「聞きしに勝る悪魔ぶりだっただろ」

帰宅するなり部屋に押しかけてきた兄の顔は何故か誇らしげで、私は妙に腹が立ちました。
な?マジだろ?俺が言ってたことに間違いなかったろ?
確かにあの時の素っ気無い対応を思えば、そう勝ち誇りたくなるのもわからなくはないですが、どうして私がその悪魔と接触する羽目になったのかわかってくれているのでしょうか。

「そりゃもう、ドタマかち割られるところだったよ」
「いきなりドタマかよ。さすがは亜久津だな…って、なにやったのお前」
「…南くんから何も聞いてない?」
「知らん」

兄は、亜久津さんと私が鉢合わせしたとしか聞いていないらしく、その後何が起こったのかまでは知らされていないようでした。おそらくこのバカ兄貴が話を引っ掻き回さないように、気を利かせて多くを語らずにいてくれたのでしょう。南くん何から何までありがとう。ナイス隠蔽。
私がはたらいた無礼のことなど知る由もない兄は、「ずいぶんと躾のいきとどいた妹じゃねえか」という亜久津氏のコメントに対して「そりゃ俺の教育がいいからな」と無邪気極まりない言葉を返したそうです。
お兄ちゃん、そいつは皮肉ってやつですよ。てめえの妹はとんだクソだぜって言われてんですよ。
かわいい妹が心を痛めているのにも気付かない能天気な兄は、靴下を脱ぎながら調子の外れた鼻歌を歌いだしました。楽しそうでまったく羨ましいったらありません。
私は昼間見たあの恐ろしい形相を思い浮かべつつ、ベットに寝転がる兄を睨みました。

「兄ちゃんも今年受験生なんだからさ、その忘れ物癖そろそろ何とかしようよ」
「はいはい」
「もう私は知らないからね」
「わかったわかった、お兄ちゃん明日からがんばるぞう」
「ほんと頼むよ…」

兄を思う妹の懸命な訴えもむなしく。
数日後の朝、私は自宅の玄関に残された兄のジャージを発見しました。ぽつんと所在なさげに横たわる姿は実に寂しげで涙を誘います。位置から考えるに、靴を履くのに一旦置いたはいいけれど、そのまま存在を忘れて出て行ってしまった、といったところでしょう。
こういうのって、なんていうんでしたっけ。馬の耳に念仏でしたっけ。ただ聞かせても駄目ならもう耳元で大音量かきならすしかありません。
前もって忠告はしました。私はもうこの放置プレイを無視しても構わないわけです。
ああしかし、私の記憶が確かならば本日兄は体力測定。昨日食卓でご飯粒を飛ばしながらその意気込みを熱く語っていました。やる気はあれど肝心のジャージがないぞ兄。
はあ、と大きな溜息をついた私はジャージの入った袋を肩に背負いました。



金輪際近付きたくないぜ、と心で叫んだその場所を一週間もたたないうちに再び訪れることになるなんて。
愚兄を見捨てきれない己の甘さにほとほと呆れながら、私は例の教室の前に立っていました。あんな事件の後です、当然緊張します。気付けば手汗をかいていました。
どこに汗をかこうが今更来てしまったものは引き返すわけにはいきません。制服で手の平を拭った後、私はおそるおそる扉を引きました。
教室の中は抜け殻のように活気がなく、拍子抜けするほど静かでした。隣のクラスの笑い声が壁を通って響き渡っています。
その静けさにすっかり油断して、私は空っぽの教室にずかずかと侵入しました。
が、窓際の一番奥でふんぞり返っている存在に気づいた時、足は瞬時に停止しました。
ついでに呼吸も停止しそうでした。

「誰かと思ったらてめえか、妹さん」
「ど、どうも…こんにちは…」

兄、いない。
南くん、いない。
悪魔、いる。
こんなバカなことってありますか。どうせならまるっと留守の方がありがたいです。
最も避けたい人物と謀られた様にマンツーマンでのご対面だなんて、どれだけの不運が集合した結果なのでしょう。納得いきません。
袋からはみ出したジャージを一瞥し、悪魔は鼻をならしました。

「また配達か、妹さんもご苦労さんなこった」

わざとらしい「妹さん」連発に私の手汗は更に増しました。明らかに先日の一件を根に持っています。
しかしなんでこの人、私が行くたび教室なんて学生として当たり前の場所に居るんでしょう。
不良ってのはふつう屋上か男子トイレでヤニでも吸って一日を過ごすんじゃないんですか、そもそもあんまり学校に来ないもんなんじゃないんですか。

「あの、兄はどこに……っていうか皆さんどこに行ったんですか」
「さあな」

ふあ、とあくびをもらした横顔は、空の教室なんて興味ないとばかりに窓の向こう側を見ていました。

「授業始まったら戻ってくんだろ」
「それだと私も戻らないとまずいわけですが」
「知るか」

あっさりと見放された私は途方に暮れ、目の前の景色にぼんやり視線を彷徨わせました。
開け放たれた窓から風が吹き込んで、白いカーテンが狂ったように巻き上げられています。少しだけ、タバコの匂いがしました。
白に近い銀色の髪は相変わらず気高く逆立っていますが、ところどころ気が抜けたように伏せっています。もしかして今さっきまでここで寝ていたのかも知れません。全身の毛穴が開きそうな恐怖を感じた前回と比べて、幾分圧迫感が軽いような気がするのはこの寝癖のせいでしょうか(いや今も充分怖いですけど)

「…あのー…兄が戻ってきたらこれ渡してもらえませ…」
「なんで俺が」

ですよね。
いやそう来るだろうとは薄々予想していましたが、もしかしてという一縷の望みをかけての発言だったんです。ええ。
がっくりと肩を落とした私を見て、悪魔は愉快そうに笑いました。爽やかとか優しげとかいう単語からははるかに縁遠いものでしたが、その顔から剣は消えていました。
なんだこの人も笑えるんじゃないか、と私はどうしてだか安心していました。





無事ジャージで体力測定に臨む事の出来た兄は上機嫌でした。
去年は負けていた50m走のタイムが南くんを抜いてクラスで一番だったのだそうです。100mは勝てなかったらしく、一度も話題に出しませんでした。
台所でミネラルウォーターをがぶ飲みした兄は、気持ち悪いくらいの笑顔で私の頭をぐりぐりと撫で回しました。

「これもそれもの働きによるものであるぞ」

よほど浮かれているらしく普段より更に口調がバカっぽくなっています。
言ってやりたいことは山ほどありますが、今はどんな言葉をぶつけても川の流れのように下流へ下流へと流されてゆくだけでしょう。今は、というより、いつものことなのですけど。
時計を見ると天気予報が始まる時間です。お役に立てて光栄ですよ、と私は投げやりに答えながら、リモコンに手を伸ばしました。
画面に映る晴れマークを目で追っていると、冷蔵庫のドアを開けたまま兄が振り返って言いました。

「それにしても、よく俺の席の場所わかったな」
「え?」
「お前は本当に出来た妹だ、褒めてつかわす」

俺のヤクルトを飲むことを許そう、と、満足気な兄がどうでもいい褒美を寄越してきたのでそれ以上私は何も言いませんでしたが、頭の中は疑問符で埋め尽くされていました。
知りません。兄の席なんて知りません。あの時わたしは、鳴り響いた予鈴に慌ててジャージを見捨てるように床へ放置してきたのです。
まさか、まさか?
ううんそんな馬鹿な。
私は一瞬よぎったとある人の影を振り払うようにぶんぶんと頭を振りました。

もしかして、早めに戻ってきた誰かが親切に兄の机に置いてくれたのかもしれません。
でも、あれは一目見て兄のジャージと判断できる代物ではありませんでした。もちろん袋から引っ張り出してネーム刺繍を確認すれば一目瞭然なんですが、誰のものともわからない荷物に普通そこまでやってくれるでしょうか。
いえ実際いたのかも知れません。黙って人助けをする心優しき南君のような人が。そうですそれこそ南くんかも知れません。あの懐の深さで床に転がったジャージを救ってくれたのかもしれません。
でも南くんじゃないことは、私はもうわかっていました。南くんなら、黙って机になんか置かず一言二言兄に苦言をもらしているはずなんです。もうちょっとしっかりしろよ、とか。あんまりちゃんに苦労かけるなよ、とか。
それで帰ってきた兄が小姑のように南がうるさい、と私に愚痴るというのがお決まりのパターンです。でも、今回兄は何も言っていませんでした。
つまり、それってどういうことかと言うと。ええと。ちょっと信じがたいんですが、もしかして、うん、きっと多分、そういうことです。確証はありません。単なる気まぐれに過ぎないかも知れません。
ああだけれど。ああそれでも。
こんなにもきらきらした宝物みたいに思えるのは、一体どうしてなのでしょうか。



手招きをする私を見て、今日に限ってはなんの落ち度もない兄は少し驚いた顔で近付いてきました。
もしかして俺なんか忘れてた?と首を傾げて習慣的に手を差し出してきた兄に、私は今日は違うと首を振り、教室の奥の空席を指差しました。

「これさ、あの席に置いといて」
「あの席……って、あそこ誰の席か知ってる?」
「うん」
「…もしかしてこの為の質問だったのか、この前のは」
「そう」
「結局なんなのこれは」
「お供えという名のお礼とお詫び」

なにそれと聞き返した兄の顔はとても間が抜けていました。


おそらく今頃、彼は忽然と現れた謎の箱を前にして不審感を露にしている頃じゃないかと思います。嫌がらせかと誤解するかも知れませんし、気味が悪いかも知れません。
でも情報源の兄を信じるならば間違いなく大好物とのことですので、中さえ見てくれれば最終的にはきっと受け取ってくれることでしょう。味は勿論見た目も三ツ星のものを厳選したのですから。お好きな人にはたまらないはず。
あのオーラはやっぱり近寄りがたいし恐怖の塊であることには依然として変わりないですが、その甘ったるい好みはちょっと可愛いなあと少しだけ親近感が湧きました。
怖い顔をクリームにまみれにしながらモンブランを貪る悪魔の姿を想像してちょっと楽しくなった私は、階段の最後の一段を軽やかに下りたのでした。