、大変だ」

四月のある夜、食卓の向こう側で納豆を混ぜていた兄が言いました。

「俺のクラスに悪魔がいる」

私は椀にふうふうと息を吹きかけるのに忙しくて、兄の方を見もせずに適当に相槌を打ちました。なめこの味噌汁が思いのほか熱かったのです。

「それは大変だね」
「お前なんだその心ない返事は。お兄ちゃんの言うことを信じないのか」

もう十二分に糸を引いているというのに、兄は納豆をかき混ぜる手を止めません。ああ、粘りが強すぎて箸に絡みついちゃってるよ。
一つ年上のこの兄は妹思いの優しい人ですが、あまりものを考えずに勢いのみで生きているので、時折このようにおかしなことを口走っては周囲を引かせます。長年一緒に暮らしている私は慣れているので、今更驚きもしません。始業式の間、きっと白昼夢でも見ていたのでしょう。

「だって、急に悪魔とか言われてもさあ」
「急にじゃない。奴はずっとこの学校に潜伏していたらしい」
「それ普通に生徒なんじゃないの」
「あんな恐ろしい見た目の奴が普通に生徒であってたまるか。お前も見たら絶対ビビるぞ」

巻きつく豆粒にもお構いなしで兄は真っ直ぐ箸を向けました。あの、ちょっと兄ちゃん、ひきわりの粒が。
人のテリトリーに納豆の置き土産をしてくれた兄は、私が向ける非難の視線など意に介さず味噌汁をかっこんでいます。いちいち文句を言うのも面倒なので私は黙って布巾で手元を拭きました。ほんのり糸が引いて、ちょっと不愉快です。
煮物のレンコンに箸を伸ばしながらどこがどう悪魔なのかと私が聞くと、兄はよくぞ聞いたと言わんばかりに空になった椀を卓にたたき付けました。

「目つきが悪い」

あまり言いたくはないですが、そういう兄こそ人懐っこいとは形容しがたい目つきをしています。人の事をどうこう言える立場ではありません。
それだけじゃない。
神妙な顔をした兄は、白けている私を手招きをして誰も聞き耳など立てていないのにこっそり耳打ちしました。

「髪が、立っている」
「そんなの南くんだって立ってるよ」
「あんなヌルい立ちじゃない」

南くんは兄の友達で、よく家に遊びに来ます。気を遣わなくてもいいのに、いつもお菓子なんかを手土産に持ってきてくれて、とてもいい人です。時々南くんがお兄さんだったら良かったのにと思うこともあります。
少なくとも彼ならば妙な言動で私の食事を邪魔することはないでしょう。納豆も飛ばしてこないと思います。
でもそんなことを言うと、あんな地味な男に俺のどこが劣っていると言うんだ!と騒ぎ出すに決まっているので、黙っていることにしました。兄が言うほど南くんは地味じゃないといつも思うのですが。そのへんは男のプライドというやつなのかも知れません。

「とにかく用心しろ、お前なんか頭から一口でパクリ、だぞ」
「うんわかった気をつけるよ」

素直に頷いた振りをして、私は苦手な酢の物の皿を兄の方へと追いやりました。



しかしそれがただの戯言ではなかったことを、のちに私は身を持って知ることとなったのです。


その日、私は昼飯時にひもじい思いをするであろう身内を救う為、弁当を抱えて三階の教室を目指していました。
別に珍しいことではありません。うっかり王として君臨している兄の忘れ物癖のせいで、私はこれまで何度も階段を駆け上ってたのです。ただ、三年へ進級したことで幾らか緊張してたのかここ最近はヘマをする数も少なくなり、春を迎えてから私が兄の元に出向くのはこれが初めてでした。
三年の教室が並ぶ三階にいるのは、当たり前ですが三年生ばかりなわけで、下級生としてはやはり居心地の悪さを感じてしまいます。兄のクラスの前にたどり着いた私は、早く押し付けて帰ってしまおうと半分だけ開いた扉から中の様子を伺いました。が、突然顔全体に衝撃が。ちょうどその時、教室から出ようとしていた誰かと激突してしまったようです。

「ごめんなさ、」

潰れたかと鼻を気遣う程度に痛かったのですが、そんな痛みなど顔を上げた瞬間に吹き飛びました。
目の前に、未知の生き物が居たのです。

印象を一言で表せば、邪悪。もしくは獰猛。はたまた非道。
見慣れた学ランを着ていることから山吹の生徒であることは間違いないようですが、その殺伐とした雰囲気はそこらの中学生と同じ次元で生きているとはとても思えません。地獄の底からやってきたような面構えが、白い制服の訴える清々しさを見事に殺しています。匂い立つ悪党の香りに、ぐにゃりと私の空間が歪みました。
なにしろ違うんです、目が。常人とは違うんです。
黒目の部分が少ない瞳は涼しいを通り越して冷え切っており、それでいて隙あらば殺るとでも言うかのような血に飢えた狂気が宿っているんです。聞き流していたいつかの兄の言葉、今ならしっかりと理解できる気がしました。
なるほど、悪魔。これこそが悪魔です。気持ちとしては顔を背けたいのに、なぜだか視線は釘付けです。

「なんだてめえ」

悪魔が喋りました。どうやら日本語は通じるようです。

「え、いや…あの…」

恐怖に顔が引きつって、上手く言葉が出てきません。口ごもりながら凝視してくる女を相当訝しく思ったのでしょう、悪魔はその鋭い目に力を込めて私を見下ろしました。超睨んでいます。ものすごい眼力です。私の魂は大丈夫でしょうか。このままスルッと抜き取られたりしないでしょうか。

「あれ、ちゃん」

爽やかな風のように悪魔と屍の間に割り込んできたのは、南くんでした。
なんて素晴らしいタイミングでしょう。まさに神の救いの手です。冗談抜きでこの時私には彼の背中に羽が見えました。ガンの飛ばしあいに疲弊しきっていた私は、突然現われたオアシスに当然のごとく飛びつきました。

「み、みなみく、」
「あ、弁当?あいつ、また忘れたのか」

さすが南くん。私が何も言わずとも、握りしめていた包みを見てすぐさま事情を察してくれました。
そうです、そもそも兄のおかげで私がこんな恐ろしい思いをすることになったんです。用心しろなんて忠告していた本人が、悪魔との遭遇に一役買うっていうのは一体どういうことなんでしょうか。お兄ちゃんの馬鹿。

「今ちょっと職員室行ってていねーんだ、後で俺から渡しておくよ」

そう言って、南くんは嫌な顔一つせずに弁当箱を引き受けてくれました。やはりいい人です。兄なんかと友達をやってくれている南くんの心の広さに深く感謝しました。

「亜久津そう睨むな、怯えてるじゃないか。彼女はの妹だよ」
の…?」

殺意こそ消えたようですが、それでも私に注がれる視線の厳しさは変わりません。
確かに並んでみると、この悪魔に比べて南くんの逆毛はかなりヌルく見えます。本人のオーラのせいでしょうか、同じハリネズミでも南くんは威嚇する気ゼロという平和な印象ですが、悪魔の場合は常に全身の針(しかも毒針)総立ち、といった感じです。触れればブスリと刺されそうです。触れなくともとりあえず挨拶代わりに刺されそうです。

ちゃん、こいつ亜久津。と俺のクラスメイト」

私の存在など空気のような扱いで充分だったのですが、南くんの親切のおかげで悪魔に紹介されてしまいました。まさか身元まで明らかにされてシカト決め込むわけにもいきません。私は首の折れた鶴のようなぎこちなさで頭を下げました。

「は、初めまして、亜久津。の妹さんです」


最悪です。

動揺のあまり、「さん」の付けどころを大いに間違えてしまいました。本当に最悪です。帰宅途中にカバンの中で牛乳パックが爆発したとか、ハゲについての話題で盛り上がっていたらその輪に加わっていた友人の父がヅラだった、などこれまでも数々最悪と思える場面に立ち会ってきましたが、これがダントツぶっちぎりに群を抜いての最悪です。
視界の中で南くんの笑顔が突付けば砕けそうに凍りついています。もう一人、顔色に明らかな変化が見られる人物が居るのですが、それについては正直見たくありません。どうか忘れさせてください。
しかしナイフのように尖った敵の目は、私を捕らえて離しません。いくら頑張って一方的に視界から排除しても、相手が私を認識していてはまったく意味がないのです。

「てめえ、いい度胸じゃねーの…ドタマかち割られてえのか」
「ち、ちち、違うんです違うんです、すいません」

当たり前ですが怒っています。そりゃそうです。こういう舐められたらお終いだぜ、みたいな世界観で生きている人が、初対面、それも下級生から唐突に呼び捨てにされた日には黙っていられないでしょう。まさに怒髪天を突くというやつです。ああ、ほら、文字通り髪が逆立っています。あ、ちがった、元から髪は立ってました。

「そっ、そろそろ授業始まるよちゃん、もう戻った方がいいんじゃない」
「う…ううううん、そうだね」

休み時間はまだたっぷりと残っていましたが、声を裏返らせつつ逃げろと南くんが目で訴えるので、更なるうわずった声で私はそれに応えました。これ以上留まっても、場を収拾させられる気が全くしません。ここは南くんに大人しくお任せするのが賢明でしょう。
それにしても受けた恩をさっそく仇として返すとは、なんて私は腐れ外道。人の道を外れています。アホ兄妹でごめんなさい南くん、あとのことはどうぞよろしくお願いします。
去り際に本当にすいませんでしたと、棒立ちの悪魔の前で(極力目をあわせないようにしつつ)大きく頭を下げた私は、転がるように教室へと帰りました。