴なプリンスにまんまと捕らえられ強制的に労働を強いられている彼女が、常日頃この空間でイキイキ張り切っているわけもないのだが、今日はまた特別に荒んでいた。
やる気というものが全て毛穴から溶け出て行ったような、快活な運動部にはあるまじき気配である。
確かにここに集う氷帝レギュラー陣も、スポ根特有の汗臭い情熱が有り余っているとはとても言えぬ連中だが、ここまで無気力なオーラを辺り一面に撒き散らさられてはたまらない。清々しいはずの空の色も、どこか淀んで見えてくる。

「おい」

座っていたパイプ椅子を軽く蹴り上げられ、面倒くさそうに顔を上げた彼女の目はどんよりと曇っていた。
なんですか、と返事をする声もどこか乾いている。
なんだどうしたまた真田に泣かされたのかと一瞬焦った跡部だったが、すぐにそうではないことに気付いた(そうちょくちょく来るほど真田も暇ではない)
今のには、あの時のように怯えも恐怖の色もない。ただ、子供がふてくされているような顔がひとつ乗っかっているだけだ。

「親にハブられたんだってさ」

口を開こうとした跡部へ先手を打つように声を上げた岳人は、読んでいた雑誌を乱暴に閉じた。

「…親?」

家族間のトラブル、それも家庭内孤立とは穏やかではない。
に関してことのほか動揺してしまう跡部は、彼女の境遇の深刻さに内心大汗をかき、同時におおっぴらにそんな話題を振ってきた岳人をデリカシーのない奴だと腹立たしく思った。
思春期にありがちとはいえ、親と子の問題は実にデリケートである。
椅子の上で丸まっているお子様に何を言ってやるべきか、彼にしては珍しく言葉を選んでいると、またしても外野から声が飛んできた。

「蟹、食ってたらしいで」
「あ?」
「だから、蟹やて」

突然与えられた意味深なキーワードだが、謎は深まるばかりで全く道は開けてこない。
跡部は眼鏡を頭部にのせてカチューシャ、とかやってる忍足を無視し、隣で壁に寄りかかっている宍戸を見た。

「どういう例え話だ」
「例えも何もねーよ、そのまんまだ。寝てる間に食ったんだとよ」
「誰が」
「親が」
「何を」
「だから蟹を」

跡部はしばし沈黙し、自慢の思考回路を普段より活発に働かせた。
そして、結局混乱した。

「…もっとわかりやすく説明しろ!」
「これ以上噛み砕けるような奥行きはねえ!」

小難しく考えすぎた跡部にはイマイチ理解できなかったようだが、要約するとこうである。
先日、の家に親戚から蟹が届いた。蟹といっても食べ放題でぞんざいに扱われているような実がスカスカの三流品ではない。北海道から送られてきたというそれは、箱に収まり切らないほどの大きさで、太い足が実に食欲をそそる立派なタラバ蟹だった。
名門と名高いここ氷帝学園を家から近いという理由だけで選んだ家は、家柄や家業に目立ったところがあるわけでもないごくごく普通の一般家庭で、懐具合は実に慎ましい。外食は基本的にファミレスであり、たまに赴く寿司屋は回転している。そんな控えめな食生活を送る一家が、そんな大層な代物を手にしたらどうなるか。
事件である。不憫なほどに大騒ぎである。焼こうか茹でようか、それとも生が一番か。慣れないご馳走に家は浮き足立ち、熱狂した。など興奮しすぎたのかぐったりと疲れてしまいいつもより早く床についてしまうほどだった。
だが、その一時の油断が命取りだったようで、翌朝彼女は発見してしまうのである。台所の三角コーナーに打ち捨てられた蟹の変わり果てた姿、無残な抜け殻を。

「呼んだけど起きなかったなんて言ってますけど、絶対嘘です。人がうっかり寝たのをこれ幸いと貪るように食ったんですよ」

恨みの念がこもっているせいか、吐き出すように彼女の口から漏れた声はいつもより低く響いた。

「もしくはアレです、聞こえるか聞こえないかくらいのちっさい声で一回呼んどいて、うん呼んだ呼んだ確かに呼んだ呼んだことには違いない、みたいな感じですよ。ああ我が親ながらなんて浅ましい…!」

「おぉ」とか「うぅ」とかうめきながら、は心底悔しそうに机の上にガクリと崩れ落ちた。哀しげな背中に「無念」の文字が色濃く浮かんでいる。
慰めようとしたのか慈郎はなめていたチュッパチャップスを口から出し、あげるとばかりにに向けたが、流石にそれは断った。

「…それだけじゃあないんです」
「まだあんのかい」

あるんです、とは再び面を上げた。

「あったま来たんで、拾い上げた残骸突きつけて卑怯だの意地汚いだのと今朝、散々なじってやったんですよ。そしたら、きっちり仕返ししてきました。何してくれたと思います?」

いつになく鋭い眼光に戸惑いながらも跡部が首を傾げると、は机を叩き割らん勢いで拳を叩きつけ、ぼそりと一言呟いた。

「弁当箱に、カニかまぎっしり

部員達はなんとなくその弁当箱をぼんやりと想像してみる。
いつぞやのところてんほどではないにしろ、わびしい気持ちにさせるには充分な情景だった。

「何ですか、どういう嫌がらせなんですか。ガキにはタラバなんて百年早えんだよ大人しく類似品でも食ってなってことですか?ええっ、そうなんですか!?どうなんですかそのへん!」
「知らねーよ俺に聞くな!親に言え、親に!」

ギラギラした瞳で詰め寄られても、宍戸には何の罪もない。
たかがカニ一つでこんなにも情熱的に生きられるものなのかとそこそこ育ちの良いテニス部一同は思ってしまったが(特に跡部と長太郎)そんなことを言おうものならどんな勢いで八つ当たりされるかしれたものではない。上流階級など地球上から滅びてしまえ、くらいの呪いの言葉は覚悟せねばなるまい。
結局、何を言っても通じないと諦めた部員達は、ネガティブオーラを放つ加湿器()をどうすることも出来ないままただ放置し、梅雨時期の部屋干しくらいジメジメとした部室の中で黙々と練習準備をすすめるしかなかった。
カラリと晴れた外の陽気が絵空事のようだった。