青星と泣き星







 がしゃん、という金属音を遠い背後で確かに聞いた。
 無音に近いこの場に於いて、鈍くて重い存在感の音ではあった。けれどもその時は、果たしてどこから響いたものかすら思い当たらず、機材でも倒れたのだろうと気に留めもしなかった。
 その正体が錠の下りる音だったと知ったのは、私が室内の湿っぽさから逃れようとノブを掴んだ時だ。スムーズとまではいかなくても、かろうじて回っていたはずのドアノブは突如、使命感に目覚めたかのごとく動かなくなった。
 開かない。
 まったく開かない。
 もともと奴に「回る」などと云う概念があったのかどうか疑念を抱くほど、びくともしない。もちろん鍵などかけた覚えはないし、万が一誰かのいたずらであったにせよ、内側から解錠できる構造なのだから、外から鍵をかけられたとしてもなんら問題もないはずだ。だというのに、扉は盾のように私を通すことを許さない。
 当然だが焦った。
 ドアノブを掴んでは扉が震えるほど揺らし、鍵のつまみを意味もなく回してみたりした。びっくりするほど効果がなかった。
 すいません、誰か、誰かいませんか、あの閉じ込められてしまって、誰か、誰か、誰かおらぬか!
 ドアを叩きに叩き、叫びに叫び、ドラマの刑事役にも劣らぬ気迫で体当たりを食らわせてみたが、女子中学生一人に突き飛ばされたくらいで簡単に道を譲る根性のない扉など現実そうあるものではなかった。年季の入った塗装をこれ見よがしに、しっかりと私の前に立ち塞がっている。
 本来こういう時にこそ命綱となるであろう携帯も、今に限って充電切れだった。正確に言うと、ここに足を踏み入れた瞬間にピーッと断末魔の声を上げて切れた。
 しまったとは思ったが、生徒会室に戻れば充電器は使えるし、すぐに連絡を要する用件も特になかったので少しくらい構わないかと安穏に構えていたのが、まんまと裏目に出てしまった。
 今、まさに、用件が出来た。これこそ何をおいても優先されるべき至急の用件ではないか。
 黙して語らぬ携帯を忌々しい気持ちでポケットに押し込んだ私は、頑固なドアノブに見切りをつけ、雑然と置かれたマットの上に腰を下ろした。座った途端、盛大に埃が舞ったが、もうそんな事はどうでもよかった。とにかく一度気を静めて、現在の状況について冷静に分析しよう。
 誰か気付いて、探しに来てくれるかも知れないと考える。
 誰も気付かないまま、放っておかれることも考える。
 時はすでに放課後で、生徒会の役員も数えるほどしか残っていない事実を考える。
 こうしている間に、彼らも一人、また一人と帰ってゆくかも知れないと考える。
 帰宅した我が家で、あたたかい家庭のあたたかい食卓につくのだろうと考える。
 そういえばお昼は、食べごたえのない菓子パンひとつだったと思い出す。
 急に空腹を覚えて、私は居ても立ってもいられず、薄暗い室内を徘徊し始めた。あの扉が駄目でも、他に出口はないものか。
 閉じ込められたこの第三体育準備室は半分地下にあるせいで、通常あるべき大きな窓がない。それでも天井ぎりぎりの高さに、形ばかりの細い窓がしつらえられている。電灯もどこか頼りなく、ぼんやりとした薄暗さに抗うようにして、そこからわずか光が差していた。位置から考えて、覗けば地面と同じ目線になるはずだ。
 私は積み重なったパイプ椅子を足場にして、その窓を目指した。ぐらぐらと安定性のないパイプ椅子の群れが移動を脅かす。横にあった縦長のロッカーにどうにかしがみついてはいるものの、その古ぼけた様子から、一体どれほど体重をかけていいものかわからない。浅慮に全身を預けてしまえば、そのままどんがらがっしゃんと穏やかでない物音を立てて共倒れになる恐れもあった。
 無理にのぼるも出来ず、容易に下りるもままならず、木に登ったはいいが自力で降りれない子猫にも似た状態で、私は途方に暮れた呻き声を上げるしかなかった。
 その時、私の視界の隅で、あんなにも心を閉ざしていた砦が重厚な音とともにゆっくり動いていった。
 大きな物音もなくごくすんなり開いた様子から、外側なら問題なく開けることができるようだった。
 これを天の助けと言わずして何と言おうか。良かった助かった。歓喜に胸を満たしながら振り向くと、扉を押し開いた天の使者がこちらを見るなり、ぎょっとした顔で私の名前を呼んだ。
 そのまま駆け寄らんばかりの勢いで足を踏み入れた彼は、ノブから手を離した。
「あ、先輩そこ閉めないでくだ、」

―――がしゃん。

 本日二回目の聞き覚えのある音色が厳かに響き渡った。




「あれは外光を取り入れる為だけの窓だ。開くようには出来てない」
「そうでしたか」
「あそこじゃ外から目につかないし、そもそも誰も通らねえだろうな。よじ登るだけ無駄だ」
 色褪せた体操マットに二人並んで、力なく窓を見上げる。
 相変わらずマットは埃っぽく、腰を下ろせば塵が飛んだが跡部先輩もそんな事はもうどうでも良いといった心境に陥っていたようだ。
 私ひとりでは物足りなかったのだろうか。
 さきほど貸切り状態だったここ第三準備室は、巧妙にも私を餌に獲物を罠にかけ、結果計二匹の子羊を飲みこんだ。飲み込んでしまった。一人だけでは寂しかろうと言う親心かも知れない。つがいのつもりか。だとしたら余計なお世話である。
 勿論私もそこまで馬鹿ではない。そんなわけがないことは重々承知の上だが、かなしい哉、手の打ちようがない場面に置かれた時ほど、実のない思考で脳の回転を止めてしまうものだ。人はそれを現実逃避と云う。
 仲良く閉じ込められたもう一人の子羊――と呼ぶにはいささかふてぶてしいが――は、長い脚を投げ出して、悠然と座っていた。凛々しい横顔に諦観と言う名のうっすらとした疲労が見て取れるものの、私のように死にかけた魚の目で遠くを見る事もなく、王の風格は崩れない。私と同じ失態を演じた人間だとは、にわかに信じがたい。
 あの後、跡部先輩は模写かというくらい私と同じ行為に走った。
 ノブをまわし、扉を叩いて、人を呼び、助走をつけて体当たりをお見舞いするところまでそっくり再現していた。私はつい数十分前の自分の姿と重ね合わせ、若干懐かしささえ覚えてしまったが、実際そんな場合ではない。
 一通りやり尽くし、埒があかないと知るや、先輩は苛立たしげに舌打ちをした。扉を睨みながらズボンのポケットに手を差し入れて―――――わずか肩を落とした。
「………ない」
 生徒会室に充電したまま置いて来た。
 その呟きを聞いて、私も大いに肩を落とした。天の助けがまさかの丸腰。
 希望が落胆に変わり、せんぱい、とつい不安げな声を出してしまったところ、跡部先輩はハッとしたように私を振り返った。すぐに歩み寄って、未だロッカーにしがみついていた私に「ほら」と王子様がするような仕草で手を差し伸べた。
 そこで初めて、先輩が勢いよく中に飛び込んできたのは、不安定な足場に立つ私を案じたせいだと気が付いた。
「誰か気付いてくれますかねえ」
 心細いせいか、自然と身を縮める体育座りになる。けれども、それを認めるのは怖いので、なるべく深刻さのない声を出した。跡部先輩は視線だけでぐるりと周囲を見渡すようにしてから、
「場所が場所だからな。俺達の不在に気付くか、もしくは誰かが立ち寄ってくれるっていう都合のいい偶然が起こればありがたいが」
 まあ望めないだろうよ、と冷静かつ希望打ち切りのお言葉を吐いた。彼の状況判断が優れている事はこれまでで嫌というほど知っている。それだけに泣けた。
「ま、そう心配するな。用でもない限り生徒や教師はこんなとこ来やしないが、日に二度警備員の巡回がある」
 それで妙に落ち着きを払っていたのか。ならばさっさと教えてくれれば良いものを。無駄に打ちひしがれてしまったではないか。
 巡回っていつですか。何時ですか。
 そう私が目を輝かせて問うと、跡部先輩は十時から十一時ってところかと事もなげに言った。
「……いま何時でしたっけ」
 半ば茫然と尋ねる。先輩は常に身につけている上等な腕時計に目を落とした。
「五時を少し過ぎたところだ」
 またしても、私の目は死にかけを通り越して腐りかけた魚のようになった。
 果たして今まで、こんなにも「ぬか喜び」という言葉の意味を体感する日があっただろうか。期待に湧いて一旦伸びた背中も、再び体を抱え込むような姿勢に戻る。さっきと違うのは、怯えが脱力にすり替わったことか。
 これからどうしよう、という漠然とした不安は、目の前に横たわる時間に対してどうしよう、という具体的な困惑に姿を変えた。前者より遥かに救いがあるものの、持て余すことは間違いない。
 何しろ、その長い時を過ごす相手が、他の誰でもない跡部先輩である。
「それで、コーンは足りそうなのか」
「えっ、ああ、はい」
 突然話を振られ、一瞬思考に間が空いたが、すぐに何を尋ねられているのか理解した。
 そもそも私が何故こんな辺鄙な場所に足を運んだのかと言うと、もうすぐ開催される体育祭の準備の一環だった。破損か紛失か、去年と比較してこの一年でカラーコーンの数が極端に減り、購入を検討していたのだが、前々任の管理がずいぶん大雑把だったと聞いていたので、その数自体も不確定と判断した私は、先に実際の在庫を確認させて欲しいと会計役に申し出ていたのである。
 結論として、数字に乗っていない分のコーンがここ第三準備室に大量に眠っていた。頻繁に備品が持ちだされる第一第二に比べ、人の出入りが極端に少ない第三に押し込められていただけでも充分に日陰の存在だというのに、その上頭からすっぽりとシートを被っていては、ますます目につきにくかろう。
「不足以上の数を確認しました。しばらく購入は考えなくていいと思います。運動部に回せる分も出るかと」
 この報告がせめてもの救いだ。もし何の成果もなかった日には、ただ閉じ込められる為にやってきたようなもので、同じ状況でも更に虚しい。
 ほう、と跡部先輩は目を細めた。
「予算が厳しいわけじゃないが、無駄な出費は控えるに越したことはない。よくやった」
 たぶん、私はすごくおかしな顔をしていたと思う。懸命にこらえていたのだ。気を許せば顔面を占拠しそうな喜色を。
 この人に褒められるのは特別な価値がある。他の誰から認められるよりも、誇らしい気持ちがした。

 私が担当の教諭に誘われて生徒会に入ったのは、一年の二学期が始まろうとしていた頃だったと思う。
 取り立てて成績が良いわけでも目立つでもない私に、何故お声がかかったのかは未だによくわからない。
 辛抱強いからだという人もいれば、労を惜しまず働くからだという人もいる。本当のところそんな大層な理由はなく、ただ単に帰宅部の私が暇を持て余しているように見えた、というのが一番強い線だと自分で睨んでいる。自己評価が低いという自覚はない。自分というものを、よくわかっているつもりだ。
 断る口実も見つからず流されるように入ったはいいものの、氷帝の生徒会は恐ろしく忙しかった。
 基本的に、学園祭や体育祭など祭りと名のつく定期行事、総会、部長会議、討論会、演奏会、その他もろもろのイベントの類はほとんど生徒会が回していた。もちろん金銭が絡む業者との取引や外部との交渉など、大人でなければ成立しない部分は教師が動いていたが、それ以外に関しては生徒達の自主性や責任感を養うという学校側の思惑で、生徒会役員とその関係者にほぼ任されていた。
 とはいえ、どう考えても中等部の生徒会風情がさばく仕事量ではなかった。
 恐らく、ここまで託されていたのは会長である跡部景吾の並はずれた能力に原因があるだろう。彼が出来ると言えば、大抵のことは可能だった。
 ここまで優秀だとワンマンになりがちで、実際知らぬ人が見れば、彼を中心として成り立っているこの組織図は独裁に映るかも知れない。しかし一度でも彼の下で仕事をしたことのある者は、決してそう感じることはないはずだ。
 厳しいが理不尽な叱責はしない。末端の人間でも名前をきちんと覚える。一旦突き放しても結局見捨てない。相手に要求した分、責任を持つ。たまに奢ってくれる。ガリガリ君ではなくハーゲンダッツを奢ってくれる。
 後半、個人的な嗜好が混じってしまったが、容姿や家柄を差し引いたとしても、跡部先輩は間違いなく他に類を見ない魅力的なリーダーだった。彼のような存在こそ、綺羅星と称されるにふさわしい。
 叱咤激励が巧みなせいで作業にやりがいはあるが、その分甘くはない。以前、手が空いたからと助っ人に入ってくれた教員が、生徒会の働きぶりに感心しつつ冗談交じりに呟いた。お前たち、俺より高い給料もらってもおかしくないぞ。
 それは流石に言いすぎだが、なんらかの行事を控えた時期、生徒会役員ひとりひとりが抱える仕事量は確かに膨大で、忙殺の二文字が実によく似合った。
 最初こそ「さてはこの人、いびり殺す気だな」と割と本気で疑ったものだが、手を抜かず真剣にこなせば不可能な量ではなかった。彼は気まぐれで采配を振るっているわけではなく、挫折もせずしかし余力も残さない、それぞれ能力に見合った絶妙な重量を割り振っていたのだった。
 入りたての頃、初めて任された仕事に翻弄され、毎日のように走り回り、べそをかき、先輩達や先生に助けてもらいながら、やっと何とか仕上げることが出来た。
 運動神経にあまり自信がないからこそ入部を避けたというのに、下手な運動部よりもよほどハードで、帰宅時間も今までよりずっと遅くなったし、それはもう心身ともにへとへとだった。夜は夢も見ずに眠った。激しく体を動かした覚えもないのに、全身が鞭打たれたように筋肉痛にもなった。
 慣れない環境に放りこまれ、全力で振り回されている私の様子を見て、すぐに音を上げるんじゃないかと周囲はずいぶん気を揉んだそうだ。耐えきれず生徒会を辞めてしまうんじゃないかとも。
 そんな中、跡部先輩はにやっと口元を持ち上げて私に向ってこう言った。
「お前、楽しいだろ」
 ああこの人にはお見通しだ。私は降参するしかなかった。




 狭い空間に閉じ込められ、特にやることもないとなると時間の経過が信じられないほど緩くなる。
 果たして夜はどんな速度でやって来るのだろう。忍びよるように。はたまた律儀に時を刻む秒針のように。
 夢中で業務と格闘している内にとっぷりと日が暮れていたことはこれまで何度もあったが、ただこうして、なすすべなく夜の訪れだけを待った覚えはない。
 大抵学校に居残る時は、生徒会総出で大きなイベントの準備に追われていたから、方向が同じ者同士固まってだらだらと喋りながら帰るのが常だった。間違いなく身体は休息を求めているのに、充実が勝っているせいで足取りは案外軽い。連日となると御免こうむるが、心地よい疲労とともに星を見上げて帰るあの時間は嫌いではなかった。
 ただ、ふとした瞬間に思い返すのは、幾度も通った騒がしくも楽しい夜道の記憶ではない。すべての帰路は、あるひとつの夜の存在に押しのけられる。冴えた風、うら寂しい街灯、宵を踏む足音。夜の気配に触れた時、ほとんど無意識に脳裏に甦った。
 総会を翌日に控えていたにも関わらず、部活の遠征、親戚の葬式、病欠が申し合わせたように重なり、残されたまともな戦力は私と跡部先輩だけという悲惨な状況だった。当然、日が高い内に片付くわけはなく、ひと段落着いた頃には生徒会室と職員室の一部の電灯だけがぽつりぽつりと光を放っていた。校内で夜を迎えると、煌々と明るい校舎から見る外の世界は黒く塗り潰されていて、覗きこもうとする自分の顔が窓ガラスの宵闇に映る。それを目にする度、早送りで時が過ぎたような不可思議な感傷を覚えた。
 跡部先輩は、いつも校門前に現れる黒塗りの車に迎えの連絡をしていたようだった。送るから一緒に乗って行けというありがたい申し出を、私は丁重にお断りした。近いから歩いて帰りますと。
 噂のアトベンツに人並みの興味は持っていたし、一生に一度乗れるか乗れないかのチャンスは魅力だったが、柔らかいシートの上で鋼鉄のように固くなっている自分の姿が容易に想像できてしまい、断念せざる得なかった。楽をするはずの乗り物で、かえって疲労が増す予感。
 それに実際、自宅は学校にほど近い場所にあり、跡部邸からやってくるであろう車の到着を待つよりよほど早い。
私がそう告げると、跡部先輩は気を悪くした風もなく、そうかと一言呟くなり鞄を手に立ち上がった。きょとんとする私を尻目に、 跡部先輩は玄関に向かって歩き出した。
「歩いた方が早いんだろ」
 あの日、星は出ていただろうか。月は隠れていただろうか。雲がかかっていただろうか。風は冷たかったか、それとも蒸し暑かったのか。
 真っ先に思い出す割には、鮮明に記憶しているとは言い難い。覚えているのは夜風を背景にした少しのくたびれも感じない背中と、目線よりやや上の横顔だ。
 なんとなくの遠慮から、玄関を出た時点ではやや後ろに下がって歩いていたはずが、気が付いたら跡部先輩と肩を並べる格好になっていた。特別早く歩いていたつもりはない。むしろコンパスがまるで違うはずなのに、私は追いていかれることも、歩調を変える必要もなかった。
 次の朝を待つ住宅街はただ静かで、私達はいつもより小さな、お互いの耳にしか届かない声でぼそぼそと話した。一人で歩く登下校の風景とも、居残りのみんなで共有する高揚とも違う。そこだけ宙に浮いた、特別製のハサミで切り取られた時間だった。
 月明かりや星明かりに惹かれて、天を見上げることは一度もなかった。だから空のご機嫌なんて、ろくに覚えてやしない。今思えば、あの時私は遥か上の銀河で瞬く光なんかに興味を割いている余裕など微塵もなかったのだろう。
 夜空に目もくれず、おぼろげな街灯を頼りに地上の星と並んで家路につく。
 あまり現実味がなく、今でも時々あれは夢だったのではないかと思ったりもする。そして同時に、現在進行形で起こっている災 難と言うべきこの出来事も、いつか夢と疑いながら思い返すのだろうかと思った。