何時ですか?と何度目かわからない私の台詞に、跡部先輩は面倒そうに袖を引いて腕を示した。自分で見ろということらしい。覗き込むと、いくらも経過していない。はあと落胆の息を吐いた私はそのまま遠ざかろうとして、途中であっと思い、再び時計を、正確には時計が巻かれた腕ごと強引に引き戻した。食らいつかんばかりに手を取られた先輩は、な、なんだ、とたじろいでいた。
 高貴なつやを放つ文字盤には、時間を示す数字以外に日付が同様に刻まれている。それを見て、私は重大な事実を思い出した。
「先輩、どうしよう」
 私が手首を掴んだまま青ざめると、先輩はその美しい面立ちをすっと引き締めた。
「どうした」
「あの、今気付いたんですけど、今日は私、なんとしても早く帰らないとまずいことに」
 おろおろと言い募る私に、大丈夫だ、落ち着いて言ってみろ、と力強く、それでいて安心感を与える低い声で囁いてくれたので私は縋るようにして訴えた。
 DVDの返却が今日までなんですどうしよう。
 急速に、目の前の先輩のテンションが下がっていくのが見えた。
「くだらねえ………」
「く、下らなくないですよ。延滞金ほどバカバカしい支出はありません」
 たった一日でも遅れると、一週間借りるよりも高い金額をお支払いせねばならない。心がけの悪い者が居る以上必要な措置だが、返却の意思はあるのにこういう不慮の事故で叶わなかった時の無念さときたら無い。痛恨の極みである。
 私はそういう旨を熱く主張したが、まったく興味も共感も抱けなかったのか、先輩はひたすら生返事だった。
 九割聞いてないだろうなという確信のもと、聞いてますかと伺ってみると、ああ聞いてると返って来た。嘘つけと突っ込みたくなったが、よくよく考えてみれば、この跡部景吾がいちいち返却期限に気を取られるような生き様を晒すわけもない。私なんかの話に、相槌を打ってくれるだけまだましだと思うべきだろう。つまらない話題を広げてしまった。私は少し後悔にかられて、口を噤んだ。
「で?」
 冗談みたいにきれいな碧い瞳が私を見ている。
 虚を突かれて、え、と間の抜けた声を出したら、映画どうだったんだよと先輩は言った。会話を続ける気があったのか、という驚きと、本当にちゃんと聞いてくれていた、という感動の両方を私の顔面が処理しきれず、こけしのように無表情になってしまった。
「映画ね、そうですね、どうですかね」
「なんだそりゃ。色々あるだろ。感動したとか、見ごたえがあったとか」
「途中で寝ちゃったんで……」
 決まり悪くもそう告げると、要するに駄作ってわけだなと一刀両断された。自分のせいで不名誉な烙印を捺されるのも妙に申し訳ない気がして、そこまで酷くないですけどと一応擁護に回ってはみたが、タイトルは? と聞かれてすぐに思い出せないあたりに関心の低さが伺える。我ながらお粗末な鑑賞の仕方だ。興味薄くてすいません、と名前もわからない監督に心で謝る。
「題名なんだっけ、ええと、確か見知らぬ男女が手違いで密室に閉じ込められて、それでなんやかんやしてる内に恋心を抱くっていう話で、」
 そこまで口に出して、はっとした。偶然とはいえ、いま置かれている状況と符合する箇所があまりに多すぎる。
 気まずい。
 他はともかく、恋心云々の部分が猛烈に気まずい。
「な、なんかちょっと他人事じゃないなあなんて」
 ハハハと恐ろしく乾いた笑い声で誤魔化そうとした。
「似通っちゃいるが、あいにく俺にはあてはまらねえな」
「まあそうですよね」
 無難に受け答えをしながらも、ひゅっと切っ先がかすめるように痛みが走った。こんなことでいちいち傷付いてたら身が持たない。そうだ、最初からわかりきっている事実を改めて突きつけられたからと言って、何を嘆くことがあろう。
 頭の端にいつかの砕け散った流れ星がよぎる。
 私がまだ初々しくて、何かあればしょっちゅう半べそをかいていた頃、跡部先輩が見知らぬ女子が交際を申し込まれている場面に出くわした。校庭の隅、木の影に隠れるように居た私の存在に二人は気付くことはなく、そこから動くに動けなくなった。
「悪いがそういう気持ちはない」
 あれは、見てはいけないものだった。
 告白をされる先輩の姿に衝撃はなかった。それを断る展開にも驚きはなかった。どちらも今更だ。どれだけの数の恋心が彼のものか、氷帝の生徒としていくらか過ごせば、わからないわけがない。だというのに、自分に向って放りこまれたように、その言葉は突き刺さった。
 真摯な声は深く残酷だ。
 そういう気持ちがあれば、跡部先輩は誰かと付き合う。
 普通に考えれば当たり前の成り行きで、ひとつもおかしな点は見当たらない。そう理解している一方、別の回路が軋みを訴えていた。彼にそういう気持ちを抱かせる相手とはどんな人だろうか。もう既に存在しているのだろうか。
 私が思いを馳せるべきではない、私が思い悩んでいいことではない。渦中に飛び込む役者ではない。
 女の子は泣きながら、静かに走り去っていった。
 夜空で最も輝かしいシリウスの星に身を投げて、焼き焦がされたのだと思った。
 その日を境に、私は泣くのをやめた。涙は制御できるものではないから、完全に断つことは難しかった。追い込まれて鼻水を垂らすこともあれば、仲間に助けられて睫毛を濡らすこともあったし、用具入れの中で声を殺して泣くこともあった。それでも跡部先輩の前でみっともなく泣き顔を晒すことをしなくなった。
 相手はとびきりの一等星だ。今は氷帝という同じ星空にある私達だけが、その光を眺める事を許されているけれど、いずれ綺羅星はもっと広い世界を巻き込んで輝く。そこに私の姿はない。
 だから、私は痛みに強くならなければならない。



「そういえば雨天時の案内、準備まだでしたよね」
 ふと生徒会室に置き去りにした書類の束を思い出した。開催まで日数はあと僅か。片付けられる仕事は早めに済ませておきたい。
「去年の要項を手直しするだけだ。明日には用意できるだろ」
 雨天か、と反芻した先輩は、少し得意気な顔で私を見た。
「知ってるか。氷帝の体育祭は九年連続快晴だそうだ」
「えっそうなんですか。じゃあ今年も快晴なら十年連続ってわけですね」
 晴れるかなあ、と呟いたら、先輩は晴れるに決まってんだろと胸を張った。俺がいるのに晴れないわけがない。このあふれ出る謎の自信。根拠がなさすぎて、かえって説得力を感じる。
 私はといえば、順延なんてことになったら予定も狂うし準備も一度無駄になるし、晴れてくれた方が助かる、という程度にしか考えていない。競技で華々しい活躍を望めるわけでもなく、裏方に徹している内に慌ただしく過ぎてゆくだろう。
 去年もそうだった。生徒会に入って日が浅かった分、要領がわからず、体力の配分はおろか休憩のタイミングすら計れなかった。結果、考えなしに全力投球して、次の日熱を出した。おかげで自分の競技の記憶があまりない。
 覚えているのは、嫌がらせのように暑かった太陽の猛攻と、同じくらいの熱量であらゆる勝利をもぎとっていった、我らが会長様の雄姿くらいである。
「先輩はまた華麗にゴールテープを切るんでしょうね」
「当然だな」
「私はとりあえずビリを免れればそれでいいです」
 私が諦め半分にそう言うと、麗しいばかりの眉目が急に引き締まり、強豪運動部の顔つきになった。
「何だらしないこと言ってやがる。この一年でだいぶ体力がついたろ。ひとつくらい順位あげてみせろよ」
「ひとつってことは五位……?いや無理ですよ」
 ああん? と片眉が跳ね上がる。
「四位だろ。去年五位だったろうが」
「そうでしたっけ」
 頭を捻ってみたが、さっぱり思い出せない。そもそも本人も忘れるような、面白味も見どころもない徒競走の微妙な順位なんかを覚えている方が不思議だ。
「よく覚えてますね、ていうか見てたんですか」
 途端、涼しい目元が意地悪そうに光った。
「見てたぜ。パン食い競争でお前が喉詰まらせてたのも見てたし、創作ダンスで一人振り付け間違ったのを強引に誤魔化したのも見てたし、休憩のテントと勘違いして来賓席でタオル被って寝てたのも見てた」
 ぼやけて覚えてもいない競技結果に比べ、己の失態の数々はさすがに記憶の底に残っている。それを順に列挙され、私は両手で顔を隠しながらわなわなと羞恥に震えた。笑いを湛えた声が降って来る。
「今年もしっかり見ててやるよ。最後だからな」
 春には高校生となる身だ。体育祭を区切りとして、三年生は生徒会を引退し進学に備えることになっていた。
 きっとこの人は高等部へ行っても、変わらずこの調子なのだろう。鳥が飛ぶようにごく自然に、ひとつふたつの歳の差などものともせず、全てを統治下におくのだろう。またそうされることを周囲も望むだろう。
 地道な積み重ねで信頼を勝ち取り、一瞬で人を虜へと堕とす。そうして気持ちの根っこまで掴んでおきながら、自分はさっさと迷いのない目をして先を目指すのだ。置き去りにされた側は健気に見送るか、必死に背を追いかけるしかない。なんという横暴か。
 だけれど、それでこそ跡部景吾。それでこそ彼方のシリウス。
「だから死ぬ気で走れ」
 あやすように頭を叩かれ、私は顔を覆ったまま「はい」と弱々しく頷いた。



 うっすら差し込んでいた光はやがて夕焼けの色に染まり、今や窓に映るのはお馴染みの暗闇だけだ。位置が高くて叶わないが、覗きこめばきっと、いつものように黒塗りのガラスは変わり映えのない顔を映し出す。さすがに今日はそれを見たとしても、早送りと感じることはないだろうが。
 暑さが居残る秋の入り口とはいえ、太陽の恩恵を受けにくい地下室は、日が傾くにつれて少しずつ温度を下げていく。冷えるほどではないものの、いささか肌寒さを覚えた。
 と、その時、不意に柔らかな重みが背に触れた。丸まった肩に引っかかるようにしてブレザーがかけられていた。私はまだ口に出してはいないし、寒そうな素振りも見せていないはずだ。
「あの、」
 驚いて見上げる私を一瞥もせずに、冷えてきたからな、と先輩は片手でネクタイを緩めた。さすがに半袖ではなかったものの彼がシャツ一枚であることには変わりない。慌てて返そうとしたが、有無も言わさず押し戻された。
「お前とは鍛え方が違うんだよ」
 いいから着とけと頭の上から強引に被せられる。ぬくもりと共にうっすらとした薔薇の香りが鼻先をかすめて、なぜか目頭が熱くなった。悟られるわけにはいかないのでわざとマットの埃を立てて、くしゃみで目が潤んだことにした。袖を通したそれは思った通り私の体には大きく、袖口も身丈も不格好に余る。照れ臭さと申し訳なさを隠した声で礼を告げると、先輩は満足そうに頷いて、にっと笑って見せた。
「意外に優しいとでも思ってんだろ」
 いいえ、と私は思った。
 いいえ、いいえ。
 知ってます。知ってますとも。
 先輩。
 私はね、知ってるんです。ずっと前から。
 先輩が優しいなんてこと、とうに私は知ってるんです。
 声には出さない。顔にも出さない。胸の内だけで孤独に反響して、いずれ消えてゆく。
「先輩が引退した後のことを考えると気が重いです」
 先輩はそれを生徒会の今後を指しているととらえたようだ。そう聞こえるような言い回しを選んだのだから、当然と言える。
「今からそんなんでどうするよ」
 呆れを含んだ笑みが軽々と返って来た。
「今まで何のために俺が鍛えてきたと思ってる。上が入れ替わっても腑抜けないようにだろ。あいつもしっかりしてきたし、案外うまくやるさ」
 あいつ、とは私と共に先輩の下で活動してきた、次期会長と目されている役員の一人だ。彼は物腰が柔らかく、人当たりが良い。何かを決断する際、広く意見に耳を傾け周囲の意向を尊重しつつ結論を出すタイプで、先頭切ってぐいぐいと引っ張っていく跡部先輩とは正反対だが、それでいいんだと先輩は言った。
「俺の後任だからって、俺になる必要はない」
 なれるわけもないしなと不敵に笑う。
「まあ頼りないところもあるだろうが、そこはお前が援護してやれ」
 私ですか、と首をかしげると、お前しかいないだろと頭を小突かれた。そしてすぐに、ふっと短く笑った。
「俺が見込んだ通り、お前は一番根性があったな。手は抜かない弱音は吐かない、半べそかいても次の日にはケロッとして仕事する」
 ああそれから。
「アイス一つで機嫌が直る単純さも美点だ」
 いつかの出来事を思い返してか、横顔には懐かしむような穏やかさがあった。切れかけた電灯が、ちかちかと星の瞬きのように光って、彼をとりまく全てを神々しく縁取る。
 時は思い出になり記憶になり過去になる。
 先輩は後ろ手で支えていた体をゆっくり起こした。
「よく頑張ったな」
 もう一度、埃を立てて誤魔化したかった。
 でも都合良くくしゃみは出てくれそうにもなくて、私はこみ上げるものを唇を噛んで押し留めるしかなかった。
 私は、強くならなければならない。
「ヘマ踏んだら、叱りに来て下さいね」
 甘えるなと一蹴されるか、仕方ねえなと受け流されるか、想定した上でせめてもの我儘を言った。
 けれど返って来たのは、そのどちらでもなかった。
「ヘマした時だけでいいのか?」
 そう言った先輩の目が驚くほど優しかったので、思わずしどろもどろになる。
「いやその。もちろんそれ以外でも、あの、来て欲しいです」
 なら最初からそう言え。跡部先輩はぐしゃぐしゃと私の頭をかき混ぜた。
「だって先輩忙しいのに、来てくれるなんて思わないじゃないですか。わざわざ」
 撫でまわしていた手がぴたりと止まる。視線を上げると、冷ややかとも苛立つとも異なる色の、静かな表情が私を見下ろしていた。
「お前、なんで俺がここに来たかわかってるか?」
「え?そりゃ用事があったんじゃ、」
「こんなカビ臭え場所に用なんかねえよ」
 回答を言い終える前にすかさず返球が飛んで来た。
 ねえよと言われてしまえば、確かにその通りかも知れない。多忙な身である生徒会長が、それこそわざわざ、こんなところまで足を伸ばす必要性など何ひとつない。
「あ、じゃあもしかして私に用が」
 深く考えずに思いついたままを口に出すと、そうだと先輩は答えた。正解だと言うのに、どういうわけか面立ちは厳しさを増した。
「わかってねえだろ」
「わ、わかってませんか」
「ああわかってねえ。わかってねえよお前は」
 なにを、と問いたかったが、口に出すのが憚られる気がして、はいともいいえともつかない曖昧な頷きで濁す。先輩は乱暴に頭をかきながら、はあと盛大に息をこぼして、まっすぐに私を見た。
「確かにここに来た目的は場所じゃなくてお前だ。それは正しい。だが連絡があるわけでも、俺がこんなとこまで探しに来なきゃならない業務の優先事項があったわけでもない」
 お前に用なんざないと断言された。その上で、お前に会いに来たと彼ははっきり言い切った。
 開催が近付くにつれ、会議や打ち合わせに出向く機会が増えてゆき、先輩が生徒会室で過ごす時間は確実に減っていった。報告や連絡はほとんど人を通して行われ、ここ最近はろくに顔も合わせていない。寂しく感じなかったといえば嘘になる。けれどそれは、限りなく個人的な、一方方向に向いた感情だった、はずだ。そのはずだ。
 顔を見たいと願っていたのは私だけのはずだ。
 今日何度も味わったとはいえ、今度ばかりはぬか喜びでは済まされない。おそるおそるが喉に宿って、声が震えた。
「先輩、さっきの映画、先輩には当てはまらないんです、よね?」
「……何も始まってない奴らが恋に落ちる過程の話なんだろ。なら、とっくに始まってる場合当てはまらねえ」
 まさかここで何が? なんて言うんじゃねえだろうな。跡部先輩は両手で挟むようにして、私の頬をぎゅうと押さえつけた。
 燃えるように輝くこの星に、軽々しく触れてはいけないと思っていた。
 遠巻きにくるくると回ることしか許されないと思っていた。不相応にも近付けば、きっと天罰が下る。燃え尽きて星屑になるだろうとさえ思っていた。
 けれど星は自ら目の前に降りてきた。惜しげもなくその光を分け与えてくれるという。銀河に埋もれて消えかねない、ちっぽけな瞬きに振り返ってくれるという。こんな果報を手にしたならば、やはり私はいつか重い罰を受けることになるかも知れない。
 それでもいい。
 そんなこと、どうだっていい。
「泣くなよ」
「泣きません」
「泣けよ」
「どっちですか」
「変な顔」
 余計なお世話です、と言うが早いがぼろっと涙が落ちた。咄嗟にブレザーの袖口で拭う。すぐにそれが借りものだったことに気が付いて詫びようとしたら、先輩の顔がすぐ間近に迫っていた。
 驚いた私が身を引いた振動で、積まれたパイプ椅子が崩れ落ち、マットの埃が砂塵のごとく景気良く舞った。油断していた分、二人揃って本気でむせた。
「てめ、この、」
「ちが、わざとじゃ」
 息を吸うたび気管に入って、とてもまともな言葉にならない。私も先輩も体を二つ折りにして、息も絶え絶えに咳込んだ。酸素不足で顔が赤い。涙が出る。薄暗くカビ臭い中で、跡部先輩と一緒になってごほごほと苦しんでいる。
 緊張の糸が切れたせいか、それが無性におかしかった。咳と笑い声とを交互に繰り返して更にむせた。涙目なのをいいことに、私は噛み殺していた感情の全部を雫にして押し流した。
 ずっと好きでした。気付かない振りを貫くつもりでした。空の塵にしてしまうつもりでした。
 流れ星のようにいくつも頬を伝う。泣きながら笑った。
 近くて遠かった綺羅星がすぐ頭上で瞬いて、満点の星空なのに土砂降りの雨だ。止まらない。
 いつの間にか伸びてきた長い指が、道筋を辿るように、頬の濡れた跡を撫でていった。
 巡回なんか来なきゃいいなと耳に囁く。
 それは嫌ですと正直に答えたら鼻声のくせにと叩かれた。




※氷帝夢アンソロジー「俺達の美技に酔いな」(2011/10/23)に提出した作品の再録です